夢主幼児化



(※Twitterログ)

 爆豪勝己は怜悧な人間である。かあっと頭に血が上りやすいところはあるものの、基本的には視野は広く、状況判断の能力にも長ける。咄嗟の判断をすぐに実行する身体も持っている。
 それは天性のセンスと、そしてそのセンスの上に胡坐をかくことなく──まああぐらをかいたりもしているけれど──日々弛まぬ鍛錬を積んでいるからこその実力だ。全国から優秀なヒーロー志望者が集う名門・雄英高校にあって、だから彼は、ほかの学生とは一線を画す実力を持っていた。
 爆豪自身、そのことはよくよく理解している。自分が才能のかたまりであり、周囲は必ずしもそうではないということ。自分がナンバーワンであることに拘るのは、ナンバーワンにふさわしい人間であると自負しているからでもある。
 しかしそんな彼をもってしても、現在爆豪の目の前で繰り広げられている光景は、そう易々と受け入れられるものではなかった。

「…………」
「おにいさん、だれ? わたし、なんでこんなところにいるの? ここはどこ? ……ゆうかい?」
「ちっげえ……!」
「くちわるいよ」
 生意気な台詞をはく目の前の少女に、爆豪はげんこつを落としそうになるのをぐっと堪える。混乱の最中にありながらも、爆豪にもそのくらいの理性は備わっていた
 目の前には見たところ小学校に上がるか上がらないか──その年頃のこどもについては爆豪は詳しくないので判断がつかないけれど、とにかく、普段の爆豪の生活においておよそ接点を持つこともないであろう、幼い女の子が、棒立ちになった爆豪の目の前に立っていた。耳の横でツインテ―ルに結わえた髪と、幼女らしいワンピース。肩から提げたうさぎの頭のかたちのポシェット。そんなティピカルでべたべたな幼女ぶりを発揮しているのは、ほかでもない名字名前──爆豪の彼女だった。

 果たしてどういう経緯でこんな事態に陥ってしまったのか──ひとまず幼女がふらふらとどこかへ行ってしまわないよう、その細腕をしっかり握り、爆豪は考える。
 ここのところ何かと忙しく、爆豪と名前はしばらく顔を合わせていなかった。電話やメッセージのやりとりは欠かしていないものの、最後に直接会ったのは三週間前だ。そろそろ一回くらい、どうにか飯でも食いに行くか、と爆豪が考え始めたそんな折だった──非通知で名前から電話がかかってきたのは。

 度重なる敵からの襲撃と、個人的に拉致されたこれまでの爆豪の対敵経歴からして、爆豪は人一倍周囲には注意を払っている。オールマイトの引退の件は、傲岸不遜で自意識過剰気味な爆豪にすらそうさせる、一大事件だったのだ。
 そういうわけで、普段の彼ならば非通知の電話などとったりはしない。というより、自分の方から用事がないような相手の電話をとる義理がない。当然その日も、一度目にかかってきた電話には無視を決め込んだ。
 けれどコールがやんだとほぼ同時に、名前からのメッセージを受信し、事情が変わった。二度目の電話は、とらざるを得なかった。
 爆豪が受信したメッセージの内容が「電話に出て」の一文だけだったからだ。

 名前からの電話であれば、わざわざ非通知にする必要がない。だからこれは何かしらの事情があったのだと、その程度のことを類推するのに時間はかからない。その手の悪戯をするタイプでもない。基本的にはまじめな人格を持つ名前のことを、爆豪はそれなりに信用していた。
 二度目の電話をうけ、爆豪は無言で電話相手の言葉を待つ。

「雄英の門の前に女を置いてきた」

 と、電話の主はたったそれだけ伝えると電話を切った。爆豪が何かを追求するより先に。そうして爆豪が急いで寮を飛び出し校門の前を見に行ったところ、電話のとおり名前がいたのだった──爆豪が知る彼女よりも、十歳ほど幼い姿で。

 ★

「えっ!? なに、どういう状況!?」
 そう叫んだのは麗日だった。
 校門前で名前を回収したまではいいものの、しかし爆豪はこどもの扱いには慣れていない。先日の仮免補講ではマセガキ小学生たちを相手に奮闘もしたけれど、爆豪が相手にしていたのはほとんど男子だった。それも攻撃的なタイプの男子だ。名前のような女児は、爆豪が相手取るには苦手なタイプである。

 名前に完全に警戒されながらも爆豪が校内まで引っ張りこめたのは、ひとえに名前が「反抗しない方がよさそうだ」と判断するだけの分別を持ったこどもであったことと、引っ張って行った先が学校であるということによる。
 ひとまず自分ひとりではどうにもならないと悟り、幼い姿の彼女の手を引き寮に戻ってきた爆豪である。念のため彼女が放置されていた校門のあたりを隈なく調べても見たけれど、怪しい人物はおろか、ほかの人が通った形跡さえほとんど見つけられなかった。
 全寮制になってからというもの、教師も生徒も校内である程度の生活が完結するため、雄英高校は人の出入りが極端に減った。生活用品や食材の搬入業者は裏門から出入りするため、正門は却って人通りが少ないのだ。目撃者も期待できそうにはない。

