死ネタ(1)



(※年齢操作・爆豪がプロヒーローになった後の話)
(※本編後のIF小説・夢主死ネタ)

prologue


 一市民の感覚とプロヒーローの感覚にはやはり、それなりにずれがある。クリスマスをハッピーでワクワクなイベントととらえるか、羽目を外しすぎた若者たちを取り締まる繁忙日ととらえるか──その差はあまりにも大きい。
 かくいう私は前者であり、そして私の恋人こと爆豪くんは後者である。
 ゆえに、私と爆豪くんがクリスマス当日に逢瀬をかなえたことなど付き合い始めてから一度もなく、そして私が大学三年、爆豪くんがプロヒーロー三年目になった今年のクリスマスもやはり、私と爆豪くんが共に過ごすことはない──そう思っていた。

 暖房がしっかりときいているにも関わらず、この部屋はどこかひんやりとしている。
「クリスマスの日は仕事だろうから、例年通り二十六日にお祝いしようか」
 そんな提案をしたのは、お風呂からあがって寝る前にのんびりしていたときのことだった。
 ほかの多くのイベントについても同じであるように、クリスマスの予定について、爆豪くんの方から私に何かを言ってくるということはない。ヒーローという職種柄、世間が盛り上がる日は大抵爆豪くんには仕事があるからである。
 世間が大騒ぎする、恋人向きなイベント当日をあけられないことを後ろめたく思っているのかもしれないし、単純にクリスマスなどどうでもいいと、そう思っているのかもしれない。十中八九どうでもいいと思っているだろうとは思うけれど、爆豪くんはあれでなかなか気配りのできる濃やかなところがあるので、クリスマスを一緒に過ごせないことについて、まあ小指の甘皮ほどには私に対する申し訳なさを抱いている可能性もある。
 別にそんなことを思う必要はないのに、と私は頭の端っこで思う。
 受話器の向こうの爆豪くんは何も言わない。ただ、姿は見えずとも頷いた気配がした。付き合いが長いのでそういう仕種は手に取るように分かってしまう。
「それじゃあ何か考えておく。お店はいつものところでいいよね?」
「いいんじゃね」
「はいはーい。そっちは私が予約入れておく」
「おう」
「プレゼント、何が欲しい? また通販で済ませるならそれでもいいけど」
「一緒に買いにはいけねえだろ」
 分かり切っていた返事だ。今度は私が頷いた。
「私はもう欲しいもの決めてあるけど」
「あ? 聞いてねえぞ」
「まあでも言わなくても、爆豪くんは大丈夫でしょ。毎年的確に私の欲しいもの当ててるし」
「当たり前だろうが」
「うんうん、今年も期待してる。じゃ、いつも通り残りの夜勤も頑張って」
「てめえに言われるまでもねえ」
「ばいばーい」
 電話を切り、ふううと長く息を吐きだす。倒れ込むようにして革張りのソファーに身体を沈めた。先ほどバイト先のまかないで食べすぎた夕飯がまだ胃を圧迫している。
 私が大学三年になった今年から、私はなんと、爆豪くんと同棲生活を送っている。
 もともと家から通うには少し厳しい距離に大学があったのだけれど、大学三年でゼミがいよいよ忙しくなってくると、終電近くで帰宅する日も増えた。というか終電を逃すこともしばしばだった。
 高校卒業とともに一人暮らしを始めた爆豪くんの下宿先は我が家よりも大学近くにある。有能そのものな彼は同年代の相棒ヒーローたちよりも随分と好待遇で今の事務所に迎え入れられたらしい。元から見栄っ張りだったことも手伝って、社会人三年目、二十代前半の男が済むとは思えないようなリッチなマンションを塒(ねぐら)としていた。
 そんな爆豪くんの城を、私はこれまでも時折宿代わりに利用していたのだけれど、今年の私の忙しさを見かねた爆豪くんの方から、今年度の初め頃、同棲を提案してくれた。
 彼の住まいは一人暮らしをするのには余りある広さで、爆豪くん曰く「丁度いいからてめえが掃除しとけ」ということらしい。大学生活の忙しさを考えれば私にそんな余裕がないことは明白だ。爆豪くんもそんなことは重々承知しているだろうから、そんなものは言葉だけで、実際のところは単純に同棲の申し入れである。まったく、付き合って五年になるというのに、爆豪くんの変わらない素直じゃなさには恐れ入る。
 そんなわけで、私の両親からの覚えも目出度い爆豪くんは、見事未だ大学生の身である私を『結婚前提の交際のもと』同居人として獲得したのだった。
 めでたしめでたし。
 ではなく。
 ひとりきりの部屋の中、私はソファーに身体を沈めて深く溜息をつく。
 大学の同級生たちには、爆豪くんとのお付き合いのことは一切話していない。高校時代から付き合っている彼氏がいることだけは話してあるものの、相手がプロヒーロー──それも在学中から過激なシンパやアンチを大量に生み出していたヒーロー爆心地であることなど、言えるはずがない。
 もちろんアングラな世界には私の名前もすでに筒抜けなどだろうけれど、それでも一般に知られているかいないかというのは、単純に私に身に及びうる危険度に大きくかかわってくる。これまでにも幾度となく危ない目には遭っているのだ。爆豪くんが自宅に私を呼び寄せたのは、そういう危機回避の側面も多分に含んでいる。
 こんな状況で、爆豪くんが恋人だなんて、わざわざ周囲に吹聴するのは愚の骨頂だ。
 だからクリスマスにひとりぼっちなどという不遇を託つ破目になったとて、それを誰かに愚痴るわけにもいかない。仕方がないので、明け方帰ってきて再び夜勤に向けて仮眠をとる爆豪くんの世話を焼いてやるため、実家にも帰らずひとりぼっちのクリスマスを過ごす予定なのだった。
「あーあ、憂鬱だ……」
 むやみに高い天井をあおぎ、私は溜息をつく。打ちっぱなしのコンクリートの天井にはシーリングファンがゆったりと回っている。
 高校時代はそこまで気にならなかったけれど、いざ爆豪くんが働き始めたからというもの、こういうイベントや記念日を延期されたりすることがとみに増えた。もちろん社会人の爆豪くんの事情を最優先に考えるべきで、お気楽な学生の私は文句を言うべきではないことは分かっている。分かっているから、爆豪くんに向けてその手の文句を言ったことは一度もない。
 私だって分かっている。爆豪君にとって一番大切なのは、私ではなくヒーローとしての活動だ。社会のために働くこと。爆豪くんの生きがいであり、生きる目標でもある。もしも私がそのことに対して不満を口にすれば、それこそ一発アウトで破局に繋がりかねない。
 それでも、考える分には自由だ。思う分には勝手だ。
 几帳面な爆豪くんだから、約束を延期にすることはあっても反故にすることは決してない。遅らせ多分の穴埋めはするし、その穴埋めはいつだって完璧。私をがっかりさせたことなんか一度もない。
 けれど、その日であることが大切なイベントだってあるだろう。その時間だからこそ味わえる感情だってあるだろう。クリスマスって──恋人たちのクリスマスって、そういうものじゃないだろうか。
 ケーキを食べてプレゼントを交換したところで、十二月に二十五日と二十六日じゃ、多分全然違うのだ。同じことをしても、それはもう、決定的に違う。
 考えても仕方がないことだけれど考えてしまう。
 思っても仕方がないことだけれど思ってしまう。
 胸の中に渦巻く憂鬱な気分を振り払うように、私はぱん、と手を打った。今日はもう寝よう。明日の朝、夜勤明けの爆豪くんのことを笑顔で迎えられるように。
 嫌な気持ちを、爆豪くんい悟らせないように。

