2019誕生日



(※年齢操作)

「誕生日っていってもなあ」
 国産高級車の特注革張りの座席に深々と身体を沈めて、私は言う。
「正直、今の爆豪くんってほしいものたいてい自分で買えてしまうでしょ? 今年やっと五年目、まだ独立すらしてないのにすでにビルボードチャート上位に食い込む若手ぶっちぎりヒーローでしょ? 片や優秀なヒーロー、片や社会人一年目のぺーぺーOLなわけでしょ? というか私、やっとそろそろ新人研修が終わるかなって頃だよ? 初任給すらまだもらってないんだよ? そんな私が爆豪くんのために一体なにをプレゼントできるというのだろう? みたいなことをね? まあ、思うじゃない?」
「言い訳はそれで終いか?」
「本当にごめんって」
 運転席に座った爆豪くんの鬼の形相に、私はなすすべなく頭を下げた。
 そんなわけで、本日四月の二十日は爆豪くんの誕生日である。私たちの交際歴もすっかり長くなってしまい、出会った頃には中学生だった私と爆豪くんも今やすっかり社会人だ。まあ私の社会人歴などまだ二十日程度なのでほとんど学生と変わらないのだけれど、高校卒業とともにプロヒーローとしてのキャリアをばく進し始めた爆豪くんは、もうすっかり立派に社会人である。
 今私が助手席におさまっているこの高級車も、爆豪くんが数年前に購入したものだ。私のような小市民では手が出ない車だけれど、免許を取って最初に買った車にもかかわらず傷ひとつつけることなく乗りこなす爆豪くんである。彼にとっては高級車であることへの気負いなどみじんもないのだろう。
 恐ろしい強メンタル。そして恐ろしい何でもできる才能マン。
 さすが自動車教習所の教習三日目には「もう君、公道でもよくない?」と教習官に言わせただけのことはある。
 余談だが、私も運転免許自体は持っているが、爆豪くんと車でどこかに繰り出すときには必ず爆豪くんが運転席に座る。私にはかたくなにハンドルを握らせまいとするその姿勢は、もはや一周回って宗教的な事情でもあるのだろうかと勘繰ってしまうほどである。
 ともあれ。
 最初にお伝えしたように、この春から新社会人としてお勤めを始めたわたしは、新生活の忙しさと慌ただしさ、目まぐるしさにかまけて交際七年になるとする彼氏の誕生日が迫っていることをすっかり失念していたのだった。
 いや参った参った。
 ぶっ殺されるかな。まじで。
「爆豪くんの誕生日の存在を忘れるのっていつぶりだっけ? 何年か前にも同じよう遣り取りをしたような気がしてならない」
 ぶっ殺されルートを回避すべく、私は過去の事例を引き合いに出す。七年も付き合っているということは、すなわち七回は爆豪くんの誕生日をお祝いしているということだ。七回も祝っていたらそりゃあ祝い忘れることもあろうというような、そんなある種の正当化のようなものでもあったが、しかし爆豪くんは、相変わらず虫けらを見るような目で私を見ていた。
「てめえの記憶力がゴミなのは今も昔も変わんねえな」
「まあ、年々ひどくなるよりはましだと思おう。ねっ」
「うぜえ前向きさ見せんな」
「本当にひどいな……」
 私は溜息を吐く。しかしそもそも爆豪くんが暴言を吐いているのは私の物忘れが原因である。そう考えればこれはいわば正当な暴言であり、私に反論の余地は残されていないのだった。
 ちなみに、私たちは今爆豪くんの愛車の中で会話をしているわけなのだけれど、だからといって何処かに移動途中だとかそういうわけではない。爆豪くんが車で私の家に乗りつけ、私が助手席に乗り込み、そしてノープランだということを話したところから現在に至っている。車の中にいる必然性はまったくないが、爆豪くんの車は何せ居心地がいいものだから、おりる理由もない、それだけだった。
