喧嘩



(※Twitterログ)
(※喧嘩する話なので苦手な人は注意してください)


 月末である三十一日と休日が重なったので、爆豪くんと一緒にアイスクリームを食べに行く約束をしていた。
 爆豪くんと付き合って数か月になる。爆豪くんが敵に攫われたり寮に入ってしまったり試験に落ちたりと、まあなんだかんだと色々あったりはするものの、一応のところは仲良くお付き合いすることができている。もちろんここで言う仲良くとは爆豪くん基準の仲良くなので、世間的に見れば私はデートDVを受けまくっている可哀想な彼女だと思われかねないし、常にぎりぎりの関係を綱渡りしているように見えかねないのだけれど───ともかく、仲はいい。誰が何と言おうと、仲はいいはずだ。

 ともあれ、今日はデートなのだった。
 雄英最寄りのアイスクリームショップには近くにカラオケもある。映画館もある。学生同士のカップルのデートにはうってつけのラインナップだ。これまでにも何度かふたりで行ったことがあるけれど、同じような学生カップルがそこそこにいるので気負いしなくてもいいところが気に入っていた。
 最寄り駅で待ち合わせをすることになっていたので、少し早めに準備をして駅で爆豪くんを待つ予定だった。アイスクリームショップは駅から見て雄英のさらに向こう側にある。わざわざ一度反対方向である駅まで爆豪くんが迎えに来てくれるのは、爆豪くんの分かりにくい愛情表現である───と信じたい。

 と、そんなことを考えながら爆豪くんのことを待っていたら、ふいにとんとん、と肩を叩かれた。思わずくるりと振り返る。男の子───爆豪くんよりも少しだけ低い位置にある瞳が、優しそうにこちらを見ていた。人懐こい笑顔を向けているけれど、生憎と知らない顔である。人違いだろうか。
 その男の子は、私と目が合うとにこりと笑みを深くして言った。
「名字、久し振り」
「……えーっと」
 返答に窮する。私の名前を知っているということは人違いじゃないらしい。けれど悲しいことに、大急ぎで記憶の中を浚ってみても、やはりその男の子の名前を思い出すことはできなかった。
 そんな私の困惑に気が付いたのか、その男の子は困ったようにぽりぽりと首を掻いた。
「あれ、分かんない? ほら小学校一緒だった」
「え、あ……ああ!」
 そこで漸く、目の前の男の子が小学生時代に同級生だった名内くんだということに気が付いた。

 名内くんは小学生時代に一度か二度同じクラスになったことのあるかつての同級生だ。私の個性発現が人よりも遅かったという話は今更だけれど、それでも名内くんはそんないじめられっ子で荒くれものだった私とも仲良くしてくれるという稀有な存在だった。
 名内くんにとって私が特別な存在だった───のではもちろん、ない。彼は委員長だったし、公平で平等なこどもだった。それだけの話だ。そういう意味では名内くんはあんまりこどもらしくないこどもだったと思う。まあ、そんな名内くんのことを忘れている私も私なのだけれど。

「うわー、久し振り。元気だった? 私立中行っちゃったから本当、全然接点なかったよね」
「そうだな、小学校一緒のやつとかもう今全然交流ないわ」
「そうだよねー、みんな元気だよ。って言っても私も中学卒業してから会ってない子ばっかりだけど」
「はは、名字は恨み根深いからなー」
「すぐそういうこと言う」
 なんだか爆豪くん以外の男子とまともに言葉を交わすのは久し振りな気がする。同じテンションで軽口をたたいてくれていきなり怒鳴らない男子のなんと話しやすいことか、と自分の彼氏のことを想いだして少しだけ内心で苦笑した。いや、普通の男子は名内くんのような人で、爆豪くんのような人種は少数だということは分かっているのだけれど。

 名内くんはちらりと時計を確認すると、再び私に視線を戻した。
「ていうか名字、誰かと待ち合わせ?」
「そうだよー、もう少ししたら来ると思う」
 頷きながら答える。待ち合わせの時間まではあと五分足らずだ。爆豪くんはいつも少しだけ遅れてくるので、まだ時間はある。
 私の返事に、名内くんがにやりと笑った。
「もしかして彼氏?」
「そうそう。彼氏」
「まじかー。まあ彼氏くらいできるか。名字きれいになったもんな」
「はは、お世辞でも嬉しいよ」
「名字も俺にお世辞言ってくれていいよ」
「そういうのは彼女に頼んでください」
「手厳し。うちの彼女は頼まなくても俺のこと褒めてくれるけど」
「ごちそうさまです」
 話してみると、どうやら名内くんもここで彼女と待ち合わせをしているようだった。私たちと待ち合わせの時間は十五分ほどずれているけれど、名内くんは早く着きすぎてしまったらしい。そこにくると私とここで鉢合わせたのはお互いにラッキーだった。お互いに、待ち合わせの相手を待つ間の暇つぶしになる。

 それにしても───小学校を卒業して以来会っていなかった名内くんは、数年見ない間にすっかり男の子らしくなっていた。普段私が接しているのが爆豪くんだから、どうしてもがたいのよさや体格では同年代の男の子は見劣りしてしまうけれど、名内くんだってよくよく見ればしっかりとした身体をしていた。
「名内くんもヒーロー科なの?」
 試しに尋ねてみると、あっさりと「そうだよ」と肯定された。
「中学からの内部進学だけど、高等部は普通科とヒーロー科からクラスを選べるんだ。俺はヒーロー科」
「ははあ、そうなんだ。すごいね」
「って言っても今時ヒーロー科進学のやつなんて珍しくないけどね」
「私は普通科だから、ヒーロー科ってだけで十分すごく聞こえるけどね」
 お世辞ではなく素直に伝えると、名内くんは少しだけ照れたように笑った。

 しかし実際、私の中学時代からの友人でヒーロー科に進学したのは緑谷くんと爆豪くんだけだ。女子はみんな普通科か、経営科などに進んだ。だから雄英以外のヒーロー科のことはよく知らない。けれど、さすがに同じヒーロー科というくくりでそうも大きく学習内容やカリキュラムが異なるわけではないのだろうから、やはり名内くんが通っている学校のヒーロー科だってすごいのだろう。詳しくない私は、ぼんやりとだけれどそんな風に思った。
「名字の彼氏もヒーロー科なの?」
 今度は名内くんの方が私に尋ねた。私も、素直に頷く。
「そうだよ、だから名内くんのことも、ヒーロー科って大変そうだなーって尊敬しちゃう」
「いや、まじで普通だって。そりゃ雄英ともなれば色々大変なんだろうけど、ほかはもっとゆるいって」
「あ、そうなの?」
「そうそう。この辺だと雄英は別格だよ」

