死ネタ(2)



04


「とりあえず、着替えようかな」
 朝食を終えた名字はおもむろに席を立った。まだ聞かなきゃならないことは山ほどあるが、お互いに状況整理の時間は必要だろう。それに今名字が着ているのは刺された瞬間に着ていたものだ。網目の荒いセーターだからそう気にならなかったが、まじまじと見れば全面──特に胸部から腹部にかけてはかなりずたずたになっている。
 それに、臭いこそしないとはいえ、そのセーターには血液がべったりと付着している。そんなものを着ているのは不快なのだろう。見ているこっちだって不快である。
「私の服ってクローゼットの中に残ってる?」
「知らねえ。自分で見ろ」
「はーい」
 そう言ってクローゼットのある寝室へと向かう名字を、ダイニングテーブルについたまま俺は見送る。
 クローゼットの中の衣服に限らず、実際にはあいつの私物は生前のまま手をつけていない。忙しさにかまけて放置してある。いくらかはあいつの親が形見といって引き取って行ったが、それでもまだ大部分は残っているはずだ。
 溜息をつきつつ携帯を確認すると、すでに時刻は八時半を回っていた。それなりに早く起きたつもりだったが何だかんだとしていたせいで朝のルーティンをこなす時間は過ぎている。しかし今この状況で、突如わいて出た名字を放置してランニングに行くわけにもいかなかった。
 理由はどうあれ──化けて出たのか祟りに出たのか、ともかく俺の目の前に現れた名字。目を離した隙にうっかりまた消えられては堪ったもんじゃない。何をしてやれるわけじゃなくとも、化けて出たからには何かしらの意味があるはずだ。何事にも意味があってしかるべきなのだから。
 ──だとすれば、あいつが死んだことにも意味があったのだろうか。
 不意にわき上がったその疑問に、俺はうんざりした気分になる。そういう話をしているわけじゃない。霊になって現れるなんて尋常ではないことが起きているのだから、そこには意味があってしかるべきだという話。あいつが死んだことには意味なんてあるはずがない。いや、意味がない死こそ空しいが、しかしそこに意味など見出したくはないのも事実だ。
 あれは頭がおかしいシンパ女が起こした凶行。
 そう割り切らなければやってられない。そう信じなければどうにもならない。
 一年前の地獄を思い出し辟易としていると、着替えを終えた名字が戻ってきた。紺色のワンピースは見慣れないものだったが、そもそも俺が名字の私服をどれほど覚えていたかと言われればそれも微妙な話だ。学生時分ならともかく、俺が働きだしてからは名字がどういう格好をしているかなんて大して気にしていなかったような気がする。名字が大学に着ていく服や部屋着なら何度も見たのでさすがに覚えているが、この手のまともな格好は珍しい分、見慣れない。
「買ったばっかりで全然着てないままのがあったからそれにした」
「どうでもいい」
「言うと思った」
 本当興味ないね、と笑う名字に反論しようとして、しかし反論する方がみっともないことになることの気付き言葉を飲み込む。名字は再びダイニングテーブルにつき、残っていたコーヒーに口をつけた。
「というか爆豪くん、引っ越ししてないんだ」
「んな暇ねえわ」
「でもこの家、爆豪くんひとりだと広すぎない? 掃除とかも案外大変だし」
「余裕に決まってんだろうが、馬ァ鹿」
「ふうん。私の遺品整理も終わってない人が余裕で管理できてるとは思わないけどねえ」
 マグカップの中身に視線を落としたまま、名字は独り言のように呟いた。
「まあ、爆豪くんが忙しいのは実際そうなんだろうとは思うし、せっかくこうやって戻ってきたから自分で遺品整理してもいいけど。どうする? やっていった方が良い?」
「勝手に触んな殺すぞ」
「もう死んでるんだけど。それに私の私物だし」
 けらけらと名字は笑う。どう考えても向こうの言い分が正当だった。それでもその正当性を認めるのは癪なので、俺はまたむっつりと黙って名字を睨む。今朝起きてからというもの、俺はこいつのことを睨んでしかいないような気すらしてきた。
 ずずっと音を立て、名字は残っていたコーヒーを飲みほす。そしてにやけた顔をこちらへ向けると、楽しそうに唇の端を上げた。
「まあいいや。時間も有限だしね、そういう些事は爆豪くんにお任せしちゃおうっと。でもいざとなったら全部捨てるとか業者に処分頼むとかしてくれて全然いいからね。恥ずかしい日記とかはここにはないから」
 その言葉に眉を顰めたちょうどその時、テーブルの上に置いていた俺の携帯が鳴った。
「もしもし」
「あ、もしもし? 勝己くん?」
 画面を確認し、電話を受ける。電話の向こうからは名字と似たような、温和な女の声がした。
「……ご無沙汰してます、名字さん」
 俺がそう言うなり、目の前の名字がおかしな顔をした。電話の相手が自分の親であると気付いたようで、嬉しいような気不味いような形容しがたい顔をしている。
「今日の午後にうちに来てもらう約束だったでしょ? 折角だからお昼ご飯を一緒にどうかってお父さんと話してたんだけど」
「お昼を一緒に、すか」
 名字に視線を向けると、全力で首をぶんぶんと横に振っていた。断片的な会話を聞いただけで粗方話の内容に予想はつくだろう。こいつにしてみれば自分の命日に、自分の男と自分の親が自分を弔う食事の場などに居合わせたくないに違いない。そういえば名字は生前から自分の親と俺が親しくするのをいかにも嫌そうに見ていた。俺もこいつと俺の親が仲良くするなんてことを想像しただけで虫唾が走るから、まあ気持ちは分からないではない。
「すみません、有難いんすけど、午前は事務所に寄らないといけないんで。多分そちらに伺うのも時間ぎりぎりになると思うんで、今回は遠慮させてもらいます」
「あら、そうなの? 残念ねえ。私もお父さんも勝己くんに会うの楽しみにしてたのに」
「ありがとうございます」
「でもお茶くらいはする時間あるかしら? 美味しいケーキを買ってくる予定なのよ」
「……そのくらいなら」
「ふふ、楽しみに待ってるわね。忙しいところをごめんね、それじゃあまた後で」
 一方的に切られた通話を終えて携帯を耳から離すと、名字がはあと長く溜息をついた。こいつが喋ろうが何しようが電話の向こうには恐らく声は聞こえないのだろうが、この緊張はそういう問題ではないのだろう。
 疲れた顔をした名字は、心なしかうつろな目で俺を見据えた。
「なにうちの親と連絡取り合ってんの? 仲良しか」
「違ェわ。今日この後てめえの実家に行く約束だったからそのついでだろ」
「うちの実家に? クリスマス・イヴに何しに」
 こいつ、本気で言っているんだろうか。思わず呆れ果てていると、察しの悪い名字はようやく俺が名字の実家を訪ねる用件に思い当たったようだった。
「あ、私の命日か。それはどうもご丁寧にありがとうございます」
「てめえまじではっ倒すぞ……」
「でもそっか、なるほど。だったら私も着いていこうっと」
「あ?」
「遺影にどの写真使われてるかとか気になるし」
「そこは親のこと気にしてやれよ」
「親はなんか元気そうなのがさっきの電話で分かったから」
 実家、緊張するー、と。そんなことを言う名字に、俺は心の底から溜息をついた。
 こいつ、死んでねえんじゃねえか。どこの世界にこんなに飄々としたうぜえ霊がおるんだ。
 そう思いテーブルの上に無造作に置かれた名字の指先にさりげなく手を伸ばす。しかしやはり、俺の手が名字の手に触れる感触はなかった。