 そんなわけで──麗日の目の前に差し出された名前だった。困惑したようにきょろきょろと周囲を窺っている。まるで逃げ場を失くした小動物のようだった。
 爆豪が手をはなす。すぐさま握られていた手を引っ込めると、小さな歩幅で麗日の方に歩み寄っていった──言い換えれば爆豪から距離をとったということでもあった。

「これ──この子、名前ちゃんの妹かなんか……?」
 矯めつ眇めつする麗日は、視線を名前に合わせたまま爆豪に尋ねる。それに対する爆豪の返答はシンプルなものだった。
「本人」
「本人って、え!? どっ、どういう」
「知らねえ。呼び出されて行ったらそいつがおったから、回収してきただけだ」
 言いながら、寮に人が少ない日でよかったと思う。爆豪の知る限り、今この時点で寮の中にいるのは爆豪と麗日、緑谷、そして口田と障子だけだ。騒ぎそうな面子は都合よく出払っていた。カラオケに行ったらしい。呑気か。

 ははあ、と息をもらしながら、麗日ががしゃがみこんで名前と目を合わせた。一切視線の高さを合わせることのないまま、半ば強引にここまで名前を引っ張ってきた爆豪とは違う。こどもに接することに慣れていそうな麗日のその所作に、ここまでとりあえずついてきただけの名前はあからさまにほっとした顔をした。
「えーと、名前ちゃん? なんだよね?」
 半信半疑でそう問いかける麗日に、名前はこくりと小さくうなずく。
「おねえさんは? このおにいさんのなまえも、きいてないですけど。なんなんですか」
「えっ、爆豪くん名乗ってないの? なんで」
「聞かれてねえ。知っとるもんだと思っとったわ」
 とはいえ、自分はきちんと名前の名前を確認し、本人であることも確認している。名乗り忘れたのは単純に相手が名前ならば知っていて当然だと思っていたからだ。普段の爆豪ならばそれでも一応名乗るくらいはするかもしれないけれど、如何せん状況が状況なので、そこまで気が回っていなかった。さしもの爆豪でも混乱することはある。

 しかしそんな事情を、今の名前に忖度しろという方が無茶である。背後に立った爆豪の方に少しだけ視線を遣って、
「しりません。だれ、ってさいしょにききました」
「あ˝ァ?」
「ちょ、ちょっと! こども相手に凄まんとって!」
 ばちばちと火花が散りそうな視線を交わす爆豪と名前に、慌てて麗日が仲裁に入った。

 そも、名前は爆豪のようなタイプを好きではない。中学時代、爆豪のことを毛嫌いしていたのも、単に爆豪が緑谷に理不尽な暴力を強いていたことだけが理由ではない。そして中学時代の名前ならばまだしも、このころの名前には人への嫌悪感を隠すほどの情緒はない。
 睨みつけた爆豪に対し、名前ははっきりと言った。
「おにいさん、こわい。わたし、おにいさんとははなしをしたくありません」
「なっ」
「そうやってうえからものをいうひと、わたしいやです。はなしかけないでください」
「て、めえ……!」
「爆豪くんはとりあえず先生のとこ言ってきたら!? まだ相談しにいってないよね!?」
 麗日の言葉に、爆豪は言い返そうと口を開く。しかし、結局舌打ちをひとつ打っただけで、くるりと踵を返すと部屋を出て行った。

 ★

 部屋を出た爆豪は、ひとまず職員寮へと向かうことにした。日曜なので詰めている教師は少ないものの、問題の多いA組担任の相澤はよほどのことがない限りは職員寮に詰めている。彼の場合は無駄を嫌う合理主義者なので、移動の時間すら無駄と切り捨て職員寮に寝泊まりしているという側面も大いにあるけれど。
 職員寮のインターホンを押すと、すぐに相澤が顔を出した。普段と寸分たがわぬ黒装束である。首に捕縛武器を巻いていないことで、かろうじて彼がオフであることが分かった。
「なんだ、爆豪。珍しいな。緊急事態か?」
「話が早ェな」
「お前が来るってだけでそのくらいは想像がつく」
 はっきりそう言い切られ、多少は居心地の悪い気分になる。

 この場で頼ることができるのは教師陣だが、その中でも今回のようなケースであれば相澤を頼るのが最適解だろう。彼の個性を考えれば、名前を元に戻すのに相澤は適任である。すでにこどもの姿になってしまっている以上、相澤の個性ではどうにもならない可能性は高いものの、試してみる価値はあった。
 というか、こどもの姿とはいえ部外者を勝手に校内に入れているのだから、教師にそのことも話さねばならない。もろもろ踏まえて、爆豪が相澤のもとを訪れたのは、それしか対策を思いつかないからだった。

「面倒は勘弁してほしいんだが。どういう向きの話だ?」
「多分──個性事故」
「多分? そいつは随分曖昧な言い方だな」
「実物見てもらった方が早いと思う」
 爆豪の煮え切らない言い方に、相澤は暫し沈黙した。これで相澤を呼びに来たのが上鳴や緑谷であれば、もう少し詳しく話せというところだ。けれど相手は爆豪である。如何なる問題であろうと、それが状況説明をしなければならない問題であれば過不足なく説明するはずだ。その爆豪が説明を渋っているのだから、やはりここは実際の問題を自分の眼で確認すべき事案なのだろう。頭が痛む。
「……支度するから待ってろ」
 溜息をつきながら職員寮の中に戻っていく相澤を、爆豪は黙って見送った。

