つま先の空に星は降る



 金曜の授業をすべて終えると、私は試写会の会場である映画館近くの駅へと急ぐ。電車をおりると、駅のすぐ近くのチェーンカフェの窓際にある、カウンター席を陣取った。
 爆豪くんと合流するまであと一時間以上ある。それまでここで、爆豪くんを待ちながら課題を消化してしまおうと思ったのだ。高校は中学までに比べて、課題の量が段違いに多い。
 爆豪くんと合流しだい、映画の前に軽く食事をとる予定になっていた。このカフェならば軽食も出してくれるから丁度いい。
 十六歳でヒーロー科で、身体も私よりずっと大きい爆豪くんにとっての「軽食」が、果たして私のイメージする軽食と同じ程度であるかは定かではないけれど、ここでいいと言ったのは爆豪くんだからそこまで私が心配してやる必要もないだろう。
 耳にイヤホンを挿して音楽を再生する。教科は物理。──だめだ、摩擦力の問題を見ていても「個性でどうにかしてしまえばいいのでは」と思ってしまう。これが超人社会の弊害だ。
 コーヒー片手に暫く集中して課題を進めていたら、唐突に背後から頭を小突かれた。その勢いでシャーペンの芯が折れる。
 いった、と呟きながら振り返れば、爆豪くんがコーヒーとサンドウィッチの載ったお盆を手に、私の背後に立ち睨んでいた。
「あ、おつかれー」
「テーブル席とっとけよ無能」
「顔合わせて最初に言うことが無能って、だいぶひどい」
 文句を言いつつ私の隣の椅子に腰掛け、爆豪くんはガサガサとサンドウィッチの袋を開けた。ミックスカツサンド。サンドウィッチの中でも多分一番ボリューミーなものを選んできたのだろう。ぱっと見、爆豪くんの顔の半分くらいはありそうなサイズ感だけれど、それをつかむ爆豪くんの手が大きいためか、そこまで大きなサイズにも見えない。
 課題も一段落ついたところだったので、私もカウンターの上に広げていた筆記用具を片付けると、財布だけを鞄から取り出した。
「私も何か買ってくるね」
「勝手に行け。いちいち報告すんな」
「勝手に行くと怒るくせに」
「んだと!?」
「行ってきマース」
 コーヒーはまだ残っていたので、悩んだけれどキッシュだけ注文して席に戻った。そう長く席を離れていたわけではないのに、戻ったときには爆豪くんはすでにサンドウィッチをぺろりと平らげた後で、携帯をいじりながらコーヒーをずるずる啜っていた。ちらりと見えた画面はニュースサイトのようだ。
「おまたせ。爆豪くん食べるの早いね」
「こんなもん食ったうちに入らねえよ」
「うわ、男の子の胃袋ってすごい。私このキッシュだけで夕飯いらなくなるよ」
「だからてめえはひ弱なんだよ」
「いや女子はこんなもんだよ」
 キッシュを食べながらそんな話をする。
 ふと店内を見回せば、時間帯のせいかカップルがわんさと溢れていた。男女一組で仲睦まじげと見ればすなわちカップルとするのはあまりにも浅慮ではあるものの、とはいえ彼らが醸し出す空気は何とも浮かれたピンク色だ。店内のあちこちにピンク色の空気がぷんぷん漂っている。
 私と爆豪くんも、彼らと同じカップルに見えているのだろうか。
 そんな浮ついた思考が脳裏を掠めた。まさか私たちの周囲にピンクのオーラが漂っているとも思えないけれど、物の見方捉え方は人それぞれだ。もしかしたら私と爆豪くんを恋人同士と見る人だっているかもしれない。
 自分の頭に浮かんだ思考の浮つきぶりに気づき、自分のことながら若干引いてしまった。私は慌てて首を横に振る。邪念を振り払ったつもりだったのだけれど、目の前がちかちかしただけだった。
「何しとんだ」
「いや、ちょっと自分を戒めてた」
「は?」
「浮ついた思考を粛清してた」
「分かるように喋れや無能」
「また無能って言われた……」
 およそピンクとは程遠い会話の殺伐具合に、心のどこかでそっと安堵した。

