「い、位田さん、あの」
「イレイザーヘッドなんてどうだっていいんですよぉ。問題はあなたがイレイザーヘッドと付き合ってるってこと。だって私、名字さんのことが好きだから」
 その言葉にようやく、私は自分がとんだ勘違いをしていたことを理解した。
 位田さんはイレイザーヘッドのことを知りたがっていたわけでも、まして好意を抱いているわけでもなかった。私を通して誰かを見るのではなく、彼女の目は最初からずっと、私の方に向いていたのだ。
 私のことを知りたがったのも、家に来たがったのも、イレイザーヘッドと付き合っていることを知っていたのも。すべて、それが私にまつわる情報だからだ。
 私を見つめる位田さんの瞳が、恍惚を覚えるようにうっすらと細められる。
「私、名字さんのことが欲しいなって思ってたんです」
「えっ、ちょっと待ってください位田さん──」
「待てません。待っていたら、プロヒーローの彼氏の待つ家に帰っちゃうでしょ?」
「いや、彼は大抵私より帰りが遅くてですね、いやそういう話ではないんですけどっ」
 まずい。これは大変まずい。必死で言葉を繰りながらも、頭の中ではけたたましく警鐘が鳴っていた。
 時刻はまだ二十一時を回ったころだが、店の裏口から出てきたせいで私たちがいるのは人通りのない細い路地だ。街灯も少なく見通しも悪い。たまたま通りかかった誰かが助けてくれるとは思えない。そんな救援を待っていたら、私はこのまま位田さんに襲われてしまうに違いない。
 ただでさえ、私の個性は戦闘向きのそれではないのだ。戦うとなれば普通に肉弾戦しかなかったのに、身体の自由を奪われてはそれもかなわない。いや、この状況からでもやれないこともないのかもしれないが、如何せんブランクが長いのと身体の自由を奪われた状態では、うまく加減ができるとも思えない。
 彼女の個性の時間制限は二分。けして長い時間ではないものの、端から二分と分かっていれば向こうはその二分の使い方も心得たものだろう。
 万事休す──、覚悟を決めてぎゅっと目を瞑ったその時。

「そこまでにしといてやれ」

 聞きなれたその声に、どうにか動く首を巡らせ声のした方を向く。
 瞳を赤く燃え上がらせた相澤先生が、路地の入口に立っていた。
「イレイザーヘッド……」
 位田さんが小さく呟く。その声を拾った相澤先生は気だるげに頭をかいた。
「俺を知ってるのか。なら話は早いな。『個性』は俺には通用しない。無駄に戦おうとするなよ」
 まあ、名字に個性使ってる以上、同時に俺にも使えるかは知らんが。ぶつぶつと付け加えながら歩いてくる相澤先生は、位田さんに抱えられた私に腕を伸ばすと、力ずくで私を位田さんから引きはがした。
「せんせ──」
 かと思えば、まるで引き寄せついでに米俵でも担ぐみたいに私を持ち上げる。思わず「ウッ」と声を漏らすけれど「うるさい」と一蹴されてしまった。いや、うるさくはないだろうに。
 意外にもあっさりと私を離した位田さんの表情を、あいにくと米俵担ぎされた私には確認することができない。しかし、位田さんが相澤先生相手に喧嘩をふっかけるようなことをしなくてよかったとは思う。さすがに先生は現役のプロヒーローなのだ。実力の差は歴然だ。位田さんが怪我をするのも、相澤先生が市民を怪我させるのもよろしくない。
 そんな私の安堵とは無関係に、相澤先生の言葉は淡々としている。
「それからな。同性だろうがストーカーはストーカーだ。これ以上執拗くするようなら、こちらからも然るべき対応を取らせてもらう」
 それだけ言い残して、相澤先生はくるりと方向転換すると私を担いだまま歩き出した。
 位田さんは追いかけては来なかった。

