015

 大学の新学期も始まり、いよいよ秋が深まる頃。今日も今日とて閑古鳥の鳴く喫茶店『猫目屋』のカウンターの中では、客がいないのに憂いも焦りもせず夕刊を読むオーナーと、飴色の木製カウンターを繰り返し拭きこすり続ける名前が、のんびりと世間話に興じていた。
 新学期といえど、大学四年の名前の生活は夏休み中と大きくは変わらない。相変わらずのバイト漬け生活だ。この閑散とした店内の状況では、どう考えても名前がシフトに入る必要はないのだが、たとえ店がどれだけ暇になろうとも、名前の方から言い出さない限りシフトを削られることはない。
 そんな開店休業状態の店内に、ふいにドアベルの軽やかな音が鳴り響いた。アンティーク陶器でできたベルの音に続き、木扉が軋む音が響く。
「いらっしゃいませー」
 お盆と水を用意しながら、名前はドアに目を向けた。と、入店してきた客を見て、ぱちくりと数度まばたきをする。「よう」と片手を上げて入店してきたのは、スーツ姿の黒尾だった。
 秋晴れの下を歩いてきたのだろう。ジャケットは脱いで腕にかけている。ネクタイはすでに外したのか締めていなかったが、その恰好から彼が仕事帰りだということは用意に察することができた。
「あれ、今日は仕事帰りですか」
 珍しくテーブルではなくカウンター席についた黒尾の前に、水を置きおしぼりを手渡す。黒尾と会うのは一緒に映画を観に行った夜以来だったが、ちょくちょくと連絡を取り合っていたのであまり久し振りという感じはしなかった。
 名前から受け取ったおしぼりで手を拭いながら、黒尾はそうなんだよと、大袈裟に頷いて見せる。
「いろいろあって朝早くから仕事に駆り出され、そのせいで時間が変な感じにあいちゃったんで、残ってた仕事は持ち帰りにして早上がりした」
 大変だねぇ、とオーナーが苦笑いをする。まだ学生の名前は、話を聞いていてもあまり大変さが分からない。
 黒尾が隣の席に置いた鞄は口が開いており、中に仕事道具が詰まっているのが見えた。
「黒尾さん、ここで仕事していかれますか」
 名前がそう尋ねると、
「そのつもりで来たんだけど」黒尾の視線が名前の隣のオーナーに向けられる。「いいですか?」
「もちろん」
 オーナーが鷹揚おうように頷いた。
「じゃあ、ブレンドで」

 黒尾がカウンターに何やら資料とタブレットを開く。作業が始まったのを見て、名前もまた仕事に戻った。といっても、暇な時間が長かったせいでそれほど仕事らしい仕事もない。先ほどまではオーナーと世間話をしながら手を動かしていたが、黒尾が真剣に仕事をしているのを見てオーナーがバックヤードに戻ってしまったので、今カウンターには名前と黒尾のふたりだけだった。
 磨き途中だったカウンターには、黒尾が仕事道具を広げている。水回りは昼間に磨き上げてしまったので、コーヒーミルとトースターの掃除に着手することにした。さほど汚れてもいないのだが、ほかにしなければならないこともない。
 三年以上もアルバイトをしているので、器具の手入れや掃除くらいならば、名前はそれほど集中しなくてもこなすことができる。もくもくと手を動かしながら、黒尾に背を向け思索に耽る。
 黒尾と映画を観に行ってから、すでに半月以上が経過していた。『お茶会』の頻度は、夏前に比べればゆるやかに、しかし確実に減っている。理由は単純で、社会人一年目の夏を過ぎた黒尾の仕事がいよいよ忙しくなってきたからだ。
 もともと黒尾の息抜きのため、そして黒尾の祖父母孝行のための『お茶会』なのだから、黒尾が忙しい時期に無理をしてまで予定をねじ込むことはできない。名前としても黒尾の時間を奪いたいわけではない。
 その一方で、一緒に夏祭りに行ったり映画と食事を共にしたりと、この店を出て一緒に過ごす時間は積み重なりつつある。切れ切れながらも連絡を取り合うことも続いている。半月以上顔を見ていなかったにもかかわらず、久し振りだと感じないのが何よりの証拠だ。距離自体は、近づきつつあるのだ。
