一緒に食事をした晩以降、黒尾は普段のお茶会のときでも、帰りがけに名前を送っていくようになった。事の発端は、近所で変質者が出たという話題だ。独り暮らしの女性は気を付けすぎるに越したことはないという話から、お茶会の日でも帰りくらいは黒尾が送っていくという約束に、いつのまにか話題が掏り替っていた。
黒尾と名前の家の方向は別なので、名前を送っていくと黒尾は遠回りになってしまう。最初、名前はそのことを理由に断固と固辞し続けていたのだが、口のうまい黒尾にうっかり丸め込まれてしまい、気付けば送ってもらうことになっている。
以前壊れた自転車はとっくに修理に出した。アルバイト先から自宅に帰るくらい、自転車に乗っていればそうそう危ないことなどありはしない。特に今は夏場なので、黒尾とのお茶会が終わる午後六時は警戒するほど周囲は暗くない。それなのに、黒尾は歩いて数分の名前の帰路を、毎度律儀に一緒に歩く。
黒尾は毎度、マンションの近くまで名前を送り届けると、そこでさっさと去っていく。黒尾がマンションの前まで来ることは滅多になく、ほとんどはマンションまであと数メートルというところで「じゃあまた」と切り出す。
はじめ、名前はそれを名前の家に招かれないための予防線なのかと、ひそかに勘ぐっていた。この辺りは黒尾にとっては勝手知ったる庭のようなものだし、名前の借りているマンションは名前の親戚が所有している物件だ。知り合いや親戚の目がある以上、むやみに名前の独り暮らし先に近寄るべきではない。
だがある日ふと、それだけではないのではと気がついた。黒尾が名前と別れる場所は、細い路地や、人がひそんでいてもおかしくない電柱をすべてやり過ごした後だ。あとは名前がひとりでも安全に帰ることができるという場所。
黒尾が「じゃあまた」を口にするのはいつも、名前が安全圏に入ってからだった。
そんな日々を経て、八月も半ば。お盆の時期を前に今日も今日とて閑散とした喫茶『猫目屋』の店内では、名前と黒尾が三週間ぶりのお茶会を開いていた。
期間が少し空いたのは、名前の試験や黒尾の仕事の忙しい時期が重なったためだ。本来ならば黒尾はまだ繁忙期を脱していないのだが、今日は休日調整のために午後休みがとれそうだということで、こうして『猫目屋』に顔を出していた。
「じゃあ無事に試験は終わったんだ」
「はい、おかげさまで」
「試験勉強の成果はあったのかい」
「自信はあります」
「それはよかった」
アイスコーヒーをひと口飲み、黒尾はにやりと口角を上げた。名前はテーブルの上に置かれたストローの包み紙を手で捏ね、もくもくと蛇腹を作っている。一種の手癖のようなもので、小さい頃からストローの紙を見るとすぐ、名前は蛇腹を作ってしまう。
「まだ結果は出ていないんですが、前期はゼミでの活動もかなり真面目に頑張ったので、もしかすると特待がもらえるかもしれなくて」
依然手を動かしながら、名前は言う。そうして完成した蛇腹を黒尾の方に指で押し出した。黒尾は指で蛇腹を弄びつつも、感心したように目を見開いた。
「えっ、それはすごいな。ていうかあんなにアルバイトばっかしてて、いつゼミの勉強とかやってんだ」
「午前に大学行って午後にアルバイトとか、そういう日も結構ありますよ。あとバイトが終わってから大学に行って夜までとか」
「はー、学生も大変だよなぁ。試験も終わったことだし、なんか労ってやろうか?」
「いえ、そういうのは大丈夫です」
「頑なかよ」
「わざわざそんなことをしていただかなくても、こうして普通にお茶会してるだけで楽しいですよ」
淡々と答える名前に、黒尾はやれやれとばかりに肩をすくめた。
試験が終わり夏休みともなれば、世間の大学生はいよいよ遊び納めとばかりに動き出す。名前の周囲の学生にも、そういう者は少なくない。名前は彼女らと親しくないため詳細までは知らないが、大学で勉強などしていればそういう話は嫌でも耳に入ってくる。
