朝、使い慣れた毛布の中で目を覚ます。毛布もベッドも、自分のものではないけれど、週のほとんどはこの毛布を使って、このベッドで眠っている。だからこの毛布もベッドも、私のものも同然だ。
ベッドの本来の主は、最低限の清潔だけを維持すればいいとして、ろくに髭も剃らないし身だしなみも整えない。それなのに、いくら寝具に鼻を寄せてみても、不思議と彼のにおいはしない。それが何だかつまらなくなって、掛布団を思い切り足で蹴って跳ね飛ばした。
隣に寝ていた彼はもういない。この時間はジムで汗を流している時間だ。ジムに通うような人にはまったく見えないけれど、その仕事柄、彼は最前線を離れた今でも、案外きちんと体づくりを続けている。
ごしごしと目をこすりながらベッドから抜け出す。お揃いで買ったのに私しか履いていないスリッパに足を突っ込んで、ぺたんぺたん音をさせながらキッチンに向かう。朝食はゼリーでもいいとして、せめて昼食くらいはまともなお弁当を持たせたかった。
相澤先生は私のかつての担任であり、今は同棲中の恋人である。私は相澤先生の同棲中の恋人であり、国立大学で個性遺伝学を専攻している現役女子大生である。
つまり現役ヒーローであると同時に、ヒーロー育成機関の最高峰と謳われる雄英高で教鞭をとる相澤先生は、元教え子の女子大生とラブラブいちゃいちゃ同棲中というわけである。
「相澤先生がメディア嫌いで、認知度低いおかげで助かってますよね。これ、人気ヒーローだったら結構なスキャンダルですよ」
ゼリー飲料片手にタブレットでニュースをチェックしている、ジム帰りの相澤先生にそう声をかければ、
「口にものを入れて喋るな」
と至極まっとうなお返事が返ってきた。それもその通りだ。大人しく口を閉じる。米粒をもしゃもしゃと咀嚼していたら、
「俺の認知度が高かったら、そもそもお前と付き合わない」
そんなひどいことを言われる。
「そんなこと言って先生、私のこと結構好きじゃないですか」
「好きじゃない。押しに負けただけだ」
「同棲してるし」
「お前が勝手に自宅売却して、俺んちに転がり込んでんだろうが」
「そういう捉え方もできますよね」
「……」
「でも恋人っぽい愛のあるセックスするし……」
「お前ちょっと黙ってろ」
出勤前の相澤先生は大体こんな感じで、私のことを邪見に扱う。朝は基本的に機嫌が悪いのだ。それもこれも私がいなければ食事の時間ももっと短く済み、もっと長く寝ていることができたから、らしい。食事は一緒に食べましょうというルールを設定したのは私なので、その辺りは反論することもできない。ぐうの音も出ないとはこのことで、私は茶碗が空っぽになるまで延々黙ってお米を食べ続けた。悲しい。
相澤先生との出会いは数年前、私が高校に入学したころに遡る。当時親との仲がうまくいっていなかった私は、「危ないからヒーローになるのはやめなさい」と親が言うのも聞かず、反骨精神のみで雄英高校ヒーロー科に入学した。そのときの私の担任こそ、この相澤先生である。
何度か除籍処分にされかけながらも必死でヒーロー科のカリキュラムに食らいつき、やがては相澤先生にも「才能はないが優秀ではある」とのお墨付きをもらうまでに成長した。そんな高校二年の秋。両親が交通事故でこの世を去った。
両親は駆け落ち同然で一緒になったらしい。葬儀を出そうにも、連絡のつく親族は誰ひとりいなかった。十七かそこらの女子が突然天涯孤独になったのだ。我がことながら、あれほど人生で絶望的な気分になったことはないし、きっとここから先もあれに勝る絶望はそうそうないだろう。
幸いにして、雄英高校は独自のコネクションや人脈を有している。両親が死んだ後の葬儀の手配や関係各所への連絡、それに両親名義の資産を私が自由に使えるように手配することなど、文字通り何から何まで面倒を見てくれた。普通の学校ならばこうもいかなかったに違いない。
しかしそこは天下の雄英高校。そしてわたしはその学年で成績一位をおさめる将来有望なヒーローの卵だった。こんなところで潰れてもらっては困るというのが学校側の方針だったのだろう。そして失意の中にあった私を一番支えてくれたのが、当時の担任だった相澤先生だった。
「懐かしいですよね、私がくじけてしまいかけていたところを、常に支えてくれていた相澤先生……」
回想に耽りながらぼんやりとする私に対して、相澤先生は辛辣だ。
「脚色するな。担任として進路相談の延長で話聞いてやってただけだろうが。あくまで学校の方針だ」
「ご飯食べに連れて行ってくれたりしたじゃないですか」
「ひとりだと食事したくないって、お前が無理矢理俺の財布持って引き摺っていったんだろ」
「時に厳しく、時に優しく私を支えてくれた相澤先生に胸いっぱいの感謝……」
「聞けよ」
それでも結局、私はヒーローにはならなかった。失ってこそ分かる何かなんてものではないけれど、両親の死後、このままヒーローになるのはどうかなのか、あれほど一人娘である私がヒーローになることに反対していた両親に悪いのではないかという思いが首を擡げてきたからだ。
両親の遺した資産を確認していた時、私がいつヒーローを志すのを諦めて大学に進学してもいいように、そのための貯金まで蓄えてくれていたことが分かった。我が親ながらどれだけ娘を信用していないんだと思わずにはいられないけれど、その通帳を見たとき、私は親を亡くしてからはじめて泣いた。
