件の雄英襲撃事件からはや数週間。相澤先生は無事退院し、相変わらず包帯ぐるぐる巻のミイラ男のような見た目のまま教壇に立っている。定期的に通院もしているけれど、ほとんどは事件前の生活に戻ったといえる。
そして私はといえば、位田さんが突然バイトをやめてしまった穴埋めに、新人が入るまではと普段より多くシフトに入らされたりしている。何も言われてはいないけれど、位田さんがバイトをやめたことと私はきっと、無関係ではない。多めのシフトも甘んじて受け入れるしかない。
そんなわけでなんだかんだと慌ただしく毎日生活しているせいで、大切なことがひとつ、疎かになっている────、そんな気がしてならない。
「どうしたの? 眉間に皺が寄ってるわよ」
アイスティーの氷をからりと鳴らして、ミッドナイト先生は首をかしげた。
日曜日の午後は大抵先生と一緒に過ごす。週に一度しか休みのない忙しい相澤先生は、その代わり貴重な一日の休みは私のために使ってくれる。けれど今週は外せない用事があるとか何とか、朝から出掛けてしまっていた。
そうなると私は暇である。日曜日には意識的に予定を入れないようにしているから、先生がいないとやることがないのだ。ただでさえここ最近は体育祭の準備やなんかで相澤先生の帰宅時間が遅いのに、何も日曜日まで出掛けなくたって。
そんなぶうたれた私にミッドナイト先生から連絡が入ったのが昼前のこと。そして今、私はミッドナイト先生の一人暮らしのお部屋で紅茶とクッキーをご馳走になっている。
ミッドナイト先生とは雄英在学中はそこまで接点がなかった。担任を持ってもらったこともないし、授業を教わったこともない。
親しくなったのは卒業してから、というか相澤先生とお付き合いし始めてからだ。たまたま私と相澤先生がふたりで出掛けたところに出会したのがミッドナイト先生で、以来三年間、何だかんだと良くしてもらっている。相澤先生とのことを堂々と相談できる女性はミッドナイト先生くらいのものだ。
そのミッドナイト先生に眉間をつつかれ、私は「いやぁ」とよく分からない返事で返す。心の中でもやもやとした何か。その正体を私は知っている。口に出して言うべきか悩んで、けれど結局ミッドナイト先生の追及からは逃れられないと観念した。
「相澤先生にプロポーズしたんですけど、なんか遠まわしに断られた気がするんですよね」
「ウッソ!? 何その面白い話! 聞かせて聞かせてっ」
ミッドナイト先生のはしゃいだ声に溜息をつく。
そう、私はまだあの病室でのプロポーズの答えを聞けないでいるのだった。
★
「この間の雄英襲撃事件のとき、相澤先生ひどい怪我を負ったじゃないですか」
ミッドナイト先生に促され、頭の中で内容を練ることもなく私はぽつぽつと話し始める。語るのは勿論、先日のプロポーズのこと、そしてそれに、まつわる雑多な事象についてだ。
「ああ、そうね。完治してよかった」
「はい、いや、そうなんですけど。でも相澤先生が危険な目に遭ったのは事実だし、私お見舞いに病院に行ったときに結婚してくださいって、相澤先生にお願いしたんです」
「えっ、そんなタイミングで?」
「私もなんかこう……追いつめられてて?」
その言葉にミッドナイト先生は苦笑した。
あの日プロポーズしたのは切羽詰まってのことだったけれど、実際相澤先生と結婚したいという私の気持ちに嘘偽りはない。三年の交際期間があれば結婚するのには十分だろうし、先生だってもう三十歳だ。結婚適齢期である。
「でも、まだお前は学生だろって言われちゃって……。そりゃあ先生の言ってることも分かるんですよ。結婚なんて別に急ぐことでもないし、子供がほしいっていうわけでもないし。卒業して、普通に就職して、社会人経験を積んでからでも遅くはないって」
「まあ、イレイザーヘッドの言うことも分かるわね。ていうか、私もまだ早いと思う。そりゃあ名前ちゃんからしたら年齢なんてって思うかもしれないけどさ、イレイザーヘッドは多かれ少なかれその年齢差に引け目があると思う。それこそ名前ちゃんが今言った通り、これから色々な経験を積む中で自分よりもっといい人に会うかもしれないって思ってるんじゃないかな」
「……そんなこと絶対にないです。私には相澤先生よりいい人なんていない」
「名前ちゃんはそう思うかもしれないけど、イレイザーヘッドは違うのよ。そこが九歳の差の違いじゃないかな」
ミッドナイト先生の諭すような声音に、少しだけもどかしさのような何かが胸をかすめた。
そんな風に大人の目線で物事を語られてしまっては自分の言い分の幼稚さにうんざりしてしまう。だって、そんなことは分かっているのだ。相澤先生の引け目も葛藤も、世間的に見た正しい答えも。分かっていて尚、自分の子供じみた思考を捨てきれないのだ。
「年の差なんて、死ぬまでどうにもならないんだから考えたって意味ないのに」
愚痴みたいに呟いた言葉に、ミッドナイト先生が笑った。
「そういうところ。そういうところが名前ちゃんは若いんだよね」
「ミッドナイト先生とだって十しか違わないじゃないですか」
「十しか、ね。ふふ、あたし名前ちゃんのそういうところ好きよ」