 食事を終えると、私たちはようやく映画館に向かった。カフェでのんびりしすぎたせいで上映時刻ぎりぎりの滑り込みになってしまったけれど、座席が決まっているので特に問題はない。
 肝心の映画の内容はといえば、盛りだくさんのCG、そして俳優陣がスタントを立てずに自分たちの個性で熱演したという、迫真のアクションシーンが売りのアクション映画だった。ばんばん告知を打っていただけあって、大して映画に詳しくない私が見てもかなり面白かった。普段この手の映画をあまり観ないので、どうにもほかの作品と比較することはできないけれど、きっと目が肥えた人が観ても面白いのではないだろうかと思う。会場も沸いていた。暗い映画館の中、ちらりと盗み見た爆豪くんの表情も、心なしか楽し気に見えた。

『無茶よ、そんな怪我で……っ!』
『そこを退いてくれ、俺は、俺は戦わなきゃならないんだ』
『今度こそ本当に死んでしまうかもしれないのよ!?』
『それでも……、それでも俺はヒーローなんだ』

 スクリーンの中できれいな女優さんがはらはらと涙を流す。ストーリーは佳境に入り、重傷を負った主人公が無理をおして戦場に戻ろうとするのをヒロインが止めるシーンだった。
 メインはアクションなのだろうけれど、ストーリーは思ったよりも恋愛要素を盛り込んでいる。
 一般市民のヒロインが、戦場に赴くべく去っていく主人公の背中を、涙を流してじっと見つめる。そのシーンを見ながら私は、ヒーローの彼女って大変だなあ、とぼんやりそんなことを考えた。
 もともとフィクションの物語にそう感情移入をするタイプではないからか、こういう感動のシーンも比較的客観的に見つめることができる。私だったら──どうだろう。あのヒロインのように、相手に追い縋ったりしなければいけなくなるような恋愛は嫌だなあ、と思う。それもこれも、恋愛のことなんてよく分かっていない経験の少なさだから、そんなふうに思うのかもしれないけれど。
 もしも私が爆豪くんの恋人だったら、いつかはああやって敵と戦いに行く彼のことを見送らなければいけなくなるのだろう。彼は性格からして災害救助よりも敵と戦うことを好むタイプのヒーローになりそうだし、恋人ともなれば心労もひどそうだ。
 そこまで考えてはっとした。いやいやいや、なんで私がそんなことを心配しなくちゃならないんだ。私にはそんなの、全然関係ないことなのに。
 頬に両手を当て、心を鎮めるように細く長く息を吐きだす。一度だけぎゅっと瞼を閉じて目に力をこめると、邪念を振り払って映画に集中した。

