「名字さんってイレイザーヘッドの彼女って本当ですか?」
コーヒーミルを掃除する手元に視線を固定したままさらりと尋ねる位田さんに、私は思わず「エッ」と引っ繰り返った声で返事をする。
バイトを始めて二週間、そろそろ今日のバイトの時間が終わろうという頃だった。突然オーナーに裏に呼ばれて言い渡されたのは、今日はラストまでこのまま入ってほしいということだった。いつもはランチの後からラストまで、私と入れ替わりで入ることの多いバイトの子が季節外れのインフルエンザにかかったらしい。
相澤先生も確か今日は遅くなると言っていたから、二つ返事で快諾する。ラストまでといっても閉店は二十時。片づけやらレジ〆やらでバイトが終わるのは二十一時だ。相澤先生よりも帰宅が遅くなるようなことはないだろう。
“ 午後からのバイトの子が急病なので代打で入ります。9時まで働いていくので帰るのは9時半前になりそうです ”
簡単に用件だけを書いたメッセージを送信し、携帯を鞄に戻してからホールに戻る。ホールで片づけをしていた位田さんと目があった。にっこり笑った位田さんに、私もそれとなく笑い返す。
ランチタイム以外は食事メニューを出していない。カフェタイムに入るのと同時に早々にオーナーがあがってしまったので、残りの時間はラストまでの位田さんとふたりきりだ。客が少なくなったのをいいことに、私と位田さんはだらだらと雑談をしながら閉店準備を進める。
相澤先生が少し気にしていたこともあって、位田さんに対しては私も多少身構えている。しかしこの二週間、位田さんとはバイトのたびに顔を合わせているものの、これといっておかしなこともない。
相変わらず彼女からは何故か妙に妙に気に入られているし、色々と私のことを聞かれることもある。けれどそれは、あくまで知り合ったばかりの人間同士のコミュニケーションの範疇を出ない。
大学はどこか、近所に住んでいるのか、よく見るドラマは何か、好きなアーティストはいるのか、好きなヒーローは誰か、彼氏はいるのか──。
どれも些細で他愛のない質問だ。いちいち裏があるかもしれないなんて訝しむようなことでもない。そりゃあ、恋人がプロヒーローだとあまり大っぴらにするものでもないから、多少は誤魔化したりフェイクを入れることもある。だが、質問自体はおかしなものではない。もしも恋人がヒーロー稼業なんてやっていなければ、どれも普通に受け答えができたはずの質問ばかりだった。
そのはずだったのだが。
「え……、ええ? なんですかそれ」
内心冷や汗だらだらになりながら、必死で笑顔を作る。
何がどうして、イレイザーヘッドの名前が挙がることになったのだろう。これでもヒーロー科卒だけあって、その手の機密事項をうっかり口にするようなへまはしない自信がある。この二週間、私はイレイザーヘッドのいの字も口にしていない。好きなヒーローを聞かれた時も無難にオールマイトと答えたし、彼氏の有無を聞かれた時だっていつも通りにいませんよと返した。そこはもう慣れたもので、あの時の返事と笑顔に疑わしいところは一切なかったと断言することができる。
一体どこからそんな話が出てきたのか。場合によっては大変まずいことになる。
そんな私の動揺をよそに、位田さんはいつもののんびりとした口調で「ちょっと小耳に?」と妖しく笑った。
「私、結構そういうの鋭いんですよぉ。それにしてもプロヒーローが彼氏ってすごいですね。しかもイレイザーヘッド。あんまり表に出てこないですけど、実力もあるしすごい彼氏じゃないですかぁ」
「い、いや、というか私、彼氏なんて」
「あ、大丈夫ですよ、誰にも言いませんから。お相手がプロヒーローともなると、名字さんが弱みになってしまったりしかねませんもんね。内緒にしておいて当たり前ですよね。いやぁ、でもすごいですねぇ」
おっとり言ってのける位田さんに、はあ、と私は曖昧に頷いた。
私が相澤先生との関係を公表しないのは、いざという時、イレイザーヘッドとしての仕事に差し障りがあったら困るからだ。メディア露出を嫌い教職を主な活動としているとはいえ、相澤先生、いや、イレイザーヘッドがプロヒーローであることには違いない。彼はプライベートを切り売りしたり、必要以上に私生活に踏み込まれることを嫌う。
ただ、スキャンダルの種になりかねないというだけではなく、位田さんが今言ったとおりヒーローとしての弱みになることは避けたいというのも、関係を公表しない理由の一つだった。
一体どの程度、位田さんのことを信用してもいいのだろうか。疑わしさが視線に滲まないよう気を付けて、私はじっと位田さんのことを見つめる。相変わらずの穏やかな雰囲気の彼女は、穏やかな雰囲気のまま淡々とコーヒーミルの掃除をしていた。細部まで丁寧に掃除するその仕事ぶりは、うっかり口を滑らせるような大雑把な性格には思えない。
しかし、油断はできない。プロヒーローも斯くやというほど、位田さんは表情から心情を読み取らせない。浮かべる表情はつねに薄ぼんやりとしていて、ミステリアス。口で何を言っていようと、腹の中で何を考えているかまでは分からない。
位田さんは謎の多い人だ。見た目は普通の女性だし、気さくに話しかけてもくれる。しかし私以外のアルバイトに対しては、ここまで親しげにしているところを見たことがない。
私に良くしてくれていることに裏があるなら──さらに言えば私の後ろにいるイレイザーヘッドに何らかの関わりがあるのなら、相澤先生の恋人として私はそれを看過するわけにはいかない。