 と、そんなことを考えていたのが十二月の十八日──クリスマスの一週間前のことである。しかし残念ながら、私が爆豪くんと一日遅れのクリスマスを祝うことはなかった。
 ケーキを食べることも。
 プレゼント交換することも。
 映画を見て笑いあうことも。
 愛の言葉を囁き合うことも。
 およそクリスマスらしいと言えることを私と爆豪くんが行うことは、けしてなかった。
 なぜならば十二月の二十四日──クリスマス・イヴ当日。
 私はクリスマス商戦も最後の追い込みを見せる華やかで騒がしい商店街の真ん中で、爆心地の熱狂的なファンであるOLにめった刺しにされ、死んでしまったからである。

 師走も師走、年末年始に葬儀って親戚に申し訳ないな。
 そんなことをぼんやりと思考して──私は事切れた。

01


 がしゃんと派手な音が耳の届いた。何の音かと辺りを見回し、床にグラスの破片が散らばっていることに気づく。黒々としたコーヒーは床にこぼれて茶色く広がっていた。
「ば、爆心地さん……」
 今年度この事務所に入ったばかりの新米の声が、俺の意識を追いかける。はっとして、俺は視線をあげた。事務所の主、俺の上司がいつになく蒼い顔を俺に向けている。
 クリスマス・イヴだというのに、俺が事務所で受けたのは高校時代から縁の続く女の訃報であった。