 ★

 ところ変わって、A組生徒寮──ハイツアライアンスの談話スペースでは、名前が麗日にジュースを注いでもらったところだった。爆豪が去ってすぐに騒動を聞きつけた緑谷たちも階下におりてきたのだが、名前が余計に混乱するということで、今は同性の麗日がひとりで対応している。

 オレンジジュースの入ったグラスを両手でかかえるように持ち、ごきゅごきゅと飲み干していく。
 秋も深まってきたころ、気温はそう高くない。それでもこの飲みっぷりである。よほど緊張していたのだろうと、麗日は名前を不憫に思った。

 喉を潤し終えると、名前はソファに並んで座った麗日を見た。その瞳からは困惑の色はだいぶ薄れているものの、まだ完全には警戒を解いてはいないようだった。麗日は人に警戒心を抱かせるタイプではないし、名前に対して十分すぎるほどに心を開いている。この警戒心は麗日のせいではもちろんなく、単純に名前の性格の問題だった。
「うららかさんは──」
「お茶子でええよ、私も名前ちゃんって呼んでるし」
「……おちゃこちゃんは」
 少し躊躇った末、名前は瞳を伏せて麗日の名前を呼んだ。
「おちゃこちゃんはさっきのひと……ばくごうさんとともだち?」
「うん、同じクラスのお友達だよ」
 麗日の返事に名前は顔を曇らせた。おや、と麗日は思う。名前が口を開く。
「そっか。……あのね、わたし、ばくごうさんのこと、すきじゃない。ああいうこ、こわいもん」
「あー……爆豪くんも悪気があるわけでは……」
「あくいなくひとをいかくするの、もっといやだよ」
「正論すぎて何も言えへん」
 麗日が苦笑した。この場に爆豪がいなくてよかった。いたら確実に激昂し、名前との関係を余計に拗れさせ──そして多分、その後ふつうに傷つくだろうから。

 爆豪はあれでなかなか名前のことを大切にしているというのがA組女子の総意である。爆豪本人はけして認めはしないだろうけれど、それは名前と一緒にいるときの爆豪を見ていれば、嫌でも察することができた──名前自身がそのやさしさや愛情に気が付いているかは別として。
 恋する男子であるところの爆豪と、その相手である名前。ふたりがどういう経緯でここまでの関係になったのかを、麗日は知らない。爆豪はそういう話をおおっぴらにするタイプではないし、名前も爆豪のイメージを尊重してそう多くを語ることはない。ただ、ふたりが不器用で、多少不格好なりにもうまく付き合って行っていることだけは分かっていた。

 ──爆豪くんのためにも、はやく元に戻るといいなあ。
 麗日がそんなことをぼんやりと思っていると、名前が麗日のシャツの裾をつんつんと引っ張った。
「ねえ、おちゃこちゃん。ひとつ、きいてもいい?」
「ん? どうぞ」
「わたし、おちゃこちゃんたちとどういうかんけいなの?」
「どういうって──友達、だよ」
「ともだち……」
 その言葉に、釈然とせず名前は繰り返す。まるで自分と爆豪──は言うまでもないとして、自分と麗日が友達であるということが不思議で仕方がないようだった。それはただ単に年の差がどうとかそういう問題ではなく──もっと根本的な、深いところで違和感を感じているような。

 麗日も名前のその反応を不審に思ったのか、わずかに首を傾けて尋ねる。
「なんで? 年が離れすぎてるから変だって思う?」
「そういうわけじゃ……ないけど」
 きょときょとと視線を泳がせ、名前は言いよどむ。暫し思案するように幼い顔を顰め、やがてすうと息を吸い込むと、何でもないとでもいうように──はっきりと言った。
「わたし、ともだち、いないから」

 果たして、五歳の女の子がそのことばを口にするのにどれだけ勇気が必要か──その事実に思いを馳せ、麗日ははっとする。
「わたし、こせいがないから──ようちえんにともだちになってくれるこなんていなくて。だから、よくわかんない。おちゃこちゃんがともだちなのが」
 淡々と告げる名前のことばを、麗日はただ黙って聞いていた。
 名前の個性の発現が遅かったことを麗日は知らない。中学の頃まではよく知られた話であったけれど、高校に進学し小学生時代の名前を知るものもいなくなった。緑谷や爆豪はそういうことを吹聴することもないので、今名前の周りにいるのは高校の友人も雄英の知り合いも、基本的には名前の個性の事情を知らないものばかりだった。

 そしてまだ小学校に入学してもいないこの頃の名前には、個性が発現していない。遠くない将来に個性が発現することを知らず、本人が自分は無個性であると思い込んでいるのも無理からぬことだった。
 ふう、と息を吐く。そんな名前の頭に麗日がぽすんと手のひらを置くと、そのままゆっくり撫でた。
「ねえ、名前ちゃん。お友達になるのに個性とか関係ないよ。お姉さんは名前ちゃんのお友達」
「ともだち……」
「あのね、今、名前ちゃんは不思議なパワーでちいさくなっちゃったんだ。本当は名前ちゃんも私や爆豪くんと同じ高校生なんだよ」
「……そんなのしんじられないよ」
「だよねえ。私もまだ本当はびっくりしてるところ。それで、高校生の名前ちゃんと私たちは個性があるとかないとか、そんなの関係なく仲良しだったんだ。だから、ちっちゃい名前ちゃんともお友達になりたいな」
 くすくすと笑う麗日に、つられて名前も笑った。この短時間の間に、麗日と名前はすっかり打ち解けていた。

