親しき仲にも杞憂あり



 貧乏市立中学校の折寺中もやっと授業中にクーラーが入るようになった頃。
「あ」
 一枚の小さな紙切れが、ほんのはずみで私の筆箱からひらひらと床に落ちた。それは先日行われた期末試験の点数・偏差値・学年順位を記した個票で、私はそれを筆箱から出しておくのをすっかり忘れていたのだった。
 落ちたのがすぐ近くだったので、椅子にかけたまま腕を伸ばして紙切れを取ろうとする。と、私の手が届くより先に通りかかった誰かがそれを拾い上げた。紙切れが持ち上げられるのと一緒に、床に向けていた視線を上にやれば、拾ってくれたのは意外なことに爆豪くんだった。
 教科書を見せてもらって以来、爆豪くんとは大きな衝突もなく、なかなかに良好な関係を築けていると思う。爆豪くん相手にビビらなくなったこともあって、前のように避けたり腫れ物に触れるように扱うことはなくなった。特別に親しくしたりはしないけれど、隣の席として不自然ではない程度に話す。
 爆豪くんのリアクションはその時によってまちまちで、普通に暴言八割で返事をしてくれることもあれば完全に無視されることもある。もはや占い感覚だ。当たるも八卦、当たらぬも八卦的な。よく分からないけれど。
「ごめんね、拾ってくれてありがとう」
 そう言って爆豪くんに手を差し出す。私の予想ではこの後、俺の歩いてる道に落し物なんかすんじゃねえクソカスが、くらいのことを言われて紙切れを返してもらえる──はずだった。
 けれど爆豪くんは拾った紙切れ、もとい私の個票をまじまじと、文字通り釘付けになって見つめていた。
 人の成績をそんなに見ないでよ、なんて言葉は言えなかった。個票を見つめる爆豪くんの目が見開かれていったから。
「てっ、てめえ……」
 やがて爆豪くんが、声をわなわなさせ発した。
「え、なに?」
「学年……二位……?」
「うん、そうだけどそれがどうかし──うわっ!」
 どうかした、を最後まで言えなかったのは、爆豪くんが私の机を思い切り叩いたからだった。派手な音がして、一瞬教室内は水を打ったように静まりかえる。
 気まずい沈黙。
 微妙な緊張がようやくほぐれ、教室内に少しずつざわめきが戻ってきた頃、爆豪くんはゆっくりと口を開いた。
「こんなところにいやがった」
 爆豪くんの発した言葉の意味は、私にはわからない。けれどその地を這うような低い声に、少しだけどきりとした。
 ここのところの生ぬるい感じの爆豪くんではない。久しぶりにちょっと鋭い感じの爆豪くんだ。思わず背筋を伸ばす。何だかよく分からないけれど、これはちゃんと対応するなり逃げるなりしないと、恐ろしい目に遭うやつだと察した。
 鋭い視線に負けじと眉間に力を込め、私は爆豪くんのことを見つめ返す。前に爆豪くんに「ガンつけてる」と言われたこと──あれは今でも完全に言いがかりだと思うし、私にはそんなことをした自覚はない。けれど今日は意識して「ガンつける」ということをやっている。さすがに爆豪くんほど物騒な顔にはならないものの、感じ悪くはあるだろう。
 私の成績個票を手にした爆豪くんは、それを手の中でぐしゃりと握りつぶした。私の個票なのだけれど、そんなことは爆豪くんには関係ないらしい。
 そして言う。
「学年一位だったやつはテストの結果が分かった日にすぐ探し出したが、二位のやつはどんだけ探しても見つからんかったっつーのによォ」
「……なに」
「てめえが学年二位かよ?──根暗女」
「……そう、だけど。なに、それが爆豪くんに何か関係ありますか」
 言った瞬間、爆豪くんは思い切り右手を振りかぶった。
 ──あ、やばい。
 そう思いつつも、負けじとさらに眉間に力を込めて、私は爆豪くんを見つめ返した。喧嘩したら絶対勝てないけど、ハッタリだけでもかましておかなければ、と何故だか咄嗟に思ったのだ。
 けれど爆豪くんは何を思ったか、振りかぶった右手をだらりと下ろすと、その代わり今までで一番盛大に、思い切り舌打ちをした。そうしてぐしゃぐしゃになった個票を私の机に放り投げると、がたんと音を立てて自分の席につく。
 それだけだった。
 思いがけない展開に、いよいよ覚悟を決めていた私は呆気に取られる。そして少しを間を置いてから、ようやくほっと胸をなでおろした。