とはいえ名前にも、まったく遊びの予定がないわけではない。宮城への帰省中には地元の友達と飲みに行く約束をしているし、いとこの矢巾秀が東京に遊びにくることにもなっている。そうなれば名前が矢巾に付き合って出掛けることもあるだろうから、試験明けの気分転換はそれで十分だ。
そういえば、秀くんが来るのって今夜あたりだったっけ。試験とサークル活動が一段落したら新幹線に乗ると、矢巾からそのような連絡が来ていたことを思い出す。あとで詳細を確認しておかなければと考えながら、名前はアイスティーのグラスにさしたストローをかき回す。
そんな名前をぼんやり眺めていた黒尾は、
「なんというか、苗字さんってあんまり欲がない感じだな」
唐突にそう呟いた。名前は視線を上げて黒尾を見る。黒尾は目を細め、楽しげに笑っていた。口許はきれいな形の弧を描いており、名前などはいつ黒尾の顔を見ても、底知れないなという感想を抱く。
「欲なさそうに見えますか? これでも結構、煩悩にまみれていますが」
「じゃあ今欲しいものとかあんの?」
黒尾の他愛ない質問に、名前は首を傾げ思案した。欲しいもの。そう言われてみると、案外これというものも思い付かない。
「そうですねぇ……、あっ、夏でも涼しいベッドパッドを買おうかどうか悩んでるんですよ。そういえば」
「それは買えよ」
「でも、なくてもいいものを敢えて買うのって、なんかちょっと気が咎めませんか?」
「つーか、ベッドパッドとかって日用品だろ。買ったら使うんだから買えばいいのに。あんなもん、どうせ千円とか二千円とかだろ」
「いえ、私が欲しいのは五千円ちょっとのやつです」
「いきなり生活水準の高さを見せつけてきやがる」
「黒尾さんが先に聞いてきたんじゃないですか……」
名前がむっと口を尖らせる。名前の実家が裕福なのは間違いないが、名前自身の生活水準はあくまでも女子大生の平均程度だ。そんな生活の中で、ベッドパッドはささやかな贅沢だった。それもまだ買うかどうか悩んでいる段階に過ぎない。
むすりとする名前に、黒尾は冗談だってと笑った。そして、
「まあでも冗談はさておき、テスト明けだし、苗字さんのことをどっか連れてってやりたい気持はある」
「ええ? いいですよ。さっきも言いましたけど、普通にお茶するだけで楽しいですから」
「いやー、そうは言ってもなぁ」
らしくもなく粘る黒尾に、名前は自然と目を眇めた。黒尾と茶飲み友達になって二か月ほど。なんとなくだが、黒尾の基本的な性質については分かり始めている。
場の空気と相手の顔色から事情を察するのがうまく、また面倒見もよく気配りがこまやか。そんな黒尾がこうして必要以上に粘るからには、そこに建前とは別の思惑が絡んでいることは想像に難くない。
そして黒尾が名前を連れ出したいなどと言い出す理由は、名前でなくてもおおよそ察しがつく。
「黒尾さん、もしかして、私が友達いないって言ったこと気にしてますか?」
直球で切り込んだ名前に、黒尾は笑みを浮かべたまま黙り込んだ。口角はゆるく上がっているが、瞳は笑っていない。名前がじっと見つめると、珍しく黒尾の方から視線をそらした。どうやら図星だったらしい。
分かりやすいその反応に、名前は大きくひとつ溜息を吐き出した。
「お気遣いありがとうございます。黒尾さんが気に掛けてくださることは、本当に有難いと思っています」
「……ハイ」
「ですがそのことについてでしたら全然、本当に全然、気にしていただかなくて大丈夫ですので。強がりとかでなく、これは本気のやつです」
強い口調で伝えたが、黒尾は釈然としていなさそうな顔で視線をそらしていた。いつになく子供っぽいその態度に、名前はふたたび溜息を吐く。
大学に友達がいないことを気にしていないというのは事実だ。以前は気にしていたかもしれないが、とっくにそんな気持ちは忘れてしまった。だから今更黒尾が気にすることはないし、そもそも黒尾には関係がないことだ。
黒尾もそのことは理解しているのだろう。だからこそ、今名前の目の前で、黒尾はばつが悪そうな顔をしている。お節介は不要だと言われ、納得もできないが強くも出られないという黒尾の心情が、名前にははっきり見て取れた。