 茶飲み友達として、ではなく。それ以外の時間が、距離が、変わりつつある。
 それはそれとして、おごられっぱなしは気分がよくないから、どこかで一回くらい黒尾さんに食事を奢りたいけれど、どうやって誘ったらいいものやら。
 うんうん唸って考えながらも、名前の手はトースターを隅々まで掃除し続けている。やがてトースターの掃除を始めてしばらく経った頃、カウンターの黒尾が「苗字さん」と笑い混じりに呼びかけた。名前が黒尾の方に視線を向けると、黒尾はやはりにやにやと口許を歪めて笑っている。
「苗字さん、暇なの?」
「え? 暇じゃないですよ。こうしてアルバイトに精を出してるじゃないですか」
「さっきからずっとトースターの掃除してない?」
 黒尾に言われて、名前は改めてトースターを見る。もはや焦げ付きや落ちたパン粉はおろか、ガラス面の曇りや本体のくすみに至るまで、完全にぴかぴかに掃除しつくされていた。
「……トースターの清潔はパンの焼き具合を左右しますから」
「それもうほとんど解体みたくなってるけど」
 トーストを載せる網だけでなく、外せる部分はすべて外して磨いている。そこまでする気はなかったのだが、名前が考え事をしているうちに手が勝手に動いていたらしい。
「……パン粉がですね、こういう狭いところに入り込むんですよ」
「ちょっと早い大掃除かな?」
 黒尾のにやにや笑いにも負けず、名前はトースターの掃除を続けた。考え事は中断したが、仕事をしないわけにはいかない。オーナーが口うるさいことを言わないのは有難いが、給料をもらっている以上は何かしていないと落ち着かない。
 黒尾は仕事が一段落したのか、立ち働く名前を眺めコーヒーを飲んでいる。その視線に物申そうと名前が振り返ったそのとき、ふたたびドアベルが音を立て、入口の扉が開いた。
「こんにちは。名前ちゃん、いるかな」
 名前を呼ばれ、名前が「あっ」と声を上げる。黒尾もつられて振り返った。入ってきたのは黒尾よりもやや年上の、最近この店の常連になったばかりの近所に住む男性だった。彼はテーブルに向かうことなく、まっすぐカウンター内に視線を向けている。
「あっ、茂部もぶさん。いらっしゃいませ、こんにちは」
「こんにちは。よかった、いたね」
「今日はいますよー」
 名前と茂部の遣り取りを聞きつけて、バックヤードからオーナーが顔を出す。茂部はオーナーに目礼をすると、また名前に視線を戻した。
「名前ちゃんがこの間言ってた雑誌、家にあるバックナンバーの中から見つけたから持ってきたよ」
「わ、本当ですか?」
「今渡しても大丈夫? 忙しかったらあとで時間があるときに渡すけど」
「ありがとうございます。あとで取りに伺いますね。先にお席にどうぞ」
 名前は急いでトースターを元通りに片付けると、お盆に水とおしぼりを載せて茂部のテーブルへと向かった。茂部のテーブルはちょうど黒尾の座っているカウンターからも見える位置にある。だが会話までは聞こえない距離だ。
 名前がテーブルに寄ると、茂部は椅子に置いた鞄から雑誌を一冊取り出した。雑誌の上部からは紙の付箋が何枚か、ぴょこぴょこと顔を覗かせるように伸びている。
 名前は雑誌を受け取った。そして、
「ありがとうございます。今日は閉店までいらっしゃいますか? お急ぎでなければ、急いでコピーしてお返しします」
「いや、申し訳ないけど今日はこの雑誌を持ってきただけなんだ。急ぎの仕事が残ってるから、コーヒー一杯いただいたらすぐに帰るよ」
「えっ、そんな。そこまで急いでいただかなくても大丈夫だったのに」
「いやいや、こういうのは早めに、忘れないうちにね」