 そうなんだ、と相槌を打ったところで。ふと視界に影が差した。名内くんの顔に影がかかる。背後に気配を感じて振り返ると、私のすぐ後ろにぴたりと張り付くようにして爆豪くんが立っていた。
「ば───爆豪くん」
 咄嗟に駅の時計を確認する。待ち合わせ時刻まではやはりまだ五分ほどあった。爆豪くんにしてはやけに早い。いつもならばやっと雄英の敷地を出たくらいの時間だ。
「おはよう、今日は早いね」
 爆豪くんの顔を見上げて、私は言う。けれど爆豪くんは返事をせず───それどころか目すら合わなかった。爆豪くんの視線は私の頭上を素通りし、名内くんにまっすぐ向かっている。
 私の言葉に先に反応したのは、爆豪くんではなく名内くんだった。
「ば、爆豪って、あの雄英の? 体育祭一年で一位だった、あの爆豪?」
「気安く呼んでんじゃねえ、クソモブが」

 いつも通りの爆豪くんの暴言に、私は思わず顔を顰めて爆豪くんの腕に手をかける。けれど当の名内くんは爆豪くんに食って掛かることもなく、少しだけ苦笑いをして返した。大人の対応だ。
「もしかして名字の彼氏って雄英のこの人?」
「えっと、うん。そう」
「うわっ、すげえな! うちのクラスでも憧れてるってやつ結構いるよ」
「そ、そうなの? よかったね、爆豪くん」
「ハッ、三下高校のやつらに何言われようがどうでもいい」
「ちょっと……!またそういうことを……」
「はは、三下かー、確かに雄英に比べたら俺ら確かに三下かもな!」
「ご、ごめんね、名内くん」
「いや、気にしてねえよ。なんか彼氏怒ってるっぽいし俺あっち行くな。じゃ、またどっかで会ったらよろしくー」
「ごめん、本当にごめんね、またね!」
「おう」
 明らかに気を遣って退散してくれた名内くんの背中を見送ると、振り返って爆豪くんを睨む。あれだけ好き放題に言っておきながらもまだ不機嫌そうな顔をしている爆豪くんに、心の底から腹が立った。いくら数年ぶりに会ってすっかり忘れていたとはいえ、名内くんは私の友人だ。あんな風に侮辱されていいはずがない。あれはどう考えたって不当な対応だった。
 アイスを食べに行くつもりだったけれど、そんな気分ではなくなってしまった。私も爆豪くんも、どちらもそれなりに腹を立てている。けれどまさか往来で言い合いをすることもできないので、ひとまず人目を避けられる場所ということで近くのカラオケに入ることにした。

 カラオケの個室の中では大音量でコマーシャルが流れていた。ドリンクバーのジュースを取りに行くこともなく、機械の電源を落とすとソファーに腰掛ける。前の客の残り香なのか、やけにたばこのにおいが鼻につく。
 L字ソファーの、私とは斜になるソファーにどかりと腰掛け足を組んだ爆豪くんは、不服そうな顔をしながらも口を開く様子はなかった。ただむっつりとして宙を睨んでいる。h期限であることを隠そうともしないその表情に、たまらず私が先に口を開いた。
「さっきの何」
「あ?」
 じろりと視線をこちらに向けるけれど、今更そんなものにびくびくする私ではない。というより、そんなことはどうでもいいくらい私だって腹が立っていた。むかむかした気持ちに突き動かされるままに私は爆豪くんを睨み返す。
「さっきの。私の友達になんであんな態度とるの? ただ顔を合わせたから話してただけなのに、どうしてあんな風にひどいこと言われなきゃなんないの」
 先ほどの名内くんの表情を思い出す。あんなにも楽しく会話をしていたのに、爆豪くんがひどいことを言ったせいで随分と傷ついた顔をしていた。傷ついた、あるいは困惑した顔だ。見も知らぬ不良じみた男の子にいきなりあんな風に暴言を吐かれて、嫌な思いをしないはずがない。それでも表面上はそういう負の感情を出さずにいてくれたのだから、名内くんは大人だった。

 けれど───けれど、私はあんな風に大人じゃない。

「私はいいよ、慣れてるし。知ってて付き合ってるし。でも、私の友達にまでそういう態度とられるのは嫌だし、困る」
「どうでもいいだろうが」
「どうでもよくない。友達なのに───」
「うるせえんだよ、友達友達って。ガキかよ、てめえは」
「……何、その言い方。どう考えても今回は爆豪くんがめちゃくちゃ言ってると思うんだけど」
「ふざけんな。全面的にてめえが悪いだろうが」
「は? それこそなんで。全然意味が分からないんだけど」
 思わず棘のある声が出た。私が悪い? 一体どうして、なんでそんなことを言われなくちゃならないんだ。どう考えても爆豪くんが悪い。百人いたら九十九人は爆豪くんに非があるというはずだ。残りのひとりは爆豪くんに弱みを握られているか、爆豪くん本人だ。

 けれど爆豪くんは私の言葉を鼻で笑った。そして、言った。
「男と見りゃへらへらしやがって、てめえには恥がねえのかよ」
「……ちょっと、それどういう意味」
「ハッ、言ったまんまだわ」
「友達だって言ったじゃん。彼氏がいることも話してあるし、向こうだって彼女いるし」
「ぐだぐだうるせえ」
「うるさいって」

 ふつふつと沸いていた怒りが、ここにきて大きく膨張して身体全体に広がる。目の奥がかあっと熱くなって、耳鳴りがした。なんで、どうして爆豪くんがそんなにひどいことを言うのか、平凡な私にはまったく理解ができなかった。男と見ればなんて、私が普段言葉を交わす男の子なんて爆豪くんくらいのものだ。付き合ったばかりの頃、化粧するのが嫌だと言外に言われてからは同年代のほかの女子に比べても化粧っけだってないし、そも、私はモテもしない。名内くんが話しかけてきたのだってかつて同級生というよしみがあったからでしかない。
 これがまだ、私への愛情とか愛着からくる嫉妬だったら許せたのかもしれない。けれど、きっとこれは違うのだ。言ってみれば所有欲、あるいは支配欲。自分の彼女である私が、ほかの男の子と口を利くのは許せないのだ。自分の、所有物だから。