05


 名字が街を見て回りたいというので、名字の親と約束した時間よりも早く家を出ることにした。といっても一年やそこらで街並みが大きく変化するはずもない。少なくとも、俺が知る限りでは俺の行動圏において店がつぶれたり新たな店が入ったりというようなことは起きていないはずだ。
 俺のマンションから名字の実家まではそこそこに距離がある。途中にはターミナル駅もあるので、そこで買い物や何やらを済ませていく運びとなった。
「爆豪くんとこうやってふたりで外歩くのって結構久し振りじゃない?」
 ワンピースにコートを羽織った名字が声を弾ませる。駅直結のファッションビルの売り場内である。
 思った通りこいつは俺以外の人間からは見えていないらしく、そのせいで電車の中からずっと、こいつは人にぶつかられまくっている。俺からしてみればそこに存在しているのだから連れにぶつかられればそれなりに腹立たしくも思うのだが、相手からしてみれば見えていないのだから避けようもない。
 名字も名字で最初こそいちいちぶつかってくるやつにびびっていたものの、今では平気で他人を身体に貫通させながら会話している。不気味だからまじでやめろ。
 名字がほかの人間に見えていない以上、俺は今ひとりで買い物をしているようにしか見えないはずだ。一応マスクで口許は隠し、念には念を入れて携帯のハンズフリーイヤホンマイクもつけているから会話くらいはできる。それでもできる限り不審なところは見られたくないので会話は最低限だ。
「まあ単純に一年のブランクがあるっていうのもそうだけど、爆豪くんがプロになって暫くしてからはあんまり二人でどこかに行くっていうこともなかったもんねえ」
「……忘れた」
「人気ヒーローは大変だよ」
 他人事のように言う名字の真意は分からない。あいつの顔を見ようにも、俺はキャップにサングラスにマフラーという何とも怪しげな格好をしているから、いまいち視界が悪いのだ。
 名字の事件以降、俺はこれまでよりもさらに変装をして出歩くようになった。もともとアンチが多いのは分かっていたから変装なしで街を歩くようなへまはしなかったが、さらに変装に手間をかけるようになった。
 どれだけヒーロースーツのマスクで顔を覆っていても、出身高校が雄英である以上、俺の素顔や本名、ある程度の個人情報は簡単に流出してしまう。個性を世間に知られることばかりが雄英体育祭の弊害だと思っていたが、ひとたびプロになってみると、雄英生の情報がいかに世間に知られているか、俺は嫌というほど知る破目になった。
 おまけに雄英出身のプロはプロの中でもそこそこ上り詰めていくやつが多い。結果、雄英卒業生のプロフィール──家族情報まで含めた個人情報は高値で売買され、やがては広く拡散されていく。
 一流のプロにまで上り詰めれば公安が関係者にある程度護衛をつけてくれたり、個人情報の保護をしてくれるそうだが、プロになったばかりの駆け出しにそこまで手厚いサポートはない。名字が襲われたことだって、結果的にはそういう諸々が最悪の形で爆発したということなのだろう。
「爆豪くん?」
 思案に耽っていた俺の顔を、わざわざ俺の前に回り込んだ名字がのぞきこむ。思わずぴたりと足を止めた。
「どうせぶつからないんだから止まらなくたっていいのに」
「うるせえ。気分悪ィだろうが」
「そういうもの? 別にすり抜けたら汚れたりするわけでもないし、私はもう慣れたけど」
「慣れんな。適応の仕方がきめェわ」
「すぐそうやって貶す。適応力の高さは優秀さのあらわれでしょ」
 まったく、そういうところ全然変わんないね! と不貞腐れた顔をする名字だが、名字の方こそ何も変わらない。いや、こいつは死んでからのまる一年を『寝てたような』と形容していたから、変化などしようがないのだろうか。状態としては、それこそ一年前めった刺しにされた直後と同じ。無遠慮に名字にぶつかってくるモブさえいなければ、俺は多分、こいつを去年までと同じように扱ってしまうだろうというくらいには、変化がない。
 暫く楽しそうにうろうろしていた名字だったが、フロアを一周ぐるりと回ったところで、偉そうに腕組みして俺を見た。
「うーん、買い物しよう、街の変化に驚嘆しようって思って出てきたけど、よく考えたら私買い物したところで使う訳でもないし、爆豪くんにレディースもの買わせるのも忍びないしなあ……そもそも今もすでにレディースフロアでひとり放浪する爆豪くんかなり浮いてるし……いや面白くはあるんだけど」
「てめえ分かって連れ回しとったんか!?」
「下の階におりてご飯でも食べよっか」
「聞けや」
「私は食べなくてもいいけど爆豪くんはお腹すくでしょ」
「聞けや!」
「あっエスカレーター」
「おい!」
 俺の返事も聞かずさっさとエスカレーターの方に向かう名字の後を渋々──まじで渋々追う。さっきは何も変わらないと思ったこいつの性格だが、しかし前言撤回する。いったん死んだことで大幅に自分勝手になった。霊じゃなかったら殴ってる。殴ったところで実体がないのが実に腹立たしい。
 憤懣やるかたない気持ちを抱きっつ、俺もエスカレーターに乗った。