 さて、どうしたものか。
 頭の中でこれからのプランを練り直しつつ──とはいえプランなどと大層なものはもともと頭の中にはありもせず、だから練り直したところで何も生みだされることもなく──ひとまず私は爆豪くんに話を振った。
「それにしても、爆豪くんとこうして顔を合わせるのもなんだか久し振りだねえ。毎日のようにテレビでご活躍拝見しておりましたが」
 雑談で時間を稼ぐ作戦である。爆豪くんは、私の見え透いた褒め言葉にふんと鼻を鳴らした。
「当然」
「新生活始まって正直爆豪くんと会う余裕とか微塵もなかったけど、爆豪くんの誕生日が今年は土曜日だったおかげでこうして無事に時間をつくれたよ」
「俺は別にてめえに会わなくてもまったく問題ねえ」
「でしょうね」
「大体、忙しくても平日でも、這ってでも会いに来いや」
「数秒で手のひら返すのやめてくんない?」
 会いたいのか会いたくないのかどっちなんだろうか。
 まあ、会わなくても一向にかまわないが私の方から会いたいと思われないのは気にくわないとか、そういうことなんだと思うのだけれど。
 爆豪くんは時々、面倒くさい彼女みたいになるときがある──時々というか、結構ある。
「まあ、それはそれとして」
 と、爆豪くんの面倒くさい女ぶりを一旦わきにどけ、私は仕切りなおす。
「そういうわけだから、今年は誕生日プレゼントは何も用意してません」
「死ねよ」
「店も予約していないしプレゼントもないし、当然ながらサプライズでも何でもない。ただ今日一日まったく予定だけは入れてないので、爆豪くんプレゼンツで行きたいところどこにでも付き合うよ。さ、ほらほらカーナビに目的地を入れて。今日は私が運転手もしちゃおう」
「俺の車だろうが」
「いい車乗ってるよねえ。私、免許とったはいいものの自宅から駅までの道のりしか運転したことないし、親の軽自動車しか運転したことないからぶつけたりしたら本当ごめんね」
「一切ハンドルに触るなうすのろ」
「ウスノロ……」
 トランプの遊戯の話ではなく、普通に悪口として「うすのろ」とか言う人間を私は久し振りに見た。恋人になって七年の付き合いだが、爆豪くんの私に対する暴言レパートリーにはまったく底が見えないのが恐ろしい。
 私が自分の恋人の語彙力に思いをはせていると、運転席に座った爆豪くんがゆっくりと車を発進させた。住宅街の中を、爆豪くんらしいというのからしくないというのか、非の打ち所がないパーフェクト安全運転で進んでゆく。
 このあたりは小学生たちの通学路にもなっているスクールエリアである。だからなのか、今日は学校が休みの土曜日だが、それでも爆豪くんは標識の表示を遵守し時速三十キロくらいしか出さない。素晴らしい心がけ、素晴らしい遵法精神である。さすがヒーロー。
「というか、ナビも入れずにどこ行くの? 買い物?」
 結局運転も爆豪くんがしているので、この後の目的地は私には不明のままである。別に行きたいところがあるわけでもないけれど、一応私は爆豪くんを祝う側にあたるから、この後の行き先だけでも教えてもらえるとまだプランニングらしきこともできる。
 しかしハンドルを握る爆豪くんは、
「黙って座ってろ」
 と私の申し出を一蹴した。
「どうせてめえには何一つ期待してねえ」
「いや、でも助手席で黙ると爆豪くん怒るじゃん……。まあ、爆豪くんがいいって言うなら私に異存はないけど。今日はどこにでも付き合うし。誕生日様の命令は絶対だもんね」
「うるせえ」
 短く言われ、私は今度こそ黙った。
 顔をまっすぐ前に向けたまま、横目で爆豪くんの様子を窺う。