「本当に、黒尾さんが気にすることではないんですよ。ほら、だって私自身が全然気にしてないわけですから」
「んー、まあ、そうなんだよな。苗字さんが気にしてないのは分かってる。だから俺が勝手に気にしてるだけではあるんだが」
黒尾は眉間に深い皺を刻んだまま、名前に負けじと大きな溜息を吐いた。そうしてまた、名前から視線を逸らす。
仕方なく、名前は黒尾のどこか不機嫌にも見える横顔を眺めていた。だがしばらくすると、その横顔は徐々に別の感情へと塗り替えられていく。その移り変わりに首を傾げ、名前は黒尾の視線の先を追った。
黒尾の視線の先にあったのは、初夏の頃から貼りっぱなしになったままの、氏子神社で開催される夏祭りのポスターだった。
「そういえば、あのポスターの夏祭りって今日だったよな」
「ああ、そういえば。さっき来てたお客さんも浴衣でしたね」
黒尾の呟きに、名前が相槌を打つ。大抵暇なばかりの『猫目屋』だが、今日の午後はそれなりに混雑した。名前と同じくらいの年齢の女性客の集団が、浴衣をあでやかに着こなし涼みにやってきたのだ。おそらく夏祭りが始まるまでの時間を喫茶店で潰していたのだろう。
名前は端から夏祭りに行くつもりもなかったが、それはひとりで行っても楽しくないだろうからという理由による、あくまで消極的な不参加だ。夏祭りのようなイベントが嫌いなわけではない。
そんな気持ちが名前の表情に出ていたのかは、生憎名前には分からない。だが視線を名前の方へと戻した黒尾は、
「苗字さん、一緒に行く?」
妙案とばかりにそんなことを言い出した。
「苗字さんが嫌じゃなければだけど。苗字さんってこっち出てきてから、全然祭りとか行ってないんだろ? 大学最後の夏だし、思い出作りしようぜ」
「え、でも……」
名前にしてみれば、こんなにありがたい話はない。気心知れている相手とまでは言えないものの、東京にいる知人の中では、黒尾は群を抜いて親しみやすい相手だ。黒尾とならばきっと、気兼ねなく夏祭りを楽しめるに違いない。
「でも、何?」
「いえ、黒尾さんが一緒に行ってくださるというのであれば、私はもちろんありがたいんですけど……その、黒尾さんはいいんですか?」
「俺?」
意外そうな顔をする黒尾に、名前は小さく頷いた。
「だって、黒尾さん今お仕事が忙しい時期だって言ってましたよね。それなのにせっかくの休日に、私の茶飲み話に付き合うだけでなく、人混みにまで付き合わされるというのは……」
さすがに、黒尾に迷惑を掛け過ぎているのではないか。お茶会は黒尾側の都合で開催している部分も大きいが、夏祭りは必ずしもそういうわけではない。
黒尾への遠慮から渋る名前に、黒尾は一瞬眉根を寄せた。そしてやおら立ち上がったかと思えば、
「よし行くか」
そう言って名前の肩を叩いた。
「えっ」
「考えてみれば俺もこの夏は祭りとか一回も行ってないしな。やっぱ一回くらいは夏らしいことしておきたいよな。苗字さんは俺の茶飲み友達なんだし、付き合ってくれるだろ?」
にかりと歯を見せて笑う黒尾に、名前は唇を引きむすんだ。黒尾が何と言ったところで、それが名前を夏祭りに連れ出してくれるための方便であることは明白だ。社会人の黒尾を、学生の名前の都合で振り回すのは幾ら何でも気が引ける。
だが、すでに黒尾は立ち上がって店を出ようとしている。きっと名前が行かないと言ったところで、黒尾は大人しく聞いてはくれないだろう。それどころか、下手をすれば黒尾の親切を無下にしたとして嫌な気分にさせてしまうかもしれない。
それならばいっそ、黒尾さんの親切に甘えてしまおう。そう決めて、名前も椅子から立ち上がった。会計を済ませ、黒尾の後を追う。
茶飲み友達がふたりで夏祭りに行くことだって、きっとおかしなことではないはずだ。
「お祭りで茶、しばきますか?」
「ビールくらい飲ませてくんないの?」
菫色と橙が入り混じったような色の空を見上げ、黒尾と名前は神社に向けて歩き出した。