 ぽかぽかと窓から差し込む陽があたたかい。職員寮へと向かった爆豪がそろそろ帰ってくるころだろうか。
 ──小さくなっちゃった名前ちゃんは災難だけど、でも、こうやって色々お話できたのはよかったな。
 相変わらず名前の頭を撫でながら麗日は思う。幼児化なんて不可思議な現象、十中八九誰かしらの個性によるものだろう。一体誰が、何の目的でそんな個性を名前に対して使用したのかは分からない。元に戻ることができたとして、今のこの会話を覚えているかも分からない。
 けれど、今こうして話すことができてよかったと麗日は思う。級友の彼女としてだけでなく、同じ恋する女子として。片や両想いを満喫中、片や想いを胸の奥底に秘めることに決めたところではあるけれど。

「おちゃこちゃんのいうこと、ふしぎだね。でも、わたししんじるよ」
 と、名前ははにかんで笑う。心の底から嬉しそうな笑顔だった。
「信じてくれるの? 名前ちゃん」
「うん。だっておちゃこちゃんは、うそ、つかなさそうだから」
「ふふ、ありがとうね」
「さっきの、ばくごうさんも、ほんとうのわたしのともだち?」
 名前の質問に麗日は苦笑した。名前がこうも爆豪に対して苦手意識を持っている以上──そしてまだ幼稚園児である以上、名前と爆豪が恋愛関係にあることについて麗日の口から明言するのは憚られた。

 しかしそうなると、どう表現したものかも悩ましい。腕を組み、麗日はうーんと唸る。
「うーん……あれは友達いうんかな……」
「やっぱりともだちじゃないんだ……」
「どうだろう? でも私より爆豪くんの方がきっと名前ちゃんと仲良しだったと思うよ」
「ええー……? ほんと? それはさすがにうそじゃない?」
「そんなに疑わんくても」
 それでも納得しない名前に、麗日は思う。幼児名前を拾ってからここに連れてくるまでのあの短時間に、一体何をしでかしたんだと。そしてやっぱりこの場に爆豪がいなくてよかったとも。
「わたし、あんなにこわいひととともだちになれるかな? ほんとはいじめられてたんじゃない?」
「いじめられてへんよ。だって爆豪くん、名前ちゃんのこと大好きだもん」
「ええええー……それはうそだよ」
「嘘じゃない、嘘じゃない。あとで爆豪くん戻ってきたら聞いてみ? 多分教えてくれるよ」

 ちょうどその時玄関の扉が開く音がした。爆豪と相澤が連れ立って共同スペースに入ってくる。名前を見るなり、相澤は露骨に顔を顰めた。
「誰だ、この子は。誰の知り合いだ」
「……俺」
「爆豪の親戚か何かか? 部外者を敷地に入れるのは──」
「違うんです、先生」
「……なに?」
「この子、名前ちゃん──爆豪くんの、恋人です」

 ★

「……」
「……」

「腹、減ってねえか」
「……うん」
「……」
「……」

 あの後──
 目の前の幼女を恋人だと紹介したことで相澤があらぬ誤解をしかけたものの、そこは麗日の必死の説明で何とか乗り切ることができた。ほかでもない麗日の言葉足らずの紹介のせいによる誤解なので、責任をとっただけなのだけれど、それはさておき。
 現在の名前の状態についておおまかな事情を説明したのは麗日、それ以前に爆豪に謎の非通知電話をかけてきた人物のことを説明したのは爆豪である。相澤の個性によって幼児化をもとに戻す試みもしてみたものの、やはり効果はなく、結局校内にいた校長やリカバリーガールの知恵も拝借し、ひとまずは『様子見』ということになった。
 こういった事例は前例がなく、『幼児化』、あるいは『退行』といった個性をもつ該当者もデータベースに記録はないらしい。今回の場合は特に、被害に遭っているのが一般人であることもあって警察が介入する流れになっている。それでも『様子見』なのは、名前が幼児化するのに伴い思考も退行していることと、犯人を見ていないためである。

 校長曰く、
「この手の個性は時間経過とともに自然と効果が切れるものが多い。さすがに本校の生徒ではない以上この子のご両親に連絡は入れるが──まあ様子見をするしかなさそうだね。うん、心配しなくてもきっと大丈夫さ」
 ということらしい。少々楽観的すぎるような気もしたが、しかし人類以上のスペックを持つ校長の言葉には従わないわけにもいかなかった。
 そんなわけで、現在名前の身元は恋人である爆豪が引き受けている。名前の両親とは連絡がついているものの、雄英で保護してくれているのならばその方が安心だ、と、こちらも様子見を決め込んでいる。この親にしてこの子あり。