 人の好さそうな笑みを浮かべる茂部に、名前はすっかり恐縮した。空になったお盆と借りたばかりの雑誌を抱え、頭を下げる。
「本当にありがとうございます……お礼というほどではありませんが、今日のコーヒーは私からということで……」
「いやいやいいよ、気にしないで」
「いえ、お忙しいところ雑誌を差し入れていただいたので。ここは私が一杯ご馳走いたします」
「じゃあ、名前ちゃんのご厚意に甘えて」
「ゆっくり……はお忙しくてできないかもしれませんが、どうぞごゆっくり」
 もう一度浅く頭を下げてからテーブルを離れる。茂部の注文はいつもブレンドコーヒーなので、急いでオーナーに伝えなくてもすでに準備を始めているだろう。名前は茂部に借りた雑誌を自分の鞄にしまっておくため、一度接客を離れてバックヤードへと向かった。

 名前がカウンターへ戻ると、すでに茂部の注文したブレンドコーヒーは用意されていた。急いでそれをテーブルに供してから、オーナーにひと言入れたのち、ブレンド一杯の伝票を書く。そして制服のエプロンにいつも入れている小銭入れからコーヒー一杯分の小銭を取り出すと、レジを打ちそれを支払った。
 一連の動作をカウンター席に掛けて眺めていた黒尾は、名前が戻ると、
「さすが苗字さん、看板娘」
 と揶揄やゆするように言う。見たところ、カウンター内のオーナーと一緒になって、名前の接客する様を眺めていたらしい。考えてみれば、黒尾が『お茶会』のため店にやってくるのはいつも名前がアルバイトを終える間際だ。こうして自分が接客している姿を見られたことはほとんどなかったと、唐突に名前は気付く。
 だから何ってわけではないけれども……。せり上がってくる照れを押し戻し、名前は首を横に振った。気恥ずかしいというよりは、単純に照れる。たとえて言うなら、授業参観にやってきた自分の親が、教室の後ろから微笑ましげな視線を送っていることに気付いたときの、あの感覚に近い。
 店の奥で電話が鳴った。オーナーがバックヤードに引き返す。
「というか苗字さん、さっきのお客さんにも普通に下の名前で呼ばれてんだな」
 名前の照れに気付くこともなく、黒尾がカウンターに頬杖ついて言った。
「じいちゃんばあちゃん世代はともかく、ああいう若い客で常連って少ないだろ」
 黒尾に言われて気が付いた。そういえば茂部が常連になってまだ日が浅いが、いつのまにか名前は下の名前で呼ばれている。店の中では名前で呼ばれることがほとんどなので、黒尾に言われるまで気付きもしなかった。
「ああ、そういえばそうですね。常連さんもオーナーも下の名前で呼んでくださるので、むしろ今のお客さんとか私の苗字なんて知らないんじゃないかな」
「俺も下の名前で呼ぼうか?」
「なんでですか。普通に苗字で大丈夫ですよ」
 別に下の名前で呼ばれたいというわけでもない。年配の客からちゃん付けで呼ばれるのは、親戚の子のように可愛がられているのが分かって嬉しいが、そもそも名前は下の名前にちゃん付けで呼ばれるような年でもない。
「あ、もしかして黒尾さんのことは下の名前で呼んだ方がいいですか? おじい様おばあ様と紛らわしいとか」
「いや、そんなことはないけども。話の流れで大体わかるし」
「そうですか……」
 てっきり自分の名前を下の名前で呼んでほしいがために、こんな話題を出したのかと思った。だが、そういうわけではなかったらしい。それならば、名前が名前で呼ばれているのを聞いて思い付きで口にしただけの言葉だろう。名前はそう納得した。
 そのとき、黒尾がテーブルに置いていたスマホを手に腰を浮かせる。
「あ、悪い。ちょっと電話」
 スマホ片手に早足に店を出ていく黒尾を見送ってから、名前は店を閉じる準備に取り掛かった。
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