 なんだか今日の爆豪くんはいつもよりぴりぴりしている気がする。元はといえば私が爆豪くんの誕生日だということを忘れていたことで、彼の機嫌を損ねてしまったのだろうとは思うのだけれど、しかしこのぴりぴりした雰囲気は、どうにも苛立っているのとはまた別の緊張感があるように思えてならない。
 確証があるわけではない。ただ、長年爆豪くんと付き合っている人間としての勘のようなもので、そう思うのだった。
 ──仕事で何かあったのかな。
 基本的に爆豪くんが私との間に仕事での事情や問題を持ち込むことはない。とはいえ爆豪くんは常に衆目に晒されるヒーロー業をしているわけで、その公私にわたる負担たるや、一介のOL二十日目の私になど想像も及ばないようなものなのだろう。私に仕事の話を持ち出さないのは、守秘義務があることもあるのだろうが、多分私が頼りにならないからだ。仕事の話をされたところで、私が爆豪くんに対して有益な助言をできるとは思えない。そのことを爆豪くんは分かっているから、わざわざ私にそういう話をしない。
 
 爆豪くんの運転に揺られることしばらく。
 やがて到着したのは──なんと横浜だった。それも横浜といえばここだろうというような、そんな超高級ホテルである。まったく思いもよらなかった場所に連れてこられ、私はあわあわしながら爆豪くんについてゆく。それなりにきちんとした格好をしてきてよかった。
 慣れた様子でチェックインすると、後ろをついてゆく私に構うことなく爆豪くんはずんずんと進んでゆく。そのスムーズさを見るに、どうやら事前に予約されていたらしい。私のノープランなど爆豪くんには予想の範疇だったということだろうか。もしそうだとしたら、あまりにもいろいろとバレすぎていて恥ずかしい限りだ。
 爆豪くんが入った部屋は、白と濃緑を基調とした落ち着いた雰囲気の部屋だった。さすがに高級ホテルだけあって、部屋は広々としている。私の生活とは縁がなさそうなゆとりの空間に物怖じしている私に一切構わず、爆豪くんはそのままベッドに転がった。
「寝る」
「えっ、寝るの?」
 まさか、と我が耳を疑う。まだ太陽は空のてっぺんにあるような時間だし、今日は爆豪くんの誕生日である。
 爆豪くんのくつろぎ具合と、この雰囲気から察するに、彼が言った「寝る」はいやらしい意味の「寝る」ではなく、完全に睡眠を指しての「寝る」だろう。たしかに爆豪くんは早寝早起きの健康優良児みたいな男だけれど、だからといってこんな間昼間から、高級ホテルにわざわざ寝に立ち寄ったというのであれば、それは正直なんというか、驚く。
 爆豪くんの真意をはかりかねベッドサイドをうろうろする私に、寝そべった爆豪くんが目を眇める。
「てめえみてえな小市民と違ってプロヒーローは忙しんだよ。たまの休みに、てめえのクソみてえなザルい計画に付き合ってられっか。俺は寝る」
「まあ、誕生日様が睡眠をご所望でしたら私はそれでもかまいませんが」
 爆豪くんがそのつもりなら、別にそれはそれで構わない。それならば爆豪くんがお休みの間、私はせいぜいのんびり横浜散策でもするだけだ。夕方になるまでに戻ればいいだろう。
「俺が寝てる間、一歩でもこの部屋出たら殺す」
「えっ! せっかくの横浜なのに?」
 即座に私の予定を却下され、思わず落胆の声を上げる。
 しかし爆豪くんは、もう話すべきことは話し終えたと言わんばかりにそっぽを向くと、やがてぐうぐうと寝息を立て始めた。
 仕方がないので、私は適当に室内に用意されたお茶とお茶うけでひとりのんびりしつつ、テレビを見て時間を潰すことにする。何故横浜まできてこんなしょうもない時間の過ごし方をしなければならないのかとも思うのだけれど、これが爆豪くんの望みならば仕方がない。それに私も、なんだかんだ不慣れな新生活にてんてこまいになって肩が凝っていた。こうしてのんびりと昼間の時間を過ごすのも、これはこれで悪くないのかもしれない。
