013

 幼馴染の話をする黒尾の表情は、どこか気が抜けていて柔和になる。その表情ひとつとっても、黒尾が幼馴染といい関係を築いているのだということが窺えた。
「仲良しの幼馴染って、なんだかいいですね」
 名前にも地元に戻れば友人はいるが、黒尾と幼馴染のように、成人したあとも濃密に付き合いが続いている友人はいない。
「苗字さんはいないの? 幼馴染とかそういうやつ。地元の宮城にさ」
 まさに名前が考えていたのと同じことを、黒尾が口にした。
「うーん、幼馴染というか……。しいていえば秀くんですかね」
「ああ、いとこくん」
 母方の親戚である矢巾家とは家も近所で、名前は幼い頃から何かにつけ矢巾と一緒くたにされ育ってきた。今も交流がある幼馴染というのなら、矢巾がもっともそれに近い。
 矢巾家が男ばかり三人兄弟だったこともあり、小さい頃の名前は男の子顔負けの遊びばかりしていたことを、今も名前はうっすら記憶している。もっとも今となっては同じ年の秀くらいとしか交流はなく、ほかの矢巾家の兄弟とは帰省したとき挨拶と世間話を少しするくらいだ。
 まあ、今回の帰省のときは、結構うるさくされたけど……。つい先日まで滞在していた宮城でのことを思い出し、名前はげんなりした。
 東京に遊びに行く足代をカンパしてもらうのと引き換えに、矢巾は東京滞在時には名前の身の回りに目を光らせるよう言いつけられている。親戚が管理しているマンションとはいえ、年頃の娘の住まいに遠縁の親戚がずかずか踏み込むわけにはいかない。その点、名前の部屋で数日寝起きする矢巾は、丁度いい監視員だった。
 だが矢巾とて、名前の素行にばかり構っていられるほど暇ではない。名前の生活が規則正しくつまらないものだということもあり、これまでは名前に不都合なことを密告するような事態に陥ったことはなかった。大体が、矢巾には名前が何をしていようがしったこっちゃなかったのだ。
 だが今回、矢巾はうっかり黒尾と鉢合わせてしまった。顔を合わせていなければ見て見ぬふりもできただろうが、会って挨拶までした以上は、東京遠征のパトロンに仔細を報告する義務がある。矢巾は名前が東京で何をしていようが大概どうでもよかったが、こういうところは律儀に筋を通す男でもあった。
 斯くして矢巾の密告によって名前が黒尾というひとつ年上の男と親しくしていることが、名前の両親をはじめ親戚一同に露見した。名前がいくら黒尾はただの友人だと言っても騒ぎはおさまらず、名前は矢巾に当たり散らしてから東京に戻ってきた。
 以来、矢巾とは連絡をとっていない。どうせ放っておいてもそのうち向こうから連絡してくるだろうと、昔なじみの親戚ゆえの適当さで放置している。
 むろん黒尾にそんな話はできない。名前の帰省前、黒尾が「茶飲み友達としてうまくやってるところに、下世話な話を持ち込まれたくない」とまで言っていたことを、名前はしっかり覚えていた。それなのに、自分の家族がその下世話な話で大盛り上がりしているだなどと、とてもではないが打ち明けられるはずがない。
「いとこくんには今日、俺と映画行くこと話した?」
 名前の気も知らずそんなことを聞く黒尾に、名前はむすりと口をとがらせる。
「話しませんよ。そもそも秀くんとはそんなに綿密に連絡とったりしてないです」
「あ、そうなの」
「黒尾さんと仲良し幼馴染さんとは違いますからね……秀くんからの連絡なんて、こっちに頼み事があるときくらいしか来ないし……」
 矢巾にとっての名前は、都合よく東京で一人暮らしをしているいとこというだけなのだろう。名前にとっての矢巾もまた、腐れ縁のいとこに過ぎない。気が置けないのは血縁関係があることと、共に育った歳月の長さゆえ。黒尾と研磨のように自分で選んで親しくなった間柄でもない。いとこでさえなければ、そもそも親しくなりもしなかったかもしれない。
 だからとって名前は矢巾のことが嫌いなわけではないし、矢巾も名前を嫌っているわけではない。ただ、いとことしてほどほどの距離間を保っているだけだ。今回は矢巾が名前よりも名前の親からの頼まれごとをとったので、それで名前が冠を曲げているに過ぎない。
 名前がむすりとしているのを察してか、黒尾はそれ以上矢巾の話を続けようとしなかった。ふつりと会話が途切れる。微妙に探り合うような車内の空気に身を浸しているうち、次第に名前は自分がずいぶん大人げないことを言ったことに気が付いた。
 帰省中の不愉快な思い出のせいで、黒尾にまでやたらとつっけんどんな対応をしてしまった。矢巾の名前を先に出したのは名前の方なのだから、黒尾が矢巾の話題を振ってくるのも当然と言えば当然のことだ。
「すみません、なんか、今私言い方がきつかったですね」
「ん? そうか?」
 わざとか本気か、しらばっくれるようなことを言う黒尾に、名前は浅く頷く。
「一応言っておきますが、別に秀くんとは仲が悪いわけではないんですよ」
「何も言ってねえけど、急にどうしたんだ」
「いえ、なんか今の私の言い方だと、すごくそういう……そういう、嫌な感じに聞こえたかなと」
「んー、そうでもなかったけどな。たしかに幼馴染といとこじゃ、付き合い方も違うだろうなと、俺は普通にそう受け取った」
「ありがとうございます」
「お礼言われることでもないだろ」
 苦笑まじりに黒尾が言った。名前はしゅんと項垂れて、そうですねと、情けない声で返事をした。
