014

 『世界・ネコ散歩ザムービー』は、予想をまったく裏切らないほのぼのアニマルムービーだった。登場するのはネコだけ、人気芸能人の起用はナレーションのみ。試写会といっても芸能人が登壇するなどということもなく、上映が終わると黒尾と名前はあっさりと劇場を後にした。
 時刻はすでに夜の八時近い。映画を観ている間は気にならなかったが、ロビーに出た途端、名前は自分が空腹だったことに気が付いた。
「夕飯、近くでなんかいい店あるかな」
 劇場のロビーのソファーに腰掛け、名前と黒尾は揃ってスマホを取り出す。時間が時間なのでもともと夕食を済ませてから帰るつもりだったが、ふたりともこの辺りに土地勘はなく、店のあてなども特にない。平日なので混んでていて入れないということもないだろうと、店の予約もしていなかった。
「苗字さんは夕飯、何かリクエストとかある?」
「昨日の晩御飯が魚だったので、お肉が食べられるところがいいかなと。黒尾さんはどうですか」
「俺は何でもいい。肉って何肉?」
「何でもいいです。そのへんで牛丼とかでも」
「女の子と映画観たあとに牛丼連れてくって、それは俺の甲斐性がなさすぎるだろ」
「でも牛丼美味しいですよね」
「美味しいけれども」
 ちょっと待ってろ、と呟いて、黒尾はてきぱきとスマホを操作する。そしてものの数十秒で、「ここは?」と名前に向けて画面を見せた。どうやら個人のSNSの画面らしい。
「焼肉屋なんだけど、ここなら歩いていける距離っぽい。車このまま置いておけるし、味もいけるらしい」
「よくそんなピンポイントで美味しそうな店を」
「美味い店に詳しい知り合いのSNS情報です」
「さすが友達百人の黒尾さんですね……」
「その友達百人ってイメージ何なの」
 ソファーから腰を上げて、建物の出入口へと向かった。屋外に出るとすでに日はとっぷりと暮れ、濃紺の夜空に雲が濃淡をつけている。この辺りはオフィス街だが、どこかで夜咲きの花が開いているのか、ときおり吹く風に甘い香りが漂っている。
 繁華街に近いこともあり、街燈だけでなく店や建物の明かりまでもが、路上を明るく浮かび上がらせていた。隣を歩く黒尾はスマホのナビを確認しており、いつもよりは心ここにあらずといった顔つきで歩いている。
 いつもなんて思えるほど、黒尾さんのことを知っているわけではないけれど。視線を黒尾から剥がし、前方へと向け名前は思う。
 名前が黒尾と会うときには、大抵いつもふたりきりで茶飲み話に花を咲かせている。名前と黒尾の交わした言葉の数だけ数えれば、けして少なくはないはずだ。名前は黒尾に茶飲み友達としての親しみを覚えているし、知らない仲ではなくなりつつある。
 だが、黒尾のことをよく知っていると言えるほどには、名前は黒尾と時間を過ごしたわけではない。付き合いの深さは過ごした時間と必ずしも比例しないと分かっていても、出会ってまだほんの数か月だという気持ちは、いつも名前の何処かにある。幼馴染の話を楽しそうにする黒尾を見たあとなどは特に。
 黒尾の案内するままに、名前はぼんやり考え事をしながら歩く。黒尾に任せていれば安心だと、無意識にそう決めつけてしまっている。
「映画、どうだった?」
 と、黒尾がだしぬけに名前の顔を覗き込んだ。その問いに、名前ははっと我に返った。ぼんやりしていたことを取り繕うように、にこりと口の端を上げて黒尾を見上げる。
「よかったです。私もネコを飼いたくなりました」
「だよなー。ああいうの見るとな」
 名前の言葉に黒尾が同意する。単身者用のマンションで一人暮らしをしている名前はともかく、戸建てで家族と暮らす黒尾の家ならば、飼おうと思えば飼えないこともなさそうだ。
「黒尾さんは何か生き物を飼ったりしたことありますか?」