 爆豪の私室、壁際に置かれたベッドの上にちょこんと腰掛けた名前は、いまいち感情を読み取りづらいむっとした顔で反対側の壁を見つめていた。もとより愛想のいいこどもではない。その上、この時期の名前は無個性であると思い込み、周囲との関係も悪かった。どうしても態度が頑なになってしまう。先ほどまでの多少打ち解けた空気は、麗日が相手だったからこそのものだろう。

 無愛想の爆豪と、無愛想の名前──どう考えても会話が弾むはずがなかった。
 室内に沈黙がおちる。よくよく考えてみれば、名前と爆豪との会話はほとんど名前から話題を振っていて、しかも爆豪がそれに答えるときでも半分近くは暴言だった。いくら同じ人物と言えど、人間としてある程度成熟しつつある高校一年生の名前と、目の前の名前が同じような会話をすることなどできようはずもない。
 果てしなく気まずい──さりとて、麗日に名前を押し付けて逃げてくるのも、それはそれで御免だった。
 爆豪は、こと名前のことに関してはかなり狭量なところがあるので、自分以外の人間に幼い名前が懐くのは、それはそれで面白くないのだ。この上仮に緑谷の部屋にでも持ち込まれ、名前が緑谷に懐いたりした日には業腹どころの騒ぎではない。そんなことになるくらいならば自分で面倒を見た方がずっとましだ。

 時計を見ると、時刻は午後二時を回ったころだった。名前を保護してからすでに一時間が経とうとしている。今のところ状況が好転することもなさそうだ。そもそももとに戻る場合、どのようにして戻るのかすら不明である。いきなりなのか、徐々になのか。身体からなのか精神からなのか、同時になのか。幼児化した名前から聞き出した情報によれば、衣服は誰かに与えられたわけではなく彼女が当時着ていたものだそうなので、そういう心配はしなくてもよさそうではあるけれど。
 ──つーかさっさともとに戻れやこの鈍くさクソ根暗女が!
 完全に膠着状態に陥っている現状に爆豪が理不尽な怒りを覚え始めたところで。
「ばくごう……さん」
 と。
 控えめな声で名前が爆豪を呼んだ。普段の名前の気楽な声ではなく、あくまでも年上の爆豪に対して遠慮した物言いだ。その声に爆豪は少なからず気分がよくなる。
 そうだ、あいつに欠けてるのはこの謙虚さ。俺を立てるという意識。
 と、そんなことまで考える始末であるけれど、実際のところ、本来の名前にそういう態度をとられたら爆豪が腹を立てるのは明白である。
 拗れているし、拗らせている。

「んだよ、クソガキ」
 そんな複雑な心境を表に出すこともなく──爆豪はそっけない返事を寄越す。その返事に、少しだけむっとした顔をして──名前は尋ねた。
「ばくごうさん、わたしのことすきだったの?」
 こども相手と侮っていた爆豪を撃墜するには、十分すぎる破壊力だった。
「は!? んだてめえ何でそんなことっ」
「さっきおちゃこちゃんが、ほんとのわたしとばくごうさん、なかよしだったっていってたから」
「あの丸顔……」
 爆豪の頭に浮かぶのは嬉々として余計なことを吹き込む麗日の姿である。もちろん実際は爆豪が想像しているほど麗日はひどい話はしていないのだけれど、そんなことを爆豪が知る由もない。ただただ怒りが湧き上がるばかりである。

 地底のマグマのように煮えたぎる怒りを何とか鎮め、改めて爆豪は名前を見る。
 少なくとも、名前の方から爆豪に話しかけるというのはふたりの関係において多少の進歩であった。もともと名前と爆豪の中学時代のいざこざに端を発した関係も、元をたどれば爆豪の方から因縁をつけたことがはじまりだったりする。だから──というわけではないけれど、名前も爆豪も気が付いていないだけで、名前の方から積極的に話しかけたというこの状況はきわめて珍しい状態なのだった。
 もちろん今の名前が十年後のことを知るはずはないし、爆豪にしたところでそのことに気付くだけの心の余裕はない。

 爆豪はじろりと名前を見据えると、腰掛けていた学習椅子から立ち上がり、ベッドの上──名前の隣に腰掛けた。ベッドのスプリングがぎいと軋む。僅かにおびえたように身体をこわばらせた名前に向かって、しかし爆豪は優しい言葉を掛けるでもなく、鼻を鳴らして言った。
「勘違いしてんじゃねえぞ。俺がてめえを好きだったんじゃねえ、てめえが俺を好きなんだわ」
「うそだ。わたしこわいひとすきじゃないもん」
「嘘じゃねえ」
「やだー」
「嫌でもねえ」
 信じられないとでもいうように、名前は疑心に満ちた目を爆豪に向ける。個性云々の事情はあっても、爆豪が自分のことを好きだというならまだ納得できなくもない。しかしその逆──自分が爆豪のことを好きになるとは、名前には到底思えなかった。

 五歳程度の幼児とはいえ、すでに名前の根幹となるべき大部分形成されている。そして女子の言うところの『好きなタイプ』なんて、そうそう大きく変わるものではない。実際、爆豪が名前の好みのタイプかといえばけしてそういうわけでもないので、この名前の納得できなさもむべなるかなというところではある。
 しかし、事実は事実なのだった。爆豪があまりにも平然と言うので、信じられないとは思いつつ、爆豪があまりにも自信満々に言い切るものだから、もしかしたらそうだったのかもしれない、と名前も思い始めている。もしかしたら高校生になった自分は、ちょっと悪い男の子を好きになっているのかも? いやいや、そんなはずはない。思考を打ち消すように、名前は慌ててかぶりを振る。悪い男子に惹かれるような、そんなちょろい女子高生になる予定はない。

