いいんですか恋なんですか



 爆豪くんと映画を観に行ってから、早いものですでに四日が経った。金曜の夜に爆豪くんに見放され、それから悶々とした週末を過ごし、週が明けて二日経つ。案の定というべきか何というか、朝の電車で爆豪くんと顔を合わせることはない。高校に上がってからずっと一緒に通学していたから、ひとりで学校に向かう四十分はなかなか寂しいものがあった。
 別に一緒の電車に乗ろうと約束をしていたわけではない。何となく、毎日一緒になるから同じ電車に乗っているけれど、それだってたまたま二人とも同じ時間の電車に乗っていただけ。たまたま毎日一緒に通学していただけ。だから爆豪くんが一緒じゃなくなったって、何もおかしなことはないのだ。約束を違えているわけでもない。
 そのはずなのに、爆豪くんと二人で通学の時間を過ごすことにすっかり慣れてしまった今の私は、ひとりでの通学が寂しくて、爆豪くんと一緒に過ごす時間の楽しさや気楽さを痛感する。
 ──爆豪くんが私のことなんて好きになるはずがない。
 あの瞬間まで、私は本気でそう思っていた。そこは一切の嘘偽りなく、本気でそう思っていたのだと断言できる。
 一緒に通学して、一緒に食事をして、一緒に映画を観て。
 だけどそこには色恋めいたもの、艶っぽい感情は一切挟み込む余地がないと思っていた──ないと思いたかった。
 あの日、別れ際の爆豪くんの顔や声を思い出すと、どうしようもなく胸がずくずく痛くなる。真剣な顔で私を見ていた爆豪くんは、声を荒げることも手を上げようとすることもなかった。それなのに、私が知る爆豪くんのしぐさ、表情の中で一番──今までで一番、怖かった。
 そう、怖かったのだ。
 私に真剣に向き合おうとしている爆豪くんのことが、私には、どうしても。

「はー……」
 陰鬱な気分を吐き出すように、長い長い溜息を私は吐き出す。
 天気はどんよりとした曇天で、梅雨を目前に湿度も高い。天気までもが、まるで私の気持ちを反映しているかのようだった。
 満員電車は息苦しくて、私の気持ちの下がりにも拍車をかける。
 と、不意に背後からつんつんと肩をつつかれた。満員電車の中、首だけでくるりと振り返れば、そこには私と同じように疲れた顔をした雄英生──緑谷出久くんがいた。

