004

 返答に窮し黙り込んだはいいものの、絶えず注がれる黒尾からの視線がつらい。結局は、沈黙に押し負けた。逡巡のすえ、名前はとうとう口を開いた。
「いや、違うんですよ。別に友達がいないとか、そういうわけではなくてですね」
「俺まだ何も言ってないんだけど」
「うう……」
 黒尾の揶揄うような言葉すら、今は心にぐさぐさ刺さる。この場をどう凌ごうか、視線をそらし思案する名前に、黒尾がとどめの一撃を食らわせた。
「苗字さん、大学に友達いないの?」
「大学には……そうですね……」
 観念して肯いた首が、そのままがくりとうなだれた。自分の言葉に自分で落ち込む。名前はしょんぼり肩を落とした。
 そんな名前をじろじろ眺め、黒尾は意外そうに息をつく。名前は顔を上げ、上目遣いに黒尾を睨んだ。淀んだ目に見つめられても、黒尾は一切怯まない。それどころか、さらにずけずけと遠慮なく、名前に視線を注いでくる。
 これ以上踏み込むべきか、決めあぐねているのだろうか。たしかに黒尾は、名前のことを祖母が目を掛けている喫茶店のアルバイトとしか知らない。名前は店では可愛がられているし、こうして黒尾と話をしていても、ことさら人格に問題があるようには見えないはずだ。となれば、友達がいないなどという状況に陥っている名前に、黒尾が興味を持ってもおかしくはない。
 むしろここで必要以上に隠し事をしようとするのは、さらなる興味をあおるだけではないだろうか。それならばいっそ、包み隠さず話してしまった方がのちのちのためかもしれない。名前は友達がいないことに関して、自分に非がないことを自覚していた。
 しばしの沈黙ののち、名前は腹をくくった。
「分かりました。黒尾さんがそこまで突っ込んでくるのなら、私も隠し立てはしません」
 名前の据わった目と淡々とした調子に、黒尾の喉がごくりと上下した。思いがけず深刻な空気になってしまい、及び腰になっている様がありありと見て取れる。
 だけど、先に聞いてきたのは黒尾さんの方なのだし。名前は残っていたコーヒーで口を湿してから、ゆっくりと話を始めた。
「……あれは私が大学に入学してすぐの頃の話です。近くの他大学と合同の新歓で、仲良くなった先輩がおりました」
「待って、これもしかして怪談?」
「違います。普通に私の思い出話です」
「語り口が怪談なんだよ。思い出話を聞かせてもらえるのは嬉しいんだけど、俺怖い話苦手だから、もうちょっとどうにかなんない?」
「続けますね」
「続けるのかよ。マイペースか」
 黒尾が混ぜ返すのも気に留めず、名前は淡々と回想を続ける。
「その先輩とは同じ作家が好きだという縁で親しくなりました。私が携帯に、その作家の人気作のマスコットキャラのぬいぐるみをつけていて。ああ、もうそのぬいぐるみは今は外してしまったんですけども」
 ともあれ、名前はその先輩と意気投合したのだった。上京したばかりで気を張りつめていたということもある。人恋しさが募っていた頃に、趣味の話で盛り上がることができ、名前はすっかり気を許した。当然ながら名前に下心はなかったし、おそらくは相手にもそのつもりはなかったことだろう。その手の甘い空気は、ふたりの間には一切発生しなかった。
「ちょうどその頃、その作家のトークショーが予定されていたんですね。その作家は滅多とファンの前に姿を現さず、インタビューなども受けないことで有名で。でも私は当時上京したばかりで土地勘もなかったので、トークショーのチケットを手に入れられたはいいものの、会場に行けるかも分からなかったんです。それで、その先輩にチケットの譲り先を探してるって話をしたんですね。そうしたら、じゃあ一緒に行こうかってことになって」
「へえ、いい話じゃねーの。そっから友情芽生えなかったの?」
「後日知ったんですけど、その親しくなった先輩というのは、うちの大学の女帝と呼ばれる先輩の彼氏だったんですよね」
「いや、やっぱ怖い話なんかい!」
「まあ、その後は大体分かると想像できると思うんですけど、そんな感じで」
 名前の通う女子大は、けして大きな大学ではない。学生の中には学年の上下を問わず、あらゆる方向にアンテナを巡らせている者も多かった。女帝もまた、例にもれず顔の広い学生だった。
 そのうえ悪いことに、女帝は名前と同じ学部の三年だった。高校の部活ほどの上下関係はなくても、過去問の貸し借りから履修講義の相談まで、下級生が上級生に頼る機会はけして少なくない。名前は大学入学早々に、もっとも目を付けられてはならない相手に喧嘩を売ってしまったも同然だ。
 大学生ともなれば、子供じみた嫌がらせや陰湿ないじめもない。良くも悪くも、大学では学生同士の結びつきがゆるやかだ。名前は自分を遠巻きにする同学部の人間に弁解する機会をつかみ損なったあげく、そのままうっかり大学生活を過ごしてしまったのだった。
 そうして誤解を解く機会もないまま、気付けば大学生活も最後の年になっていた。ひとりで大学生活を送ってみて分かったのは、東京で大学生活を送ることに、友達がいないということはそれほど大きな問題にはならないということだ。こうして、面と向かって友達がいないのかと聞かれることでもない限りは。
「けどそんな噂話みたいなもん、もって半年とかそんなもんじゃない?」
