008

 『猫目屋』を出て十分ほど歩き続けると、祭りばやしの音が夕暮れの風に乗って耳に届き始める。湿った空気にどこか甘いにおいが混ざり、ぐっと人通りが増えた。名前のすぐそばを子供らが駆けていく。元気だねぇと、やけに年寄りくさいことを黒尾が呟いた。
 やがて参道の入口の鳥居が見えてくる。その先はもう祭り一色という賑わいだった。
「おー、やってるやってる」
 額に手をあて視線を遠くに向けると、黒尾はにやりと笑って名前を見下ろした。
「いろいろあるけど、苗字さん何食べたい?」
「とりあえず、ビールですかね」
「ビールは食いもんじゃないです」
「じゃあ何から行くんですか。ビールを差し置いて、何から」
「よし、とりあえずビール行くか」
 参道に足を踏み入れると、両側に並ぶ屋台の中から飲み物屋を探した。それほど大きな神社ではなく、すぐにビールの値札を見つける。ついでに隣の屋台で焼き鳥を購入した。
 ずらりと並んだ提灯と、人々のざわめき。一歩進むごとに足元で玉砂利が音を立て、それすら心を浮きたたせる。焼き鳥とビールを片手に辺りを見回していると、黒尾と視線がぶつかった。
「苗字さん、顔が笑ってる」
 黒尾に指摘され、名前は慌てて顔を引き締めた。するとすぐに「いや、笑ってればいいだろ」と笑われる。
「試験おつかれ、夏休みようこそって祝杯上げにきてんだから、笑いたいだけ笑っとけばいいんじゃない?」
「そうは言っても、笑ってるなんて言われたら笑いにくいですよ」
「そうか? 苗字さん普段から愛想いいのにそういうこと思うんだ?」
「まあ、何でもわざわざ指摘されたら気にはなりますよね」
 そもそも名前は愛想よくしているつもりなどない。どちらかといえば自分は無愛想な方だとすら思っている。そうでなければ大学入学早々孤立することもなかっただろうし、その後友達がいない状態が続くこともないはずだ。
 今黒尾の前で笑っていたとすれば、それは祭りの空気にあてられて、うっかり浮かれた結果だ。
「うちのばあちゃんは苗字さんのこと明るい子って言ってたけど」
「そりゃあバイト中は笑いますよ。接客なので」
「俺といるときは? 時給発生してなくても笑うだろ」
「……どうでしょう。最初はお愛想してた気がします」
「ふうん、じゃあ今はちゃんと笑ってるんだ」
「……」
 流れるように黒尾の都合のいいように丸め込まれ、名前はむっと口を閉ざした。たしかに黒尾と一緒にいるとき、名前は自分の気持ちがゆるんでいることを自覚している。気を張っていないのだから、笑顔になりもするだろう。だが、それをそのまま認めるのは何だか癪だった。
 その直後、自分が癪だなんて考えたことに気付き、それがまた妙に面白くて、笑ってしまいそうになる。慌てて名前は笑みを引っ込めた。黒尾は目ざとく名前の表情の変化に気付き、目を細めて呆れた顔をする。
「いや、だから普通に笑ってればいいだろって。なんで真顔になんの」
「ふふ、真顔になろうと思って真顔になるの、結構難しいですね」
「今ふふって言った? テンション上がってんなぁ」
「ふふ、ふっ」
「え、苗字さん酔ってる?」
「いえ、まだ開けてません。シラフです」
「そらそうだ。びびるわ」
 手で持ったままプルタブを開けてもいないビール缶から、結露したしずくがぱたりと落ちた。夜空の色が深くなり、ぬるい風が頬を撫でる。屋台をひやかしながら歩き続けていたら、いつのまにか参道を歩き終え、拝殿の前まで辿り着いていた。
 少し離れたところには、ご神木の枝葉がひさしになるように床几しょうぎが並べて置かれている。しかし生憎そこはすでに満席だった。腰を下ろせそうなのは拝殿に続くきざはしだけだ。祭りが始まったところだからか、拝殿までお参りに来る参拝客は見当たらない。
「買い過ぎても持ちきれんだろうし、一旦そこの階段になってるところ、あそこ座って食うか。服汚れても大丈夫?」