 昼飯を済ませ、適当に土産を購入してから名字の実家に向かう。
 公共交通機関に乗っている間は名字に話しかけられても返事をしづらい上に周囲の目が気になるので、結局駅まで出てきたはいいものの自宅に自家用車をとりに帰ることになった。まあ俺にしか見えないやつを連れている以上、できるだけ周囲と隔たった空間に身を置いていたいというのは事実だ。これでも人気商売、往来でひとりぶつぶつ言っているところを通りすがりのやつらに見られるのは避けたい。
 霊のくせにきっちりシートベルトをつけた名字を助手席に乗せ、俺は車を走らせる。
「爆豪くんがうちの実家に行くのいつぶり? 一年ぶりくらい?」
 車のオーディオを操作しながら名字が言う。運転している俺の好きな曲じゃなく、ただ座っているだけの自分の好きな曲をかけるあたりが憎たらしいほどこいつらしい。
「盆ぶり」
「え、お盆もわざわざ顔出してくれたの? 悪いね」
「てめえのためじゃねえわ」
「はい出たツンデレ。別にいいけどね、親喜んでたでしょ」
「四十九日よりはな」
 四十九日とは、もちろんこいつが死んでからの四十九日法要の話である。
「四十九日のときはうちの親どんな感じだったの?」
「今にも娘の後追いそうなツラしとった」
「あー、まあ四十九日ってことは私が死んでから二か月経ってないくらいでしょ? そりゃそうなるか」
 半年以上も前のことを話しているうちに、俺はしだいにその頃のことを思いだしていく。
 名字のことを聞いてきた人間はこの一年で数え切れないほどいる。身近な人間からこいつの友人だったやつ、果ては事件を面白おかしく取り上げようとするマスコミまで。それこそ昨年の年末はそういう雑多な人間が俺に会いに来るので心底げんなりした。
 事務所にまで来るマスコミもいて、反吐が出そうだったのを今も覚えている。結局そういうやつらは事務所の主である上司に追い払われていったが、しばらくは知らない番号からの電話もやまなかった。
 そういう望まれざる訪問者を含めて、俺はかなり色んなやつに名字とのことを聞かれた。しかし今こうして、当の本人と名字の事件のことやその後の話をすることになり、正直どう話したものかと俺はまだ決めかねていた。
 実際、こいつが事件のことについてどの程度覚えているのかも分からない。刺されどころが良かったというか悪かったというか──刺された後、そう長くはもたなかったということは聞いている。刺した女も、ほとんど抵抗がなかったと供述したらしい。だから実際、事件当日のことをこいつが覚えているとは思えなかった。
「私、正直刺されたときのこともその後のこともちゃんとは覚えてないんだよね」
 だしぬけに名字がそう言いだしたので、俺は思わず目を見開き名字を見る。
「うわっ、ちゃんと前見て爆豪くん」
「う、うるせえ分ーっとるわ」
「まったく……爆豪くんが考えてることくらい大体分かるよ。何年の付き合いだと思ってるの」
 五年半の付き合い、とはわざわざ口にしなかった。黙ってハンドルを握る。
「事件のことは、ほとんど覚えてない。多分すぐ死んじゃったんでしょ? なんかびっくりして、痛いっていうか熱いって思って、でもほとんどそれだけだよ。相手の人、つかまったの?」
「その場でつかまった」
「まあ、あんまり後先考えない感じの殺し方だったしね」
 あくまで他人事のように話す名字は、しかし実際には当事者として殺されている。一体どういう心境で今この話を俺にしているのか、俺にはまったく理解ができなかった。
 俺は今でもあの女の顔を思い出すだけではらわたが煮えくり返りそうになるのに。
「でも最後に思ったことは覚えてるんだよね。ほら、私が死んだのってクリスマス・イヴだったでしょう。だから、あーこれ年末の一番忙しい時期に法事だなー親戚に申し訳ないことしたなーとか。クリスマスに葬式出さなきゃいけないなんて親不孝だなーとか。そんなこと思ってた気がする」
「てめえ、まじで頭おかしいんじゃねえか」
「どうだろ? でも人間死ぬときなんて案外そんなもんなのかもよ。あ、あと爆豪くんのことも考えてた。繁忙期なのにごめんねって」
 なにが繁忙期だ。むしろ生前のてめえなら『忙しい時期に私の葬儀で公休とれるじゃん』くらいは言うはずだろうが。変なところで殊勝になるなんざ吐き気がする。
「……馬鹿かよ」
「かもね」
 名字はまた、へらりと笑っただけだった。