そう笑うミッドナイト先生の表情はやっぱり大人だ。私とは違う。
もしも私がミッドナイト先生のような大人だったら、年齢のことを理由に断られたりはしないのだろうか。あの時、私は卒業してからじゃ遅い、学生だからなんて関係ないと相澤先生に言った。つまりその時点で、私にとっての年齢の問題はクリアされたも同然なのだ。
当の私が学生結婚だってかまわないと言っているのだから、相澤先生の方が年齢のことを引き合いに出すのはおかしい。おかしいのに、それでも相澤先生はそこに拘る。拘って、私のプロポーズへの返事を曖昧にした。年齢のことを話題にし、煙に巻いた。
「ミッドナイト先生は、もし九歳も年下の男の子に言い寄られたら困りますか?」
試しにそう聞いてみると、ミッドナイト先生は即座に「まあね」と答える。
「そもそもそんな坊やは結婚以前に恋愛対象にならないかな。可愛いとは思うけど」
「うーん、やっぱりそうなんですね……」
自分から聞いた質問にも関わらず、その答えに凹む。やはり三十代の大人から見れば、成人していようが二十代前半の大学生なんてまだまだ子供にしか見えないのだろう。分かってはいたけれど、やはり悲しい。
「けどそれはあくまで、あたしの話だからね。あたしとイレイザーヘッドは違うし、男と女でも違う。それに名前ちゃんの場合は少なくともイレイザーヘッドの恋愛対象で、結婚自体はナシって言われてないんでしょ?」
「それは……、はい」
「だったらそう気に病まなくてもいいんじゃない? 第一あのイレイザーヘッドよ? 嫌ならさっさと放り出されてるって!」
「嫌だと思われてるとまでは言ってませんよ!」
「あ、そうだっけ? ごめんごめん!」
その後も楽しくおしゃべりが続き、ミッドナイト先生のお宅を後にしたのは夕飯をいただき食後のアイスまで食べ、午後九時を過ぎてからだった。
薄手のカーディガンをざっくりと羽織ると、携帯で乗換案内を確認する。
ミッドナイト先生の住むマンションを始め、高級マンションが立ち並ぶこのベイエリアから相澤先生と私の暮らす文教地区までは電車で三十分ほどだ。
「本当に送っていかなくて大丈夫? 今日はアルコール入ってないからドライブがてら送るよ」
食器を片付ける手を止めないまま、ミッドナイト先生は私に声をかける。私が来る前に買っておいてくれたオードブルや一緒に料理した食事はどれも美味しく、なんとも幸福な女子会だった。
当初の予定ではお茶だけして帰るつもりだったのだけれど、この準備のよさから察するにミッドナイト先生は端から夕飯を一緒に食べるつもりだったらしい。
しっかりと満たされたお腹をさすりつつ、私は答える。さっさと帰り支度をしないと、いい時間の電車を逃してしまいそうだった。
「いえ、大丈夫です。まだそんなに時間も遅くないので」
「イレイザーヘッドに迎えに来てもらえば?」
「そんな便利に使ったら怒られちゃいますよ」
荷物をまとめながらそう答えると、ミッドナイト先生はにやにやしながら「普通に来てくれると思うけどね」と言った。
「名前ちゃんは推しは強いのに変なところで自信が無いというか、無意味な謙虚さを持ってるよね」
「無意味……」
「イレイザーヘッドのこともさ、もっと信用して頼ればいいんじゃない?」
はい、これお土産。とミッドナイト先生が私に手渡したのは、シャンパンが入った紙袋だった。見るからに高そうなボトルには、酒飲みではない私にはあまり聞いたことのない名前のラベルが貼ってある。
「それ、美味しいからイレイザーヘッドと飲みなさい」
「えっ、でもこんな高そうな」
「いいって。頂き物だけど私シャンパン飲まないから。もう遅いし、駅まで送るね」
そんなわけでミッドナイト先生に駅まで送ってもらい、いただいたシャンパン片手にとろとろと帰路につく。相澤先生からは一時間ほど前に「家に着いた」と連絡があったから、帰る頃にはきっとお風呂が沸いているはずだ。日曜日はいつも、ちゃんとお湯を溜めてお風呂に入る日と決めている。
乗り込んだ日曜日の夜の電車はがらんと空いていた。六人がけシートの端っこに腰掛け、ぼんやりとガラスの向こうを流れてゆく風景を眺める。
相澤先生のことをもっと信用して頼ればいいと、ミッドナイト先生は言っていた。その言葉の意味を求めるように、言葉を何度も口の中で反芻する。信用して頼る。信用して、頼る。
しかし信用ならばもうずっと前からしている。信用しているから結婚の話だってするのだ。血の繋がった家族もいない今、この地球上で私が1番信用し、信頼しているのは相澤先生だと言っても過言ではない。
信用はしている。けれどそれと頼ることは別問題だ。こっちはただでさえ年の差問題に直面し困り果てているというのに、この上さらに頼るなんて子供みたいなことはできない。そんなことをすれば相澤先生からさらに子供扱いされるだけだ。
「信用して、頼る」
大人の正論で私を諭すミッドナイト先生の声が脳裏に蘇る。正論のはずなのにどうにも理解ができないその言葉に、私は深い溜息をついた。
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