 私は爆豪くんに対して色々なことを許容している。私より爆豪くんの方が忙しい。女子高の私と違って爆豪くんは共学。平凡な私と違って、爆豪くんは有名人。そういう格差をきちんと認めて、その上でこちらが退くところは退いてきた。それが公平であると思ったからだ。恋人として、相手を尊重することだと思ったからだ。
 だけど爆豪くんは違う。私が爆豪くんのために退くことを当たり前だと思っているし、そうしなければ容赦なく私を非難する。自分の非は一切認めないくせに、それどころか自分の非も私に転嫁する。

 今までたくさん努力してきたことは、全部意味のないことだったのかもしれない。

 そう思い至った瞬間、ぼうと熱に浮かされていたような頭が急速に冷めていった。それとは対称的に身体がかっかと熱くなる。目頭に涙があふれて視界が滲んだと思った次の瞬間には、頬を熱いものが伝っていた。
「───て、てめえ何泣いて、」
 さすがに爆豪くんも狼狽えたらしい。いつもよりも焦ったような声が聞こえた。けれどそれが爆豪くんの声だろうと、今の私には身体の外から感じる刺激なんて、あってないようなものだった。自分の中で溢れた悲しみとも怒りともつかないどろどろとして燃え滾るような感情が次から次へと沸き出てくるのだ。それらは私の外の音も、色も、すべてを薙ぎ払うくらい強烈で、私の感覚を麻痺させた。
 このままじゃきっと、爆豪くんの嫌いな私になる。この期に及んでそんな思考をしてしまう自分のことが情けなかった。けれど、思ってしまうものは仕方がないのだ。傍らに置いていた鞄をひっつかむと、財布から一枚千円札を抜き取ってテーブルに置いた。
「帰る」
「は」
「泣いてたら話し合いにも───喧嘩にすらならないでしょ。だから、帰る」

 そう言うと、私はさっさと個室を出た。爆豪くんはやっぱり今回も、追いかけてはこなかった。

 ★

 大してツラがいいわけでもないのに、やたらとクソどもの気を引くやつだとは思う。
 俺のもんになった時点でほかの男にへらへらするなんつうことは到底許せることではない。が、名字の場合は女子高通いだし、基本的には男との交流がない。だから別段気にすることもなく、まあどうでもいいと思っていた。たとえば俺のクラスのやつと喋るとか、クソデクと口を利くとか───まあその程度ならば騒ぐほどのものでもねえと、思っていた。

 あいつの置いて行った千円札を眺め、ぼりぼりと頭をかく。追いかけていこうなどとは思わないし、あいつも別に追いかけてきてほしかないだろう。お互いに業腹で、お互いに言いたいことを言っただけのこと。よくあることで、それ以上でも以下でもない。ただそれだけのこと、なのだが。
「……」
 溜息をついて、宙を睨む。この煙草くせえ個室を出ていったときの名字の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。

 思えば泣き顔を見たのははじめてだった。中三のはじめに最初に口をきいたときから、散々なめた態度をとり続けて散々俺を苛つかせ、挙句意味不明な場外乱闘延長戦にまで持ち込んでいるとんでもない女だから、そりゃあそう簡単に泣いたりはしないのだとは思う。当たり前だ。すぐにガキみたいに泣くような女だったら端から俺がこんなクソ最悪な感情をあいつに抱くはずがない。

 それでも泣いた。

 自分のためじゃなく、俺のためでもなく、ほかの男のためにあいつが泣いた。その事実がやたらと重く俺にのしかかる。
 いや、別にあの男のために泣いたと決まったわけじゃない。あの面倒くせえ名字のことだから、また脳内でごちゃごちゃと余計なことを考えて、結果さらにごちゃついて泣いた、ということだって十分に有り得る。だが生憎、それを量ることができるほど、あの泣き顔を見たときの俺は冷静ではなかった。

 女を泣かせたのが初めてというわけではない。男と違って女はすぐに泣く。幼稚園の頃から同じ組の女を泣かせることはしょっちゅうだったし、小中学生のときにはうっかり怒鳴って泣かせたこともあった。そのたび事情を教師から聞かされたババアに殴られたからよく覚えている。さすがに高校生にまでなってそういうこともないが、それでも女の泣いてる顔はそれなりに見慣れているつもりだった。
 だというのに、名字が泣いていることに気付いたとき、俺は不覚にも狼狽えた。びびったわけではない。断じてびびったわけではないが、引いた。そして単純にやべえと思った。

 カラオケの代金を精算して、カラオケを出た。何も考えずに二時間パックで入っちまったせいで無駄に時間を余らせたが、ひとりで歌いたいわけでもない。名字の置いて行った千円札で釣りがくる程度の金額だったが、それでもその千円札には手を付けずに財布にそのまま突っ込んだ。
 カラオケを出ると、このまま寮に戻るのも嫌で当てもなくぶらぶらと歩いた。名字と出掛けることを知ってる連中もいるから、この時間に戻ると詮索されることは間違いない。そんな展開は御免だった。

 歩きながら、考えるともなしにつらつらと名字のことを考える。
 名字がクソ生意気なせいで、これまでも衝突はそれなりにしてきた。付き合う前も付き合った後も、名字の態度は一貫している。嫌なものは嫌だと、物怖じすることなくはっきり言う。俺も言う。だから言い合いになる。
 それでも、この規模の言い合いをするのはあいつと付き合い始めたばかりの頃、木椰子のモールに行ったとき以来だった。あの時も名字は俺を置いてさっさと帰っちまったんだっけか、と俺は思い出す。あいつは感情が溢れてどうにもならないとき、いったん距離をとるのだということをその時に俺は学んだ。そして今回もまんまと距離をとられている。

 自分から謝ろうという気はない。何が何でもない。
 そもそもあいつが先に知らねえ男にへらへらしてたのが今回の事の発端だ。だから俺が謝る理由がない。自分のもんの所有権を主張することは間違いじゃない。それなのに、やたらと身体の中がざわつくのだった。今回ばかりはどうにもなりそうにないと、直感が告げている。このままではみすみすあのクソ根暗を手放す羽目になりそうだと、そんな予感がしている。

 一瞬「別れ」のワードがちらついて、すぐに消えた。
 いや、それはない、それだけは有り得ないと確信を抱いてはいるものの、しかし名字の根暗らしい泣き顔を思うにつけ、今度ばかりはそういうわけにはいかない、愛想が尽きたとも思えてしまう。そりゃああんな根暗に愛想を尽かされたところでどうということはないし、何ならこっちから先に捨ててやろうというものではあるが───そういう問題ではない。そういう問題ではないのだ。

