試験が終わり、大学の夏休みも終わりかけの九月後半。ゼミの課題を終わらせるため、私は夏休みの大学図書館に入り浸っていた。
 高校生はすでに新学期が始まっている。高校教師の相澤先生は毎日忙しそうだ。私を構っている暇などない。家にいてひとりで過ごすのもいいのだけれど、学校にいた方が一日のメリハリがつく。そういうわけで、わざわざ毎日往復二時間かけ、夏休み中の大学まで通っているのだった。

「……しかし、困ったな」
 図書館の閉館時間ぎりぎりまで粘っていた今日。そろそろ夕飯の調達をしなければと、ようやく外に出た私はひとり、図書館の出入り口の前で呆然としていた。
 窓のない図書館の最奥で耳にイヤホンを挿して勉強をしていたから気が付かなかったのだけれど、屋外はひどい暴風雨に見舞われていた。既に夜も更け始めた真っ暗な空から、ばけつをひっくり返したような雨がほとんど横殴りに叩きつけている。ひどい天気だった。
 そういえば朝のニュースの天気予報で、大型の台風が近づいている言っていたような気が、しないでもないような──とか何とかどうにか思い出すけれど、いずれにせよ時すでに遅しだ。こんなことならもっと早く図書館を出ればよかったと、何の役にも立たない溜息を吐く。
 後悔の念に駆られながら、鞄の一番下で眠っていた携帯を取り出す。見ると待ち受け画面が着信履歴で埋め尽くされるように、相澤先生から山ほど着信やメッセージが入っていた。ついでに交通情報を見れば地下鉄電車バス、公共交通機関はすべて運行中止になっている。
 この調子では帰ることができないなあ、とふたたび長い長い溜息を吐く。ここ数年で最大規模の大きさの台風らしく、さすがに今日のうちに電車が動くことは期待できないだろう。取り出した携帯の画面を指で叩いて相着信履歴から相澤先生に折り返す。ひとまず今日は帰宅できないことだけは伝えなければならない。心配をかけてしまう。

「もしもし、名字か」
 発信してツーコール、すぐに相澤先生は電話に出てくれた。
「あーっ、先生ー! すみません、集中してて全然携帯見てませんでした! 窓の外も見てなくて、まさかこんなことになっているとは、あーっすみません!」
「うるさい。お前今どこだ」
 慌てた私とは対照的に落ち着いた声でばっさり返される。相澤先生の声には特に慌てた様子は無かったので、着信の数の割にはそこまで心配していたという感じでもない。そりゃあそうか、私ももう大人なのだ。連絡なしで帰宅が遅れるくらいで心配したりはしないだろう。
「まだ学校です。今図書館出たところ……、とりあえず今日はもう電車も動かないと思うので、その辺の漫画喫茶かカラオケで寝泊まりして明日の朝一番で帰ろうかと。この台風ならどこもガラガラでしょうし」
 幸い、大学の近くにはそういう娯楽施設がかなりそろっている。一晩を凌ぐくらいならばどうとでもなるだろう。鞄の持ち手をぎゅっと握る。傘はこの間失くしてしまったから急場しのぎのビニール傘だ。最悪壊れても諦めがつく。
 それじゃあ、と電話を切ろうとしたところで、「待て」と電話の向こうの相澤先生が私を呼び留めた。
「女子がそんなことしなくていい。車で迎えに行くからどこか雨風凌げるところで待ってろ」
「えっ、でも」
「いいって言ってるんだよ。大学か……それならたしか近くにファミレスあったな。傘は持ってるのか」
「あ、はい。でも」
「じゃあファミレスまでは気合いで行け。また近くについたら連絡する」
 それだけ言い残し、相澤先生は電話を切った。ぶつりと音を立てて沈黙した携帯の画面を、暫し呆然と見つめる。しかしその液晶に雨粒がばらばらとかかって、私は我に返った。
 ともかく、ここにいても仕方がない。相澤先生に言われた通り、嵐の中をファミレスに向かって走り出した。