「二十四日は爆心地は休んでいい。シフトは調整した」
 上司の言葉に、俺は「っす」と聞こえるか聞こえないかの声で返事をする。
 今年もまた、目が回るような忙しさの十二月がやってきた。プロ入り四年目になった今年は新人指導やら何やらと慌ただしかったが、それでも気付けば一年も終わろうとしているのだから、時の流れは恐ろしい。
 事務所の中は年の暮れらしく大わらわだ。それでもここ──上司の執務室までその喧騒が届くことはない。五階建てのビルをそっくり事務所としており、執務室はその最上階にある。四年目の俺がこの部屋にわざわざ呼ばれるのは、大抵ろくでもない話のときと決まっていた。
 今だって、ろくでもない話の真っ最中だ。
「そのかわり年末年始は働いてもらうぞ。家族持ちのやつから優先で休みを入れる」
「っす」
 デスクについた上司に、俺はやる気のない返事をする。一瞬呆れたように目を細めた上司は、しかし結局何も言わなかった。代わりに、視線を俺から逸らして頬杖をつく。
「爆心地──いや、爆豪。爆豪は年始はどうするんだ。実家この辺だっただろう」
「二十四日休み貰えるならその日についでに顔出すんで、それだけで」
 学生時代には使わなかった敬語がすらすらと口をついて出る。下に示しがつかないからと言われてしぶしぶ敬語を使うようになったが、使い始めれば案外どうということもなかった。
 二十四日。その日付を出すと、上司は一瞬だけ渋い顔をした。それでもすぐ、何事もなかったかのように頷いて見せる。
「お前の実家、そう遠くないだろう。二十五日は出勤にしてるが、どうする。二十五まで休みにしておくか」
「どっちでもいっす」
「そうか……じゃあ、一応非番で、何かあったときの呼び出し要員に回しておくぞ。それでいいな?」
「っす」
「よし、俺からの話はそれだけだ。パトロール行ってこい」
 これ以上ここにいたところで、面白くもない話をされるだけだろう。浅く一礼して、俺はそそくさと上司の執務室を後にした。

 執務室を出ると、そのままエレベーターに乗り込み事務所を出た。十二月の空気は驚くほど冷たいが、ヒーロースーツを着ていれば上着も必要ない。それでもいざというときに全力を出せるよう身体を温めておく必要はある。そのため、パトロール前の運動として俺はいつも事務所のある区画の外縁をぐるりと一周ランニングすることをルーティンにしていた。身体もあたたまり、また頭を整理するのにも丁度いい。
 靴底がアスファルトを蹴る。規則正しい呼吸をしながら、俺は乱雑な思考を取り纏めて脳内整理に切り替える。
 ヒーローになってもうすぐまる四年が経つが、とかくこの業界は常に死と隣り合わせである。雄英という一般にトップ校と呼ばれる高校を出たからには、ほかのクソ高校出身者と比べてそれなりに場数を踏んでいると思っていたが、プロの世界は学生気分でどうこうなるような生易しい代物ではなかった。
 業界に慣れるのに、ひとまず半年。尤もこれは俺がかかった期間であり、切島や上鳴──いや俺以外のほとんどのやつはまず、業界に馴染むだけで一年くらいはかかっていただろうか。地区ごとに一括で行われる新人研修で顔を合わせるたび、同期だったやつの顔が軒並み死んでいたことは今でも覚えている。
 そんな地獄の新人期間を過ごし、やっと仕事のペースに身体が慣れてきたころ。それからさらに一年ほどかけて、簡単な案件であれば単独での仕事を任されたり、事務所の主である上司の名代として会議に出たりするようになる。
 そうしてちんたら経験値を積んでいるうちに、気付けばすでに四年だ。どう考えてもかったるいことこの上ないが、こればかりはいくら俺でもそうそう文句を言ってられない。
 何せ、俺がこの事務所に入ってからの四年で、葬儀に出席した回数はすでに両手両足の指を合わせても足りないほどになっていた。
 その四年目もそろそろ終わる頃である。今年も残すところはあと一週間ほど。毎年クリスマスから年明けまでは目が回るような忙しさだが、それでも昨年までは無事一年を終えた安堵感が少なからずわいていたはずである。今年それを感じないのは、昨年の俺がその安堵感に見事裏切られたからだ。