 今からでも追いかけるべきだろうか。そんなことを考えて、しかしそれもやはりやめた。追いかけるなんつうことは俺の選択肢にはありえない。根暗の方から追い縋ってくるならまだしも、俺がまさかそんなみっともない真似をできるはずがない。いや、あの根暗に限って追い縋ってくるなんてことはしないだろうが。

 ひとつ舌打ちを打って、俺はくるりと方向転換をする。寮の自室に戻るためだ。うるせえことを詮索してくるやつらはぶん殴って黙らせればいい。今はとにかくどこにも行きたくなかった。

 ★

 そういえば───付き合ってから初めて爆豪くんと喧嘩したときのこと。
 あの時も喧嘩してから仲直りするまでに結構時間がかかったなあ、と自室のベッドに寝そべって私は考える。まああの時は爆豪くんが敵に攫われたり自宅から出られなかったりと色々あったのでそれも仕方がなかったという事情はある。
 逆に言えばあの時は意地の張り合いにそういう実際的な理由を覆いかぶせて誤魔化すことができたわけだけれど、しかしながら今回は特にそういう理由もなく、ただ国交断絶状態になっているのだった。というより、私が一方的に爆豪くんをシャットアウトしている。こちらから連絡をしない。爆豪くんには自ら折れるという発想がないので、この国交断絶状態になるのは当然の帰結なのだった。
 ちなみに喧嘩をしてから今日でまる一か月になる。全開の喧嘩以降はそれなりに密に連絡を取り合っていたので、一日以上連絡をとらないことはなかった───といえば、今のこの状況が私と爆豪くんにとってどれだけ信じがたいことなのか理解できると思う。

 とはいえ、たかだか数か月といえどほとんど毎日連絡を取っていた相手と一切の接触を断つというのは、なかなか難しい。今の私にとって嬉しいことや悲しいことがあったら真っ先に報告する相手は爆豪くんなので、ついつい習慣として携帯を手に取ってしまうのだ。そしてはっとして携帯を置く。その繰り返しである。そんなことをもう一か月繰り返している。

 正直に言って、ここで私が大人の対応をするのが一番手っ取り早いのだということは分かっていた。いつだってそうだ。爆豪くんと付き合っていく上で、小さな諍いは常に絶えない。そしてそういう時、大抵は私が引いてしまう。何故かと言えばいちいち喧嘩になるのは面倒だし、何より爆豪くんは爆豪くんで色々とデートの準備をしてくれたり、何かと私のために頑張ってくれたりもするということを知っているからだった。私たちの場合はそれでつり合い、バランスがとれている。そう思っているから、些細な喧嘩は私が矛をおさめることで乗り切ってきた。

「いや、でもここで許したら私は完全になめられるぞ!」
 自分以外誰もいない部屋の中で、誰にともなく、いや自分に向かって私は言う。一か月の爆豪くん断ちに揺らぎかけている心を鼓舞でもするみたいに、ことさら元気よく発した言葉がなんだか空しかった。
 もしも爆豪くんが私に対して嫌な態度をとっていたのなら、私はきっとここまで根気よく怒る続けることはできなかったと思う。思えば付き合って最初の喧嘩だって、怒っていたのはほんの数日で、その後は気まずさから顔を合わせられなかった、というだけだ。それに引き換え、今回は一か月経ってもまだ私は怒っている。多少下火になりつつはあるけれど、怒っているという事実には変わりない。

 爆豪くんのことは好きだ。何だかんだと言いつつも、爆豪くんの強さは純粋に尊敬に値するし、良くも悪くも裏表のない性格にも好感が持てる。個性のことで幼いころに嫌な思いをしてきた私だからこそ、ああいう人間に惹かれるのかもしれない。好きだという気持ちに嘘偽りはない。
 けれど、だからといって爆豪くんの横暴を何でも許せるわけではなかった。今回はたまさか小学生時代の友人が相手で、しかもその相手が爆豪くんに腹を立てずにいてくれた。広い懐で引いてくれた。それを当たり前だとは思ってほしくなかったし、それに、当たり前だと思うような人間であってほしくはなかった。まして、次にこういうことが起こったときに私は自分の大切な友人を、家族を、爆豪くんに貶されることにはきっと耐えられない。そうなったらまず間違いなく、私は爆豪くんのことを嫌いになってしまうだろう。それだけは───嫌だった。
 だからこそ、今回私は折れるわけにはいかない。譲るわけにはいかないのだ。

 と、そんなことを考えていたら。
 枕元に置いていた携帯が着信を知らせるように鳴いた。もしや爆豪くんかと飛び起きて画面を確認する。残念ながらそこに表示されていた名前は爆豪くんのものではなかった。けれど、もしかしたら爆豪くんからの着信以上に意外かもしれない人物から着信ではあった。
「もしもし、名字です」
 電話番号を交換したことは覚えていたけれど、電話をしたことはない。畏まって家の電話に出るときのように受け答えをすると、電話の向こうの彼女───麗日お茶子ちゃんはおかしそうに笑った。

 ★

「爆豪くんと何かあった?」
 開口一番にお茶子ちゃんはそう言った。電話の向こうからはざわざわと盛り上がっている声が聞こえるけれど、その雰囲気からはお茶子ちゃんがその輪に加わっているわけではないように聞こえる。そしてそのざわめきがだんだんと小さくなっていくことから、お茶子ちゃんが盛り上がっている輪を離れて電話をかけていることが窺えた。
 あー、と曖昧な返事をしながら、私は急いで頭を回転させる。お茶子ちゃんがわざわざ私に電話をかけてくるということは、それなりの何かがあったということをある程度確信しているということだろう。とはいえ、爆豪くんがまさか私と喧嘩したなんて話をクラスの人たちに吹聴するとは思えない。爆豪くんに限ってそんなことはしないだろう。彼のプライドは山のように高く、けして人に弱みを晒すようなことはしない。私と喧嘩したなんてことが爆豪くんの弱みにはなりえないという正論はさておくとしても、基本的にそういうプライベートな話題は話さなさそうな気がする。
 そうなると、爆豪くんがわざわざ隠している事実を、ここで私がぺろっと話してしまってもいいのだろうかという問題が浮上する。けれどすぐに、私がそこまで気を回す必要はないと判断した。そも、今私と爆豪くんは国交断絶状態なのだ。他国を介して何が悪い。それにお茶子ちゃんならば余計なことを言ったりやったりしないだろうという、ある種の信頼もあった。