06


 名字の家での挨拶はつつがなく終了した。四か月ぶりに顔を合わせたあいつの親は心なしか痩せたような気もするが、それでも概ね元気だったと思う。ひとり娘を失った傷を、一年で果たしてどこまで癒すことができるのか──こればかりは正直、俺にはよく分からない。分からないから、普段通り元気に振る舞おうとするのならば、それがたとえ演技であろうとも乗ってやるのが俺の務めなのだろう。
 終始俺の後ろに控えていた名字は、人見知りのガキのように静かに、じっと息をひそめて様子を伺っていた。それはそれで薄気味悪いが、たとえ騒がれたところであいつの声は俺にしか届かないのだから、黙っておいてくれた方がましなように思わなくもない。
 あいつの親にも霊になった名字は見えなかったらしい。
 もしかしたらと思っていたが、そううまくはいかなかった。何事もないかのように適当に世間話をし、後ろに本人が控えた状態で仏壇に手を合わせ、そして辞去した。

「てめえのこと、話さなくてよかったのかよ」
 帰りの道中、沈黙の重い車内で俺は尋ねた。あの親の性格を思えば、ここに名字がいることを話しても、不謹慎だなんだと取り乱すことはないような気がした。手放しに信じるとも思えないが、そういう意味では俺はこいつの親からはそこそこに信用を得ている。
「うん、いい。どうせ見えないのに、何か期待を持たせても悪いし」
「まじでなんでてめえ、俺にだけ見えんだ」
「そんなの私にだって分かんないよ。むしろなんで爆豪くん見えるの? 霊感とかあるの?」
「ねえに決まってんだろ」
「だよねー、不気味だよねー」
「他人事かよ」
「まあ、あんまり自分のことって感覚もないけどね」
 こんな事態になっておきながら自分のことと思えないとは、一体こいつはどういう感覚で生きているのか甚だ疑問である。いや、すでに死んでいるのだからどういう感覚で死んでいるのかという方が適切か。ちくしょう、しち面倒くせえことになりやがって。
 そもそも、生前からこいつはあらゆる面で適当なのだ。生き方がざるというか。真面目なところだけは根暗なりの長所なんだろうが、それにしても自分のことなんだからもう少ししっかりしろと言いたくなる。腹立たしいこのこの上ない。
「爆豪くん、何かまた思い出し怒りしてるでしょ。やめてよね、カルシウム足りてないんじゃない?」
「あ˝!?」
「せっかく帰ってきたのに、なんか爆豪くんの怒ってる顔ばっかり見てる気がするよ」
 そう言われても面白くもないのに笑えるはずもない。大体、一年前に死んだ女が隣にいるという状況で上機嫌でいられる方がどうかしている。
「てめえの実家ではそれなりにしとっただろ」
「え? あれご機嫌な顔のつもりだったの?」
「誰がご機嫌な顔で仏壇に手合わせるんだ馬鹿が」
「だよねえ、びっくりした」
 微妙にかみ合わない話に苛立つ。俺を責めたいのか話の軸を逸らしたいのかどちらかにしろと言いたいが、多分こいつはほとんど無意識にそういうことをやっているのだろう。伊達に五年半も付き合っていない。言っても仕方がないことは知っている。
 俺はただぶすりとした顔でアクセルを踏み込んだ。