 気を取り直し──名前は爆豪を見つめる。タイプじゃないけど、まあ整っているとは思う、そんな顔が名前を睨み返した。
「じゃあさ、しょうこみせてよ」
「はあ? 証拠だ?」
 爆豪が胡乱に聞き返す。証拠。こどもらしい言い分ではあるけれど、どちらかといえばそういうこどもらしい無邪気さというよりは、名前本来の小賢しい思考の片鱗が垣間見える口調だった。
「うん、わたしがばくごうさんのことすきなら、しょうこないの?」
「……チッ」
 舌打ちをひとつ打って──爆豪はベッドからおりる。

 とはいえ──証拠といっても、名前も爆豪もツーショットで写真をとるようなタイプではないし、普段のメッセージの遣り取りでも恋人らしい、いちゃついたメッセージを遣り取りすることはない。客観的な証拠として提示できるものはほとんどないといってもいい。
 そんななか爆豪は、学習机の抽斗を開くと、その中からぺらりと一枚の紙片を取り出した。それをベッドの上で膝を抱えて座っている名前の方に放って寄越す。
 空気の抵抗を受けてぺなぺなと宙を不規則に舞ったそれを名前は反射でつかもうとする。けれどさすがは爆豪──宙を舞った紙片は、最終的に無事に名前の小さな両掌に落ち着いた。
「これ?」
 受け取った紙片をかざし、名前は首をかしげる。感熱紙で印字された小さなそれはうっすらと文字が薄れかけているものの、抽斗の中に大切にしまわれていたのだろう、薄っぺらな紙の割には大きな折れ曲がりや汚れもなかった。
「ばくごうさん、これ、なに?」
 名前が尋ねる。書いてある言葉は英語や漢字が並んでいて、こどもの名前にはよく分からない。
「てめえが俺に貢いで寄越した映画のチケット」
「……ばくごうさん、わたしといっしょに、えいがみにいったの?」
「てめえがどうしても行きたいっつーから渋々な」
「ええー、ほんとかなあ……」
 持ち上げた紙片──映画の半券を矯めつ眇めつし、名前はなおも疑わしそうに唸る。貢いで寄越したという言い方が気にはなるものの、こうして半券が出てきた以上、たしかに成長した名前と爆豪は一緒に映画に行くくらいの関係ではあったということだろう。
 とはいえ、正確にいえばその映画はまだ付き合う前のデートでいった映画の半券だったし、その帰りに名前の失言で爆豪を怒らせたりもしたのだけれど──それがきっかけで付き合うに至っているといえなくもないのだから、『思い出の半券』であることは事実だった。

 ふうん、と呟いて、名前は半券を爆豪に返却した。ベッドの端から投げ出した足をばたつかせ、名前はにこにこと爆豪を見る。映画の半券という物証が出てきたことで、名前の中での爆豪への信頼度は着実に向上していた。
「じゃあじゃあ、つぎの『しつもん』ね。わたしはばくごうさんのどこがすきだったの?」
「はァ? んなこと知るかよクソ根暗チビ」
「わかんないの? ばくごうさんのことすきってうそなの?」
「嘘じゃねえ!」
 爆豪が吼え、きゃらきゃらと名前が笑った。この場合、嘘じゃないと断言する方がよほど恥ずかしいことのはずなのだけれど──哀れかな、当の爆豪は気がついていない。
 さておき。
 どこが好き、というのはしかし実際、爆豪にとってはなかなかの難問であった。何せ自分の感情の話ではない。あくまでも名前が、爆豪のどこを好きだったのかという話だ。名前から好かれているという自負はあるものの、具体的にどういうところと言われると、それを答えるのは難しい。他人の感情を正しく読み取ろうとすることを、爆豪が積極的に行うとも思えない。

 それでも、名前のきらきらした眼で見つめられては、鬼の爆豪といえど黙殺するわけにもいかなかった。暫しそっぽを向いて、爆豪は考える。
 容姿──は別に好きってわけでもなさそうだった。腹立たしいことに。いや、俺もあいつの見た目なんざクソほど興味ねえが。
 性格──も、ねえか。散々クソクソ言いやがったからな、あの根暗女、自分のクソみてえな性格を棚に上げて。ぶっ殺す。となると。
「──俺が俺だからだろ」
 と、そっぽを向いたまま、爆豪はぼそりと呟いた。
 どこが好きとか嫌いとか。そんなことは些事であって、結局のところは爆豪の関与するところではないのだ。名前の個人的な感情を爆豪がどうこうできるものでもない。爆豪が気にすることでもない。好かれたいとは思えども、好かれようと努力することは爆豪の本質ではない。