 黒尾の問いに、名前は遠い目をして肯く。
「それはまあ、そうなんですが。でも最初に人間関係挫けちゃったら、もうあとやる気なくなりますよ。わざわざ誰かと親しくならなきゃ困るってこともなかったし……」
「それはたしかにあるな」
 根も葉もない噂話は下火になるのも早かった。だから名前が実際に遠巻きにされていたのは、最初のふた月程度だけだ。だが噂が消えた頃にはすでに、学部内の人間関係はほとんど固まった後だった。その状況で、わざわざ名前に声を掛ける物好きもいない。
 名前もまた、率先して誰かと親しくなろうという努力をしなかった。現在は、大学内で顔を合わせれば話す相手も多い。だが友達と呼べる間柄、ことに大学外で遊ぶ約束をするような相手は皆無だ。
 一通りの事情を話し終え、名前は乾いた口をコーヒーで湿らせた。身の上話をするのは、もとよりそれほど得意ではない。特にこの手の話になると、どうしても如何に自分が不憫だったかという話になってしまいかねない。それは名前の望むところではなかったから、どうせ話すのならばできるだけ淡々と、温度の低い話し方をするよう心がけたつもりだ。それがどの程度黒尾に伝わったかまでは、名前には分からない。
 黒尾は名前の言葉を聞き届けると、思索にふけるように口を噤んでしまった。先ほどの沈黙とは違う、息の詰まらない沈黙の時。そののち名前は、そんなわけでと、話を締めに掛かった。
「黒尾さんの茶飲み友達に抜擢されたというのに、実は私はこんなぼっち野郎なんですよね。本当、すみません……」
 大学に友達がいないことについては今更どうとも思っていない。しかし黒尾の茶飲み友達として、自分が正しい人選だったかについては大いに疑わしいと名前は考えていた。ぺこりと頭を下げる。すると黒尾は、正面を向いた名前のつむじを、指でつんと押した。
「謝られるようなことひとつもないだろ」
「まあ、そうですけど」
「苗字さんの大学の人間とか、俺には関係ないしな。苗字さんが真面目ないい人ってことを俺は知ってるし、何よりうちのじいさんばあさんのお墨付きがあるし」
 黒尾の指先が、カップのふちをそっとなぞった。
「いいんでない? 別に、友達百人いなきゃだめってわけでもないだろ。友達が多いからって、人間が優れてるってわけでもないしな」
「黒尾さんみたいな友達百人いそうな人に言われても……」
「言っておくけど、俺の友達のその百人に、苗字さんも入ってるからね」
「……なるほど。光栄です」
「思ってないだろ。全然、まったく」
 くくっと喉の奥で笑う黒尾を、名前は顔を上げてまじまじ眺める。揶揄い混じりの声音には、慰めや励ましの響きは一切含まれていなかった。まして、名前を哀れむような響きは、黒尾の声にも、顔にも、何処にもひとつも見当たらない。
 ふと視線をカウンターに向けると、そこにはすでにオーナーの姿は見当たらなかった。きっと、名前と黒尾の遣り取りを見て、これなら大丈夫だと席を外したのだろう。自分だけではない。黒尾は、名前の周りにいる黒尾を昔からよく知る人たちから、絶大な信頼を得ている。そのことを、今更ながらに理解する。
 黒尾さんって、不思議な人。話したくない話題に触れられたにもかかわらず、自分の中にささくれだつような荒れた心がないことに、名前はひそかに驚いた。自分で話すと決めて話しても、心のどこかにはきっと「言わされた」という思いが後を引くだろうと、てっきりそう思っていたのに。
 話しても嫌な気分にならなかったのは、黒尾が大袈裟にならずに聞いてくれたからだ。もしも相手が黒尾でなければ、今頃はこれほど心穏やかではいられなかった。気にしていないことだと割り切っていても、話していて楽しいことではない。
「それにしても、なんか甘いもの食べたくなってきたな。雨だから?」
 古いソファーを軋ませて、黒尾が大きく伸びをした。
「苗字さんも試験勉強で頭使ったし、ケーキ食べたくない? 糖分大事よ?」
「そうですね。じゃあ何か注文しましょうか。今ならまだラストオーダーに間に合いますし」
 その会話が聞こえていたのか、カウンターの向こうからオーナーが出てくる。心なしか輪をかけて柔和なその笑顔に、名前は自分たちの会話がオーナーに筒抜けだったことを知る。身内に内緒話を聞かれたようで気恥ずかしく、頬が少し熱くなる。
 黒尾は気付いていないのか、ケーキメニューに視線を走らせていた。
「よし、頑張る苗字さんにケーキ奢ったろ」
「いえ、いいですよ。自分の分は自分で払います」
「いや、真面目か」
「真面目なんですよ。ここで奢らせたら、今後のお茶会によくないでしょ」
「こういうのは素直に受け取っておけばいいのに」
 ケーキの奢りなどなくたって、名前はもう十分すぎるほど、黒尾に感謝している。最初こそ黒尾の話し相手として自分が選ばれ始まった『お茶会』だが、今となっては『お茶会』を楽しみにしているのは、きっと黒尾よりも名前の方だ。
 そんなことを考えていると、黒尾の視線と視線が絡む。自分に向けられた、底の見えない、しかしけして不快にはならない色の瞳。その色に、名前はくすぐったいような気分で笑い返した。
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