「あ、全然大丈夫なやつです」
 バイト着として使っている古着なので、いくら汚れようといっこうに構わない。鞄にタオルが入っていたことを思い出し、階の上に敷く。そのうえに黒尾とともに腰をおろした。
 プルタブに指を引っかけて開けると、ぷしゅっと小気味いい音がした。
「かんぱーい」
 缶をぶつけて、一気に喉に流し込んだ。八月の宵の口、歩いているうちにいくらかぬるまってしまったとはいえ、氷できんきんに冷やされていたビールが喉を通る心地よさに、名前はついつい唸り声を漏らした。ふと見れば隣では黒尾も、うまそうにビールをあおっている。その姿に、名前はしばし目を奪われた。
 普段飲み物と言えばコーヒーばかり飲んでいる黒尾が、こんなにも美味しそうにビールを飲むと思わなかった。青い闇に浮かぶ黒尾のシルエットの、喉の部分がごくごくと上下しているのが分かる。こんなにも気持ちよさそうに酒を飲む人を、名前は黒尾以外に見たことがなかった。
「はー、午後休とって飲むビールのうまさよ」
 ようやく缶から口を離し、黒尾はしみじみと噛み締めるように言う。名前がじっと、食い入るように黒尾を見つめていることに気が付くと、何だ? と不思議そうに名前を眺め返した。
 美味しそうに飲むんですねと、何故だか名前は素直に言えなかった。
「茶飲み友達なのに、会合数回目にして早速飲酒してしまったなぁと」
 代わりにそんな言葉を口にすると、黒尾の目が暗がりの中でくんと歪んで笑った。
「まあまあ、たまにはいいじゃねえの。つーか苗字さん、結構酒いけるんだな。ビール好きなの意外だわ」
「友達がいなくても飲酒はできるので」
「なるほど。リアクションに困るコメントやめてください」
「黒尾さんと飲むビール美味しいです」
「よし、黒尾さんが唐揚げをおごってやろう」
「奢っていただけるなら、唐揚げよりもう一本ビールを……」
「分かった分かった、ビールも唐揚げもおごってやる」
「ふふっ」
 奢ってもらう気はさらさらなかったが、黒尾との話は楽しかった。ついつい名前の口許がゆるみ、笑みがこぼれて顔中に広がる。
 これしきの酒では酔いはしない。ただ、黒尾との酒はいつもよりも早く酔いが回りそうだった。思い返せば名前にとって、親戚以外の誰かと東京で酒を飲むのなど、これがはじめてのことだった。
 こうしてお酒を飲むのも楽しいものだと、名前は思う。黒尾と一緒にビールを飲むのは楽しい。夏祭りに来たのも楽しい。きっと黒尾と一緒ならば楽しいと思えることは、名前が知らないだけでほかにも色々ある。
 そんな名前の考えを見透かしたかのように、黒尾は焼き鳥を串から外しながら言う。
「こんなことなら、もっと早く友達になってればよかったな」
「そうですか?」
「だって苗字さん、大学三年間は祭りとか行かなかったんだろ? こんなに楽しそうな顔するなら、もっと早く友達になって連れ出せばよかったと思って」
 そう言って黒尾はねぎまをもそもそ噛み砕く。名前も焼き鳥を頬張りながら、黒尾の言葉について考えた。
 もしももっと早く出会っていたら。名前が大学生になって間もないころ、黒尾も大学生の頃に出会っていたのなら。その風景を名前は頭の中で思い描く。しかしどれだけ頑張って描いてみたところで、その絵はどうもしっくりこなかった。
 年齢が若かろうが黒尾は黒尾だ。だから仲良くなれないわけではないと思う。だが、今の茶飲み友達として出会った関係と比べてみると、学生同士で出会うより、今のほうがずっとしっくりきているような気がした。
「どうでしょう、大学生同士だと案外、親しくなるようなきっかけもなかったかもしれないですし、私は今年黒尾さんと知り合えてよかったと思いますけど」