 ふかふかの肘掛け椅子に身体を沈め、ふううと長く息を吐きだす。
 ここのところ爆豪くんと会っていなかったけれど、彼の活躍は連日の報道で浴びるように確認している。大学に進学したばかりのころには、私が爆豪くんと付き合っていることを知っている高校時代の友人から「彼氏、またニュースになってたね!」などとひっきりなしに連絡がきたものだったけれど、プロ五年目ともなると、もはやそんな連絡だって来ない。
 大学でできた友人や、会社の同期たち、先輩たちには爆豪くんと付き合っていることを話していない。無暗に人に話せばその分だけトラブルに巻き込まれたりすることもあるからだ。特に爆豪くんは、その性質柄恨みを買いやすい。つかまえた敵からはもちろん、まったく関係ない赤の他人からすら恨まれているという、脅威的なアンチ量産体質である。そういう意味でも──つまりは無用なトラブルに巻き込まれないためにも、爆豪くんとの交際を極力他言しないよう、私はすでによく言い含められている。
 けれど、付き合っているのに誰にも話せない状況というのは、やっぱり何となく寂しいものがある。
 ──おまけに私に余裕がなくなって会う回数も減ったしなあ。
 大学時代はまだ、忙しい爆豪くんの予定に私の方が合わせてあげることができた。駆け出しヒーローの爆豪くんには暇と呼べるほどの時間はなかったけれど、爆豪くんも忙しいなりに時間をつくってくれていたし、そのことが分かっていたから私も文句を言わなかった。
 だけど、このまま私が社会人になって忙しい日々が続いて、お互いにあんまり時間もとれなくなって──そうしたら、私と爆豪くんは今のまま付き合い続けることができるのだろうか。誰にも相談もできず、ひとりでもやもやしたものを抱え続けていくことに、私は耐えられるのだろうか。
 爆豪くんの誕生日すら忘れてしまうほどの環境に、私は平気でいられるのだろうか。

 よほど疲れていたのだろう。爆豪くんはなんと五時間ほどもぐっすり眠った。
 いや、違う。
 実際には、考え事をしていたはずの私がいつの間にか目を覚ましたのが五時間後だったというだけだ。私がようやく目を覚ましたとき、すでに爆豪くんは起きてテレビを見ていた。同時進行で手元のタブレットで何かしらの作業をしていたから、仕事の確認でもしていたのだろう。目を覚まして最初に見えた景色が、ソファーに腰掛けメガネでタブレットを操作している真面目な顔の爆豪くんだったものだから、あやうく心臓が止まるかと思った。七年付き合っているというのに、ふとした時に垣間見える爆豪くんの端正な顔立ちに私は弱い。
「起きたのかよ」
「ああ、うん。おはよう、爆豪くん」
「寝んなら布団で寝りゃいいだろ」
「いやー、お恥ずかしい限り。気付いたらうたた寝してたみたい」
「うたた寝ってレベルじゃねえだろ。今何時だと思っとんだ」
 爆豪くんの言い分も尤もで、私には返す言葉もない。部屋の時計を見ればすでに夕方の六時前だった。夕方というか、夜になろうとしているような時間である。せっかくの誕生日の午後をほとんど寝て過ごしてしまったのだから救いようもない。
 しょんぼりと項垂れる私を後目に、爆豪くんはタブレットを鞄にしまう。
「……丁度いい時間か」
 と、そんなことを言うと、おもむろにふかふかのソファーから立ち上がった。そして一言、
「飯」
 と、そう発した。
「はい?」
「飯食いに行くぞ」
 言われてみれば、たしかにおなかが空いていることに気付く。昼から爆豪くんと会う約束をしていたから、昼食は早めに食べてしまっていた。おやつの時間は眠っている間にとうに過ぎている。夕飯を食べるのであればそろそろ動き出さねばならない時間だった。
