あんたとぼくの交差点



 期末試験も終わってひと段落。爆豪勝己と隣の席で学習するのもあと一か月ほどだ。最近は挨拶をしても無視されるけれど、かといって挨拶しないと不機嫌な態度をとられるという、ちょっと理解できない爆豪勝己の情緒に付き合わされ、おかげで毎日返ってくることもない挨拶をさせられている。まあ「おはよう、爆豪くん」の一言でその日一日の安寧を得られるのであれば安いものだ。このまま何事もなく夏休みまで突入すればいい、そう思っていた矢先のことである。

 ──しまった。
 現実逃避に一旦窓の外の風景を眺めてみたりして、それからもう一度、机の中とかばんの中を確認してみる。けれど逃避してみたところで現実は現実。次の英語の授業で使うはずの教科書はどこにもなかった。
 授業開始のチャイムはすでに鳴っていて、あとは教師が来るのを待つのみ。忘れてきたからといって今更ほかのクラスの友人に借りにいくこともかなわない。普段ならば忘れ物なんてしないけれど、昨日塾で使ったから、うっかり塾用の鞄に入れっぱなしかもしれない。
 ざわざわと私語であふれる教室の中、私はひとり頭を抱えた。
 英語の授業では隣同士の席でペアになって、教科書の例文を読み合わせる。爆豪勝己は一応そういうことはまじめにやるタイプなので、今までも目線が合ったりはしないものの、きちんと授業の範囲内のこととして読み合わせをこなしてくれていた。
 けれど私の教科書がないのであれば、それもできない。かといって爆豪勝己に教科書を見せてというのも言いにくい。
 ──多分、死ねって言われるよな……。
 まだお願いもしていないけれど、何を言われるかくらいは簡単に予想が付き、暗澹たる気分になる。
 何せ爆豪勝己からは挨拶もまともに返してもらえない私である。身に覚えはないけれど、私は蛇蝎のごとく爆豪勝己から嫌われているらしい。どうせ頼んだところで教科書を見せてもらえるとも思えない。
 けれど見せてもらわないと、そもそも授業に支障をきたす。それもそれで困りものだった。
 腹を括るしかない。
「あのぅ、爆豪くん……」
「あ゙ァ?」
「ウッ」
 意を決して話しかけてみたはいいものの、こうも思い切りメンチ切られると本題に入りづらいことこの上なかった。
 向こうから突っかかられている時は、まだ返事をするという感覚なので気が楽だ。けれど自分から頼み事をしなければならないとなると、途端にハードルがぐんと上がるのだった。
 いや、向こうから話しかけられた時だって、普通に怒鳴られるしキレられるので気が楽というわけでもないけれど。話しかけるのに比べれば、それでもまだマシというだけで。
 話しかけておきながらなかなか話し出さない私に業を煮やした爆豪勝己が、思い切り目を怒らせて私を見る。
「てめえ言いたいことあんなら言えや」
「あ、あの、ええと……英語の教科書忘れちゃって。その、よろしければ机くっつけて見せていただけないでしょうか……」
「は? てめえやる気あんのか」
「うう、返す言葉もございません」
 まことに正論だった。
 私に向けられた爆豪勝己の顔は堅気の顔とは思えないほど怖いけれど、それとこれとは今は別の問題だ。今回は完全に私が悪い。
 爆豪勝己はガラが悪いのに、案外こういうところは真面目できっちりしている。宿題だってちゃんとやってくるし、忘れ物もほとんどしない。態度は悪いがちゃんとはしている。
 しかしこの感じだと、爆豪勝己から教科書を見せてもらうのは絶望的だ。仕方がない、一応予習はしてあるし教科書なしで何とか乗り切るしかない。
 そう腹をくくって溜息をついたところで、爆豪勝己に「おい根暗」と遺憾でしかない呼ばれ方をした。
「ねくら……」
「うるせえ、復唱すんな。んなことより見せてほしけりゃさっさと机くっつけろやグズが」
「根暗なうえグズって最悪では──って、え?」
 思わずぱちくり瞬きして、私は爆豪勝己の顔を見る。そこにいたのはいつも通り、仏頂面で面白くなさそうな顔をしている爆豪勝己だった。だけど。
「え、み、見せてくれるの……? 教科書?」
「同じこと二度言わすなグズ! つか教科書なしで授業うけるっててめえなめとんのかあ゙ァ? 塾まで通っといて授業疎かにしてんじゃねえぞ」
 真面目かよ。
 思わずそう言ってしまいそうになったけれど、その言葉はなんとかぐっと飲みこんだ。多分言ったら普通にキレられるし、教科書だって見せてもらえなくなるだろう。折角何の奇跡か爆豪勝己が、私に教科書を見せてくれると言っているのだ。わざわざ自ら機嫌を損ねさせにいくような必要はない。
 ずるずると音を立て、私は自分の机を爆豪勝己の机の方に引きずる。経験上、こういうときは普通お互いの机を少しずつ寄せて大体真ん中の位置でくっつくようにすると思うのだけれど、爆豪勝己は一切机を動かさずにふんぞり返っているので、私が思い切り彼の方に机を寄せなければならない。そのせいで私の座っている位置は前に遮蔽物がなく教壇の真ん前になってしまったのだけれど、そのくらいは教科書を忘れてきた罰として受け入れなければいけないだろう。
 そんなことを考えていたら爆豪勝己にまた「おい」と呼ばれた。今度はひどい呼び名すらなかった。
「礼」
「えっ」
「礼は!」
「あっ、はい、ありがとうございます」
「チッ」
 きっちりお礼は要求された。しかも自ら礼を要求しておきながら、礼を言ったら舌打ちをするこの理不尽さである。しかし教科書を見せてもらえることは有難いので、舌打ちはされたけどもとりあえず微笑んでおいた。感謝こそすれ、怒る筋合いは私にはない。
 見せてもらった爆豪勝己の教科書には、落書きはなかったけれど、私のように家で勉強して使い込んでいるという形跡もなかった。大方授業を聞いて出された課題さえやっておけば、そこそこの成績をキープできるタイプなのだろう。つくづく羨ましい。何せあの態度の悪さがあっても尚雄英を狙えるだけの内申点をもらっているのだろうから。
 そんなことを考えていると、教科担任がにこやかに教室の扉を開けた。