 それに何より、黒尾の祖父母の紹介がなければ、今の関係には落ち着かなかっただろう。関係といってもまだ出会って三か月ほどしか経っていないが、年の近い見知らぬ男女が近づくのに、これほど腹の探り合いをせずスムーズに友人になれたのは、奇跡に近いことだと名前は思っている。
 まして相手が黒尾の場合、普通に出会っていれば名前は必ず身構えたことだろう。信頼できる常連の孫だという触れ込みがあってすら、最初はやはり警戒した。それほどまでに黒尾の第一印象は飄飄としていて正体不明であり、また名前は対人関係苦手を自負していた。
 だが、現実には茶飲み友達として黒尾を紹介され、変に互いの本心を探り合うこともなく、ゆるい友人関係に落ち着いている。年上の黒尾の方が名前を気遣う比重は大きいが、それでも今のところは限りなく対等に付き合っている。
 そのことを思うと、名前の顔は自然とほころぶ。自分でも気付かないうちに、表情がゆるんでしまうのだ。
 拝殿前の階に腰掛け、ビール片手にへらへらと締まりのない顔をする名前を、黒尾はじっと見つめていた。名前がその視線に気付き首を傾げると、
「苗字さんの大学って、女子大だっけ」
 脈絡のない話題をぽんとひとつ放り込んでくる。
「そうですけど、それが何か」
「バイトは? たしか掛け持ちしてるって言ってたよな」
「猫目屋と、あとは単発でいろいろ。スーパーの試食コーナーとか」
「そんなことやってんの?」
「同年代の人と濃密な人間関係を築くようなバイトは、ちょっと気おくれするんですよね。大学で最初にしくじった件があったので」
「なるほどなぁ」
 名前の返事にいいとも悪いとも言わず、黒尾はひとりで何か納得するように、何度もうむうむと頷いていた。名前は一層首を傾げ、訝しげな目で黒尾を見る。
「あの、何かありましたか?」
「いや? ただ、これで苗字さんの大学が共学だったら、また事情が違ってたんだろうなと思って」
「……共学に通ってたら友達ができただろうにということですか?」
「まあ、大体そんなところだ」
 黒尾の言葉は平易だが、ときどき妙に難解な問答のようなことを口にする。しかし名前が首を傾げても、黒尾が自分の言葉の意味を分かりやすく説明してくれることは少ない。だから名前は、よく分からないなりにこの話を黒尾なりの慰めだと受け取った。
 何故それを今このタイミングで言い出すのかは不明だが、黒尾もビールを飲んでいることだし、酔って口を滑らせるということもあるだろう。そもそもたかだか発言ひとつに、そう深い意味などありはしないのかもしれない。
 まあ、黒尾さんも大概適当なこと言うし。黒尾は嘘はつかないが、適当な冗談や与太話のたぐいは好んで話す。今回のことも、そう深く考える必要はなさそうだと、名前がそう判断すると、
「あ、そうだ。忘れてた」
 やおら、黒尾が呟いた。続けて「苗字さん」と黒尾に名前を呼ばれる。ビールをちびちびやっていた名前が、缶から口を離して黒尾の方を向いた瞬間、すぐそばでかしゃりと軽いシャッター音が鳴った。
 名前が座っているのと反対側の空いた腕を高く伸ばした黒尾が、大きな手で危なげなくスマートフォンをかまえている。こちらを向いた画面には、呆気にとられた顔の名前とにやつく黒尾がリアルタイムで映し出されている。
「えっ、今写真とったんですか」
「正解」
「なんでですか」
「幼馴染がな、あ、俺、苗字さんと同い年の幼馴染がいんだけど、そいつに茶飲み友達ができたんだぜって話したら、どんな人って聞いてたから。ちょうどいいし送ってやろうかと」
 にやついたまましれしれと答える黒尾に、名前は露骨に顔をしかめた。冗談ではない。黒尾の幼馴染だか何だかしらないが、名前にとっては見も知らぬ他人だ。自分の写っている写真を勝手に送られてはたまらない。
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