 葬儀には何度も出席したものの、自分の女の葬儀に参列するのははじめてのことだった。どこにでもいる女子大生だった根暗は、ヒーローをしている俺の女とは思えないほどお気楽で、そのお気楽さは時折俺を激しくいらだたせたものの──というかあいつはかなり意識的に俺をいらだたせて楽しんでいた節があったものの──しかしそれと同じくらい、俺のざらざらした気分を宥めるのに一役買っていた。
 一緒に暮らし始めたのは、ヒーローとしての生活がやっと落ち着いたことと一緒に過ごす時間をうまく捻出できなかったこと、根暗の大学が忙しくなったこと、そして当時の俺はそこそこでかい事件を追うチームの一員で、俺らしくもなくざらついた気持ちの拠り所を求めていたからである。
 根暗は俺が同棲を提案したのは百パーセント根暗のためだと思っていたようだが真実はそうではない。俺が、俺のために提案した。根暗を手元に置いておきたくて提案したことだった。
 しかしまさか、そのことで根暗が──名字が命を落とすことになるとは思わなかった。
 棺桶の中に横たわった名字のうすら白い肌を思い出し、思わずぶるりと震えた。
 対敵活動をメインフィールドにしたヒーロー活動をしている以上、仕事柄凄惨な事件現場に足を踏み入れることも少なくない。あいつより悲惨な死体なんて腐るほど見ている。それなのに、俺は未だにあの死に顔を思い出しては恐ろしくなる。
 真っ白な仏衣の下を、俺は見せてはもらえなかった。あいつの親が見せるのを拒んだのだ。
 しかしそこにあったはずの無数の刺し傷を、俺は未だに想像してしまう。眠っていてすら夢に見る。
 それらはすべて、俺に向けられたどす黒い感情の発露──プロヒーローの俺に向く歪な熱意、そのなれの果てだ。

 あれから一年。たった九か月ほどの間一緒に暮らしただけだが、俺の住むあの部屋には名字の生活の痕跡がしっかりと根付いている。部屋だけじゃない。俺自身、根暗と一緒に生活することに随分と慣れてしまっていた。
 たとえば洗濯のにおい。あいつが死んでから、洗濯はもっぱら乾燥機を使っているせいか、風呂上りに使うタオルからはあいつがいたころのようなにおいがしない。
 たとえば飯の味。何度か招待された根暗の実家で口にしたのと同じ料理の味が、あいつの作った料理からは感じられた。一緒に暮らし始めてから増えた調味料の類を使っても、俺がつくった飯からはあんな味はしない。
 ロボット掃除機を使って一見きれいな室内だが、窓の桟や観葉植物の表面にうっすら埃が積もっているのを見つけたとき、何ともやるせない気分になる。グラスの表面がくもっていたとき、あいつはきちんとグラスを磨いていたことを思い出す。
 一事が万事その調子だ。
 まさかこの俺が、根暗ごときのせいでここまで気が滅入る破目になるとは思いもしなかった。
 気付けばいつものコースを一周し、再び事務所の出入り口前まで戻ってきていた。適度にあたたまった身体が冷えないよう、俺は早足に歩き始める。仕事をしてさえいれば、根暗のことを考えずに済む。
 クリスマスの日にひとりで死んだ、哀れな女の無念を思わずに済む。 

 上司に言われたとおり、二十四日と二十五日は二日続けて休みをとった。この仕事をしていて連休をとれることも少ないが、さすがに学生時代から付き合っていた女の一周忌にまで仕事を詰め込まれるほど、ヒーロー業界も情がないわけではない。少なくとも、俺の勤める事務所はそうだ。俺が何か言うまでもなく、気を遣われる。気遣われるのは好きじゃないが、余計なことを言わずに済んだのは単純にありがたかった。自分の方から休みの申請をするのは、いつまでも根暗を引き摺っていると思われそうで不愉快だ。
 十二月二十四日。
 一周忌当日の今日は平日なので、法要は週末に執り行うらしい。そちらには顔を出せない旨をすでに名字の親には伝えてあり、その代わり今日、線香を上げに行くことになっている。そもそも考えてみれば、根暗を刺し殺したのは俺のシンパの女だ。直接的ではないにしろ、根暗の死には俺も無関係ではない。そんなやつがどの面下げて法要に行けというんだか。行かなくて正解だ。
 枕元の時計に手を伸ばして時間を確認する。午前七時。約束は午後からだから、まだまだ十分に時間はある。二度寝する気分にもなれず、さりとて布団から起き上がる気にもなれない。目を瞑ったまま、ごろりと一度寝返りを打った
 ──と、思ったら、何故だか妙にあたたかい気配がした。いや、布団の中にいるんだからあたたかいのは当たり前なのだが、そういう物質的なあたたかさではなく、あくまで気配のような、そんなものを感じたのだ。
 ──寝ぼけてんのか?
 そう思い、ゆっくりと瞼を開く。
 そして俺は、目を見開いた。
「やっほう、爆豪くん」
「……あ?」
 そこにいたのは一年前に死んだはずのクソ女で、兎にも角にも、そんな風にして今年のクソみたいなクリスマス・イヴは人知れず幕を開けたのだった。