 合わせて私も立ち上がる。
「ご飯、どこ行く? 外で食べる?」
「馬鹿か。ホテル泊まってんだぞ。こん中のレストランで食うに決まっとんだろうが」
 当たり前のように言う爆豪くんだが、しかし私にとってはホテルでのディナーなど当たり前の代物ではない。思わず声を上げた。
「ええー……でもこんな高級ホテルのお食事、初任給もまだの私にはちょっと経済的に厳しいんですが」
 何せ今日は爆豪くんの誕生日を祝う会である。食事代は当然私もち。新生活の開始に伴って今月はクレカのの限度額のかなりぎりぎりまで使ってしまったし、道中どこかのATMで現金を下ろそうと思っていたから、今は持ち合わせもそんなにない。
 そんな私の頭を、爆豪くんがぺしんと軽く叩いた。
「てめえごとき貧民がくだらねえ心配してんじゃねえ」
「貧民って日常生活にふつうに出てくるワードじゃなくない?」
「いいから行くぞ」
 そう言うなり、爆豪くんは私の手を引いて部屋を出た。いや、貧民て。爆豪くんだって同じ公立中学出身のくせに。

 ★

 ホテルの予約と同じく、食事の席もすでに予約がされていたらしい。何事にもそつがなく、抜け目のない爆豪くんだった。もはやひれ伏すしかない。
 そんなわけで、爆豪くんの誕生日だと言うのに私はすっかりごちそうになり、デザートまできっちりいただいてしまった。いやはや、自分が情けない。
「結局、爆豪くんの誕生日なのに私がしたことといえば眠る爆豪くんを眺めたり、美味しいご飯をご馳走になっただけなんだけど」
 自分が情けない思いをしていることだけは表明しておこうと、そう口にする。別に居直っているつもりはない。しかし爆豪くんはそんな私を一瞥し、
「てめえが俺に何かしてくれたことなんかねえだろ」
 と随分な返事を寄越した。
「あるよ。さすがにこれだけ長年付き合ってたら何回かくらいはあるよ。よくよく思い出してみなよ」
「ねえ」
「言い切られてしまった……」
 がくりと項垂れる。しかし今日は何から何までお膳立てしていただいている身なので、いつものように強く出ることもできない。私はただ項垂れるばかりである。
 しょんぼりとする私に追い打ちをかけるように、爆豪くんは言う。
「大体、俺はてめえから施しを受けようなんざ思ってねえんだよ」
「施しとは」
「てめえが俺に何かをしてやろうと思うことがまず烏滸がましい」
「いや、言いすぎでは。というか今日の爆豪くん、えらくよく喋るね」
 いつになく爆豪くんの口数が多いことに気付き、私は言った。
 仕事柄、爆豪くんは普段からお酒もほとんど飲まない。今日だってアルコールはほとんど飲んでいないはずなのに、その割にはいつもよりも暴言が冴えわたっていた。暴言も暴言、かなりひどい暴言だ。自分の恋人に「施しはいらない」とかよく言えるな。私でなければ多分キレてるよ。
 まあ、私も私で恋人の誕生日にこの体たらくなわけで、だから俯瞰で見てみると、お互いに愛想をつかされないのが奇跡みたいな、限りなく危ない綱渡りをしている関係のような気もするのだけれども。
 と、そんなことを思いつつ食後のコーヒーに口をつけた。目の前の爆豪くんは、美味しい食事を食べた後なのに仏頂面をしている。
 そういえば今日顔を合わせたときからずっとぴりぴりしていた緊張感は、一度眠った後からはすっかりなりを潜めている。けれどその代わりに饒舌だったりするから、やっぱり今日の爆豪くんはどこかおかしい。わざわざ蒸し返して怒られるのは嫌なので何も言わないが、様子がおかしいのは気になるし、ちょっと不気味だとも思う。
 私の胸中を知ってか知らずか、仏頂面で窓の外を眺めていた爆豪くんは、やがてじろりと睨むように私に視線を向けた。そして言う。
