009

 それでも百歩譲って、黒尾の信頼する相手にごくごく内輪でのみ写真を送信するのは分かる。だが、
「撮るにしても不意打ちはずるいです、絶対変な顔してたじゃないですか」
 名前は頬をふくらませた。
「そんなことないない。欲しいならあとで苗字さんにも送っておいてやろう」
「いや、黒尾さん私の連絡先知らないじゃないですか……」
「じゃあちょうどいいし、連絡先交換しようぜ。俺がQRコード出すから読んで」
「了解です。って違う。そうではなく、写真ですよ」
 うっかり黒尾に流されかけたが、はたと気付いて軌道修正した。それでもちゃんとカメラは起動して、黒尾との連絡先の交換はしておく。
 これまでお茶会を続けつつも、毎度きちんと約束して会っていたわけではなかったから、なんだかんだと連絡先の交換をしないままここまでやってきていた。連絡先を使うかどうかは別としても、交換しておいて困ることもない。
 画面をぽちぽち指先で叩き、名前は読み取ったばかりの黒尾の連絡先を登録した。その様子をスマホ片手に眺める黒尾は、束の間の思案ののち、名前がスマホを鞄に戻したのを見てから尋ねた。
「もしかして苗字さん、写真撮られんの嫌いだった?」
 問われた名前はきょとんとして黒尾を見る。だが黒尾が名前の不快感に今更ながらに配慮してくれていることに気が付くと、ふっと口許をゆるめた。空っぽになったビール缶を指先でつまむようにして持ち、ゆらゆらとそれを揺らす。
「別に、嫌いじゃないですよ」
 はからずも照れ隠しのような声音になった。名前は咳払いをして、それを誤魔化した。
「ただ、言ってくれたらもう少しちゃんと笑いましたよ」
「ふうん。じゃあもう一回撮るか」
「いや、いいですよもう……」
「そんなこと言わず。俺自撮りうまいんだって」
「腕長いですもんね」
「そうそう。はいカメラ見て」
 名前の反論も聞かず、黒尾はふたたび腕を伸ばした。そうなると名前も直前の言葉の手前そっぽを向くわけにはいかない。まるいカメラのレンズに向け、にっと口角を上げた。写真におさまるよう、黒尾がわずかに肩を寄せる。ぎりぎり肩が触れない距離を保って、黒尾がシャッターボタンを押した。
 撮影した写真を見てみると、暗がりのせいで周囲はただの黒色に沈み、名前と黒尾の顔がやたらと白く浮かび上がっていた。笑顔もどこかぎこちない。しかし黒尾は、いたく満足げな顔でしきりに頷いている。
「よしよし、いい写真。これもついでに研磨に送ってやろう」
「やめてくださいよ。人の顔を拡散するの」
「じゃあ、こっちのよそ行き顔の方送って、先に撮った素の方は俺の胸に留めておくか」
「胸にも留めなくていいですって」
「苗字さんにもあとで送っておく」
 そう言いながら、黒尾はすぐにスマホをポケットに戻した。名前とふたりで話をしているとき、黒尾は滅多にスマホを触らない。
 小さなことだけど、黒尾さんのそういうところが好きだな。そう思いながら、名前はまた空のビール缶を弄び揺らした。

 ★

 その後ビールをもうひと缶とたこ焼きを食べ、勝手に階を使わせてもらったことへのお礼として、拝殿に置かれたお賽銭箱にお賽銭を投げ入れてから、ふたりはひっそりと神社を後にした。
 時計も夜の八時を周り、ぼちぼち帰路につく人の姿も見られる。親の背におぶわれ眠っている子供や、手をつないで帰ろうとしている恋人の姿を微笑ましく眺めながら歩いた。名前の手にはお土産がてらに買ったりんご飴が、りんごの部分にビニールをかけたまま握られている。
「いやー、満喫したな」
「お祭りで飲むビールの格別の美味しさときたら。黒尾さん、ご馳走様でした」
「いや、結局あなたビール以外自分で全部出してただろ」