 
02


「は、てめえ……あ˝?」
「出バグやめて」
「誰がバグっとんだてめえ俺ァ正常だわ!」
「うわっ本当だ、通常運行だ。ていうかうるさっ」
 でもよかったあ、と呑気なことを言う名字を見る。知らず知らずのうちに腕がわなわなと震えていた。名字相手に、腹立たしさ由来とはいえ震えを催すことは屈辱だが、しかし今はそんなことを言っている場合ではない。
 俺は素早くベッドのわき──足場が不安定な布団の上ではなくフローリングに立ち上がり、寝そべる名字をきつく睨むように見下ろした。
 一応の間合いはとっている。超人社会といえど、人間のできることには限界がある。死者蘇生なんて馬鹿な話があり得るわけはない。こうなると俺が寝ぼけているか、敵からの攻撃の只中にあるかのどちらかでしかなかった。
 寝ぼけていた方がまだましだが、俺の寝起きは残念ながらすこぶるいい。
「てめえ、どういう了見だァ?」
「了見?」
「クソ根暗女は一年前に死にやがった。そのことを知らねえでやってる馬鹿か、知ってて俺を煽ってやがる馬鹿か」
「いやいやいや、まずは話を」
「馬鹿はぶっ殺さねえとなァ!?」
「こわっ!?」
 先手必勝、言うなり俺は腕を振り上げる。自分の女を殴るのには抵抗があるが、その自分の女はすでに灰になっている。少なくとも本来の名字は。目の前に形をとって存在するはずがないのだから、殴ったっていいはずだ。
 突如として現れた悪い幻覚を打ち砕くかのように、振り上げた腕を名字に向けて思い切り振り下ろす。ヒーロースーツと違い籠手をつけていない腕の軽さに一瞬身体がぐらついた。しかしすぐさま体勢を立て直し、全体重を拳に乗せ、ぶん殴った──はずなのだが、俺の拳はずぼりと音を立て、名字の横になったマットレスに深く深く沈んだ。
「な……っ!?」
 思わず言葉を失う。マットレスに沈んだ拳、そして腕は、名字の身体を貫通していた。
 当たった感触は、ない。俺の肩から先は名字の身体に突き刺さり、そして拳の先だけが貫通して見えてるような状態になっている。
 状況が把握できないが、とにかく俺の拳は根暗をすりぬけた。俺の拳の問題ではなく、恐らくはこいつが実体を持っていないのだろう。
 その名字は顔をひきつらせ、顔色を真っ青にしていた。
「こ──怖い! 待って、待って本当に待って! 怖い! いくら当たらないって分かってても怖い! トラウマになる!」
「てめえ、殴った感覚がねえってことは幻覚か? 実体のないてめえを送り込んだ本体がどこかにいやがるってか?」
「話を、話を聞こうか爆豪くん! 話し合いのテーブルについてこその文明人だと思うよっ」
「そのうざってえ喋りの再現度だけは認めてやってもいいがな! クッソ腹立つ!」
「再現じゃなくて本人、本人だよう! 爆豪くんの可愛い彼女の名字名前だよっ、中学時代に爆豪くんを骨抜きにしたあの根暗女だよっ」
「捏造すんな!」
 誰が骨抜きにされたものか。どちらかといえば骨抜きだったのはてめえだろうが──そう言いかけて、しかしそれはさすがに事実誤認であることに気付く。
「ええー……じゃあアレ、初キスは爆豪くんの部屋だったでしょ!? ほら、これは捏造じゃない!」
「……」
 俺の拳に身体を貫通されたまま、名字らしきものは必至で言いつのった。その様子は生前腹立たしいまでに俺に対して強気だった名字とはかけ離れている。が、今こいつが言った情報だけは、たしかに事実だった。
 はじめてこいつとキスしたのは、俺の部屋だった。たしかあれは雄英が全寮制になる直前のことだったはずだ。高校一年、今から五年以上も前のことになる。
 そんな昔のことを俺はこれまで誰にも話したことはない。学生時代は今以上に恋愛の話なんか周りにしなかった。多分名字もそうだろう。あいつは俺と違ってダチと恋愛話をすることもあったが、俺の体面を気にしてか、そういう詳細については人に話さないようにしていたようだった。
 したがって、今の情報は俺と名字しか知り得ない情報である。本人と確定するのには、なかなか頼りになる情報だ。
 ベッドの上でびびりちらす名字を、拳をおさめた俺はしばしじっと見つめた。感触こそなかったものの、姿かたちが五年半以上付き合った小賢しい女のものであることは疑いようのない事実である。そのことはこいつの男だった俺が一番よく分かっている。