「何かっていうほどのことではなくて、まあ、ちょっと、喧嘩したんだよね……」
 歯切れ悪くそう言うなり、お茶子ちゃんは何故か苦笑した。
「あー、そうなんだ。なるほど」
「なるほどって、なんで?」
「いや、ここ一か月くらい爆豪くんが荒れてるっていうか、変だから。それも日に日に荒くれぶりが増しとるし、何かあったのか上鳴くんたちに聞けって言われて」
 なるほどそういうことか、と私も合点がいった。確かに爆豪くんは良くも悪くも感情が表に出やすい。それでも中学時代に比べればいくらか冷静にはなっているのだけれど、それにしたってまだまだ分かりやすいと言われる範疇だろう。顔に出るくらいなら可愛いもので、怒りの感情はそのまま手が出るのだから、そりゃあ一番被害を受けているであろう上鳴くんたちが気にするのも無理からぬ話だった。

「ごめんね、迷惑かけて」
「いや、それはいいんだけど───」
 とたとたと、電話の向こうで足音が聞こえる。お茶子ちゃんは歩きながら電話をしているのだろう。言葉の続きを黙って待っていると、今度は電話の向こうからぱたんと戸が閉まるような音がした。おそらく寮の共同スペースから自分の部屋へと移動したのだろう。お茶子ちゃんの気遣いを感じる。
「それで?」
「え?」
「ただの喧嘩じゃなくて、もう少しなんかあったのかなと思ったんだけど───違った?」
 思わずごくりと息をのんだ。優しい声音の裏には私と、それから多分爆豪くんを気遣う色が滲んでいる。私とお茶子ちゃんはまだ付き合いが長いわけではないし、あくまでも爆豪くんを挟んでの友人だ。これまでそう突っ込んだ会話をしたこともない。
 けれど、彼女にはそういうことは薙ぎ払って、心の中にするりと入り込んでくるような親しみやすさがあった。そしてそうやって心の中に入りこまれても不快に感じないような人柄も持ち合わせている。私は爆豪くんにはヒーローとしての資質があると思っているけれど、それはあくまでも戦闘に特化した話だ。人間性についても、悪いとは言わないけれど、人気商売に向くかと言われればかなり微妙だと思う。その点、お茶子ちゃんにはヒーローとしての資質、人柄の良さが備わっているようだった。

「ほら、名前ちゃんと爆豪くんって喧嘩ならいつもしてそうだし。それに名前ちゃんだったらちょっとした喧嘩くらいなら飲みこむのかなって思って。だから、今回の喧嘩は名前ちゃんが飲みこむことができないくらい特別だったのかなって思ったんだけど」
「あー……」
 お茶子ちゃんの言う通りだった。今回はそう、確かに私が飲みこめない、飲みこんではいけない類の喧嘩だったと思う。その結果拗れてしまうことが目に見えていたとしても、自分の主義に反することはすべきではないとでもいえばいいのか───そういう喧嘩だった。

 けれど。
 きっと私と爆豪くんがいつも以上に拗れてしまっているのは、ただそれだけの問題じゃない。
「……泣いちゃったんだよね」
 小さな声で呟く。え、とお茶子ちゃんが発した。
「泣いた? 名前ちゃんが?」
「うん、泣いた。ちょっと色々堪らなくなって。それで、泣いてたら喧嘩にもならないだろうしって帰ってきて、今に至ってる」
 別に泣きたくて泣いたというわけではないし、泣いて同情を引こうとも思っていない。そも、私は爆豪くんとは対等でフェアな関係を築いていきたいのだから、喧嘩の際に泣くなんてことは愚策でしかない。けれど、実際には泣いてしまったのだからそんな私の思いは無関係だ。爆豪くんにはそんなものを汲む理由がない。公衆の面前でいきなり泣き出す女なんてものは、さぞ迷惑でいやな女だっただろうと自分でも思う。
 と同時に、爆豪くんという人間のキャラクターを考えれば、今の事態は多少不思議でもあった。
「ははー、そっか」と事態を理解した様子のお茶子ちゃんが頷いているのが見えるようだ。それに合わせて私はその不思議に感じている部分を口にする。
「でも、まさか泣いたくらいで爆豪くんがそんなに苛つくなんて思わなかったけど」
「苛ついてる? なんで?」
「そうじゃないの?」
 言いながら、私は首を傾げた。

 実際に爆豪くんにそうと言われたわけではないけれど、爆豪くんが女の涙なんてものに絆されるタイプではないことくらいは容易に想像できる。と言うよりもそんなものは鬱陶しいものでしかないだろう。私には涙を女の武器として使うほどの器量はないけれど、仮にそういう手練手管のひとつとして涙を自在に扱えたとしても、それを爆豪くん相手に使おうとは思わない。逆効果でしかないことを分かっているからだ。
 だから、不可抗力とはいえ爆豪くんとの喧嘩で泣いてしまったということは私の中では結構な失敗なのだった。今こうしてお茶子ちゃんが私に電話をかけてきているのも、結局のところ私がうっかり泣いたりなんかしたせいで余計に爆豪くんが苛ついているということなのだろうと、私はそう考えたのだった。
 けれどお茶子ちゃんは曖昧に言葉を濁した。
「うーん、それはちょっと違うかもしらんけど……」
「え、そうなの?」
「ううーん……まあでも、私がどうこう言う問題でもないよねっ、うん」
 結局何がどう違うのかをはっきりさせないまま、お茶子ちゃんは何かしらの結論に達したようだった。電話の相手である私はすっかり置いてけぼりを食らっている状態だけれど、しかしお茶子ちゃんの中で「どうこう言う問題でもない」という結論が出てしまっている以上それ以上聞くこともできない。私はまた、曖昧に「よく分かんないけど」とだけ言った。

 気が付けば電話を始めてから結構な時間が経っていた。大した話はしていないはずだけれど、喧嘩の詳細や最近の爆豪くんの様子を聞きだしていたためだろう。
 お茶子ちゃんの語る最近の爆豪くんは、私が予想していた以上に荒れていた。中学時代のような嫌な荒れ方でこそないものの、まあ分かりやすく周囲に八つ当たりしてみたり、かと思えばひとりでふらりと姿を消したりしているそうだ。普段通りのような気もするけれど、同じクラス、同じ寮で生活しているお茶子ちゃんがいつも以上だと判断しているのならば、まあそうなのかもしれない。私にはよく分からない。というか私は私以外の人間といる爆豪くんのことを、実際のところそうは知らないのだった。