 呆れたようにも感心したようにも聞こえる声で、黒尾が言った。名前としてはビールも奢ってもらうつもりはなかったのに、ふたり分まとめて買ってきた黒尾が、名前が支払おうとする代金を頑として受け取らなかったのだ。
「茶飲み友達に年上も年下も持ち込まないと、先に言ったのは黒尾さんの方なのに」
「そうだけど。たまにはこういうことがあってもいいだろ」
 名前の不満げな声もまったく意に介さず、黒尾は飄飄と受け流す。
 まあ、どこかで私がお茶代でももてばいいだけの話か。名前はそう納得して、黒尾の隣を早足に歩く。
 名前の歩くスピードは、きっと足の長い黒尾にはもどかしいペースに感じられるのだろう。それでも黒尾は文句のひとつも言うことなく、名前の歩幅に合わせてくれる。だから名前は黒尾と一緒に歩くときは、いつもより少しだけ早足で歩くよう心がけていた。
 ふと空を見上げれば、雲一つない夜空が広がっていた。故郷の夜空とでは比べるべくもないが、音駒のあたりはそれでも古い町なので比較的夜空がきれいに見える。今夜は雲も少なく、月がぽかりと大きく見えていた。
「そういえば」夜空を見上げながら、名前が言った。
「黒尾さんにとっては、地元の馴染みの夏祭りだったんですよね。ずっと私と一緒に回ってくれてましたけど、知り合いの人とかは来てなかったんですか?」
 名前が尋ねると、黒尾は事もなげに「いたぞ」と答える。
「何人か知ってる顔を見た。すんごい久し振りに会うせいで、分かんなかったやつもいるかもしんないけど」
「えっ、それ話とかしなくてよかったんですか?」
「だって今日は苗字さんと遊びにいってたし」
 今度もやはり、何でもないことのように黒尾は言う。その答えに、名前は足を止めた。数歩先で、黒尾も気付いて立ち止まる。
 振り向いた黒尾の訝しげな顔を見て、名前の胸には情けないようなやるせないような、言いようのない思いが込み上げた。黒尾に対して、ではない。自分に対する、やるせなさだ。
「苗字さん?」
「また黒尾さんは、そうやって私に気を遣って……」
「え、なんで俺怒られてんの。ここ怒られるところじゃなくない?」
「怒ってないです。自分が情けなくてちょっとびっくりしてるんです」
「苗字さんってびっくりとかするんだ」
「しますよ。黒尾さんといると、しょっちゅうびっくりしてます」
「見えねえなー」
 屈託なく笑いながら、黒尾は名前のもとまで引き返してきた。名前の目の前で足を止めると、見上げる名前に眉を下げて笑う。いつもの悪戯めいた笑顔ではなく、それは労わるような微笑みだった。
 堪らなくなって、名前はまた歩き出す。黒尾も名前の隣を、先ほどまでと同じように歩き出した。
「苗字さん、言いたいことあるなら言ったらどうだい。ちゃんと聞きますよ」
 揶揄する台詞でありながら、声音は名前を気遣っている。名前は隣の黒尾を見上げ、むっと唇を尖らせた。
「別に、ただ、黒尾さんにはいつも気を遣わせてばかりだなと、改めてそう思っただけです」
「だからそれは」
「対等に茶飲み友達としてやっていくために、黒尾さんが多めに気遣いを負担してくれているって話ですよね? 分かってますとも」
 黒尾に皆まで言わせることなく、先んじて名前が言い切った。黒尾は笑顔で口を噤む。その仕草ひとつひとつが理性的で、名前は自分が如何に子供じみたことを言っているのか思い知る。
 気遣いも、奢りも、もっとスマートに受け容れられたらいいのに。他人の好意や優しさを、上手に受け取ることもまた、大人にしかできないことだから。
 そう分かっているつもりでも、名前はどうしてもひとつひとつを確認せずにはいられない。優しくされたことに気付いたら、同じだけの優しさを相手に返すか、そうでなければ不相応な優しさは受け取れないと伝えたくなってしまう。
