「結婚してください」
「……なんでそうなる」

 麗らかな春の昼下がり。窓の外は春の日差しを受けた木々の緑が鮮やかだというのに、私と相澤先生の間には重苦しい空気が流れていた。
 それはここが病室だからで、目の前の相澤先生が包帯でぐるぐる巻になっているからで、敵の襲撃を受けた先生が満身創痍になっているからなのだった。

 事の発端は「敵連合」と名乗る集団による、雄英高校襲撃事件である。ヒーロー科に入学して間もない一年生たち二十名を守るために最初から動くことができたプロヒーローは、相澤先生と十三号先生のたった二人。
 生徒たちも善戦したとはいえ、被害は甚大だった。結果、相澤先生も十三号先生もひどい重傷を負い、相澤先生は個性の要である目にも後遺症が残った。
 一連の事件を私が知らされたのは襲撃当日の夕方になってからで、真っ青になって駆けつけたときにはリカバリーガールの治療が終わった後だった。

 結局その日は相澤先生と会話することもできず、ひとまず一人きりの自宅へ戻った。リカバリーガールの治癒は一見万能に見えるけれど、実際はその人本来の治癒能力を活性化しているに過ぎない。もちろん貴重で重宝される個性であることには違いない。しかし体力を奪いながらの急速な治癒である以上、休息は最大の治療なのだった。
 けれど、そんな状況で碌に睡眠をとることなどできるはずもない。寝不足でよろよろのまま翌日の午前は大学へ、そして大学からそのまま病院へ向かい今に至る。

 昨日までとは違い、今日はベッドの上に腰掛けた状態で相澤先生は私を迎えてくれた。依然包帯はぐるぐる巻きで、表情も何も見えない。それでも会話はできるし、それなりに元気そうに見えた。
「はああ、よかった……、死んでないんですね……」
「お陰様で生きてるよ」
「一応御見舞? 差し入れ? にビスケットとかカロリーメイトとかバームクーヘンとか買ってきました」
「なんでそんな口の中パサパサになるもんばっか買ってきたんだ……」
「冗談です」
 ベッドサイドの床頭台に、先生がいつも愛飲しているゼリー飲料の入ったビニール袋を置く。その中のひとつに手を伸ばすと、早速先生は口をつけた。
 曰く、外傷で臓器もやられていたらしく、治癒はしているものの点滴で栄養を補給していたらしい。それならば医師の許可無くゼリーなんて駄目なのではとも思ったけれど、今晩には退院するのだからいずれにせよ同じことだ。

 近くに置いてあった丸椅子を引き寄せると、ベッドの脇に腰掛ける。警察からの聴取や退院のための検査の類は午前中に終わっているので、午後は特に予定もない。帰れとも言われないということは、ここにいてもいいということなのだろう。
 見ればフルーツの盛り合わせなど、お見舞いの品がちらほら届いていた。飲食禁止な上、わざわざ皮を剥かないと食べられないものを相澤先生が率先して食べるとも思えず、フルーツは手付かずのままかごに収まっている。
 私の視線に気付いた相澤先生が、それ、と私に声をかけた。
「それ、持って帰っていいぞ。どうせ俺ひとりじゃ食べん」
「どなたからですか?」
「持ってきたのはマイクとミッドナイト先生。一応教員一同からってことらしい」
「ああ、なるほど。雄英の」
 来たとしたら今日は平日だから昨日の夜、私が帰ってからだろう。昨日は昨日で学校側も対応に追われていたはずだけれども。
「折角だから何か剥きますよ。うーん、パイナップルとかは大変だからやっぱりここはリンゴかな。先生、リンゴ剥いたら食べます?」
「もらう」
「じゃあちょっと待っててくださいね」

 流しで簡単にリンゴをゆすぐと、しょりしょりと剥いていく。果物ナイフはナースステーションで借りてきたものだ。私がリンゴを剥いている間、相澤先生は携帯端末を何やらいじくっている。合理主義で無駄なことの嫌いな先生のことだから、また仕事のやり取りか、今後の確認でもしているのかもしれない。
 そうやって働く先生の姿を見て、胸がずくんと痛んだ。
 いくら今晩には退院できるといったって、本来ならもっと長く入院していた方がいいに決まっているのだ。目に後遺症だって残った。リカバリーガールの治癒は出来うることを最大限にというだけで、けして全能ではない。

 何もそんなに急がなくったって、とどうしても言ってしまいそうになるのを、何とかぐっと堪える。
 先生は確かにプロヒーローで雄英ヒーロー科の教員だけれど、それ以前にひとりの人間なのだ。無理をすれば不調をきたすし、綻びをそのままにすればいつかは破綻し壊れてしまう。
 急がないで、無理しないで。ヒーローは溢れるほどいるし、教員だってまったく足りないわけじゃない。先生がここで無理をしなくたって何とかなるんだから。それが本音であることは隠しようがない事実だった。
 けれど、それを言ってはいけないということ、それを言うのは救われる側の都合だということも、理解しているのだ。そんなことを言われたって相澤先生は困ってしまうだけで、聞き入れてもらえるはずもない。

 床頭台にリンゴの載った紙皿を置く。

「リンゴ、剥けましたよ。どうぞ」
「ああ、悪いな」
「いえいえ」
「……剥くの上手いな」
「そうですか? そういえば先生と暮らし始めてからあんまり果物買ったりしてなかったですもんね」
「剥かんと食べられないものをわざわざ食べようと思わない」
「果物は身体にいいんですよ」
「それは知ってる」
「今度からお弁当にも何かフルーツつけようかな」
「今のままでいいよ」
「……あ、大変でした? その、警察からの聴取とか、色々と」
「面倒ではあったな。けど怪我人相手だ、そう長くはかからなかった」
「そうなんですか。それはよかった」
「俺よりオールマイトさんたちの方が大変だっただろうな」
「そっか、今年からオールマイトが先生やってるんですっけ」