「いや、うちはそういうのない。飼うのはいいにしても、最期看取んのがきついから嫌だっていう、ばあちゃんの方針」
「そういう意見ありますよね。私もその気持ち分からなくないです」
「苗字さんちは? 何か飼ってる?」
「親戚の家で犬を飼っていたので、散歩したりしたことくらいはありますけど、自分の家で飼ったことはないですね」
「じゃあ何か飼いたい生き物とかいる?」
「できるだけ世話が楽な生き物とか……」
「まじか。もうマリモとか飼えば?」
「それは飼ってるっていうんですか? 栽培では」
「観葉植物とかマリモとか、普通に育てんの楽しそうだけどな。部屋に緑あると和むぞ」
「黒尾さんの部屋にも植物とかあるんですか?」
「ないけど」
「今の話なんだったんですか……」
 そんな話をしているうちに、目当ての焼肉屋に到着した。

 予約をしていなかったので多少待たされるかとも思ったが、意外にもすんなりと席に案内された。全席個室のテーブルで、網を挟んで向かい合う。時間も遅く空腹だったので、名前も黒尾も会話もそこそこに、どんどん肉を焼いては食べた。
「ビール注文したら? 俺は運転あるけど、苗字さんは飲みたければ、俺の分まで飲んどいて」
 という黒尾に甘え、名前はグラス一杯だけビールを注文した。
「すみません、なんか私だけ」
「気にすんなって。むしろ今日は俺に付き合ってもらったし、ビールくらい好きに飲んでくれた方が気楽なくらいよ」
「私こそ、お声を掛けてもらえて嬉しかったです」
「じゃあWinWinだな」
 果たしてどこまで黒尾の言を真に受けていいものか、名前はビールのグラスを煽りながら考える。これもまた、年下の女子への普通の優しさなのだろうか。行きがけに考えていたことを思い出し、改めてその優しさについて思案する。
 と、名前が思考していたのも束の間、黒尾のスマホが鞄の中で音を立てた。どうやら着信があったらしく、黒尾が慌ただしくスマホを取り出す。
「あ、悪い。ちょっとだけ電話出てきていい?」
「もちろんです。どうぞどうぞ」
 背を丸め、いそいそと席を立つ黒尾を見送り、名前はひと息吐いた。緊張していたわけではないものの、手洗いに立った以外、黒尾とずっと一緒に行動しているのだから、まったく肩が凝らないわけではない。
 すでにほとんど肉を食べ終え、網の上には焦げたホルモンがくっついているだけだ。それをトングでこそげ落としながら、名前は黒尾の出ていった引き戸に視線を向ける。
 黒尾さんは私と一緒にいて疲れないのかな。一瞬そんなことを考えて、いや疲れるに決まっているだろうと思い直す。黒尾の名前への気遣いを思えば、むしろ黒尾の方が名前よりも疲れていてしかるべきだ。
 ふと、以前黒尾が名前に言った言葉を思い出す。名前相手に気遣うことを面倒だと思うくらいなら、自分は名前と親しくしたりしない。黒尾はたしか、そんなようなことを言ったのだ。何でもない、当然のことを言ったまでだという顔をして。
 私も、同じようなものかも。空になったグラスをコースターに戻し、名前は思った。黒尾と一緒にいて、まったく疲れないわけではない。ひとりでいることに慣れているから、たとえ相手が黒尾でなかったとしても、こんなふうに長時間一緒に遊べば気疲れくらいはする。
 それでも、一緒にいて楽しいと思う。少しくらい疲れても、それすら心地いいと思う。黒尾の言うのとはまた少し違うかもしれないが、さりとてまったく別の話ではないのではないか。
 そんなことをつらつらと考えているうちに、通話を済ませた黒尾がこそこそと戻ってきた。席に戻った黒尾はウーロン茶を流し込み、空いた皿をわきに寄せた。
「悪かったな。今日のチケット譲ってくれた幼馴染からだった」
「その幼馴染さんに、映画、とてもよかったですとお礼とともに伝えておいてください」
