ビターチョコレートの次くらいに甘い



 私が通う中学校、公立折寺中学校はゴミの掃き溜めみたいな学校だ。モラルや倫理観を感じさせる生徒はごく一部だけで、あとの生徒は規則で禁じられているにも関わらず、校内でも平気で個性を使用するし、あまつさえ無個性の子を、無個性だからというただそれだけの理由でいじめの標的にしたりする。マナーもモラルもあったものではなく、悲しいことにそれを教員すら笑いながら注意するに過ぎない。本当に、最低で最悪。
 けれどそれを止めない私も、やはりもれなく最悪な人間の中のひとりだった。

 ★

「名前はどこの高校行くの?」
 私の周りで唯一の良心のような友人が、今日もにこやかな笑顔を振りまきながら私の席に近付いてきて尋ねる。次の授業の予習をしていた私は、声を掛けられ顔を上げた。友人の言葉はおそらく、前の時間に進路調査票が配られたのを受けての質問だったのだろうけれど、「どこの高校」というその言葉によってさっきの不愉快な出来事を思い出し、思わず私は眉間に皺をつくった。
 うちのクラスには無個性の生徒が一人いる。緑谷出久くん。仲がいいわけじゃないけれど、クラスメイトなので時々言葉を交わすくらいはする、そんな仲だ。私にとって不愉快だったのは、その緑谷くんが雄英を受けると聞いた時の爆豪勝己の凄まじい怒りっぷりだった。
 爆豪勝己もまた、私のクラスメイトだ。けれどこっちは緑谷くんと違って、私とはほとんど会話をしたことがない。いや、ほとんどどころかまったく、視線すら合わせたことがない。爆豪勝己は所謂ヤンチャな同級生で、はっきり言って私とは縁のない、そしてできれば今後も一生縁などあってほしくないタイプの生徒だった。
 そんな彼が緑谷くんを馬鹿にし、何かにつけて目の敵にしているのは知っている。けれど、あれはさすがにやりすぎだろう。ああして大勢の前でひとりを嘲笑するなど、まったく理解の範疇を越えている。大体が誰がどの高校を受けようが個人の自由だし、それをとやかく言う権利は誰にもない。それに、折角の強い個性をあんな風に人を傷つけるために使うのも正直引く。
「名前? 聞いてる?」
 思い出してもやもやしていたら友人に肩を叩かれた。完全にさっきの質問を無視して自分の世界に入り込んでいた私は、慌てて笑顔を張り付けると答える。
「ごめんごめん、受験する学校だよね? 夢咲女子だよ。普通科」
 わざわざ普通科と付け足したのは、クラスの大多数がヒーロー科を受験するからだ。普通科とは名ばかりで、今時はヒーロー科に進学する方が受験生のマジョリティなのだ。
 しかし友人が気に留めたのは私が受験する学科ではなく、そもそも受験する学校名の方だった。
「えっ、そこって確か名前が中受で落ちたところじゃなかったっけ?」
 驚いたように聞き返され、私はこっくりと頷いた。
「そうそう。だからリベンジ受験」
「へえー、そんなに行きたいんだ。夢咲女子」
 しみじみと言われたが、私は頷くこともせず、ただ笑って誤魔化した。
 正直に言ってしまえば、どうしてもそこの学校に行きたいわけじゃない。その学校で特にやりたいことがあるわけでもなく、かといって別に家から近いわけでもない。いくらヒーロー科が主流になっているとはいったって、今でも大体どこの高校も普通科クラスは持っている。そもそもヒーロー科というのは、受験者数が多いだけであってみんながみんな入れる学科でもない。
 私が何故、夢咲女子を第一志望にしているかといえば、単純に中学受験で落ちたからにほかならない。一度失敗したことであっても、リベンジできるならするべきだ。そうでないと、いつまで経っても体調不良で受験に失敗した自分の不甲斐なさに腹が立ち続けてしまうだろう。
 三年前、夢咲女子の中等部の入学試験の日。私はひどい胃腸風邪をひいてしまった。意識も朦朧として脱水になりかけの状態で、点滴をしながら何とか試験だけは受けたものの、試験中の記憶はほとんどなかった。結果は当然不合格、その後私は周りのみんなと同じく市立の折寺中に進学した。
 受験に失敗したことについて、言い訳をするつもりはまったく無い。体調管理をできていなかったことは、当時小学生とはいえ自分の過失だ。釈明の余地もなく、すべては己の至らなさに依るものだろう。
 けれど時々思う。モラルも倫理観も常識もあるだろう私立のお嬢様学校である夢咲女子に、あの時受かっていれば──そうすればこんな環境で、無駄に三年間を過ごさなくてもよかったのかもしれない。
 そうすれば、緑谷くんと爆豪勝己の連日のやりとりを見てもやもやしなくても済んだのに、と。