「ヒーローとしての爆豪くんをこんなに目の前で、というか実際殴られる側として見るのはじめてなんだけど怖すぎない? そりゃアンチ湧きますよまじで」と相も変わらず減らず口を叩くさまは、俺のよく知った根暗である。必死の抵抗は根暗らしくないものの、しかし自らの命が危機にさらされている状況ともなれば、あのくらいの抵抗はするだろう。
 もっとも、その命はすでに失われているはずなのだが。
 依然として臨戦態勢はとっているものの、ひとまず攻撃の意志はないと判断したのだろう。名字はそろりそろりと体勢をなおすと、床に仁王立ちしている俺をベッドの上から上目遣いで見た。
「どうしたら信じてもらえる……?」
「んなこたァてめえで考えろ」
 まだ敵である可能性がぬぐえない以上、余計なヒントは与えるべきではないだろう。もしかすると、考えたくないことだが生前の名字の記憶をそのまま流用して作り出された幻覚である可能性もある。そうなると本人である、敵の手ではないと証明することはかぎりなく不可能だ。事実ではないということを証明するのは難しい──まさに悪魔の証明である。
 そのことに気づいているのかいないのか──当の名字は困り果てたと言わんばかりに眉尻を下げた。
「ええー……そうだな、爆豪くんの好きなエッチの手順とか──痛ッ!? くはないけどなんでいきなりクッション投げるの」
「てめえはクソくだんねえ話するからだろが! 刺されて頭おかしくなったんか!?」
 自分でもどうかと思う言い草だが、しかし名字の方がもっとどうかと思うことを言っている。こいつ、やっぱり贋物なんじゃないだろうか。
 というか、俺の拳は貫通したのにクッションには当たるのか。名字に当たって跳ね返ったクッションを見下ろし、俺は思う。どういう状態なんだ。
「てめえまじで何なんだ。気が狂った根暗の怨霊か」
「怨霊って、また思ってもないことを言うんだから。爆豪くんそういうの信じてないでしょ」
 知ったような口を利く名字に舌打ちをひとつ打つ。名字は構わず続けた。
「それに気が狂ったっていくら何でもひどくない? いや、だってこんな下ネタでも言ってないとやってらんなくってさー。何せ私、死んでるし……」
 と、そこで名字は、何やら妙案を思いついたと言わんばかりに「あ」と呟いて見せた。そしておもむろに着ていたセーターの裾に手をかけると、中に着ていたインナーごとそれをべろんと捲り上げる。
 一瞬色仕掛けかと呆れかけ──しかし俺はすぐさまその露出した肌に目を奪われる。
 うすっぺらな白い肌には、生前にはなかった無数の刺傷が──赤黒く、抉るような傷口が無秩序に並んでいた。部位によっては無傷の部分の方が少ないのではないかというほど、肌という肌が、刃物によってずたずたに蹂躙されていた。
 一般に刺傷と言われれば身体にずぶりと差し込むような傷口を連想する。傷口は刃物の形そのままの、そんな傷を思いつく。実際、調書を読んだ俺はそう受け取った。司法解剖の結果には目を通していない。
 けれど名字の腹部にあった傷は、傷の数々は、そんな甘っちょろいものではなかった。ずぶりと深く貫かれた傷、浅くえぐるような傷、皮膚を裂くような真一文字の傷──調書を読んだ記憶では凶器は一般家庭にあるような出刃包丁だったそうだが、その出刃包丁でつけられるうる限りの傷をつけられているのではないかというような有様だった。怨嗟の声が今にも聞こえてきそうだ。
 酸っぱいものが喉の奥に込み上げる。朝食をとる前でよかったと心の底から思った。
 よくよく見れば名字が今着ているセーターは生前最後に身に着けていたものであり、胸のあたりから裾まで、もとの黒い毛糸が濡れるように濃くしみになっている。
 何てことはない──腹部の無数の傷から流れ出た血が、黒いセーターをさらに深い黒に染めていたというだけの話だ。
 こいつの親がどうして遺体の腹部を俺に見せなかったのかが、これでようやく俺にも分かった。まさか名字も、一応は自分の男である俺にこんなひどい状態の肌を見られたくもないだろう。親からしてみれば精一杯の親心だったに違いない。
「これで信じてもらえる? あれだったら、刺されたときの状況とかも説明するけど……爆豪くんならその辺全部調書確認してるだろうし」
 どうする? と、なおも眉尻を下げて俺を見る名字に、俺はそれが本人であることを認めないわけにはいかなかった──名字本人の霊であることを。