 舌打ちで済んでよかった──心の底からそう思う。正直、あの爆豪くんを相手に結構挑戦的な物言いをしてしまった自覚があったから、爆破くらいは覚悟していた。爆豪くんが腕を振り上げた瞬間は、気丈に振る舞いつつも泣きそうだった。
 だからほっとするのと同時に、あの爆豪勝己が身を引いたという事実は、それなりに衝撃的だった。
 むっつりとした顔で着席している爆豪くんに、私も自席についたまま、恐る恐るおずおずと声をかける。
「えっ、どうしたの爆豪くん……。どっか調子悪いの? 飴いる?」
「ふっざけんなクソカスが! てめえ本気で爆破すんぞ!」
「いやそれは普通に嫌だけど……。でも絶対やられると思ったわ、今」
 というか、爆豪くんが「引く」という可能性などまったくないと思っていたくらいだ。
 私がそう言うと、爆豪くんはまた、面白くなさそうに舌打ちをした。
「……んなだせえことするかよ」
 先ほどまでの威勢はどこへやら、ぽつりと呟いた爆豪くんの言葉の意味は分からなかったけれど、なんとなく、自分より上の順位の人間に対抗意識を燃やしているのだろうなということだけは伝わってきた。
 爆豪くんは器用だ。人によっては彼のことを天才と呼ぶのかもしれないような、そういうタイプの人種。多分爆豪くんには、できないことのほうが少ないんじゃないだろうか。だからきっと、テストで自分よりいい成績を修めた人間のことが気にかかっているとか、恐らくはそういうことなのだろう。自分の前に立つ人間が存在することが我慢ならないなんて、難儀な性格だ。
 これ以上怒られなさそうなことを確認して、私はまた口を開く。
「雄英って確か筆記試験も難しいんだっけ。ヒーロー科は実技がメインだろうけど、逆に言えば筆記はできて当たり前ってことだよね」
 私の言葉に、爆豪くんはぎょろりとこちらを睨む──いや、睨むというよりは、怪訝そうにしているだけか。元の人相が悪いせいで、どんな顔をしていても喧嘩を売られているような雰囲気になる。
「……てめえなんで雄英の試験のこと知ってんだ」
 尋ねる爆豪くんの声は、わずかにだけれど敵愾心のようなものが滲んでいた。もしかすると緑谷くん同様、私も密かに雄英の受験を狙っているとでも思われたのかもしれない。
「そのくらいは流石に受験しなくても知ってるよ、雄英ってトップ校だし有名だもん。それにうちの塾でも雄英志望の子結構いるし」
「塾なんざ通ってるようなやつに負けるわけねえ。筆記も実技も俺が余裕で一位通過だわ」
「いや、雄英受けない私に言われても……」と、ここで私はふいに気がついた。「あ、もしかして爆豪くん三位だったの? だから二位とか一位とか気にしてるの?」
「……んなことてめえに言う義理ねえだろうが」
「なるほどー、だからか。そっかそっか」
 早い話が「根暗」と見下している私が自分よりも成績上位だったのが、意外であり、気に食わなかったということなのだろう。まあ、爆豪くんらしくもあるし、分かりやすくもある。
 しかしながら私が受験する夢咲女子も、筆記試験の偏差値でいえば雄英に遜色ない進学校だ。特に高等部からの入学はかなりの難関とされている。爆豪くんと違って私は器用な方ではないので、今回の試験はこつこつと勉強して、それでなんとか二位をとれた──逆に言えば、それでも一位にはなれなかった。
 爆豪くんが二位の私を見つけられなかったのは、私が誰にも順位を話していないからだろう。一位をとるつもりで勉強していたから二位という結果が悔しくて、人には言えなかった。そして次回、本気で勉強した爆豪くんに勝てるとは思えない。もちろん端から負けるつもりもないけれど、そういう問題でもないだろう。
「きっと次は爆豪くんに負けるんだろうな、……うわ、考えてみたらそれすごく嫌だな」
 想像するだけで面白くない。げんなりして呟けば、
「ハッ、てめえごときが俺に勝てるかよ根暗女」
 爆豪くんが鼻を鳴らした。
「えええ……いやまあ次も普通に私が勝つかもしれないけど」
「上等だゴルァ! 絶対負かす!」

 ★

「最近名前ちゃん、爆豪くんと仲いいね」
 その日の放課後、学校帰りに塾に向かうため電車に揺られていると、同じく塾通いの友人が、なんだか困ったように見える顔で私に言った。私よりもさらに真面目な子だ。というか私なんかよりずっと真面目な子だ。そんな子が困ったような表情をしているのだから、たぶん本当に困っているのだろう。