 電車の中、思いがけない再会である。直前までの重苦しい気分が少しだけ軽くなり、私はあくまで電車の中であることに配慮した声量で、わっとはしゃいだ声を出した。
「わ、緑谷くんだ。久しぶりだね」
「う、うん、本当に久し振り。卒業式ぶり──かな」
「そうだね。緑谷くんも雄英なんだよね、合格おめでとう。学校の最寄りが一緒だからいつか電車で会うかなって思ってたけど、やっと会えたね」
 相変わらずもしゃもしゃした髪の毛でおどおどしている緑谷くんは、ぱっと見た印象は中学生の頃とあまり変わらない。中学三年の夏前にはすでに、爆豪くんは緑谷くんにちょっかいをかけるのはやめていたけれど、とはいえ私の記憶の中の緑谷くんはどうしても、おどおどとしたいじめられっ子のイメージのままだ。
 それでもよくよく観察すると、緑谷くんの体つきは以前より少しがっしりしたように見えた。やはり雄英のカリキュラムに依るところが大きいのだろう。無個性の彼が雄英で爆豪くんたちと同じ授業を受けていると思うと、想像するだけで死ぬほど大変そうに思える。
 雄英ではいじめられていないのか、少しだけ不安になった。上鳴くんや切島くんの雰囲気からして、あまり陰湿ないじめが横行しそうな雰囲気はないけれど、それでもヒーロー科で無個性というのはなかなか異端だろう。
「どう? 学校大変?」
「そ、そうだね、すごい人ばっかりで」
「爆豪くんとは今年も同じクラスなの?」
「うん、あ、でもあんまり喋らないけどね……かっちゃん相変わらずだし……」
 緑谷くんの言葉からは、大体ふたりがどういう距離感でクラスメイトをしているのかがはっきりうかがえる。たしか雄英はひとクラスの人数もそう多くないから、学生生活を送る中でまったく爆豪くんと関わらないというわけにはいかないのだろうけれど、互いに必要以上に近寄らないようにはしているのだろう。まあ、賢明な判断だと思う。
「まあ、人間そう簡単には変わらないよね。私も未だに根暗女って呼ばれるし。根暗じゃないって何回言っても直らないから、最近はもう諦めてる」
 そう笑いながら言うと、緑谷くんは何故か少しだけ驚いたような顔をした。
「名字さん、かっちゃんと会ったの?」
「うん。ていうか朝電車で一緒になるから。今週はまだ会ってないけど、大体同じ時間の電車に一緒に乗ってるよ」
「それって今乗ってるこの時間の電車?」
「そう、だけど」
 何かおかしなことを言っただろうか。むっと眉根を寄せる緑谷くんはやがて、
「え、それってでも……ああ、かっちゃん……そういえば中三のときちょっとそんな噂あったっけ……てっきり冗談かと思ってたけど……」
 何やらぶつぶつ一人言らしきものを唱え、ついでにまるで変なものでも食べたような顔をして、最終的には何かに納得したようにうむうむひとりで頷いた。
 緑谷くんのその様子に、私は首を傾げる。現に今、こうして私と緑谷くんとが電車が一緒になっているのだから、爆豪くんとの間に同じことが起こっていても何もおかしくはないと思うのだけれど。
 と、そんなことを考えながらふと緑谷くんの手元に視線を遣ったら、彼の指先にぐるぐると包帯が巻かれていることに気が付いた。それも一本や二本ではない。ほとんどの指が包帯に覆われている。何とも痛々しい見た目だ。
「緑谷くん、その指、めちゃくちゃ突き指したの?」
「え?」
「包帯すごく巻いてるから」
 私が言うと、緑谷くんははっとした顔をして指先を手で覆って隠し、それからふいと視線を逸らした。目を合わさないまま、口の中でもごもごと返事をする。
「その、実はこ、個性が……発現して」
「えっ、本当に? おめでとう──でいいのかな」
「ありがとう……?」
 何故か疑問符で返され笑ってしまった。緑谷くん自身、もしかしたらまだ個性の発現をうまく受け容れられていないのかもしれない。いずれセンシティブな内容であることには違いないので、あまり深く突っ込まないことにする。
 とはいえ、ヒーローを目指す身代としてはおめでたいことだろう。私自身人よりもだいぶ遅れて個性が発現した人間なので、高校一年でやっと個性が発現した緑谷くんの気持ちは多少だが分かるつもりだ。緑谷くんの場合、きっと待ち望んだ個性発現なのだろうとも思う。
「そっかそっか、いや、でも本当によかったね。緑谷くん頑張ってたから私も嬉しいな。今から個性使いこなせるようになるのも大変だと思うけど、緑谷くんならきっと大丈夫だよね。頑張ってね」
「あ、ありがとう──あ、そうか。名字さんも遅れて個性が……」
「そうそう。遅咲き仲間」
 そう言うとまた緑谷くんは変な顔をした。先ほどとは違う、今度は少しだけ申し訳なさそうな色を含んだ顔だ。
 その表情の意味は私には分からなかったけれど、きっと緑谷くんにも色々あるのだろう。こういう話はなかなかデリケートだし、先ほども思った通り、あまり深く突っ込まない方が良いのかもしれない。私だって個性のことを詮索されるのはいい気分がしない。
「まあでも、本当によかったね。私はともかく緑谷くんはヒーロー志望でやっていかなきゃいけないから。緑谷くんなら個性に頼らなくても戦えそうだけど、やっぱ武器は多いほうがいいしね。緑谷くんの個性知らないけど」
「名字さん……」
「陰ながら応援してるね」
 そう言うと、緑谷くんは何か咄嗟に言おうとして──けれどすぐ、その言葉を飲み込むように喉を鳴らした。かわりに、一拍置いてからゆっくり慎重に口を開く。
「……名字さんの言った通り、僕は個性を使いこなせるように練習をしなきゃいけないんだけど」
「うん?」
 脈絡があるようなないような話題運びだ。話の着地点が見えず、私は曖昧な返事をする。
「雄英のカリキュラムだけじゃ、だから訓練量も時間も足りなくて──それを補うため、今日は始業前に自主トレしようと思って登校してるんだ。本当の登校時間より、だいぶ早い時間なんだよ」
「へえ、そうなの?」
「うん」
 緑谷くんが突然何を言い出したのか、少しの間私は理解できなかった。個性の話をもっとしたいのだろうか。けれど正直に言って私はヒーロー志望ではないし、個性を使いこなすための努力も最低限しかしてこなかった。だから個性について、私から話せることもそうはない。相槌を打つ程度しかできない。
「かっちゃんは、中学の時は遅刻ギリギリの時間に学校来てたのに、今は僕が登校するともう学校にいるんだよね」
「そうなんだ……?」
 いまいち要領を得ない私に、緑谷くんは一瞬悩んだような表情をつくったけれど、結局それ以上は何も言わなかった。