暫し、思案する。そうは言っても今のところ、何か実害があったわけではない。はぐらかしたり誤魔化したりしてみたところで、位田さんには小手先の技は通用しそうにない雰囲気もある。というより、そもそも今更誤魔化したところで私とイレイザーヘッドが無関係だなどと思ってはくれなさそうだ。
ひとまず、帰宅したら相澤先生に報告をしよう。そんなところを落としどころにして、私はいったんこの問題を持ち帰ることにした。最悪今この場で何かあったところで、位田さん相手ならば戦っても勝てそうだ。そんな物騒な算段を脳内でつけて、私はひっそりと溜息をついた。
★
恙無くその日のバイトを終えた私と位田さんは、残業することもなく定時ぴったりに店を出た。春の夜はぶるりと体を震わせてしまうくらい冷えていて、昼過ぎにバイトを上がるつもりで薄着で来てしまった私には堪える。
「名字さん寒そうですね。よかったらストール貸しましょうかぁ?」
両手を擦り合わせている私に、位田さんはやんわりと心配そうにしながら微笑む。
「いえ、うちこの近所なのでさっさと帰ることにします」
「ああ、そういえば以前そう仰ってましたね。よかったら今度お邪魔させてください」
「いやー、はは……」
結局、あの後位田さんからイレイザーヘッドについての話をされることもなく、微妙な雰囲気のままにバイトを終えてしまった。一度は相澤先生に報告、と決めたものの、時間が経つにつれ此処で話を済ませておくべきではないかという思いも首をもたげてくる。
今年度に入ってからの相澤先生は見るからに忙しそうだ。こんなことで煩わせたくもない。
「あの!」
歩き始めていた位田さんを呼び止める。自分でも驚くほど、気合いの入った声が出てしまった。
振り向いた位田さんは、いつもの微笑をたたえている。
「はぁい? なんですか、名字さん」
「えっと、あの……、先ほどの彼氏の話……なんですけど」
「ああ、イレイザーヘッド」
おっとりとした声で呼ばれるそのヒーロー名に、私はごくりとつばを飲み込んだ。その目はどこか艶っぽく、黒く鈍く街灯の光を受けている。
その瞳を見て思った。やはり位田さんは確信を持って私にイレイザーヘッドの話をしている。そして私に対し、必要以上にイレイザーヘッドの名前を口にする。
彼女は多分、相澤先生──イレイザーヘッドに関心があるのだ。
もう一度ごくりと唾を飲み込んだ。どうせ誤魔化すことが出来ないのであれば、ここは一度きっちり話をつけておきたい。
「あの、私の考えすぎなら申し訳ないんですが、……もし位田さんがイレイザーヘッドのフォロワーとか、そういうファン的なことをしていらっしゃって、それで私から何か情報を引き出したいのであれば……、その、それは彼の迷惑にもなりますし、私から彼について何かお教えするみたいなことはできかねるといいますか……」
言いながらも心臓はばくばくと音を立てていた。動揺や緊張を悟られないよう、低い呼吸を繰り返す。
元来私は人と衝突することが得意ではない。ヒーローを志していた高校時代も、災害時に動けるヒーローを目指していたし、体育祭のような対人戦ではいまいち成績のふるわない生徒だった。
個性か戦闘向きでないことと揉め事が苦手な生まれついての性格は、まったくの無関係というわけでもないだろう。個性は身体能力のひとつである。
ぎゅっと握りしめた拳が小さく震える。それでも、言いたいことはきちんと言ったつもりだ。あとは位田さんの返事を、緊張しながら待つだけだった。
けれど位田さんは暫しの沈黙ののち、ふわりと笑うと、私の握りしめた拳にそっと手を伸ばして両手で包み込むように握った。
「イレイザーヘッドのことなんて、別に教えてもらわなくてもいいですよぉ」
「えっ?」
思わず間抜けな声が口からこぼれた。ここまでの雰囲気からして確実に、位田さんはイレイザーヘッドに関心があるのだと思っていた。そうでもなければ、あんなふうに私に確信をもって鎌をかけたり、私を揺さぶるようなことを言うとは思えない。
戸惑いながら、私は位田さんを見つめる。私の手をきゅっと握ったまま、位田さんは艶やかに笑った。
「私が興味あるのは、名字さんの方ですから」
え、とふたたび声が漏れたのは一瞬のことだった。
次の瞬間には、力の入らなくなった体が膝から折れ曲がりぐらりと傾ぐ。倒れかけた私の体を、位田さんがしかと抱きとめて支えた。華奢な身体をしているのに、私を支えた位田さんは吃驚するくらいしっかりしている。そういえば彼女はバイト中、重たいコーヒーミルの掃除も難なくこなしていた。そのことが、私の頭の片隅で芽吹くように小さく思い出される。
「そういえば名字さんには私の個性、お話してなかったですよね?」
吐き出された妖しげな声が私の耳元で吐息のように震える。くらくらと酔ってしまいそうな声音は、聴いていて不安になるほどに揺れていた。
「あんまり感じのいい個性じゃないから、本当は人に教えたくないんですけど。でも、名字さんは特別だから教えちゃいます。私、両手で接触した相手の身体の自由を二分間だけ奪えるんですよぉ」
それは何とも物騒な個性ですね、などと私が嫌味を言うより早く、位田さんは抱きとめていた私の身体、背中に手を這わす。瞬間、ぞわりと全身が粟立つ感覚に襲われた。
服の上から伝わる細い指の感覚。本能的に身をよじって逃れようとするけれど、彼女の個性がそれを許さない。
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