 そんなことを、本来の名前ならばともかく、幼い名前が理解できるはずもない。案の定、名前はきょとんとした顔で首を傾げた。
「それって、どういうこと……?」
「知るか。ガキには言ったところでどうせ分かんねえよ」
「ふうん……あ、じゃあ、ばくごうさん、つよい?」
 と、脈絡なく名前が言った。今度は爆豪がきょとんとする。
「あ?」
「だから、ばくごうさんって、つよいの?」
「当たり前だろうが」
「そっか」
 質問の意図が読めずに爆豪が眉間に皺を寄せた。

 言葉の足らない爆豪と、思慮の浅いこども。ぶつ切りの会話は傍から見ればあちこちに話題がとんでいるものの、当の本人たちはいたってまじめに会話をしている。
 ただ残念なことに、当事者同士であっても相手がどういう意図で会話をしているのかまでは理解することができていなかった。ゆえに、なんともまとまりのない空気が流れている。

 名前は頷いたきり、しばらく黙って考え込んでいた。爆豪は名前が何か言うのをぼんやりと待つ。再びベッドに腰を下ろして壁に背中をあずけると、階下のざわめきが建物を通して伝わってくる。出払っていた騒がし組が戻ってきたらしい。事態を耳にしたらこの部屋になだれ込んでくるだろうか。そうしたら居留守でも使ってやり過ごすしかない。
 そんなことを爆豪が考えていると。
「ばくごうさんは、なんでわたしとなかよくするの?」
 投げ出した足の先に視線を遣ったまま、名前が尋ねた。
「は? てめえ人の話聞いてなかったんか。だから俺じゃなく、てめえが」
「わたし、こせいないよ」
 その言葉に爆豪は黙る。
「わたし、むこせいだよ。だからみんな、わたしとはなかよくしたがらないんだ。べつにいいけど。ばくごうさんつよいんでしょ。だったら、なんでわたしとなかよくするの? それってへんだよ」

 ぽつりぽつりと語るのを、爆豪はむっつりとした顔で聞いている。そもそも爆豪が名前のことばを愉快そうに聞いていたことなどこれまで一度だってないのだけれど、今回はその中でも特に、群を抜いて面白くなさそうな顔をしていた。
 思えば、爆豪が名前から個性の話をまともに聞いたことはほとんどなかった。ヒーロー科志望でもない名前にとっては、個性のことなど積極的に話すような話題ではなく、言葉そのものが持つ意味としての「個性」程度にしかとらえていなかった。
 もちろん個性の発現が遅くなったことで幼少期に不利益を被ったりはしたけれど──しかしそれだって、言ってしまえば名前にとっては過ぎ去ったことなのだ。過去にどれだけの不利益を被ったとて、今の名前には紛れもなく個性がある。当時名前に嫌がらせをしていた子たちとは、今はもう接点はない。
 過去のことを水に流すことはできなくても、わざわざ掘り返して自ら傷つきにいく必要はない。本来の名前にとって個性とはそういうもので、だから爆豪も、これまで取り立てて何かを言う気はなかった。つまらなくて平凡な、ありふれた個性だと思っていた程度である。わざわざ昔の話を掘り返すほどでもない、普通のことだと。

 しかし今、こうして幼児となった名前にとって、個性の問題は現在進行形で彼女を悩ませている頭痛の種である。しかも将来的にどうなるかもわからない。このまま一生悩み続けるはめになるかもしれない問題。
 直接的な被害を被っている以上、自衛はしなければならない。そして対策を講じなければならない。まだ小学校にも上がっていない彼女にとって、その重みは一体いくばくか。こうしてふとした瞬間、些細な折にすら考えざるを得ないほどに。

「てめえ、いじめられとんのか」
 爆豪の無神経な言い方に、名前は呆れたように笑った。
「まあね。いっつもやりかえしちゃうから、わたしもおこられるけど」
「やり方がド下手なんだろ。やんならバレねえようにやれや。雑魚かよ」
「だっておおにんずうあいてだし……」
 ほら、と言って名前はワンピースの袖をまくり、爆豪に右腕を差し出して見せる。そこにはかなり薄くなってはいるけれど、皮膚が青紫ににじんだ部分がいくつか点在していた。
 日夜身体を鍛え、同時に戦闘慣れもしている爆豪だから、一目見ればそれが事故で負った怪我ではないことはすぐに分かった。

 ──クソガキ同士でも、まあ玩具とかその辺の固いもん使えばそうなるわな。
 幼児の細腕、ちいさな拳では痣になるほどの打撃など繰り出せるはずもない。まして、名前に嫌がらせをしているのはおおかた女児だろう。爆豪が以前聞いた話では、名前も散々に報復をする狂犬のような話だったけれど──これは、単にそういう話でもないのかもしれない。名前にガッツがあるというのはその通りかもしれないけれど。
「むこせいだからってただやられるのはいやだから、わたしもやりかえすけど……でも、なかよくしてもらえるとはおもってない……だから、なんでばくごうさんはわたしとなかよくするの?」

 個性があるとかないとか、個性が優れているとか劣っているとか──
 どれだけ思い悩んだところで、それは他人がどうこうできるものでもない。そして、爆豪が今の──今目の前にいる幼い名前のためにしてやれることなど、ひとつだってない。
 遅くはあっても個性が発現するから気にするな、なんて言葉を言ったところで名前が満足するとも思えない。気を遣われた、気休めを言われたと却って心を閉ざすだろう。それに爆豪は、そんな気休めの優しさを振り撒く気はない。