 ★

 改札を出て緑谷くんと別れると、私は再び爆豪くんのことを考えた。というか、ここ数日は何かに集中していたり誰かと会話をしていないと、すぐに爆豪くんのことを考えてしまう。
 ──でも別に、爆豪くんから好きって言われたわけではないんだよな。
 手に持った傘を杖代わりにこつこつ鳴らしながら、私はうんうん唸りつつ歩く。
 そう。爆豪くんが私のことなんかを好きになるわけがないという言葉こそ暗に否定されたものの、だからといって、爆豪くんから好きだと言われたわけでもない。「好きにならないわけじゃない」と「好き」ではまったく別の感情だろう。
 とはいえ、ああも真剣な表情で否定されれば、それはもう好きと言われているのと同じなのではないかと勘繰る自分もいるわけで──結局のところ、事の真相は爆豪くん本人に聞かないことには謎のままなのだった。
 けれどけれど、それはそうなのだけれど、会うと言ったってそれが一番ハードルが高いのであって。
「好き──かぁ」
 周りに人がいないことを確認し、口に出して呟いてみた。けれどそれは中身を伴わない、どうにもうつろで空っぽの言葉にしか聞こえなかった。
 好き、好き、好き。
 爆豪くんは私のことを好き、かもしれない。全然そんな風には見えないけれど、そうなのかもしれない。根暗女とか散々悪口を言うけれど、それでも好き、かもしれない。私のことを好きかもしれないのだ、爆豪くんは。

 ──それじゃあ、私は?