 しかしながら、話題は私と爆豪くんのことだ。そのことでこの子が困るようなこともないはずだし、それ以前に私と爆豪くんは、そもそもまったく仲良くなどないのだけれど。
「えっ、仲よく見える? ただ席が隣ってだけだよ。爆豪くん怖いから全然仲良くなれないし」
「でも今日も普通に喋ってたよね? すごいな、私だったら絶対無理だよ。だっていくら成績良くても爆豪くんヤンキーじゃん……。態度悪いし怖いしすぐ怒鳴るし……」
 あー、はやく駅につかないかな。そんなことを考えながら友人の言葉に曖昧に笑って返した。
 この友人とはこうして一緒に塾に通う間柄だけれど、普段であればもっとどうでもいいような、それこそ当たり障りのないような話しかしない。そういう話をしている分には気の合う友人なのだけれど、しかし今のようにさりげなさを装いながら爆豪くんの話を吹っ掛けてくるところに、なんだかうまく言えないけれど、嫌だなと感じた。
 すごいだなんて私をほめるように言いながらも、彼女の言葉は遠まわしに私を非難している。爆豪くんみたいな子と仲良くするのやめなよと──まるでそう言われている気分になる言葉だ。
 ちらりと様子をうかがうように私を見る友人に、ばれないように溜息を吐く。一応、自分が爆豪くんと、それから私を非難している自覚はあるのだろう。反応が気になるのならば言わなければいいのにと思うものの、彼女にとっては善意の忠告なのだということも分かるから、何ともこちらもやりづらい。
「まあ、普通に怖いよね。私も顔の真横でバンッてされたし。あれ万が一私が先生にチクってたら、絶対爆豪くん雄英受けられなかったと思うよ。まあ、チクったりしないけど」
 彼女の意見に私が同意すると、彼女はあからさまにほっとした顔をした。
 うんうん、分かるよ。同じように受験勉強頑張ってる真面目組の私が、爆豪くんと仲良くなって悪の道に引きずり込まれるんじゃないかって心配してくれてることはよく分かるよ。爆豪くんはガラの悪さもさることながら、つるんでいる友人も学年の問題児ばかりだから。
 爆豪くん本人にしたって私みたいな人間を遠慮も何もなく根暗と呼ぶような神経の人間だ。そりゃあ真面目な優等生には嫌われるだろう。私だってついこの間までは、この子と似たような感情を爆豪くんには持っていたからよく分かる。
 だけど、それはあくまでついこの間までの話であって。
 今の私は、爆豪くんが思っていたほど嫌なやつじゃなかったということを、幸か不幸か知ってしまった。だからこうして、爆豪くんの知らないところで彼だけを嫌なやつのように悪し様に言うのは、やっぱりどうしたって落ち着かないのだ。大して正義漢でもない私でも、そのくらいの感覚は持ち合わせている。
「うーん、まあでも、ちゃんと話してみたらそんなに嫌な奴じゃなかったよ。怖いのは間違いないけど」
「えっ……」
 私の言葉に、友人があからさまに不満そうな顔をする。その素直さに苦笑して、私は続けた。
「たしかに口は悪いけどねー。でも口の悪さで言ったら私も人のこと言えないし、案外そんなに気にならないかな。それに前みたいに表立っていじめみたいなことしなくなったし」
「それは、そうなんだけどさ……」
 できるだけ軽い口調で言ってみたけれど、さすがにそうだよねと受け入れてはもらえなかった。台詞とは裏腹に、友人は不服そうに三つ編みの先を指先で弄る。思わず私は苦笑した。これは以前までの私よりも余程、友人は爆豪くんのことを好きじゃなさそうだ。
「まあ、言っても私も全然爆豪くんのこと知らないから、全部雰囲気の話だけどね。爆豪くん授業中の私語とかないし、うるさい人たちよりだいぶよくない?」
「だけど……」
「まあ絡まなきゃいいだけだしね、いいんじゃない? 多分こっちから喧嘩売らなきゃ向こうからは来ないよ」
「……うん」
「あっ、ついたよ。降りなきゃね」
 自分でもどうして爆豪くんのことを庇ったりしたのかはよく分からない。悪口に同調しないだけでも、きっと話はさっさと切り上げることができただろう。
 けれど、言われてるほど嫌なやつではないということだけは、なんだか言わなきゃいけないような気がした。それが擁護なんてものではなく自己満足でしかないとしても。
 彼女の言葉は、爆豪くんとちゃんと言葉を交わす前の、私の気持ちによく似ていた。

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