 ★

 映画が終わった頃には、もうすっかり日が暮れていた。時計を見れば二十時を回っている。明日が休みでよかった。地元に戻る頃には二十一時を過ぎているだろう。
 乗り込んだ帰りの電車は退勤するサラリーマンやOLで埋まり、座席もひとつしか空いていなかった。車両の中で立っている人は私たちのほかにはいないけれど、私と爆豪くんのどちらかしか座れないのであれば、私だけ堂々と座るのも忍びない。
「爆豪くんヒーロー科の授業で疲れてるでしょ、座りなよ」
 などと言ってみたところで、まさか爆豪くんが私の言葉に従って座るとも思えない。となれば、下手なことを言うよりも黙って一緒に立っていた方が面倒も少ないだろう。
 そう思いつり革に手を伸ばそうとすると、爆豪くんが私の顔をぎんと睨む。かと思えば、あっという間に爆豪くんに乱暴に座席に押し込まれた。
「うわ、ちょ、いきなり何?」
「荷物」
「え?」
「荷物持ってろ下僕」
 言うなり爆豪くんは、座席に押し込んだ私の膝の上に自分の鞄をどさりと放った。身軽になった彼は私の前に仁王立ちになる。距離が近いので立ち上がることもできない。
 これはつまり、不器用ながらに席を譲ってもらったということだろう。また爆豪くんの微妙に分かりにくい優しさに、私の胸がぎゅっとなる。そんな気持ちを誤魔化すように、
「座っていいよって素直に言ってくれたらいいのに……、逆にツンデレみたいな感じになっちゃって恥ずかしくないの?」
「んだとてめえ喧嘩売っとんのかコラ」
「ありがとうって言ってるんだよ」
「言ってねえだろ!」
「察してよ」
「無茶苦茶なこと言ってんじゃねえよ! 根暗の分際で!」
 軽口の遣り取りをしていたら幾らか気が楽になった。なんだか今日の私はおかしい。油断するとすぐにおかしな思考回路になってしまう。こうやって根暗だなんだと罵られていた方が、そういうことを考えなくて済む。別にマゾの気があるわけではないけれど。というか普段散々無茶苦茶なことを言っている爆豪くんなのだから、少しくらい私が無茶を言ってもいいと思うのだけれど。
 その後はぽつりぽつり映画の感想の話をしたり、お互いに最近の学校での話をしたりした。毎日一緒に登校している割には話のネタがなくならないのは、一緒にいる間中ずっと会話しているわけではないからだ。そのとき思いついた話題を適当に話し、それが済めばまた何か思いつくまで適当に黙る。通学の時には、大体そんなことの繰り返しをしている。一緒にいる時間を考えれば言葉を交わしている時間は存外少なく、しかしそれが却って楽でいいとも思う。
 電車を降りて改札を抜けると、爆豪くんは何も言わずにずんずんと進んでいく。私の家と爆豪くんの家とでは駅からの方向が違うので、本来であれば私と爆豪くんでは出る出入り口が違う。改札で解散になるはずだ。
「爆豪くん、爆豪くんの家ってあっちだよね? こっちの出入り口に親御さんがお迎え来てるとか?」
「は? なわけねえだろ。つーか迎えなんて頼まねえよ」
「じゃあなんでこっち?」
「いちいち俺のすることに口出すんじゃねえ、根暗は黙ってしゃきしゃき歩けや」
 まったく質問の答えになっていない返事が返ってきたけれど、さすがにそれで察せないほど私は鈍くもなかった。先ほど電車で私に座っていいと言ってくれたように、いや言ってくれてはいないけれど、ともかく態度で示してくれたように、多分今も、爆豪くんは送ってくれようとしているのだ。まだそう夜更けという時間でもないのに。
 胸の真ん中が、またむずむずする。そのむずむずはじんわり温度を持って、私の胸の裡にゆっくり広がっていった。正体の分からない感情が胸の真ん中から、やがて指先にまで広がって、言い知れぬふわふわしたもので身体の内側が満たされていくような、そんな気がする。
 その感情を誤魔化すように、私ははっと口を開いた。口から出た言葉は、少しだけ上ずっていた。
「爆豪くんって、なんでもできるのに不器用だよね」
「意味分かんねえこと言ってんじゃねえぞ、俺にできねえことなんざねえわ」
「コミュニケーションスキルが低い」
「まじで殺す」
「そういうところね」
 爆豪くんが右手を振りあげて見せたけれど、それでもまったく怖くはなかった。小突かれたりはするけれど、個性を使ったひどいことはもうしてこないだろうという確信があった。そういえば中学生のときは耳元で爆破とかもされたけれど、あれ以降爆豪くんが私に対して個性を使って何かすることもない。それは優しいというよりも人として当たり前のことなのかもしれないけれど、そういうことではなくて。
「そういえば前も、爆豪くんがうちまで送ってくれたことあったよね。あの時は偶然道で会っただけだったけど。そういうところ、女子に優しいよねえ。あ、爆豪くんって好きな子とかいないの?」
 うちまであと数メートルというところに差し掛かったとき。
 私がそう訊ねると爆豪くんはあからさまに不機嫌そうな顔をしてこちらを見た。脈絡がない質問だったから不審に思ったのだろう。爆豪くんの眉間の皺が大変なことになっている。けれどそんな顔も、別に怖くはない。へらりと私は笑う。
「さっきの映画でラブシーンあったから、ふと思って」
「……てめえにゃ関係ねえだろ根暗女」
 にべもない返事である。まあたしかに私には関係ないだろう。
「まあそうなんだけど。それに、私あんまりこうやって男子と二人で話したり出掛けたりしたことないから、爆豪くんはどうなのかなって気になっちゃってさ」
 脳裏に蘇るのは数日前の友人の言葉。
 ──「やっぱさ、爆豪勝己って名前ちゃんのこと好きなんじゃない?」
 そんなはずがないのは分かっている。
 爆豪くんにとっての私、私にとっての爆豪くん。
 それが恋愛みたいなものから程遠い場所にある、何か別のものだということを、私はちゃんと知っているのだ。それでもむずむずした気持ちが、こそばゆい感情が顔を出すたび、その確信は何かが違う、間違っていると言われているような気がした。
 視線をつま先に向ける。高校入学時に新調してまだぴかぴかのローファーが、私の視線を吸い込んで鈍く反射する。
「こんなこと言ったら怒られるって分かってるんだけど、友達に爆豪くんの話したら、付き合ってるみたいだって」
 言葉を発しながら、祈るような気持ちになる。どうかどうか、いつもみたいに「そんなわけねえだろ根暗女」と一蹴してくれますように。爆豪くんのきっぱりとした否定の言葉、それさえあれば余計なことなど考えずに済むのだから。
 爆豪くんが否定さえくれればこのむずむずした気持ちをどうにかできる気がした。自分ではどうにもならないものを、爆豪くんの一言で振り払ってほしかった。強い爆豪くんの強い言葉で消し飛ばしてほしかった。
 それは願望というよりもいっそ、祈り、願いにも似た気持ちだった。