「分かってます。黒尾さんがそういう、私に対して正しい気遣いをしようと思って、そして実践してくれていること。だけど、友達を見かけたのに話しかけないとか、そういうのは対等がどうとか、そういうのを外れてるのではないかと、私は思います」
 多忙の身である黒尾が久し振りの旧友と再会したのなら、じっくり話す時間を持ってほしい。もしも話をするのに名前が邪魔だというなら、言ってほしい。ひとりで時間を潰すことくらい、名前にだってできるのだから。
 そう思えば思うほど、夏祭りを楽しんでいるときにそのことに気付かなかった自分の不甲斐無さが際立つ。こんなことを帰り道に言い出したところで、何にもならずにただ駄々をこねることになるだけだ。
 頭を冷やすため、名前はひとつ、深く息を吸い込んだ。八月の夜の空気は重い。肺を膨らませるのはぬるい湿った空気。それでも、名前の熱くなった頭をクールダウンさせるのには役だった。
 続けて二度三度と深呼吸を繰り返し、最後にひとつ溜息を吐き出す。それでようやく、平静を取り戻すことができた。
「……私が何より情けないのは、黒尾さんがそうやって私を優先してくれたことを、それでも嬉しいと思ってしまうことです」
「嬉しいんだ」
「嬉しいに決まってるじゃないですか。でも、嬉しいと思うことが浅ましいとも思うので、トータルで見ると情けないんです」
「複雑な心だなぁ」
「すみません」
「ま、いいんじゃねえの。苗字さんの素直にわりとなんでも言ってくれるところ、付き合いやすくて助かるよ」
 そう言って黒尾は、むっつりとしかめっ面をする名前を見つめた。そしてひと呼吸置いてから、ごく静かな声で、
「俺だって、苗字さんに気を遣っただけってわけじゃないよ」
 きっぱりと、名前にそう告げた。
「今日いたやつらは悪いやつじゃなかったし、むしろ中学高校の頃とかは結構仲よかったやつらだけど、苗字さんと一緒にいるときに話しかけたら、きっと色々苗字さんに絡むだろ。そういうのを想像して、今日はやめとこうかなと思ったんだよね」
「そのくらいは別に大丈夫ですよ」
「俺は嫌なんだよ」
 黒尾にしては珍しい、はっきりとした拒否だった。思わず名前は目を見開く。暗闇の中、黒尾の顔は薄ぼんやりと見える程度だ。それでも、黒尾の表情が穏やかではないことは見て取れた。
 名前が黙って見つめていると、黒尾は続けた。
「今、苗字さんと俺って『茶飲み友達』として、かなりうまくやってるだろ。そこになんかこう、全然関係ねえやつが、下世話な感じでうわっと来ると思うとだな……」
「下世話というのは、要するに付き合ってる云々とか、そういうことを言われるかもしれないと……」
「そういうこと。なんのかんの言っても、結局俺と苗字さんは男女ひと組だからな。世間はひとまず、そういう目で見るだろ」
 黒尾の言い分は、名前にも十分すぎるほど理解できるものだった。名前自身、年の近い男女がふたりで夏祭りに来ていたら、恋愛関係にあるか、あるいは近々そうなるふたりなのだろうかと考える。実態がどうであれ、そういうふうに見えるというだけの話だ。
「要するに、俺が嫌だったんだよ。俺と苗字さんについて、いろいろ勝手に言われるのが。苗字さんにも迷惑だろ」
「迷惑ではないですけど。根も葉もないことなので」
「あっ、そう」
 淡々と答える名前の横で、黒尾は荒く息を吐く。黒尾にとっては、積極的に話したい話題ではなかったのかもしれない。しかし名前は、今の黒尾の話を聞けて良かったと、心の底からそう思った。
 名前にとっての気遣いだけではない。根底には名前を不快にさせたくないという思いがあったとしても、それは黒尾のわがままだ。この飄飄としていてつかみどころのない、それでいて途方もなく優しい黒尾がはじめてわがままを見せたということが、名前には何故だか妙に嬉しかった。
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