 授業は滞りなく進み、特に困ることもなく無事に英語の授業を終えることができた。さすがに授業中に爆豪勝己にキレられるということもなかった。本当によかった。
「教科書、見せてくれてありがとう。とても助かりました」
 机を離しながらそう伝えると、爆豪勝己は鼻を鳴らしてこたえた。
「二度目はねえぞ」
「うん、もう忘れ物しないようにする。迷惑かけてごめんね」
「うぜえから何度も謝んな根暗」
「謝ったのは今がはじめてだよ、さっきまでは感謝しかしてない」
「口答えすんな!てめぶっ殺されてえのか!?」
「こわ……殺すとか言うのやめなよ……」
「さっきまでの殊勝な態度はどうした!」
「感謝はしてるってば」
 自分でも意外なことに、爆豪勝己と普通に会話ができている。相変わらず爆豪勝己はキレているけれど、もうこの席になって暫く経つし、最初の最初に爆破をお見舞いされたこともあって、私もすっかり爆豪勝己に耐性ができていた。正直に言って、今はもうそんなに爆豪勝己のことも怖くない。
 もちろん爆破なんかされたら怖いけれど、さすがにそこまで見境なく個性をぶっ放したりはしないだろう。そうだと思いたい。
 それに、最近の爆豪勝己は緑谷くんにも絡んでいかなくなったし、依然横暴ではあるけれど、一学期の一番最初に比べれば少しは穏やかに見える。もしかしたら私が思っていたよりも彼は嫌な奴ではないのかもしれない──と、少しだけ考えを改め始めていた。
「あ、そうだ。教科書見せてくれたお礼に飴あげる」
 そう言って私は鞄の中から飴袋を取り出し、中身をざらざらと机の上に広げる。常に携帯している飴袋には最近飴を補充したばかりなので、色々な味が撮り揃っている。のど飴からサイダー系まで選びたい放題だ。
「爆豪くんどれがいい?」
「は? いらねえ」
「りんご?」
「いらねっつってんだろ! 根暗女のくせに図々しいんだよてめえは! つかいきなり親し気に話しかけてんじゃねえぞ!」
「えっ、じゃあまた前みたいに避けた方が良い……?」
「極端か!」
「爆豪くんってツッコミもできるんだね」
「んなもん誰でもできるわマジで爆破すんぞ!!」
 いい加減本気で怒られそうな気配を察した私は、適当にりんごやらオレンジやらの飴を爆豪勝己のファスナーが開けっ放しになっていた鞄のポケットに突っ込むと、そそくさとその場を逃げ出した。後ろから爆豪勝己、いや爆豪くんが何か怒鳴っている声が聞こえた気がしたけれど、私は何も聞かなかったことにした。

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