「俺に何かしてやろうとか、んなこと考えんな。てめえは黙って、今みてえにその辺で適当にへらへら喋ってろ」
 その言葉に驚いて、私は思わず爆豪くんの顔を凝視した。
「ど、どうしたの。急に」
 怒っているわけではなさそうだし、今のは別に暴言というわけでもない。
 爆豪くんの扱う言語を標準語に直せば、今の言葉は多分、恋人らしい言葉なのだと思う。七年も付き合えば爆豪くんの分かりにくい感情表現にも粗方慣れるというものだ。今のはわりと甘い台詞の類である。
 しかし今この状況において、どうして爆豪くんが私に甘い言葉を吐くのか──肝心のその理由が分からなかった。普通の恋人同士ならば甘い言葉の遣り取りは日常茶飯事かもしれない。コミュニケーションの一環として、そういう言葉をこねくり回すことだってあるだろう。
 けれど私の恋人は爆豪くんだ。分かりやすい優しい言動などほとんど皆無であり、こうして食事の後にそれっぽい言葉をささやくことなど、それこそこれまで一度もなかった珍事なのだ。ここまでぐだぐだな誕生日しか企画できなかったのに、爆豪くんが私にやさしい言葉を掛けるとは思えない。その辺り、爆豪くんは厳しい。
 私の困惑に、何が気に入らないのか、爆豪くんは一層ぶすっとした顔をしていた。また何か叱られるだろうか、と私は身構える。さすがに公衆の面前でプロヒーローが恋人を怒鳴りつけることなどないだろうが、今日の情緒不安定な爆豪くんは何をしでかすか分からない。どんな恐ろしい事態になっても対処できるよう、最低限の心の準備はしておくべきだろう。
 ぶすっとした爆豪くんは、まだ何か言いたげに私を見ている。
 しかし結局その言葉は呑み込んだらしい。ごくんと一度、爆豪くんの喉仏が上下する。と、爆豪くんはふいにジャケットのポケットに手を入れた。そこから何か取り出すと、私の方に放って寄越す。
「うわっ、と」
 きれいな弧を描いて飛んできたそれは、私の両手の手のひらの上に完璧な塩梅で着地した。
「やる」
「えっ」
 言われて、私は飛来した物体を改めて確認する。何かを放られ咄嗟にキャッチしてしまったが、よくよく見るとそれは小さな箱だった。
 濃紺のベルベッドの小箱は上下に分かれるようになっている。上蓋をそっと開けると、中にはリングがひとつ、ちょこんとおさまっていた。上を向くようにあしらわれた粒のダイヤが、照明の光を受けてきらきらとまばゆく輝いている。
「爆豪くん、これ、指輪だよ」
 茫然として言った。爆豪くんは、
「知ってる」
 と当たり前の返事をする。
「しかも、なんか、高そうな石とかついてる」
「高そうじゃなくて高ェんだよ。俺が買うのにしけたもん買えるわけねえだろ」
「というかこれ、どう見ても婚約指輪なんだけど」
 ひとつぶのダイヤがつめ状にあしらわれた指輪は、どこからどう見ても婚約指輪にしか見えなかった。私も、母がジュエリーボックスの中に持っているものくらいしか婚約指輪なんて見たことがないけれど、しかしこの形状、宝石に関してど素人の私が見ても分かるくらい、一般的な指輪とは明らかに別物である。
「……」
 私の問いかけに、爆豪くんからの返事はない。
 沈黙の気まずさから逃れるように、私はその指輪をリングケースからするりと引き抜いた。
 ためしに左の薬指に嵌めてみる──驚くほどぴったりだった。まるで最初からその指に嵌めるために作られたような、そのくらいぴったりで、しっくりきている。
 地味な私の手には文字通り手に余るようなサイズのダイヤがついているにも関わらず、けして派手過ぎず主張が強くないデザイン。選んだ人間のセンスのよさを示すようなその在り方に、私は矯めつ眇めつ指輪を眺めることしかできない。