 電話の締めくくりに、お茶子ちゃんは私を案じるように言った。
「名前ちゃんの気持ちが落ち着いたらさ、爆豪くんにまた連絡してあげてくれないかな?」
「えー……私から?」
「ねっ、とりあえず平日の爆豪くんはこっちで何とかするからさ、ねっ」
 お茶子ちゃんにそう言われては嫌とは言えない。心の中で「確約はできないけど」とこっそり付け加え、渋々私は頷いた。電話の向こうのお茶子ちゃんは何故だか嬉しそうに笑った。

 ★

 お茶子ちゃんには「連絡をする」と約束をしたものの、しかしやっぱり腹が立つので、それから一週間、爆豪くんには連絡しなかった。今回は是が非でも私は謝らないぞという強い気持を胸に秘めている。お茶子ちゃん及び爆豪くんの被害に遭っていると思われるクラスメイト達には申し訳ないけれど、もう少し、具体的に言うと爆豪くんの方からアクションを起こしてくれるまでは我慢してもらうほかない。

 とはいえ爆豪くんがアクションを起こすなんてことが果たして有り得るのだろうかというのが、目下の私の悩みだった。私が自分から動くことをしない以上は爆豪くんが動いてくれることに期待するしかないのだけれど、爆豪くんは私以上にプライドが高くて頑固だ。いや、私は別に頑固ではないし、プライドなんてものもほとんどない。だから私以上にというのは不適切で、私とは比べ物にならないくらいに、というのが正しい表現なのだろう。

 話がそれてしまった。そういうわけで、今、私は待ちの姿勢をとっている。まだ爆豪くんに対して腹を立ててはいるけれど、爆豪くんの方から謝ってくるのならば許す準備もできている。こっちこそ、泣いたりして、取り乱したりしてごめんねという準備は、きちんとできている。
 まあ爆豪くんの方から謝ってくるなんて全然想像できないんだけれど。

 そんな感じにひとり脳内会議の議題がぐるりと一周したところで私は電車を降りた。
 今日は日曜日で学校がないので、高校の友達たちとカラオケに行っていた。今はその帰りだった。
 うちの高校は雄英とは違って土日休みの完全週休二日制だ。だからこれまで、基本的に高校の友達と遊ぶときには土曜日に予定を入れていた。日曜日は爆豪くんのために空けておく、というのが爆豪くんと付き合い始めてからの私の中でのルールだ。もっとも、毎週日曜日を空けておいたところで爆豪くんとは毎週会えるわけではないので、私にとっての日曜日とは大体家で休息をとったり学校の課題を片付けるかたわら爆豪くんとも遊ぶ日、という位置づけになっている。

 その日曜日に爆豪くん以外の友人と遊ぶのは、本当に久し振りのことだった。もしかしたら高校に入って初めてかもしれない。
 カラオケ行く人、とクラスのトークSNSで声を掛けられてそれに乗っただけなのだけれど、何せ私の彼氏である爆豪くんはちょっとした有名人だ。私が日曜日を爆豪くんのために確保していることも、当然クラスではよく知られている。うちのクラスには彼氏持ちの子が少ないので、私の恋愛事情はクラスメイトたちにしばしば娯楽扱いされているし、結構な勢いで情報が筒抜けになっていたりする。

 その私が日曜日に爆豪くんではなくクラスの友人と遊ぶというのだから、カラオケではちょっとした騒ぎだった。私の話を聞くため、想定以上の人数が集まってしまってカラオケの部屋が大部屋になってしまったり、歌うことそっちのけで私と爆豪くんの喧嘩の話をさせられたり。と、まあまあ散々で疲れ果てた私は、今こうしてへろへろになって帰宅していた。
 こんなことなら無理に遊びに行かない方がよかった、と昨晩安易に「行く」と言ってしまった自分の選択を後悔する。家にいても爆豪くんのことを考えてしまって気が滅入るだけだからと出掛けたはずなのに、結局爆豪くんの話しかしていないのだから世話ない。クラスメイトの恋路をエンタメとして消費するな。

 はああああ、と深く溜息をついて、玄関のとびらを開ける。乱雑に脱いだ靴が勢いよく三和土を転がった。その靴をそろえようと視線を下ろして、気付く。家族のものではないスニーカーが一足、きちんと行儀よく玄関に並べられていた。サイズからして男の人のものなのだろうけれど、父の年代の男性が履くにはちょっと若すぎる。かといってセールスの人がスニーカーで営業に回ることもないだろう。
 不思議に思いながら、リビングの扉を開けた。
「ただいま───」
 そう言って視線を遣った先、リビングのソファーセットには、にこにこと機嫌よさそうな顔をしている母と───爆豪くんがいた。
 って。

「あら、おかえりなさい、名前」
「ばっ」
 爆豪くんの「ばっ」なのか馬鹿じゃないの、の「ばっ」なのか、はたまた意味なく咄嗟に出てきた「ばっ」なのかは自分でも分からない。けれど、とにかく「ばっ」と言ったきり二の句が継げなくなった私は、はくはくと口を動かすしかなかった。
 変わらずにこにこしている母と、やけに取り澄ました顔をしているよそ行きの爆豪くんがこちらを見つめる。いや、何なんだそのお澄まし顔は。人の母親となにを楽しく談笑なんてしてるんだ。というか爆豪くん、母親世代の女性と穏やかに談笑するなんていうコミュニケーションスキルを保有していたのか。そのことに多少、いやかなり私は驚いているんですが。だって爆豪くん猫とかかぶれなさそうじゃないか。言っておくけどうちの母はそれなりに寛大ではあるけれど、結構好き嫌いがはっきりした人間ななのだ。その母がこうもにこにこしているなんて、一体どういう会話をしていたんだ。そこに置かれたアルバムは何だ。おい。おい。おい!!