03


 寝起きの俺を襲った理解不能な事態に頭を抱えつつ、ひとまず俺は朝食の準備をすることにした。
 何はなくとも名字が相手である。名字を相手に朝一で動揺させられるという不覚をとった以上、ここからは是が非でも俺のペースで話を進めていきたかった。
 たとえ霊が相手であっても、俺が不覚をとるわけにはいかないのだ。
 冬の朝の光が窓から差し込んでいる。昨日までは曇天だったが、今日は快晴だ。霊が快晴の朝に出るというのも妙な話だと思いつつ、夜間に出られるよりもましかと思い直す。
「今日の朝ごはんなに?」
 キッチンに向かった俺の後ろを、ベッドから降りた名字がのろのろとした足取りでついてくる。ちらりと確認するが、足はきちんとつま先まであった。霊だからといって足がないとは限らないらしい。
 霊らしくもない、厚手のタイツをはいた足。生前の名字は随分と寒がりだったが、こいつは今も寒いとか暑いとか感じるんだろうか。さっきクッションを投げたときは当たりはしたものの痛くないと言っていたから感覚は根こそぎ死んでいるのかもしれない。
 いや、俺はまだ霊なんてものを認めたわけじゃないが。
「ねえ爆豪くん、今日の朝ごはんなに? ってうわっ、食洗器に洗い物入れたまんまだよ。片付けてから寝なよ」
「うるせえ」
「年の瀬で忙しい時期なのは分かるけど。ていうか今更だけど今日休みなの? クリスマス・イヴによく休みとれたね」
 それはイヴの日にこいつをひとりきりにした俺への皮肉のつもりだろうか。じろりと睨むが、名字の表情を見る限りそういうわけではなさそうだった。まあ名字は皮肉や嫌味を言うよりも直球で俺に文句を言ってくるタイプだ。
 冷蔵庫の中を覗く。パックのままつっこんだ卵と、ベーコン。冷凍庫には食パンも入っている。
「てめえは」
「え?」
「朝飯。食うんか」
 そう尋ねると、名字がぽかんとした顔で俺を見た。間抜け面。
 霊が飯を食うのかは定かではないが、ここで何も用意せずに文句を言われるのも面白くない。一応聞いてやったまでだ。
 返事を促す俺の視線を受け、名字は何故か一度目を伏せる。再び視線を上げたとき、名字は笑って言った。
「……食べよっかな。爆豪くんのつくった朝ごはん、久し振りに」
「座って待ってろ」
「手伝う?」
「いらねえ」
 名字の顔を見るのを避け、俺はあいつをキッチンから追い出した。
 どうやら死んでもまだ、馬鹿は治ってないらしい。

 ヒーロー活動は身体が資本だ。人よりは頑丈にできているとはいえ、ケアもせずに無茶をすれば摩耗し、やがてガタが来る。睡眠と飯は生活の基本であり、飯に関して言うのならば適当な出来合いに口をつけるより、多少面倒でも自炊をする。それは学生時代も今も変わらない。
 料理なんて、できて当然だ。包丁を使えば切れるし、鍋に入れてコンロを回せば火は通る。調味料を適量適当に入れれば味は調う。当たり前にできることで、今も昔も俺は料理をすることで困ったことは一度たりともない。
 いや、正しくは名字と一緒に暮らすまで──名字が死ぬまでは困ったことがなかった。
 それまで俺は何でもひとりでこなすことができた。家事全般だってそこそこにやれる。料理だって、当然できる。それが狂ったのは、俺の生活に名字が組み込まれてからだ。
 共同生活をする以上、家事の分業は基礎の基礎である。名字をこの家に置くようになって、俺は当然、家事の一部を──というかおよそ半分をあいつに投げた。時には並んで台所に立つこともあった。
 そんな生活をしていた代償。俺らしくもない、他人を当て込んだ生活のツケが今回ってきたというわけだ。それまで自分でできていたはずのことの一部が、俺にとってはいつのまにか名字の仕事になっていた。名字の存在を、無意識下で勘定に入れてしまう。
 グラスを磨くことも、窓の桟の埃を拭くことも。
 料理中に調理台の上を片付けることも。未だに俺は名字がいたころと同じように振る舞ってしまう。そして手つかずのそれらの片付けをするとき、何とも言えない遣る瀬無さを抱える破目になるのだ。
 こんなのは俺らしくないと分かっている。俺はそういう弱い人間じゃない。人を頼らなければ生きていけないような腑抜けじゃない。なのにそう思えば思うほど、どんどん泥沼に嵌っていくような気がする。泥濘に足をとられ、二進も三進もいかないような状況に身を置いているような気がしてならない。
 この俺が。女のことごときで──根暗のことごときで。
 むかむかとした腹立たしさを感じながら、ベーコンがじゅうじゅうと音を立てて焼けるフライパンを睨みつけた。