 ★

 薄暗い路地裏から明るい大通りに出て暫く、身体の自由が戻ったところで私はようやく米俵担ぎから解放された。若干よろめきながら地面に足をつける私を見て、相澤先生はあからさまに溜息をつく。
「お前、本当にことごとく変なのに引っかかるな」
「うう、面目ありません……」
 ことごとくという言葉に私は頭を下げる。実はこの手のことは初めてというわけでもなかった。
 相澤先生との交際関係を公表していないので、私はあまり親しくない友人知人に対しては彼氏なしで通している。そうなると、こんな私でも年頃の女子というだけで言い寄ってくる人はいるわけで、これまでにも何度か、あわや犯罪というような粘着質な人に絡まれたことがあったのだった。
 さすがに今回のように、相澤先生に助けてもらわなければならないような事態にまで発展したことはない。けれど毎回それなりに面倒なことにはなっていた。そういう、これまでの私の恋愛経験を指しての相澤先生の「ことごとく」という言葉だ。
 しょんぼりと項垂れながら、私は相澤先生の半歩後ろをついて歩く。ヒーロー科卒業生でありながら、素人相手に自由を奪われたのだ。さすがに情けなさで我がことながら居た堪れない。きっと相澤先生も呆れているに違いない。
 しかし言い訳するなら、まさか女の人から好意を寄せられているなんて思いもしなかったのだ。何かあるならばそれは相澤先生、イレイザーヘッドに対してだと思っていた。だから多少身構えてはいたものの、後手に回ることになってしまった。『個性』の相性もある。
 それに、何より──
「一応ライセンスあるんだから、『個性』使って逃げてもよかったんじゃないか」
 相澤先生がぼそりと呟いた。その問いは、プロヒーローであり私のかつての担任であれば当たり前に抱くだろうものだった。私の『個性』は戦闘向きではない、それは確かに事実なのだけれど、とはいえまるきり戦えないわけではなかった。ヒーローとして市民を守るため、最低限必要な体術は雄英時代に教わっている。
 加えて私の『個性』は身体の自由を封じられていてもある程度使用することができるものだ。戦うすべはあった。
 それでも戦わなかったのは、長らく『個性』を使っていなかったことで力加減に自信がなかったため。そして──
「……『個性』を使って逃げるっていうのも考えはしたんですけど、なんか……なんていうかそれは、『個性』を私的に使ってる感じがして、どうしても抵抗があったんですよね。普段は『個性』なんて使わないのに、いくら身に危険があったとはいえ、一応一般人相手に攻撃のために使うっていうのはちょっと……」
「攻撃って、自衛の範疇だろ」
 正論で返され、曖昧に笑う。そう言われればそう、というか実際その通りでしかない。
「それはまあ、そうなんですけど……でもやっぱり嫌で。『個性』は人のために使ってこそだと思う、から」
 その結果また相澤先生に助けられちゃったんですけど。そう情けない声で付け足してへらりと笑う。
 面倒見のいい相澤先生のことだから、てっきりいつものようにまた、危機感が足りないだとか楽観もほどほどにしろだとか、そういうお小言を喰らうかと思っていた。
 けれど相澤先生は足を止めて私の隣に並ぶと、ぽすんと私の頭に手のひらを載せた。そのままくしゃりと髪を撫でる。上からの圧を感じながら上目遣いに相澤先生の顔を見れば、先生は意外にも穏やかな顔で笑っていた。
「先生?」
「いや。そういうやつだったな、お前は」
 相澤先生の言葉の意味はよく分からなかったけれど、それ以上聞いたところではぐらかされるだろうということは想像できた。無駄口を叩くのはやめて、私は黙って隣を歩く。今回の一件については呆れられてはいるかもしれないものの、軽蔑されたりしてはいないのであればそれでいい。呆れられるなんて今更だ。
 そっと先生の手に自分の指を絡める。肌寒い春の夜も、こうやって歩いていれば却って心地よく思えた。さっきまで相当危険な目にあっていたはずなのに、我ながら呆れるくらいに楽天的だ。
 それでも、あれだけのことをされておきながら、私は何故だか位田さんに対して今も、それほど嫌な感情を持ってはいなかった。
 確かに彼女のやり方は過激だったけれど、少なくとも私に好意を抱いてくれていた。何よりついさっき、あの瞬間までは穏やかで優しい素敵な年上の女の人だった。あんなことさえなければ、長く仲良くやっていきたかった。
「位田さん、またバイトに来てくれますかね……」
 相澤先生に聞いてみる。すると呆れ果てたとでも言わんばかりの視線を向けられてしまった。
「またお前はそういう……」
「だって、仕事もできるしいい人なんですよ」
「いい人ではないだろ。お前、貞操の危機だったぞ」
「貞操……、いやまあそうなんですけど。でも、私が水に流して今まで通りやれるならそれが一番いいかなあとも思うし」
「それは虫が良すぎるだろ。それに、そのインデンサンにも失礼なんじゃないか」
「ううん……」
 結局、位田さんの話はそれで打ち切りになった。助けてもらった手前、相澤先生の前であまり位田さんを擁護するようなことを言うのは憚られたし、食い下がって擁護するほどの熱意もなかった。ただ、次のバイトのときに位田さんがいなかったら残念だなあと心の中で少しだけ思う。
 そうして帰路を歩き続け、家まであと少しというところまでやって来たときふと、疑問に思ったことを相澤先生に尋ねてみた。
「そういえば先生、どうしてあんなところに?」
「どうしてって──」
 私の口にした質問に先生は何かを言おうとして、しかし何故だか途中で口を噤んだ。それきり黙ったまま暫く歩き続け、次に口を開いたのはやっとマンションの前まで到着してからだった。
 相澤先生はふうと長く息を吐くと「たまたま通りかかっただけだよ」とぶっきらぼうに答える。
「仕事が早く片付いたから気分転換に散歩してたんだ」
「さ、散歩……!? ぶふっ……嘘くさ……!」
「笑うな」
「素直に心配だから迎えにきたって言えばいいのに」
「二度と行かん」

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