「爆豪くんが私のこと好きなんて、そんなことあるわけないのにね」

 そんなことあるわけない。
 そんなことが、あるわけがない。
 誰かに、自分に言い聞かせるようにそう発して、私は爆豪くんからの返事を待つ。
 けれど、へらへら笑った私の隣の爆豪くんは、私の言葉を聞くのと同時にぴたりと歩みを止めた。自分のつま先ばかり見つめていた私は、不意に隣にあった大きな影がなくなったことに気が付く。不思議に思って振り返って、爆豪くんの顔を見上げ──そして息をのんだ。
 爆豪くんの表情は不機嫌そうでも嘲るようでもなくて、眉間に皺だってなくて。
 ただ、ただ真っすぐに私を見つめていた。
「てめえ、それ本気で言っとんのか」
「え、」
「てめえは、俺がてめえを好きにならねえと本気で思ってんのか」
 その静かで凪のような声に、何故か背筋がぞくりとした。
 思っている──爆豪くんが私を好きになんてなるはずがないと思っている。そんな言葉を、まさか口にできるはずもなかった。
 そんな言葉を許してくれなさそうな目を、爆豪くんがしていたから。
 私を見据える爆豪くんは、今まで見たことのあるどんな表情よりも真剣な面持ちで、それなのに無駄な力がこもっていない自然な表情に見えた。そして、それはどうしてだろう、どうしようもなく脆く危ういように思えた。
「ばくごうくん」
 からからになった喉からこぼれた彼の名前を呼ぶ声は、自分のものとは思えないほど弱弱しくて、まるで抜け殻みたいだった。何の力も持たない声は暗い夜道にぽとりと落ちて、そのまま消えた。
 手を伸ばせば爆豪くんに触れることができる。声を出せば彼の名前を呼ぶことができる。そのはずなのに、体の横に垂らした腕は力なく、彼の名前を呼ぶ声はこんなにも空虚だ。
「……帰る」
 そう言って私に背を向けた爆豪くんの後ろ姿を、私はただ呆然と見送る。そして思った。
 私はどうしようもない、取り返しのつかないことをしでかしてしまったのかもしれない。

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