 実のない話をだらだらと続けながら、お互い黙々とリンゴを消費していく。それはどうしようもなく空虚な時間に感じられた。先生にとってはそうでもないかもしれない。けれど私にとっては空虚だ。本当に言いたい言葉も言えず、意味の無い言葉を連ねるだけの時間。胸が苦しくなっていくような気がする。
 やがて最後のひときれのリンゴを食べおえると、奇妙な沈黙が病室に降りた。その沈黙を破るように、すうと音を立てて息を吸う。そして口を開いた。

「消太さん」
 先生が少しだけ目を見開く。外で名前を呼んだのは久し振りだった。私が先生を消太さん、先生が私を名前と呼ぶのはベッドの上か、なにか特別なことがあったときだけだ。誕生日を祝う時とか。こんな病室で、先生が包帯でぐるぐる巻になっているような状況で名前を呼ぶことになるとは思わなかったし、多分先生も呼ばれると思っていなかったはずだった。
「消太さん、結婚してください」
「……なんでそうなる」
「結婚、したいから」

 頭の悪い返事に、先生は呆れたように溜息を吐く。その溜息に思わず視線を伏せた。スカートにできた皺をぼんやり眺めていたけれど、先生は何も言わない、ただ溜息を吐いて私の俯いた顔を見つめるだけだ。
 沈黙が重い。膝の上で握りしめた手にぎゅっと力を込めると、手のひらに爪が食いこんでちくちくと痛んだ。
 長い沈黙の末、今度は相澤先生が沈黙を破った。
「結婚ね……。そうは言ってもお前まだ学生だろ。卒業してからでも遅くはないんじゃないか」
 その返事に少しだけ驚く。先生に私と結婚する気があるということが意外だった。てっきりまた「なんでお前と結婚しなきゃならないんだ」とか何とか言われてしまうかと思ったし、そうでなくてもはぐらかされたり流されたりしてしまうかと思っていた。
 けれど今じゃなきゃ意味がない。私はまだ大学四年も始まったばかりで、卒業するまでにはまだ一年近くあるのだ。その間に相澤先生がまたどんな事件に巻き込まれないとも限らない。

「だって、私が卒業するまでに先生が危険な目に遭うかもしれないじゃないですか。その……また、今回みたいに」
「結婚したってそれは変わらないよ。俺は教員だが、その前にプロヒーローだ。指導の中で事件に巻き込まれることもあるし、家庭があったってお構い無しのことも多い。そのくらいは分かるだろ」
 その言い方から、言外にお前だってヒーロー科卒だろうと言われた気がして私は言葉に詰まる。そんなことはもちろん重々承知だ。
 分かっている。私自身血反吐を吐く思いでヒーロー科のカリキュラムをこなしてライセンスをとった。それでもヒーローになったその先にあるのは、学生時代よりもさらに過酷な道だ。その進路を目の当たりにし、親の反対する理由も分かって、それで私はヒーローになる道を閉ざした。
 嫌というほど分かっている。生半可な気持ちでやれるほど、ヒーローというのは甘い仕事じゃない。そしてその家族は、時にはヒーロー本人以上に辛く厳しい立場に立たされる。

「結婚なんてしたところで、大して何か変わるわけじゃない」
「でも……、それでも結婚すれば……ちゃんと家族になれば、私が相澤先生の帰る場所になれるじゃないですか」
 たとえばこうやって怪我を負った時、私には警察機関からは連絡が来ない。状況が一段落して、私と先生が付き合っていることを知っている誰かが私に思い至るまで、私は先生が入院したことすら知ることができない。そんなのは嫌なのだ。
 あるいは先生自身、ギリギリの状況で私という家族がいることを頭の片隅にでも思い出してくれたなら、何かが変わるかもしれない。どんなに小さなひとりでも、先生が心の拠り所にしてくれる存在、場所になれたらいい。それだけで何かが変わるかもしれない。
 私にはもう家族がいない。だからこそ、家族の重みを知っている。そして私がすでに家族を喪う悲しみを知っているということを、相澤先生も知っている。あんな気持ちをもう味わわせないと思ってくれたら。良くも悪くも「重み」になることができたなら。

 取り留めのない思考がぐるぐると頭の中で巡る。口に出すことも憚られるような、自己中心的な考えだった。
 けれど、そんな私の思考を読んだように相澤先生は目を細めて、それからそっと私の頬に手の甲を寄せた。薬と包帯のにおい。それから、相澤先生の肌の温度。

「今だってもうお前は十分、俺の帰る場所だよ」

 その言葉を聞いた途端、頭の芯がじんとして、うっかりすると泣いてしまいそうな気持ちになった。慌てて奥歯に力を込めてそれを何とか押しとどめる。もう子どもじゃないんだから、こんなことで泣くわけにはいかなかった。
 そうして暫くの間、内からわきあがる大きな熱量と格闘し、やがてそれが落ち着いた頃、私はやっとへらりと笑った。
「なんだか、うちの両親がヒーローにならないでって言った気持ちが分かる気がします。先生はもう私と出会う前からヒーローだから仕方が無いけど」
「そうだな。きっと名字の親御さんは名字のことがさぞ大切だったんだろう」
「うん……だから先生、先生は誰にも負けないでくださいね」

 そんな子どもみたいな私のお願いに、相澤先生は呆れたみたいに笑って、それでも小さく頷いてくれた。


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