 と、まあそんな思考がめまぐるしく脳内を通り過ぎていき、やっとのことで呼吸を整えた私は勢いよく叫んだ。

「なんでうちに!? 爆豪くんが!? しかもお母さんと!? 全然意味分かんないんだけど!?」
 盛大に取り乱している私とは対照的に、母も爆豪くんも平然として私を見ている。なんだこれは、これではまるで私の方が過剰反応を示しているみたいじゃないか。この件に関していえば完全に私の方がまっとうな意見を持っているはずなのに。ていうか爆豪くん私に連絡のひとつも寄越していないのに。
「そんな大きな声出さないの。勝己くんがうちの前うろうろしてるところを見かけたから上がって待ってたら? って声をかけたのよ」
「うろうろ!? 爆豪くんがうろうろ!? ていうか勝己くん!?」
「そうそう、勝己くんってば子犬みたいな顔しちゃって」
 子犬!? 爆豪くんが子犬!? 狂犬の間違いではなく!?
 もはやどこから突っ込んでいいものやらまったく分からず───まことに遺憾ではあるけれど、私はツッコミを放棄した。思考停止は逃避の有効手段だ。
 自分の母親は常識的でまっとうな人間だったと思っていたけれど、それはどうやら「娘の彼氏」の登場によっていとも容易く崩壊する程度のアイデンティティだったらしい。この十六年ほどの人生で一切浮いた話のなかった私も私だけれど、いくらなんでも浮かれすぎだろう。
 くらくらする頭を押さえる。ダイニングテーブルの上に出されたままになっていた麦茶をコップに注ぎ、一気に飲み干した。一杯ではこの衝撃を飲み下せそうにはなかったので、二杯、三杯、と麦茶をあおり、四杯飲み干したところでやっと息をついた。

 とりあえず、落ち着いたところで。
「爆豪くん」
「なんだよ」
 母親の手前、いつもよりいくらか親切そうな声音で爆豪くんが返事をした。彼女の親の前ではお行儀よくするという世間的感覚を爆豪くんが有している事実にはまだ馴染めないけれど、今はそんなことをどうこう言っている場合ではなかった。
「ちょっと私の部屋で話そうか」
 そう言って爆豪くんの腕をとり、大股でリビングを出ていく。背中に母からの「勝己くん夕飯食べていくー?」が聞こえたけれど、爆豪くんがそれに返事を返すより先に私は思い切りリビングの扉を閉めた。

 爆豪くんの実家の部屋に上がったことは一度ならずあれど、自分の部屋に爆豪くんを招き入れるのはこれがはじめてだということに気が付いたのは、爆豪くんに座布団を出しているときだった。勢いでリビングを出てきてしまったので飲み物も何もない。けれど爆豪くんはついさっきまでうちの母親とお茶していたのだからそういう気遣いはわざわざしなくてもいいだろう。私もさっき麦茶を飲んだから喉は潤っている。というかもてなしてやるような義理もない。喧嘩中だ。

「で?」
「あ?」
 母の前とは違う、いつも通りの不遜な爆豪くんの返答だった。色々と言いたいことはあるけれど、今はぐっと飲みこんでおく。そうしないと話が進まないからだ。
「『あ?』じゃないよ。アポなしにいきなり来て、どういうつもりなの。私だって休日に予定くらいはあるんだから、もし遅くまで帰ってこなかったらどうするつもりだったの」
「出掛けてんじゃねえ」
「無茶を言わないでよ。今までは爆豪くんに予定合わせて調整してたけど、私だって爆豪くん以外にも友達はいるし、行きたい場所だってあるんだからね」
 はっきりとそう言うと、爆豪くんは眉間に皺を寄せた。それでも何も言い返してはこない。ただ鋭い眼光をこちらに向けるばかりだ。その様子に、早くも私は絆されそうになっていた。ちょっと意地悪な言い方をしすぎただろうか。なんだか恩着せがましかっただろうか。
 そんな自分の思考に気が付いて、私は慌てて頭を振った。実際、今言ったことは事実でもある。爆豪くんが当たり前のように消費している私の日曜日は、私にとってはわざわざ捻出した日曜日なのだ。当然その逆もまたしかりなのだけれど、今回はそのことには気が付かなかったことにしておく。

 爆豪くんが何も言わないので、さらに続ける。
「私は爆豪くんの彼女だけど、爆豪くんのモノではないから。誰と遊ぼうがどこに行こうが、私にはそれを自分で決める権利があるし、そのことについて爆豪くんからどうこう言われる筋合いはない。もちろん小学校時代の友人にばったり会って話そうが、それを爆豪くんが咎める理由はないよね。だって浮気しているわけじゃないんだし、これでも相手はきちんと見てるつもりだし。何より私は爆豪くんの人間関係を制約したことなんてない。そりゃあ相手のことを思いやって自重するべきは自重するのが正しく対等な関係だとは思うけど、それ以上のことを求められても困るし、従う筋合いもない」
「てめえ、」
「けど」
 と。爆豪くんの言葉をさえぎって、私は言った。ほとんど言いたいことは言いつくしたし、何なら言い過ぎたと思わないこともない。一方的に捲し立てたのはきっと、余計な口を挟まれるより先に言い切ってしまわないと爆豪くんに押し切られる可能性がないわけでもないからだった。
 押し切られる、あるいは私の方から爆豪くんの意に沿う言葉を言わされてしまう。引き出されてしまう。これまでにも何度かそういうことがあったから、今回ばかりは爆豪くんの思うような展開になってしまう前に自分の言葉をすべて伝えなければならなかった。そして。
「それが嫌で、それがだめなら───」

 別れよう。

 たったそれだけの言葉を口にするつもりだった。今さっき口にした長台詞の何分の一、何十分の一の長さの言葉を。小学生でも知っている簡単な言葉を口にすればいいだけのはずだった。
 それなのに、私の口は縫い付けられたように真一文字に結ばれてしまって、別れようなんて、とてもじゃないけれど口には出せなかった。

 別れよう。別れて。別れたい。
 けれどそのいずれも口に出せないのは、私が爆豪くんのことを好きだからだ。冗談でも口にしてしまえば、後々私と爆豪くんの間に禍根が残ることは分かっていた。
 爆豪くんの信用を勝ち取ることは難しい。このひねくれていて、横暴で、横柄で、天上天下唯我独尊、人を人とも思わないような男の子は、基本的に人を好きになるまでのプロセスが複雑で難解だ。すべての他人に対しての好感度はマイナスからのスタートだし、そのくせ好かれようという努力もしない。そういう面倒な人間だった。
 その爆豪くんに、私はおそらく、いや確実に愛されている。好かれている。大切に思われている。行き過ぎた支配欲も、所有欲も、子供じみた独占欲も───元をただせば私への好意から発生したものだ。それが過剰だったがゆえの今回の喧嘩なのだけれど、それでもやはり、愛されているという事実には変わりない。
 ひねくれ者の、ヒールみたいなヒーロー志望生。そんな爆豪くんからの親愛を、情愛を、私はこの世界で唯一勝ち得ているのだ。それを失いたくはなかった。一度失えば、おそらく未来永劫二度と手にすることはできないであろう。それを失ったらきっと私はどうしようもなくなってしまう。だって私は、私も、爆豪くんのことが大好きだから。愛しているから。