「ていうか自分で言えば? 苗字さんにもそのうち紹介しようと思ってんだけど、いい?」
「それは、もちろんいいですけど……」
 頷き答えながらも、名前は戸惑い眉根を寄せた。
 黒尾の幼馴染といえば、今日映画館まで乗りつけたあの高級車のオーナーだ。そんな大層な若者が、名前と何を話すことがあるのだろうか。気まずくなって困るのは、間に挟まれることになる黒尾だ。
「研磨、あ、幼馴染の名前が研磨って言うんだけど。研磨が今一人暮らししてる家、庭にネコが来るんだよ。家で飼うのは無理でも、運が良ければネコに会える無料スポットには連れていける」
「そこまでしてネコと触れ合いたいわけでは……」
 名前の思考と微妙にずれたアピールをする黒尾に、名前は苦笑しながら返答した。しかし黒尾は名前の言葉もあまり耳に入っていない様子で続ける。
「ちょっと特殊なやつだから、すぐに家に連れていけるってわけではないけど」
「ああ、学生起業家っておっしゃってましたっけ」
 目立つ才ある若者ならば、すり寄ってくる人間もさぞ多かろう。学生起業家というと華やかな印象だが、誰もかれもが社交家というわけではあるまい。まして、一女子大生に過ぎない名前とは、知り合ったところで何のメリットもない。
「いや、まあなんつうかな……どっちかっていうと特殊なのは副業の方で……。そもそもあいつ、今もう何がメインで何が副業なのかもよく分からんところあるしな。メインは大学生ってことになってんのか? あいつは何やってる人間なんだ」
「よく分かりませんが、大変な人だということは分かりました」
 分からないなりに納得する。しかしその返事をどう受け取ったのか、黒尾はにやりと悪戯っぽい笑顔を名前に向ける。
「そんな心配そうな顔しなくても大丈夫だって。多分最初はすんごい人見知りされると思うけど、それも苗字さんがどうとかじゃなく、あいつは誰にでもそういう感じってだけだから」
「内気な方ということですか?」
「内気……まあ、そうだな。内気……」
 妙に歯切れの悪い物言いの黒尾だったが、結局それ以上は名前がどれだけ質問を重ねても、「会えば分かる」の一点張りになってしまった。

 満腹になったところで店を出て、地下駐車場に停めていた車までふたたび歩いて戻った。夜は更けつつあるが、繁華街はいっそうの賑わいを見せている。名前にはあまり馴染みのない空気だが、黒尾の隣で歩いていると歩行者にぶつかられることもない。黒尾の長身は目立ち迫力があるためだ。
 食事代は、名前が手洗いに立っていた隙に、黒尾がちゃっかり二人分まとめて支払いを済ませていた。
「カードだし、そりゃまとめて払うだろ」
「じゃあいいです、いくらか言ってもらえたら現金で黒尾さんに返すので。どうぞ。教えてください、いくらですか?」
「まあまあ、どうしても気になるなら、駐車料金は苗字さん持ちってことで」
 激しく不服を申し立てる名前を、黒尾はそう言って無理やり丸め込んだ。もちろん名前がそれで納得するはずがない。
「焼肉の食事代と駐車料金では、どう考えても釣り合いが取れないですよね。社会人と学生ということを差し引いても、まだ釈然としないんですが」
「何を言う。都心の駐車料金、そこそこするぞ。知らない? 苗字さんの所持金で足りるかどうか……」
「そんな雑な嘘に引っかかるほど世間知らずじゃないですよ」
 果たして、映画館の利用で割引が入ったことにより、名前が支払った金額は食事代の何分の一にも満たないような額だった。
「こんなことならビールなんか頼まなければよかった……」
 そんなぼやきを黒尾に笑われつつ、名前は「次こそは」と意気込んで、肌ざわりのいい上等なシートに身をゆだねたのだった。
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