年が明けて春になった。私は無事大学四年生に進級し、相澤先生は一年生のクラスを受け持つことになった。今年は昨年のような全員除籍などという暴挙には出ず、きちんと担任としての職務を全うしているらしい。おかげで昨年よりも格段に忙しそうにしているのだけれど、それはさておき。

「バイトを始めることにしたんですよ」
 一緒に遅めの夕飯を食べながら意気揚々と報告した私に、相澤先生は「バイト?」と胡乱げに繰り返した。
「駅前に新しくカフェが出来たの知ってますか? チェーン店なんですけど、そこがオープニングスタッフ募集してて。私はもう就職先も決まってるし単位もほとんど取り終えてるし、卒論もゆるいゼミなので、まあ暇なんですよね」
「そういやそんなこと言ってたか」
「時間余らせてても仕方が無いので、一丁働いてみるかと」
 そう説明すると相澤先生は「好きにしろ」と一言で返した。

 大学の一年から今まで、私はバイトというものをしたことがない。親のいない私は幸いにして学費がかなり免除されているので、両親の遺した学費にはほとんど手をつけずに済んだ。お小遣いならばそこから出す分で十分に足りている。年頃の女子として、相澤先生の恋人を名乗るのに恥ずかしくない程度には服を買ったり美容院に行ったりしているけれど、それでもお金に困るなんてことは無い。
 それに、両親の遺志を汲んで大学に進学した以上、勉強に集中すべきだとも思っていた。相澤先生からもそう言われている。学生の本分は勉強、社会勉強ならば社会に出てからでも遅くはないと。
 とはいえ今年は講義もほとんどない。勉強に支障をきたすこともない。
「実は今日面接で、その場で合格もらってきたから来週から働きます」
 ほとんど採用が決まっており、シフトの確認がメインだった今日の面接。聞いたところによれば私以外のスタッフもほとんどが二十代の女性らしい。同じような若い女性がターゲットの店なのでスタッフの採用基準も若い女性ばかりになっているようだった。
 余計な心配を招かぬようその旨も併せて相澤先生に説明する。
「なんでもいいが、深夜のバイトとかは駄目だからな」
「はーい」
「返事は伸ばすな。それからバイト先の住所後で送っておけよ。一度どんなもんか見に行く」
「やだ、先生ってば虫除けのつもりですか? ウワッ、愛されてる!」
「保護者責任だ、それ以上でも以下でもねえからな」
「フフッ」
「笑うな」

 ★

 翌週から始まったバイトには週に三日、平日の午前からランチタイムが終わるまで入ることになった。日曜は相澤先生と過ごしたいし、それ以外の日は家事をしたり勉強したりしたい。バイト仲間の中にはもっとシフトに入りたいと愚痴を言っている子もいるけれど、私にはこのくらいのシフトで丁度いい。
 今日の夕飯はロールキャベツにしよう。春だしキャベツが美味しい季節だ。私はけして料理が得意な訳では無いけれど、挽肉料理は比較的得意だ。相澤先生も食に頓着しないわりに、挽肉料理には食いつきがいい気がする。あくまで気がするだけだけど。
 と、そんなことを考えていたら「名字さぁん」と横から声がかかる。
「名字さんってもう就職先決まってるんですか?」
 位田さんがにこにこしながらこちらを見ていた。
 私とシフトが被ることが多いフリーターの位田さんは、何かと話しかけてくれる気さくな女性だ。食洗機からお皿を取り出しながら私に訪ねる位田さんに、ランチのデザートの仕込みをしていた私は、手を動かしながら「そうですね」と返事を返す。
「一応、来年の春から学校の事務員で雇ってもらうことになってます」
「へーえ、学校。高校ですか?」
「そうなんです。ちょっと伝手があって、コネ入社みたいなものです」
「ふふ、コネですか。すごいですね」
「いや冗談ですよ?」
 そう笑うと位田さんも「分かってます」と笑ってくれた。とはいえ、実際のところはそこまで的外れな冗談でもない。

 私が翌春から雇ってもらう先、それは雄英高校である。以前たまたまゼミの研究の関係で母校を訪れた際、根津校長から振ってもらった話に乗っかった形になる。
 曰く、今の事務員さんが定年退職されることが決まっているらしいのだけれど、新たな事務員を雇うにあたり、素性のしれない人間を雇うよりも信頼できるOBを雇う方が話が早いということらしい。
 恋人である相澤先生と同じ職場で働くことができるのだし、何にせよ有難い話ではある。だけれど、そんな風にあっさりと就職先が決まってしまったおかげで、私は就活らしいことは何もしないまま就活を終えてしまった。ついでに勤めた先では大学で修めた内容を知識や技術として使うこともない。楽な進路を選んでしまった。