「黙ってろ」
 その声に、はっとする。唐突に響いた声は当然私のものではなく爆豪くんのものだった。それも、今このタイミングで言うかというような言葉だった。
「は、え、」
「黙ってろっつっとんだ」
「いやいや、え? 嘘でしょ、このタイミングでそんな暴言を、」
「一回しか言わねえ」
 困惑する私を無視して爆豪くんは話を進める。というか私の話はまだ終わっていないのだけれど、なんて反論をする暇も与えず、爆豪くんは鬼のような形相を保ったまま私の───私の胸ぐらを、つかんだ。ていうか、いやいやなんで。カツアゲかよ。怖いよ。

 そんなカツアゲポーズで、爆豪くんは言った。
「てめえ、次泣いたら殺す」
「は」
 思わず間抜けな音が口から洩れた。何て言った。今、爆豪くん何て言った。聞き間違いじゃなければ次泣いたら殺すとか、そんな物騒で、まったく恋人らしからぬことを、言われたような、気がしたのだけれど。
 困惑の目を爆豪くんに向ける。爆豪くんは舌打ちをしてからつかんでいた私の胸ぐらを離した。すとん、と元いた座布団の上に腰を下ろして、呆然としながら今爆豪くんに言われた言葉を脳内で反芻する。
 普通に考えたらとんでもないことを言われている。完全に爆豪くんに非がある喧嘩で、非がない私がちょっと泣いた。その和解の場で、何故私が責められる立場にあるのだろう。というかどうしてそんなことに思い至れるのだろう。
 自分の彼氏ながら、本気で正気を疑うところだ。いや、まじで。これが私でなければ、あるいは相手が爆豪くんでなければ本気で破局しているところだと思う。彼女の胸ぐらをつかむな。

 けれど大切なのは、相手が爆豪くんで彼女が私である、ということだった。爆豪くんの素直になれなさを、私はよくよく知っている。知りすぎている。熟知している。専門家の域にすら達しているといえる。
 そんな私の知見を披露しよう。
 次泣いたら、と爆豪くんは言った。つまり爆豪くんは「次」を想定している、ということだ。私と爆豪くんの関係が、時間が、これからも続いていくことを、暗に爆豪くんは示唆している。別れ話を私が切り出すすんでのところで、それを否定する言葉を口にしている。

 …………。

 いや、分かりにくっ! 私じゃなかったら頬っぺ張っ倒されてるぞ。

 そんな心の中でのつっこみを何とか胸中に押しとどめ、努めて冷静な声で私は言う。
「……何それ。それ言いにきたの? そんなことを言いにきたの?」
 爆豪くんは黙っていた。もしかしたら今自分が発した言葉の真意を私が正しく読み取れなかったのではないかと危惧しているのかもしれないし、あるいはそんな分かりづらい、ほとんど暗喩だろというレベルの発言をこの場でしてしまったことを後悔しているのかもしれない。かもしれないけれど、すでに言ってしまった言葉をなかったことにはできないし、私も私で、理解してしまったものを理解できなかったことにはできないのだった。
 私の知る爆豪くんという男の子の人格やこれまでの行動と照らし合わせてみる。先ほどの言葉は、多分爆豪くんなりの誠意ある対応だということに、私は悲しいけれど思い至ってしまっている。

 溜息をひとつ吐き出す。結局これが私の望む結末だったとは到底言えない。爆豪くんが私の要望を飲んだと約束してくれたわけではないのだし、きちんと謝られたわけでもない。私の友人に対して謝ってくれたわけでもない。
 もしかしたらこの先も、爆豪くんは変わらないのかもしれない。何度でも私を傷つけるかもしれない。私の周りを傷つけるかもしれない。それでも「次」の話をした爆豪くんのことを、私は信じたかった。
 だって彼はヒーローになる男の子なのだから。自分の発言を違えることはきっとない。
 だって彼は爆豪勝己なのだから。彼が信じるに足る人間であることを、私は知っている。

「じゃあこちらからも一つだけお願いがある」
 そう言うと、爆豪くんはあからさまに怪訝そうな顔をした。私の言いたいことはさっきので全部だと思っていたのだろう。まったく、爆豪くんは甘い。
「爆豪くんの言い分を聞くなら、私たちが対等な関係である以上、当然爆豪くんにも私の言い分を聞く義務がある」
「あ? てめえ何を、」
「黙ってて」
 さっき爆豪くんに言われたのと同じように言って。私は思い切り爆豪くんの胸ぐらを掴んで引き寄せた。さしもの爆豪くんの反応の速さをもってしても、戦闘力ゼロの私にまさか胸ぐらをつかまれるとは思っていなかったらしい。反応が半拍遅れた。力任せに引き寄せた顔と顔が近付いて、キスしてしまうんじゃないかというような距離になって。
 けれど私はキスなんかせず、はっきり言った。
「次に私のことを泣かせたら、今度は家には入れない」
「……」
「それから、私の友達に嫌な態度をとるのはやめて。私が好きなのは爆豪くんだけなんだから、むやみやたらと威嚇しないで」
 一つじゃねえのかよ、と爆豪くんの顔に書いてある。けれど私はそれをしれっと無視することにした。日頃の爆豪くんからの圧政に耐えていることを思えば、これしきのことは些事である。そしてこれしきのことは些事だから、もうひとつくらい付け足したってばちは当たらない。

「私に、爆豪くんのことを嫌いにさせないで」

 そう言って、私はやっと爆豪くんの服から手を離して彼を解放した。爆豪くんの顔が見られない。
 荒れた小学生時代ならばいざ知らず、名門お嬢様学校に通う今の私が男子の胸ぐらを掴むなんて、なかなか大胆なことをしてしまったわ、と少しだけ照れた。

 爆豪くんはもう何も言わなかった。分かったとも、嫌だとも。それが何よりの答えである。今回のところはお茶子ちゃんや母の顔を立てて許すことにした。

「さて、と。まだ爆豪くんの寮の門限まで時間あるよね。アイス食べに行こうか」
「は? 今日別に安くねえだろ」
「別にいいよ、爆豪くんの奢りだし」
「ふざけんな」
「え、奢ってくれないの?」
「……」

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