「左の薬指に、ちょっと引くほどぴったりはまるんだけど」
「……」
「え? いや、本当にぴったりすぎてちょっと引く……」
「引いてんじゃねえ! 押せ!」
「押しはしませんが」
 そもそもこの状況かにおいて「押す」とは一体どのような行為を指すのかがまったく分からない。相変わらず無茶苦茶なことを言う爆豪くんを、私はまじまじと見つめた。
 引くのではなく押せとかいう、ちょっと意味が分からないことこそ言われたが──しかし、婚約指輪云々についてのコメントというか、ツッコミみたいなものはない。
 ということはつまり、爆豪くんはいたって本気でこの指輪を──婚約指輪を私に贈ったということになる。
 私に、婚約を申し込んでいるのだということになる。
 一応、周囲を確認してみる。レストランの中にいる客たちはみんな自分たちの会話に夢中になっていて、誰一人私と爆豪くんに注目する人などいない。どっきり大成功の看板を持ち出してきそうな影もない。
 やはり、どっきりでも何でもなく、これは本気のあれなんだろう。あれ。つまり、そういう。
 心を落ち着けるため、一度薬指から指輪を外す。それを元通りきちんとリングケースに収めなおすと、私はそれをテーブルの上に置いた。爆豪くんは何も言わない。
 何も言わないから、私から切り出すしかない。
「なんかさ、何年か前の誕生日も、私は爆豪くんの誕生日忘れてて──それでその時は、たしか『私がプレゼント、なんちって』みたいな、今思い出すと恥ずかしくて死にそうなことしたよね」
「覚えてねえ」
「なんかさ、それ思い出した」
「そうかよ」
 多分あれは、付き合って最初の爆豪くんの誕生日だったと思う。あの時は結局、何をプレゼントに贈ったんだったんだろうか。高校生の爆豪くんとは清く正しく健全で、折り目正しい男女交際をしてきたから、本当に私をプレゼントとして受け取ったなんてことはないと思う。
 けれど今、あの時の冗談みたいな話が、こうして実現しようとしている。
 爆豪くんの誕生日なのに私の方が贈り物をされてしまったのは、その贈り物が私そのものをもらうための切符のようなものだからにほかならない。この先全部を爆豪くんに貰われるための──そのための担保。
「……なんかちょっと泣きそうなんだけど。年かな」
「ババアかよ」
「どうしよう。まだ何も決定的な言葉を言われてないのに、もう泣きそう」
 私の言葉に、爆豪くんはこれみよがしに舌打ちを打った。一度はなりを潜めていた仏頂面が、再び爆豪くんの顔にありありと浮かび上がる。
「この上まだねだんのかよ」
 爆豪くんの不服そうな言葉に、私は思い切り頷いた。もはや感極まって精神はずるずるの状態なのだけれど、だからといってこんな大切なことをなあなあにすることはできない。人生にたった一度の機会を、爆豪くんに全部ずるずるにされるわけにはいかない。
「だって、プロポーズなのに何の言葉もないとかありえなくない?」
「俺の誕生日なんだからてめえが何か言えよ」
「無茶ぶり」
 とは言いつつ、ここまで何ひとついいところのない私である。最後くらい、爆豪くんの誕生日を祝う意味でも何かをしてあげたい気持ちはあった。
 視線を下げる。テーブルには、爆豪くんがくれた指輪が、ベルベッドの小箱に行儀よくおさまっている。この指輪の輝きに応えられるような特別な響きの言葉など、気の利かない私に咄嗟に思いつけるはずもない。
 だから結局、私はいつもの声のトーンで、いつものように言葉を紡ぐ。
「爆豪くん」
「んだよ」
「指輪ありがとう」
「おう」
「今後とも末永くよろしくお願いします」
「気が向いたらな」

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