 自宅に戻ってくるころにはほとんど日も暮れていた。名字の実家にそう長居をしたつもりもなかったが、思っていた以上に話し込んでしまったらしい。年末も近く、あっという間に日が暮れる。
 自宅のすぐそばにある月極駐車場に車を停めた。マンションの敷地内駐車場で何か補修工事があるとかで、年末一杯はマンションの駐車場が使用できないらしい。不便なことこの上ないが、しかしセキュリティ上必要な補修だと言われれば従わざるを得ない。割り当てられた駐車場に車を停め、目深にかぶりなおした帽子で顔をかくしてマンションへと向かった。
 と、マンションの前までやってきたとき、ふいにすぐそばの生け垣がざわざわと音を立てた。このマンションには俺のほかにも何人か著名人が住んでおり、そういう居住者のプライバシーを守るため、マンションのエントランス付近には目隠しの目的で高い生け垣が作られているのだ。
「爆心地!」
「あ˝?」
 思わず剣呑な声が出た。生垣のわずかな隙間から出てきたのは、手に何かしらの小型機材を用意した、薄汚い身なりの男だった。
 品のない顔とぎらついた目。仕事柄こういう手合いはよく目にする。俺たちヒーローの醜聞で飯を食っている三流のマスコミ。
 これまでも俺は態度が悪いだとか乱暴だとか、さんざんな評判を書きたてられている。昨年の事件の後だって、こいつらはいつまでもハイエナのように俺の周囲をうろついていた。
 危険な犯罪現場に許可なく踏み込み、その上事件の報道ではなく「恋人の事件について」と俺にマイクを向ける。俺も態度の悪さで人のことを言えた立場ではないが、しかしこいつらの品性の下劣さに比べれば俺なんてまともで折り目正しいヒーローだ。
 視線を合わせないよう、俺は早足でマンションの中に向かう。俺以外には見えていないとはいえ、一応名字の腕をつかみ引き寄せた。
 しかしそいつは名字の身体をまるで押しのけるようにして、俺の前へと回り込む。うわ、と驚いたような名字の声に気を取られ、一瞬の隙をつかれた。
「爆心地! ヒロスポのものですが今ちょっとお話いいですか!」
「いいわけねえだろ失せろモブ」
「そこを何とか!」
「てめえ不法侵入で通報すんぞ」
「恋人の命日からたしか今日でちょうど一年ですよね!」
 その言葉に、不本意だが俺は反応してしまった──足が止まってしまった。
 記者は大袈裟に口の端を上げた。黄ばんだ歯が唇のすきまから覗くのが見え吐き気がする。
「今日はXX市の方にお出掛けのようでしたがどういったご用件で? たしか爆心地の御実家とその恋人の御実家があったはずですが」
「……てめえ」
「一年前の事件の犯人の女に今言いたいことはありますか? 法曹界の関係者からは犯人はいまだ『爆心地の本当の彼女は私』と主張しているとのリークもありますが」
「うるせえ」
 一蹴し、俺は再び一歩踏み出そうとする。しかし記者が俺の行く手を阻んだ。
「精神鑑定の結果を受け医療刑務所収容という判決に対し何かコメントはありますか!  判決後にヒーロー権限で犯人女性に面会に行き詰ったというのは事実ですか!恋人の仇をご自身の手で裁きたくはありませんか! 恋人の無念を晴らしたくはありませんか!」
 自分の言葉に酔い、記者はしだいにヒートアップしていく。口の端に泡がたまっていく。
「事件当時、世論では爆心地はヒーローとして再起不能との声もありましたが再びヒーロー活動を再開した原動力は何でしょう!? 新しい恋人の存在も噂されていますよね! 一部では同じヒーロー業界の女性とも言われていますがその辺りはどうですか!?」
 嫌悪感が募っていく。いっそ個性をぶっ放してやりたいが、ただの学生の頃ならともかく、プロとして活動している俺が民間人相手に個性を無駄撃ちするわけにもいかない。
 しかしこのままではらちが明かない。こいつに見えていないとはいえ名字もいるのだ。さっさとこの場を切り抜けないと──
 と、その瞬間、記者が茫然とした声を上げた。
「──なんだっ!?」
 声につられるようにして、俺は記者の視線の先──俺の隣に視線を遣ろうとする。が、その瞬間、世界が真っ白に輝いた。世闇の中に突如として太陽が出現したかのように、夥しい量の光線で辺りは覆われる。サングラスをはめていても尚目を開けていられないほどの眩しさに、俺は思わず目を眇めた。
「たーっ!」
 同時に隣から名字の間抜けな声がする。驚いて目を細めたまま根暗を見れば、あろうことかやつは手のひらを記者の方に向け──謎の光線を放った。
 は?
 太く白い帯のような光線は、名字の手からまっすぐに伸び、記者へと伸びる。
 謎の光線をもろに腹にくらった記者が、光線の勢いそのままに後方に吹っ飛んでいく。
 いや、は……?
「は?……おい根暗、」
 まったく何が起きているのか分からず、俺はとにかく名前を見た。今の光線は完全にこいつが放ったものだ。それは間違いない。しかしこいつの個性は、こんな意味不明な個性じゃなかったはずだ。何がどうしてこんなことができる。それとも何か、いっぺん死んだことでこの意味不明な能力を身に着けたとでもいうのか。
 状況がまったく理解できない俺だが、しかし俺に見つめられた名字本人もまた、意味が分からず今にも泣きそうな顔をしていた。
「どうしよう爆豪くん……な、なんか……出た……波動……?」
「おいてめえゴルァなんか出たってどういうことだ!?」
「わわわ分かんない……ま、まあいいや。結果オーライ、とにかく今のうちにさっさと退散だよ、爆豪くん」
 意味は分からないが、ともかくどうにかなったらしい。いや、どうにもなっていないような気しかしないが、どうにかなったと思うしかない。あの光線にどれだけの破壊力があるのかは知らないが、まあ名字が放った光線ごときで命に関わるような事態にもなるまい。
 記者が吹っ飛んでいった方向から目を逸らす。名字が謎の波動を放った直後、エネルギーが切れたかのように辺りは再び夜闇に包まれた。
 一応救急車だけ電話で呼び、俺と名字は逃げ去るようにしてそそくさとその場を立ち去った。

07


 理解不能な事象を目の当たりにしたとき、人は言葉を失うらしい。
 何とも気まずい空気のまま部屋に戻ってきた俺と名字は、未だ混乱状態にありながらも、ひとまずは夕食を摂ることにした。さっきの出来事のせいで、すでに自炊をするような気力も体力も残っていない。俺のポリシーには反するが、適当に出前をとった。
 それからほんの数十分足らずで丼もの屋が飯を持ってくる。二人前の天丼。
「そういえばこのマンションで何か事件あったんですか?」
 精算をしていると丼もの屋の店員が言った。
「あ? なんで」
「さっきここの前に救急車とあとなんかパトカーも停まってたんで」
「知らねえ」
「なんか意味不明な事騒いでたんですけど、年の瀬で変な奴が出てきたんですかねえ」
 毎度ありー、と去っていく店員を見送り、俺は溜息をつきつつドアを閉める。
 先ほどのあの異常事態、視界を奪うほどの眩さは俺の個性と結び付けられかねないが、しかしさすがに謎の波動だかビームだか分からないような代物までは俺の管轄外だ。万が一警察に探られてもしらを切り通すことができるだろう。第一、向こうは向こうで不法侵入をしているのだ。分かりやすく法を犯しているのは向こうなのだから、こっちは何も気に病む必要はない。
「天丼届いたー? お腹すいたー」
「死んでるくせにいっぱしに腹空かせてんじゃねえ」
「またそういう無茶を言う」
 俺から器をひとつ受け取り、へらへらと笑いながら名字がテーブルについた。思考を切り替え、俺もテーブルにつく。クリスマス・イヴとしては何とも味気ない晩餐だった。