「関係ねえし興味もねえ」
 低く唸るような、それでもきちんと名前に伝えるための声で、爆豪は言った。
「興味ねえよ、てめえに個性があるとかねえとか。んなクソみたいなこと気にすんのは、クソ雑魚どもだけだろ」
「……そうなの?」
 名前が大きな瞳を困惑に揺らす。
「ったりめーだろうが。俺をそこらのクソ雑魚どもと一緒にすんな、うぜえ」
 そんな言葉を言われたところで名前の顔が晴れるわけではないし、それで溜飲が下がるということもない。爆豪だって、そんなことを期待しているわけではない。結局、今ここで起きたことで過去を変えられるわけでもないのだから──けれど。
「てめえも、んなこと気にしてんじゃねえ。うぜえ」
「べつにきにしてないけど」
「そうかよ」
 爆豪にとっての最大限のやさしさは、不器用なものではあったけれど、過不足なく名前に伝わった。
 その不器用さに名前は呆れたように眉毛を下げて、それから──人ひとり分あいていた爆豪との距離を、お尻をずらして少しだけ近づけた。雄英のクラスメイトでも、爆豪に対してその距離に踏み込むことができるものはそう多くない。爆豪は個人主義だし、パーソナルスペースの侵害を嫌う。
 おずおずと名前は爆豪の顔を見上げる。爆豪は何も言わなかった。

「……ばくごうさん」
「あ?」
「さっきはきらいっていってごめんね」
 ぺこんと小さく頭を下げた名前に、ふんと鼻を鳴らして爆豪は答えた。
「どうでもいい」
「わたし、ばくごうさんのことすきだよ。ちょっとだけ」
「ふざけんな。全力出せや」
 爆豪がそう言って、名前が笑って──

 その瞬間、大きな破裂音とともに名前が煙に包まれた。虚をつかれながらも、咄嗟に爆豪が名前の腕を掴もうと手を伸ばす。けれどその手はあっさり空を切った。
 やがて大きなかたまりだった煙は、ゆっくりと部屋の中に霧散し、薄まっていく。同時に、幼い名前が腰掛けていた場所──そこには見慣れたシルエットの人物があらわれた。
 爆豪と同じ高校一年の名前が、ぽかんとした顔をしてそこに座っていた──ちゃんと服も着ている。
「……あれっ、爆豪くん。ていうか、え? あれ? ここどこ? ていうか何があったの?」
「戻ったか」
「戻った? ん? なに、どういうこと?」
 混乱したように繰り返し、名前は首をひねる。
 その様子から察するに、幼児に戻っていた間の記憶はなく、自分がなぜ見知らぬ場所──爆豪の部屋にいるのかすらも分からないようだった。名前は混乱して周囲を見回す。見回したとこで、室内にいるのは爆豪だけであるし、そしてその爆豪は説明する気もなかった。後から教師か、麗日あたりに事情を説明させれば済む話だ。
 自分はもう十分に子守りをしたのだから、これ以上の義務も責任も負う必要はない。

 そんな事情など知るはずもなく、名前は理解不能な状況を少しでも理解するべく、記憶を遡る。
「えーっとたしか、近所の薬局に行こうと思って家を出て──途中で誰かに呼び止められたところまでは覚えてるんだけど、それからどうしたんだっけ? 爆豪くん何か知ってる? ていうか今更だけどここ爆豪くんの部屋だよね? 寮だよね? 爆豪くんのにおいするし。実家の部屋もそうだったけど、やっぱり物少ないねえ」
 訳も分からないままとりあえず喋っている名前に、爆豪は顔を顰める。こんなことならば、もう暫く幼い静かな名前のままでいてくれた方が幾らかましだったとすら思う。今ここにいる名前の、爆豪に対する警戒心がほとんどゼロの状態であることを思いがけず再認識し、そのこと自体は喜ばしいものの、しかしさすがに煩わしかった。

 いい加減黙れ──そう言おうと口を開きかけたその時。
「あ、これ」
 名前が爆豪の手を指差す。爆豪が持っていたのは、先ほど幼い名前に見せた、初デートの映画の半券だった。幼い名前には読むことができなかったけれど、高校生の名前には当然、その文字を読み解くことができる。
「ばっ!」
「わー、懐かしい。これ前に一緒に行った映画の半券だよね? すご、爆豪くんこんなのまだ持ってたんだ?」
「かっ、勝手に見んなこのクソ根暗女が! ぶっ殺す!」
「えー?」
「つーか、んなもんゴミに決まってんだろうが! 捨てようと思って出しといたんだわ!」
「ふうん。わざわざ寮に引っ越すときにも持ってきたのに捨てちゃうの?」
「本の下に挟まっとっただけだ!! 誰がてめえと出掛けた半券なんざ取っとくか! 調子乗ってんじゃねえぞアホが! クソが! クソボケが!!」
「ふうん、まあいいけど」
 咄嗟に半券をゴミ箱に投げ捨て、爆豪は名前の腕をつかみベッドから引きずり下ろす。そのまま勢いよくドアを開け、名前を引きずったまま部屋を出た。
「あとでちゃんと拾っておきなよ」
「うるっせえわ! 死ね!」

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