そして卒業後、大学に進学することを決めた。
ヒーロー免許だけは先生に言われて試験を受けたので保有している。そのライセンスを使用したことは一度もないし、恐らくこれから使用することもないだろう。
「今日は遅くなりそうですか?」
いつものだらしない黒装束に着替える相澤先生のことを覗きながら訊ねる。時計を見ればもうすぐ七時半になろうとしていた。相澤先生の家に無理矢理転がり込む形で同棲を始めたので、この家は雄英高校と目と鼻の先にある。私の通う大学からは少し距離があって、大体電車で一時間。
「もし先生が遅くなりそうなら、そろそろ試験も近いですし大学の図書館が閉まるまで勉強して、そのまま適当に外でごはん済ませようと思うんですけど」
「それでいい。こっちも試験の準備や林間合宿の準備で仕事が山積みだからな」
「林間合宿。懐かしいですねー。でも先生、今年は担任持ってないのに同行するんですか?」
「監督っつーか雑用。クラス持ってない教師の中でじゃんけんに負けた」
「全員除籍なんてするから、そういうのを押し付けられる羽目になるんですよ」
「うるさい、お前もさっさと支度しろ。遅刻すんぞ」
「はあい」
軽く叱られ、渋々自分の支度に戻った。
我が家の家事は気付いた人間がやることになっている。洗濯も掃除も、気付いた方がやる。料理だけは「俺ひとりならゼリーでいい」と相澤先生が言うところ、無理矢理私が作っている。そのかわり帰りが遅くない日には、食後の皿洗いは先生がやってくれる。
お互い大学が遠かったり仕事が忙しかったりするので、大抵の事はフレキシブルに状況を見ながら片付ける。それが我が家のルールだ。
半ば無理やり開始した同棲生活なのに、先生は意外なほどに協力的だ。最悪家事全部私が担うので、後生ですから家に置いてくださいというつもりだったのだ。そのことを相澤先生に言えば「共同生活の基本」と一蹴されてしまうけれど、そういうところが愛おしい。相澤先生は結構、情に厚い。
「じゃあ行ってくる」
聞こえてきた声に、慌ててお弁当箱をひっ掴んで玄関に走った。ほとんど手ぶらに近いような恰好で出勤しようとしている相澤先生に、お弁当箱を押し付ける。毎朝のことなので、習慣としてすんなり受け取ってくれた。
「今日はチンジャオロース弁当ですよ」
「胃にもたれる」
「そんなこと言わずに食べてくださいね。愛妻弁当なんですから」
「愛妻じゃないだろ」
「じゃあ愛人? 愛する人なので」
「違う。もう行く」
ツッコミを放棄した相澤先生は、んっ、と突き出した私の唇にほんの触れるだけのキスを落とすと「行ってきます」と礼儀正しく玄関を出て行った。残された私は毎朝のこの遣り取りに慣れることもなく、ひとり悶絶する。愛する人との同棲生活は最高だ。
★
名字に見送られ、押し付けられた弁当箱の重みを感じながら、職場である雄英高校に向かう。通勤時間ほど無駄な時間はない。職場と家があまりにも近いと、プライベートが仕事に浸食されるような気がして嫌だ、などとマイクは言う。俺はそうは思わない。仕事は仕事。プライベートはプライベートだ。
その唯一の例外が名字だった。あいつは俺の仕事の領域にある「生徒」という立場から、一気に俺の懐に這入りこんできた。そうして気が付けば「恋人」としてプライベートの中心に居座っている。未だに何故名字と付き合っているのかと問われれば、押し切られた、勢いとしか答えようがない。
在学中、名字は目立つ生徒だった。素行はけして悪くない。ほかの生徒の規範となるような真面目な態度だったし、授業も真面目に受けていた。残念ながらトップヒーローになる素質というか才能のようなものは微塵も感じられなかったが、それでも本人の熱意はあったから、壁を用意してもきちんと丁寧に対処して超えていくというイメージだったと思う。
あの頃の名字はまだ今のような軽さはなくて、むしろ年頃の生徒にしては慇懃すぎるほどだった。それが変化したのは多分、名字の家の親御さんが事故死した頃くらいからだろうか。
今でこそ阿呆のようにへらへら笑っているけれど、あの頃の名字は正直、見るに堪えない有様だった。職業柄、不幸な人間を見ることは少なくない。この世界には不幸な境遇で生きている人間など、吐いて捨てるほど存在する。その人たちを救ったり、あるいは救えなかったりするのが俺たちヒーローの仕事だ。
それでも、少なからず情の湧いた人間がそういう境遇に身を置いているのを見るのは、やはりつらいことだ。プロの仕事に徹していても、感情をまるきり消すことはできない。
せめて子供らしく泣いてくれたりすれば此方もまだ気が楽なのだが、あいつは泣きもしなかった。葬儀のときも、その後も。
一通り生活ができる程度に環境を整える手助けをした俺たち教師に対して、あいつはただ丁寧に丁寧に、深く頭を下げて「色々と良くしていただきありがとうございました」と言ったのだ。哀れだと思った。
今、名字が立ち直ってくれてよかったと思う。何かの糸が切れたようにうるさく馬鹿になってしまったが、それでも両親の遺志を尊重して大学に進学したのは立派なことだ。
きんちゃく袋のまま左手に持った弁当箱がずしりと重い。仕事は変わらず忙しいが、できるだけ早く帰ってやろうと思った。
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