 暫く黙々と天丼を食った。
 こいつが生きていた頃から、俺と名字の間に会話がないことはよくあった。別に場をもたせたいなんてことを今更こいつ相手に思わないし、それは多分、名字にしても同じだったのだろう。いや、こいつの場合はもっと単純に面倒だから喋らないということもあったかもしれない。
 だが今のこの沈黙は、そういう信頼に基づく沈黙の類ではなかった。ただ気まずい。ただ重苦しい。そしてそういう沈黙は俺の最も嫌うものであった。
「言いたいことあんなら言え」
 そう吐き捨てるように言うと、名字は手元の丼からゆるりと視線を上げた。その瞳には昏いものが滲んでいる。
「さっき、下で記者の人が言ってたこと、本当? その──犯人の人に面会した、とか」
 言いたいことがあるなら言えと自分で言ったものの、いざその話を蒸し返されるとなおさら気まずかった。
 事件の犯人との接触やその後のもろもろは、すべてこいつの死後の話だ。こいつが殺されたことそのものが事件になっているのだから、今更言うまでもないことである。
 しかし──というかだからというか──名字が事件のその後の顛末を知らないこともまた、当たり前のことである。死後もこの世を彷徨っていたとでも言うならともかく、今朝までまるっと一年間寝ていたようだと言うのだから知っているはずがない。
 知らなくて当然。その犯人がその後何を言い、どのような罰を受けたのかも。俺が何をしたのかも。俺が何を感じたのかも。
「面会してたら悪ィかよ」
「え、いや……悪いかって言われたら別に悪くないけど。ただ本当に面会してたなら、爆豪くんよく殴らずに我慢したなと思って。あ、もしかして殴った?」
「なわけねえだろボケが。面会つっても監視つき、対面窓越しだぞ。下手すりゃヒーロー免許はく奪だわ」
「いや、まあ……うん。そうなんだけど」
 呆れたような顔で名字が俺を見た。その顔には「ペナルティがなければ殴ってたのか」と書いてある。当たり前だ、罰がないなら殴るに決まっている。こっちは被害者の男だ、むしろ殴ったところで情状酌量の余地ありと判断されるだろう。
 と、「実はね」とだしぬけに名字が切り出す。
「実は私、本当は最後の最後、あの人が『爆心地を返して』って叫んでたことは覚えてたんだよね」
 その言葉に、思わずぞくりと背筋が冷えた。そのリアクションを見てまた名字が眉尻を下げて笑う。
「て言っても、思い出したのは割とさっきなんだけど。でもそっか、あの人爆豪くんと付き合ってるつもりでいたのか。そっかそっか」
 そっかそっか。その呑気な響きは何故かむしょうに俺の神経を逆なでした。
「そっかじゃねえだろクソ根暗。てめえ自分が殺されてんだぞ、何呑気なリアクションとっとんだ」
「えー、いや、でももう死んじゃった後だし怒っても仕方がないというか……犯人の人もつかまってるし、これ以上できることはなくない?」
 言葉を失う。
 あの事件の日から暫く、俺は仕事を休んだ。一応は職務規定に則った休暇だ。ヒーローといえど、親しくしていた人間が死ねばメンタルが回復するまで休みをとることができるし、それが学生時代から長く付き合っていた女ともなれば気色悪いほどに同情もされる。
 同情されて半ば自暴自棄になっていた俺は、休みを利用して犯人の女に会いに行った。本来俺は面会を許される立場ではなかったが、ヒーローとしてそれなりの信頼と立場を得つつあった俺には特別に許可が下りた。恐らくは上司の口添えもあったのだろうとは思うが、そのことは上司本人に確認していないので分からない。向こうも多分、礼を言われたくて口添えなんかしたわけではないだろう。
 今でも時々思い出す。俺が面会に行ったときの犯人の女の顔。声。
 厚いガラスに隔てられた向こう側の女は、俺の姿をみとめるなり心底嬉しそうに笑った。焦点の合わない瞳で、しまりのない口で、罪悪感など微塵も感じさせず、そいつは俺に言った。
「やっと帰ってきてくれたんだね、爆心地」
 その時俺は悟ったのだ。どんな言葉を掛けようと、どんな暴力に訴えようと、きっと俺の本音が、現実が目の前の女に伝わることは、永劫ない。
 この女が名字を手の届かない場所に追いやるよりもずっと前から、きっとこの女は俺たちとは違うものを見て、違う音を聞いていた。
 俺たちのけして知り得ない虚構の世界を生きていた。
 何を言っても無駄だった。どんな罰を与えても無意味だった。
 俺にできることといえば、二度とその女の前に姿を現さないようにするだけだ。

 面会の帰り道、言葉にできないような無力感を抱えて俺は帰路についた。
 あんな人間を目の当たりにして、俺は名字の墓前でどんな言葉を吐けばいいのか分からなかった。
 俺がヒーローでなければ、あの女が俺を知ることはなかった。
 俺がヒーローでなければ、あの女が俺を好きになることもなかった。
 俺がヒーローでなければ、あの女の矛先が名字に向くことは無かった。
 俺がヒーローでなければ、あの女は名字を襲ったりしなかった。