 ベーコンエッグとトースト、サラダとヨーグルトの小皿、ついでに淹れたばかりのコーヒーまでそろえてダイニングに持っていく。テーブルについてぶらぶらと足を揺らしていた名字は、皿を持ってあらわれた俺の方を見て目を輝かせた。
「すごーい、爆豪くん一人暮らしなのにちゃんと生野菜が常備されてる。さすが」
「当たり前だろうが。前からそうだわ」
「いやー、そうだけど、そういうことじゃなくてさあ」
「うるせえ、黙って食えや」
「はいはーい」
 フォークを持ち、ベーコンエッグを口に運ぶ。咀嚼し、嚥下する。
 名字のその一連のその動作を確認してから、俺もようやく自分の分の朝食に手を付けた。
 朝食を食べながら名字が話した言葉は、にわかには信じられないような、突拍子のないものだった。
「どういうわけか分からないんだけど、朝起きたらここにいたんだよね」
「起きたら、」
 それではまるで、この一年眠っていたかのような言いぐさだ。こいつが死んだのは事実だし、俺は月に一度は墓参りもしている。ただ寝ていただけとはわけが違う。
「私の感覚では一年間よく寝たな! みたいな感じなんだけど」
 とりあえず、一発ぶん殴ることにした。フォークを置き、椅子を立つ。軽く握った腕を、テーブルの向こうの名字の耳に向けて水平にぶん回す。
 腕は名字の耳をすり抜け、反対側の耳へと抜けた。
「ちょっと、前置きもなく殴るのはやめてよね。いくら痛くないからってびっくりはするんだよ」
「当たんねえ」
「あはは、やっぱ霊体? ではあるのかあ」
 ものには触れるんだけどな、とフォークを扱い言う。俺が触れられないのか、そもそも人間に触れることはできないのか──その辺りは分からないが、とにかく実体をまるで持たないわけではなく、しかし実体を持つわけでもないということは分かった。
 つまり、何も分かっていないのとほとんど同義だ。
「さっき爆豪くんのことを待ちながら確認したけど、ガラスや鏡には映らなかったよ」
 名字が自分のマグカップの上に手を翳す。しかしコーヒーの表面にはペンダントライトの光が反射するばかりだ。
 恐らく、だが──
「多分、爆豪くんにしか見えないと思うよ」
 俺の思考と重なるように名字がつぶやいた。俺は思わず舌打ちをする。
 物体にその姿かたちを映すことなく、俺の拳も届かない。どういう原理で飯を食ったり物に触れているのかは不明だが、しかし尋常ならざる状態であることは事実だ。すでにこいつが死んでいるはずだということを鑑みても、俺が今こいつを目視できていることの方が何らかの異常だと思った方がいいだろう。
 これを奇跡とするか災厄とするか、その判断は簡単にはできない。
「クソが、気でも狂ったか?」
「いやいや、狂ってない。私は正常だよ」
 へらへら笑う名字に俺は再び舌打ちを打つ。
「てめえじゃねえ。俺がだ」
「えっ、そんな、爆豪くんともあろう人が自我を疑っちゃだめだよ。気を強く持って! いや、生前爆豪くんに気を強く持ってほしいとか一度も思ったことなかったけど!」
「死んでもてめえのクソみてえな減らず口は治らねえのか? あ˝ァ?」
「ていうか、何。元気じゃん爆豪くん」
「てめえに心配されるまでもねえわ」
「私が死んでもっとへこんでるかと思ったのにー」
 しれっとそんなことを言って。名字はトーストに齧りついた。どうリアクションすべきか分からず、俺はとにかくぶすりと名字を睨んだ。

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