 突如降ってわいた疑問に、一瞬頭が真っ白になった。数秒の間をとった後、勢いよくぶわわと顔が熱くなる。
 この間まで感じていたむずむずした気持ちなんかとは、とてもじゃないけれど比にならない勢いのそれは、急速に私の心臓の拍動を早めさせてゆく。
 全身の血液がぐるぐるとめまぐるしく循環しているのが感じられるような気すらする。血液が目に、脳に、肺に、指先に、勢いよく循環する。
 なんなんだこれは。
 突如として訪れた謎の生理現象に、私は激しく困惑した。私が爆豪くんのことを好きかどうかなんて、当たり前に考えるべき事柄を改めて考えただけで、痛いくらいに身体と心が熱くなってしまったのだ。むずむずを通り越した何か。こんな途轍もない感情を、手の付けようがない感情の名前を、私は生憎知りえない。
 けれど──それでも女子として十五年間生きてきた経験から、この感情に知識として知っているだけだったとある名称を当てはめることくらいは、情けない私でも何とかできた。
 曰く、こい。コイ、恋。
 その名称が意味するのはつまるところ、私が爆豪くんのことを憎からず思っているということ。
 ──え、本当に?
 自分自身がくだしたその判断に、ほかでもない自分自身で困惑する。だって、相手は爆豪くんだ。ヤンキーで怖くてすぐに私を根暗女扱いする爆豪くん。私のことを生意気だと思っていて、会話だって暴言がほとんどで、だけど、だけど時々分かりにくく優しい爆豪くん。
 ──そんなまさか、私は爆豪くんのことを好き、なのか?
 と、その時。
「名前ちゃーん、おっはよー」
「うわあっ!?」
「えっ何、その古典的な驚き方……」
 驚きすぎて思わず飛び上がった。はっと我に返ると、すぐ隣で友人が引いたような顔をして私を見ている。考え事に耽っていたせいで、完全に不意を衝かれてしまった。
 柄にもなく大きな声を上げて驚く私に、友人はすぐに何かあったことを察したらしい。ははーん、とにやにやしながら言うと、私の顔をびしりと指さした。
「ねえ、何考えてたか当ててあげようか? 爆豪勝己のことでしょ」
「な、なん、なんで」
「いや、分かりやすすぎだからね。ていうか何、告白された?」
「ち、ちが、ちがう」
「名前ちゃん、目が泳いでるよ」
 面白がっている友人は、是が非でも事の顛末を聞き出すというような姿勢で私の腕をつかむ。学校まではまだ暫く歩かねばならず、その間黙秘で逃げ切る自信は今のよわよわな私にはなかった。
「──いや、本当に大した話じゃないんだけど」
 そう前置きして、私は金曜日の出来事を掻い摘んで説明する。彼女は爆豪くんと直接の面識がない。相談したところで私ひとりが面白がられるだけで、爆豪くんには何の実害もないだろうという判断だった。
 私の話を最後まで聞き終えた友人は、ただ一言、
「爆豪勝己めっちゃ名前ちゃんのこと好きじゃない!?」と、何とも恐ろしいことを言って、笑った。「え、普通に好かれてるでしょそれ。ていうかそれで好きじゃないとかありえないでしょ。いやー、でも、そっかー。あの有名人の爆豪勝己が名前ちゃんとねー。ふんふん、爆豪勝己のこと全然知らないけど、多分お似合いだと思う! ていうか両想いじゃん、よかったね!」
「いや待って?」
 さらりと言ってのける友人に、私は慌ててストップをかける。このままでは私が引っかかっている部分がさらりと流されてしまう。
「ちょっと待ってよ、いくら何でもそれは展開が早い。もっと平坦に、初心者にも分かりやすく説明して。そんなに色々端折らないで」
「て言ってもなー、名前ちゃんは具体的にどこら辺が分かんないの?」
「そもそもね、まず両想いってことは爆豪くんは私を好きなの? 私は爆豪くんを好きなの?」
「そこから?」またもや友人に引かれてしまった。「初歩っていうかチュートリアルじゃん」
 けれど仕方が無いのだ。当事者である私は、一周回って最早まったく何が何だか分かっていない。第三者からの客観的な分析がないと、自分の気持ちひとつ満足に把握することができなくなっていた。
 事態は切迫している。その上猶予もそう残されていない。いつまでも爆豪くんを怒らせたままにしておくことはできない。
 私の顔は自分でも分かるくらい悲愴感に溢れていた。そのあまりのひどさに、どうやら私が冗談で言っているわけではないと友人も理解したのか、そうだねえ、と困ったように呟いた。困るほどなのか。
「まずさ、名前ちゃんの知ってる爆豪勝己ってどんな人?」
「えっと、口が悪くてすぐ暴力行為に訴えかけてきて、短気で傍若無人で傲岸不遜でヤンキー」
「おや? もしや名前ちゃんは爆豪勝己のことが嫌いだった?」
「いやいやいや、大丈夫、嫌いではないよ。たまに、本当にたまにだけど、しかもすごく分かりにくいけど優しいし。たとえば暴言吐きながらも家まで送ってくれたり、ほとんど私のこと無視しながらも一緒に通学してくれたり、あと私のこと荷物置きの下僕扱いしながら電車で席譲ってくれたり」
「爆豪勝己まじで人間的にやばくない?」
「うそでしょ、今のが比較的心温まるハートフルな爆豪くんエピソードなんだけど」
「まじ? 正気?」
 どこの世界のハートフルなのそれ、と友人が呆れかえって溜息をつく。どうやら爆豪くんと親しくしているうちに、私の中ではハートフルエピソードの閾値が恐ろしく下がってしまっていたらしい。私にとってのハートフルは、世間的に見れば人間的にやばい事案だという事実に愕然とした。
「やばい……私いつの間にか爆豪勝己くんに毒されてる……?」
「まあまあ。環境に順応したと思っておこう。ていうかアレじゃない? あばたもえくぼ的な。あるいは暗殺を生業とする部族の人たちが普段から少量の毒を服用することで耐毒性を身に着ける的な」
「フォローがギリギリすぎでしょ……」
 絶望的な気持ちになりながらそう返事をした。けれど友人はまあまあ、と笑う。
「私からみれば爆豪勝己だいぶ人間としてやばいけど、それでも名前ちゃんは爆豪勝己のこと、見所のあるまあまあ優しいやつって思うんでしょ? 会えないと寂しくて心がむずむずするんでしょ?」
「それはまあ、……うん」
「私は名前ちゃんじゃないから分かんないけど、それは好きとは違うの?」
「……多分違わない」
 改めて言葉にして整理すると、今度は不思議とすんなり受け入れることができた。
 あの言い知れぬむず痒さや、ふわふわとしたもので満たされる感覚。そして先程感じた全身の血液が沸くような目まぐるしさ。これこそが私の爆豪くんへの全身全霊の思いなのだ。そしてきっと、世間ではこれを恋と呼ぶのだろう。たとえ人によって感じ方が違っても、私にとってはこれが好きということ。
「爆豪勝己もきっと同じだよ」
 暴言ばかりで時々暴力行為もあって、ぶっきらぼうで素直じゃなくて、分かりにくくて不器用で。
 だけどあれが爆豪くんの、爆豪くんなりの「好き」の形なのだろう。確信はないけれど、きっと、多分。
「爆豪くんが私を好きになんてなるはずがない」。でもそれをいえば私だって爆豪くんを好きになるなんて思わなかった。何かの漫画で読んだことがある台詞、ありえないなんてことはありえない。勝手に爆豪くんの気持ちを決めつけて、そんなことあるはずがないと目を背けたのは私だ。爆豪くんはあんなにまっすぐ私を見ていたのに。

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