 俺がヒーローでなければ、名字は今もまだ生きていた。
 俺が、ヒーローでさえなければ。

 そんなものは机上の空論だ。考えたところで意味のない仮定だ。どうしようもない妄想だ。俺らしくもない、クソみたいに弱気な絵空事だ。
 それでも考えてしまう。思ってしまう。俺の選択が名字を殺したんじゃないかと。俺の理想がこいつの現実を終わらせたんじゃないかと。
 考えて、思って、どうしようもなく苛立つ。死んだ人間も、死んだ人間の遺族も、誰も俺を責めたりしない。こいつもこいつの親も、周りのやつらも、みんな俺を憐れむばかりで糾弾しない。
 誰一人、俺の気持ちを理解しない。
 誰一人、ヒーローなんてやめろと言わない。
 やめろと言われればやめてやるかと奮起もできるのに、責められず情けをかけられるから自分で思ってしまう。俺はヒーローでいていいんだろうか。
 女をひとり殺してまで、俺がしなければならないことなんてこの世の中にあるんだろうか。
 俺がヒーローであり続けなければならない理由なんて、あるんだろうか。
 かつてオールマイトの終焉を招いたように。俺はただ、俺の弱さで名字を殺しただけなんじゃないか。ヒーローだなんだと持て囃されて、やってることは学生の頃と何ら変わりない。

「詰ればいいだろ」

08


 そんな言葉がひとりでに口をついて出た。名字がぱちくりと目を瞬かせて俺を見る。間抜けな顔だった。
「詰るって、犯人の人を?」
「俺を」
「ええ? ……爆豪くん、どうしたの? 詰ってほしいって、それ本気? 怖い」
 減らず口の多い女だ。眉根を寄せる。
 俺の表情に、名字はあからさまに困った顔をした。
「んー、爆豪くんがそうしてほしいならまあ、こちらも付き合うけど。って言ってもなあ……詰る──というとつまりは文句かー。いや、そりゃあまあ、爆豪くんに対してまったく文句がないって言ったら嘘になるけど。なんでクリスマス一緒にいてくれないのとか、なんで外でデートできないのとか、なんで洗ったグラスをきちんと拭かないの、とかね」
 茶化すように名字は言うが、耳の痛い話だった。それだって突き詰めれば俺がヒーローをしていたことの弊害だ。根本的なところでは事件と同じ根を持っている。
 名字は「でもさ」と続けた。
「でも、そういうのもろもろ分かってた上で付き合ってるじゃん。私たち。いや、付き合いだしたときは学生だったし、半ば脅迫みたいなものだったからそこまで先を見据えてたわけじゃないけど……でも五年半も付き合ってたら爆豪くんがどういう思いでヒーローを志してるのかとか、どんなヒーローになりたいのかとか、そのために何を犠牲にする覚悟を決めてるのかとか──そういうの、分かっちゃうんだよ。分かっちゃって、しかも応援したくなっちゃうんだよ」
 思えば生前、こいつが俺の仕事に対して不平や不満を言ったことは一度もなかった。特殊な業種でプライバシーもなく、シフトだってあってないようなめちゃくちゃな仕事。事件が起これば朝だろうが晩だろうが関係なしに呼び出され、店にこいつを置き去りにしたまま現場に急行したことだって一度や二度のことではない。
 危険な上にトップクラスにならなければ見返りも少ない。だから離職率も高く、早期リタイアも後を絶たない。多職種からの理解は得られず、離婚率も年々上昇していると聞く。
 そんなヒーロー稼業についた俺に対して、こいつは何も言わずにただついてきた。
俺に対してキレることはあっても、俺の仕事について文句を言ったことは、ただの一度もなかった。
「そりゃあ殺されたことについてはなんでだって思うし、今から刑務所に乗り込んでいって犯人の女とタイマン勝負することができるなら、どっちが爆豪くんの真の彼女か決める対決をするのもやぶさかではないけど。ひとまずこういうことになっちゃったからには、それを受け入れるしかないし、それで爆豪くんを恨むようなことはしないよ。私、これでも結構爆豪くんのこと好きだしね」
 へへ、と名字は何かを誤魔化すように笑って見せた。
 俺はもう、これ以上女々しいことを言う気も起きなかった。死んでもなおクソ生意気な人間の前で弱音など吐けるはずがない。こいつにそんなものを聞かせるのは絶対にごめんだった。
 テーブルにはしんみりした空気が流れる。その湿っぽい空気を吹き飛ばすように、名字は今度こそ阿呆のように笑った。
「というわけでね。だから今年こうやって化けて出たのも多分、生前善良な人間だった私が、爆豪くんとクリスマス・イヴの夜を一緒に過ごせるようにっていう、神さまからの粋な計らいなんじゃないかな? ってことで」
「それならイヴじゃなくてクリスマス当日に出ろや」
「いやー、だってそこはほら、爆豪くんはヒーローだからね。クリスマスはこどもたちににこにこ手を振ってプレゼント配らなきゃいけないでしょ?」
「んな仕事受けるかクソが」
「強がっちゃって、本当は人相が悪すぎてその手の仕事は回ってこないだけのくせに」
「あ˝ァ!?」
「図星じゃん」
 がなる俺の声を無視して、名字は再び天丼に箸をつける。もう天丼はすっかり冷めてしまっていたが、クリスマス・イヴの晩餐としては、まあまあ悪くない味だった。
「さ、さっさとご飯食べ終えちゃお。そんで久し振りに一緒にお風呂入って一緒に寝よう。なんてったって今日はクリスマス・イヴだしね。いちゃいちゃしないでどうするの」
 触れもしねえくせに、とは言わなかった。