 と、もちろんそんな事情までは話すことはなく、あくまでさらりと「高校の事務員になる」ことだけ伝えれば、何故か意味深に微笑まれてしまった。
「エッ、私、何かおかしなこと言いました……?」
「いえ。名字さんって可愛いなと思って」
「はあ……? ありがとうございます……?」
「どういたしまして」

 ★

「て、いうことがあったんですよ。不思議な人じゃないですか? 位田さん」
「誰だ、インデンサンって」
「全然人の話聞いてなかったんですね! びっくりしました!」
 思わずロールキャベツをお皿に落としてリリースしてしまった私に、相澤先生は悪びれもせず「長かったから」とすっぱり告げる。
 新学期に入ってからの先生は目に見えて忙しいそうだ。こうして一緒に食事をとることができる日は平日ならば二日あればいい方。まだ演習はそこまで回数をこなしたわけではないようだけれど、少しずつ準備などが始まっているようだ。
 とはいえ忙しいのは仕方なくても、こうもスルーされると寂しいものがある。
 私がぶうたれた顔したのに気付いたのか、相澤先生は少しだけ表情をゆるめて笑った。
「悪かったよ。もう一回最初から言ってくれ」
「……や、すみません! 気を遣わせてしまった! お疲れだったら、無理に聞かなくて大丈夫ですよ? また明日同じ話をしますから」
「いや、いい。明日は早く帰ってこられるか分らん」
 そう言われれば確かにその通りだった。一度は引きかけたけれど、思い直して頷く。それから再度同じ話を頭から話し始めた。

 バイト先に位田さんという不思議なお姉さんがいること。位田さんは数いるバイトの中でも私に話しかけてくる頻度が高いこと。全体的にミステリアスな雰囲気が漂っていること。微笑みが意味深なこと。
 もぐもぐとご飯を口に運びながら黙って聞いていた相澤先生は、私の話が一段落したところでじいっと私の方を見つめた。
「そのフリーター、俺とお前の関係は知ってんのか」
「え? 知らないと思います、けど。私、相澤先生のことバイト先で話したことないし、ていうか彼氏がいることも誰にも言ってないし」
「……そうか」
 それだけ言ってまた黙ってしまう相澤先生に、私は少しだけ不安になった。もしや私はまた相澤先生に不必要な心配をさせてしまったのだろうか。
 位田さんは確かにミステリアスではあるけれど、けして危険な感じはしない。これでも一応ヒーロー科卒、ある程度悪意のある人間には鼻が利くつもりだ。位田さんのことは危険な人間ではないと判断した上で相澤先生に話したつもりだった。
 私には分からない何かを相澤先生が私の話だけで察したのだとすれば、それはそれで恐ろしい。
「何か気になるところありましたか……?」
 恐る恐る聞いてみる。けれど相澤先生はゆるゆると首を横に振って答えた。
「いや、いい。多分俺の考えすぎだ」
「そうですか? 相澤先生の勘は当たるから、何かあるなら先に教えておいてほしいんですけど」
「気にするな。杞憂だろ。それより今日のおかず美味いな」
「エッ!?!? 本当ですか!? ウッソ、やったー! バイト終わってから頑張って作った甲斐がありました!」
 思わず叫ぶ。
 相澤先生が私の作った食事を褒めてくれることなんて滅多にないことだ。食事に関してはほとんど私の自己満足に相澤先生を付き合わせている自覚がある。だから思いがけず褒められたことは、思わず音を立てて椅子から立ち上がり万歳三唱してしまうくらい嬉しいことだった。
 浮かれた私は「キャベツがよかった」だの「コンソメを変えた」だの、どうでもいいことをべらべらと話してしまった。相澤先生もいつになくそんな私にちゃんと取り合ってくれる。
 だから直前まで話していた位田さんのことなんて、私はうっかり、すっかり忘れてしまっていた。相澤先生が胸に引っかかる何かを感じたのだということも、相澤先生の勘は当たるのだということも。全部合わせて、私はすっかり忘れてしまっていたのだった。

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