 それからまたしばらく、車内に沈黙が落ちた。控え目にかけられたラジオのおかげでまったくの無音にはならないが、乗っているのが高級車なだけに車内の静粛性が高く、無言が耳に痛くなる。気詰まりというほどではなかったが、先程の失言──黒尾には軽く受け止められてしまったが、名前にとっては疑いようもない失言のせいで、沈黙がどうしても気に掛かる。
 窓の外の風景は、いつしかずいぶん都会的な様相に移り変わっていた。高層ビルがあちこちに立ち並び、交通量も増えている。信号の数も増えたのだろうが、黒尾の運転技術と車の性能のためか、たびたびの停車はまったく気にならなかった。
 紅掛空色の夕空にオレンジ色の雲がたなびくのを、名前は見るともなく眺めた。まだ秋にもなりきっていないような暑さなのに、日が落ちるのがずいぶん早くなったように思う。
 茫漠とした視線を窓の外の空に投げていると、
「空調、寒くない?」と横から黒尾が声を掛けた。「俺結構暑がりだから設定低めにしてるんだけど、あれだったら助手席のエアコンもう少し設定温度上げるから言えよ」
「あ、今のところ大丈夫です」
「ん、了解。ま、寒かったら言って。一応うしろにひざ掛け積んでるから、それ使ってもいいし」
 用意周到なことだ、と思いながら、名前は身体をねじり後部座席をのぞいた。広々として塵ひとつなさそうな座席の上に、たしかに折りたたんだひざ掛けがひとつ置かれている。
 黒尾の口ぶりからして、この車の空調は各座席ごとにコントロールできるようなので、ひざ掛けなど余程使うこともない。それでも積んであるのは、この車の持ち主が寒がりなのか、あらゆる場合を想定しているのか。
「あ、ちゃんと洗ってあるひざ掛けだぞ。出掛けに持ってきたやつだからきれいなはず」
 何を思ったか、黒尾が茶化して言う。「そんなこと気にしてませんでしたよ」名前が笑う。
「使うなら教えて。そっから手届かねえだろうし、一回車停める」
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
 もともと寒さを感じているわけでもなかった。前を向いて運転している黒尾には見えないかもしれないと思いながら、名前は浅く頭を下げる。
 それにしても、黒尾とのドライブは至れり尽くせりだ。車種までは黒尾の裁量でないにしても、こうも快適に運ばれているだけでいるというのは、名前としてはなかなか落ち着かないことでもある。黒尾は何でもない顔をしているが、もしかしたら飴やひざ掛けだけでなく、見えないところでほかにも配慮があったりするのかもしれない。
「黒尾さんって優しいですよね……」
 気が付けば、そんな言葉が口から漏れていた。名前はじっと黒尾の横顔に視線をそそぐ。
 黒尾は見るからにモテそうだから、女性への気遣いの場数を踏んでいるというのも当然あるのだろう。だが黒尾の場合、差し出す優しさのひとつひとつがこれ見よがしでない。遣り取りの中でごく自然に差し出されるものだから、受け取るときにあざといと感じるところがひとつもない。
「前にも同じようなこと言われた気がするけど」
 黒尾がにやりと笑う。
「前にも言ったかもしれないですけど、改めてしみじみと感じたので、もう一回言いました」
「そりゃどうも。つっても、褒めても何も出ませんが」
「すでに出ているものに対して褒めておりますが」
「出ているものって何だ」
 カーナビが左折を指示する。黒尾が笑いながらハンドルを切る。
「まあでも、年下の女の子に対しての態度って、大体みんなこんな感じだと思うぞ」
「そういうものですか? それは少し、疑わしくないですか?」
「そりゃあ何でも人によるだろうけど、大抵はそうなんじゃない?」
 当然のように黒尾は言う。名前はひと言、なるほどと呟いて思案のために口を閉じた。
 実のところ名前の男女交流や男女交際のイメージは、中学三年の頃のイメージで止まっている。中学までは公立の中学に通っていたが、高校は県内の女子高に進学したから、高校生になって以降、話す同年代の男子はいとこの矢巾くらいしかいなかった。
 矢巾の女好きは名前も知っている。だからきわめて胡乱な武勇伝についても、多少は矢巾から聞いている。だが矢巾の話は時に大きく誇張されていたし、名前にとって矢巾の武勇伝は少女漫画や小説の中にある架空の物語と大差ない、現実味のないものでしかなかった。
 大学生や社会人という年齢の男性が異性にどの程度親身になるものか、親切にするものなのかということを、名前は自身の経験としてはほとんど知らない。友人がいないせいで周囲を参考にすることもなかった。だから正直、黒尾の言うことが正しいのか、黒尾の優しさが世間一般で当然だと思われている範疇なのか、名前には判断がつかない。
 ただ分かるのは、黒尾から自分に差し出されている親切が、べたつきがなくてさっぱりとした、気持ちのいいものであるということ。そしてその優しさに、名前は嬉しくも、もどかしくもなるということ。世間のことは関係なく、分かるのはただそれだけだ。
「お、あそこか」
 目の前に現れた大きなビルを見て黒尾が頷いた。そのまま施設の地下駐車場に吸い込まれるようにして入場する。視界が薄暗くなったことで思考が切り替わる。
「苗字さん、これ駐車券持ってて」
「あ、はい。了解です」
「そんな気合い入れんでも」
 笑った黒尾に、名前は気恥ずかしくなり急いで駐車券を鞄に入れた。そしてそのまま、黒尾の差しだす優しさについての取り留めのない思考を、名前は胸の奥底に沈めるように手放した。
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