 ★

 風呂を済ませ、夜も更けるより前に俺はさっさと寝床についた。死んだ女が霊になって戻ってきていようが、普段通りの生活リズムを崩すわけにはいかない。明日は一応オフだが、それでも呼び出しがいつかかるかは分からない。クリスマスで浮かれた輩を取り締まるのは難しくないが数が多い。面倒な仕事であることには違いない。
 キッチンで何やら作業をしていたと思しき名字がようやく布団にもぐりこんできたのは、そろそろ俺が微睡んできたころだった。もぞもぞと布団にもぐった名字は俺に身体を寄せる。その肌に触れることはなくても何となくあたたかみのようなものは感じられた。
 ためしに名字の方に腕を伸ばす。おとなしく腕枕に頭を預けた名字だったが、伸ばした腕には何の重みも感じられなかった。
「相変わらず寝るの早いね。クリスマス・イヴなんだから少しくらい夜更かしすればいいのに」
「うるせえ、んなもんで浮かれるほど暇じゃねえ」
「そうですか」
 言葉とは裏腹に楽しそうな名字は、俺の胸に額をこするようにして俺の方へとにじりよってきた。それでもやはり感触はない。
 それでもこの一年、ひとりで眠りについていたベッドに自分以外の人間が──人間ではなく霊だが、ともかく誰かが一緒に横になっているという状況は、不思議と俺の心を落ち着かせた。あいつの枕からあいつの使っていたシャンプーのにおいはもうしない。けれど匂い慣れたその匂いが香るような気がした。
 それが感傷以外の何物でもないことを分かっていても、俺は一時、その感傷に身を委ねる。
 一年間、気を張りっぱなしだった。凝り固まったものがするすると解けていくような心地がする。
「てめえ、来年は来んのか」
 名字の頭を撫でながら俺は尋ねる。感覚はないが、生前していたことを繰り返しているせいか、本当に名字の頭を撫でているような気がしてくる。
 こいつの存在が永遠にここに固定されるものではないことくらいは察しがつく。恐らく、今日が名字の命日だからこそ、こいつは今ここに霊としてでも存在することができているのだろう。明日になればきっと消える。来年以降のことは分からない。
 ん、と俺の胸元から微睡んだゆるい返事が返ってくる。
「んー、どうだろう。分かんないけど、多分来れないと思うよ。というか私もさすがにそろそろ成仏したいし」
「成仏しねえでもどうせ一年間の記憶なんざねえんだろ。来年も『よく寝た』つって出んじゃねえか」
「そうだけど、やっぱり帰るべき身体もないのにいつまでもふわふわしてるのはさ、落ち着かないじゃん」
 そういうもんだろうか。霊体になったことがないので何とも言えない。
 帰る場所がないというのは、まあたしかに想像するだに落ち着かないことではある。
「けど、帰る身体はなくても、家はあんだろ」
「……」
「おい、」
「爆豪くん、なんか、丸くなったね」
 俺の言葉を無視して名字が言った。
「実を言うと私、ちょっと──いやかなり心配してたんだよね。もしうっかり私が死んだことで爆豪くんの精神が恐慌状態に陥ったらどうしよう、って。でもよかった。そんなことはなさそうだ」
「は? てめえ舐めんなクソ根暗」
「クソ根暗はクソ根暗らしく、本当はいつまでも往生際悪くここにいたいんだけどね。そういうわけには、やっぱり、いかないから」
 その声に視線を下げ、俺ははっと息を呑んだ。俺の身体にぴたりと寄せていた名字の身体は今にも消えそうなほどに薄くなっていた。霊らしく半透明になった身体には、身体の向こう側にある布団の皺が透けている。どこからどう見ても尋常の姿ではなかった。
「爆豪くん、貴重なクリスマス・イヴを私のためにありがとう。最後の最後に一緒に過ごせて嬉しかったよ」
「最後って、」
「クリスマスが来るたび、私のことを思い出すような女々しいことだけはしないでよね」
 それが名字の最後の言葉だった。
 生意気で上から目線で、あいつらしい言葉だった。あいつらしい皮肉だった。
 さっきまで人ひとりが横たわっていた場所は、今はただがらんどうになっているだけ。ベッドの上には俺しかおらず、そこに誰かがいた気配など微塵も残ってはいない。
「名字」
 声に出して呼んでみる。耳を澄ませてみても返事はなく、ただ時計の針がこちこちと鳴る音がしただけだ。ちょうど日付が変わり、クリスマスになったばかりだった。
 布団から這い出る。冷えたフローリングの上に足をのせると、背筋が冷えそうなほどの寒気がした。
 ──もしかして、全部夢だったんじゃないだろうか。
 一瞬、そんな思考が脳裏をよぎった。俺にしか見えない、俺にしか聞こえない、俺にしか存在を感じられない死んだ人間。そいつがクリスマス・イヴの日に俺のもとにやってきたと言って、一体だれがそんな与太話を信じる? 俺だったら一笑に付すどころか取り合いもしないだろう。そんなオカルトめいた話を信じるくらいなら、誰かしらの精神干渉系個性に弄ばれたと被害届を出せと言う。
 つい先ほどまで腕の中にいたはずで、それはたしかに現実だったはずだ。
 けれど一たび消えてしまえばあいつの存在を信じるだけのよすがは何処にもない。
 夢だったんだろうか。あるいは、俺が今思ったように何かに化かされていただけなんだろうか。自分の中に渦巻く困惑と疑念を振り払うべく、俺はキッチンへと向かった。何か冷たいものを飲んで心を落ち着かせ、さっさと眠りにつきたかった。
 ミネラルウォーターのペットボトルを開き、食器棚からグラスをひとつ取り出す。
 食器棚を開いた瞬間、俺はまた息を呑んだ。
 そこには曇りひとつなく磨き上げられたグラスが、整然と並んでいた。
「名字」
 思わず名前を呟く。返事はやはり、何処からも聞こえてはこなかった。けれど昨日一日俺と共にいた名字の存在は、俺の夢でも幻覚でもなかった。その証拠は今目の前にある。それだけで十分だった。

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