 ★

 相澤先生の家から私の通う大学までは電車で片道一時間。車でも高速を使えば同じくらいの時間で到着することができる。
 ファミレスに腰を落ち着けて一時間ほどドリンクバーのコーヒーを啜っていると、気だるげな顔をした相澤先生が、陽気な入店音とともにファミレスの中に入ってきた。
 長い髪を後ろでひとつに束ねたオフモードの先生は、店内でひらひらと手を振る私の姿を認めると早足、しかしあくまで気だるげな空気は崩さないまま寄ってきた。そのまま私の前のソファー席にどかりと腰掛ける。
 怒っているというわけではなさそうだけれど、流石に疲れが見て取れた。きっちり仕事を終えてからこんなところまで迎えに来させられているのだから、そりゃあ疲れもするはずだ。しかも外は台風。高速を運転するのも大変だったに違いない。
「ほ、本当に来てくれたんですか……。すみません……」
 私がそう呟くと、メニューに腕を伸ばしながら先生は溜息を吐く。
「明日が日曜でよかったな。平日なら絶対来なかったぞ」
「車運転するの嫌いじゃなかったですっけ」
「やむを得ない場合はそうも言ってられんだろ」
「やむを得ない……」
 私がこんなところで家にも帰れず立ち往生していることは、先生にとってはやむを得ないことらしい。嬉しいような申し訳ないような、なんとも複雑な気分になる。迷惑や心配はかけたくないけれど、心配してくれることが嬉しくないわけではない。
 無駄なことが嫌いな先生だ。てっきりこのまままっすぐ家に帰るのかと思いきや、相澤先生はメニューをちらりと眺めると、迅速にいちごパフェを注文した。時間つぶしのためのドリンクバーしか頼んでいない私に対して、社会人の財力とは凄まじいものだ。そしてメニューのチョイスが可愛い。
「先生、珍しいですね。いつもは時間の無駄とかいってデザートなんか食べないのに……。もしかして夕飯食べてないんですか?」
「いや、来る途中でゼリー食べながらきた」
「それじゃあてっきり私のことだけ回収して、そのまま帰ることになると思ってました」
「一時間高速運転して目が乾燥してる。帰るのは休憩してからだな」
 目をしばしばさせている相澤先生に私は苦笑した。『個性』の影響なのだから仕方がないけれど、ドライアイの先生に長時間運転させるのは確かに酷な話だ。
「帰り私が運転しましょうか?」
「あのなぁ……、この嵐の中をお前に運転させるほど俺は命知らずじゃない」
「ヒーローなのに……」
「ヒーローだからって命が惜しくないわけじゃないんだよ」
 さらりと酷いことを言われた気がするけれど、こっちは迎えに来てもらった側なので特に言い返すこともできない。確かに運転は得意ではないし、町中をちょっと運転するくらいしかしたことがなかった。嵐の中を運転する自信があるかと言われれば、そんなはずはない。

 先生の前に置かれたいちごパフェを一緒につつきながら、窓を叩く雨をぼうと眺める。相変わらず雨足は強く、一向に雨が止む気配はない。携帯で気象情報を確認してみるけれど、台風はまだまだ暴風域に入ったばかりだった。きっと今夜は明け方までこの調子でひどい気候が続くのだろう。

 土曜の夜だというのに、台風がきているせいでファミレスの店内はガラガラだった。もとから相澤先生──イレイザーヘッドはあまり世間的に知られていないので、私服のときにはそう人目を気にする必要はない。とはいえごくまれに先生のファンに見つかってしまうこともあり、基本的には外であまりいちゃつくことはない。家でもそういちゃついてはくれないのだけれど。
 ところが今日は、ふたりでひとつのパフェをつつくなんてことをしても文句を言われなかった。疲れているせいかもしれないし、どうせ誰も見ていないからなのかもしれない。
 時々こういう恋人っぽいことをしてくれる相澤先生のことが、私は大好きだ。

「先生」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「好きです!」
「……」
「そこは! 俺もって! 言うところ!!」

prev - index - next
- ナノ -