 ★

「おい根暗なに見てんだ? あ゙ァ?」
 授業後、帰り支度をしていた私は、急に声をかけられたせいでびくりと肩をはねさせた。
 爆豪勝己が緑谷くんの大切にしているノートを爆破し、取り巻きたちと教室を出ていこうとしているところだった。私はその乱暴な遣り取りを、ぼんやり見るともなく見ていただけだったのだ。いつものように、関わらないように。
 それなのに、どういうわけだかこうして爆豪勝己からいきなり因縁をつけられ絡まれている。こんなのは、今まで同じクラスでやってきて初めてのことだった。爆豪勝己の取り巻きすら、困惑した顔をして私と爆豪勝己を見つめている。
 爆豪勝己がかかとを踏んだ上履きをぺたぺた鳴らしながらこちらに歩いてくる。教室は静まり返っていた。
「べ、別に見てないけど」
「見てただろうが、クソ生意気な目つきでよォ」
 ドスのきいた声は、およそ私と同じ中学三年生のものとは思えないような凄みを持っている。ごくりと唾を飲み込むと、私はこちらを睨む爆豪勝己の目を真っ向から見返した。
「見てないってば」
「俺の言葉に反論すんな!」
 バンッと派手な音を立て爆豪勝己が私の机を叩く。凄む爆豪勝己の顔は、もう私の目の前にあった。ぼぼ、と彼の手の平が音を立てて燻る。それが私への威嚇、示威行為であること明白だった。
 昼間の一件を思い出す。教室の中だろうが平気で個性を使用し爆破を起こす爆豪勝己だ。
「気に障ったのならごめんね、謝る」
 身の危険を感じ、私は素早く謝った。けれどそれが却って爆豪勝己の神経を逆撫でしてしまったらしい。
「心にもねえこと喋んな、殺すぞ」
 さらに怒鳴られる。謝っても怒られ、謝らなくても怒られる。それじゃあ爆豪勝己は私に一体どうしろと言うのだろう。ほとほと困り果ててしまい爆豪勝己を見返せば、手のひらだけでなく今にも彼自身が爆発しそうなほど、彼は怒り散らかしていた。額には青筋が浮き出ている。そして発言が物騒である。
「大体てめえは気に入らねえんだよ、根暗のくせにいっつもいっつも反抗的な目で俺のこと睨みやがって、喧嘩売ってんのかゴラ」
「な、何のことだか分からないんだけど……あの、言いがかりは、ちょっと、」
「だァから、喋りと顔が合ってねえんだよ!!!」
 遂には私の耳元で小規模ながら爆発音がした。さすがに教室の中がざわめく。そのざわめきを拾おうにも、小規模爆発のあおりを受けた左側の耳が聞こえにくいような気がして、思わず私は顔を顰めた──いや、顰めようとして気が付いた。
 自分で気が付いていなかっただけで、私は今、かなり眉間に皺を寄せて爆豪勝己のことを睨み返していた。図らずも爆豪勝己の言っている意味を理解してしまう。
「……謝ってほしいならもう一回謝るけど」
 「睨んでいた」という爆豪勝己の主張が正しいのであれば、こちらに非がある分については謝罪おやむを得まい。そう思い謝罪の提案をしてみるも、爆豪勝己は一層不機嫌そうに青筋を立てるだけだ。
「てめェ……」
 教室の中の空気も、これはいよいよまずいという具合に緊張してゆく。と、その時。
「おいおい、何事だお前ら?」
 爆豪勝己が大きく手を振りかぶった瞬間、ふいに割り込む声がした。誰かが呼んだのだろう、学年主任の教師が廊下から教室を覗き込んだ。もしかしたら爆豪勝己の起こした爆発音が聞こえたかもしれない。
 さすがに雄英入学を目指す爆豪勝己は頭が悪くない。教師の登場に振り上げた手を渋々下ろすと、私に舌打ちをひとつ寄越して彼はどすどすと教室を出ていった。取り巻きたちが慌ててその後を追う。
 やっと解放された、と息をついたのも束の間、教室中の視線が私に集まっていることに気付く。普段は教室の背景のように目立たない私が、スクールカースト最上位の爆豪勝己と言い合いをしたのだから、注目を浴びるのも無理はない。
 その視線の中に好意的なものがひとつもないことくらい、私にだって分かる。これ以上無用な注目を浴びることにも堪えられず、私は通学鞄を急いで手に取り足早に教室を出て行った。

 とぼとぼと重たい足取りで一人帰路につく。
 今日の爆豪勝己との衝突とも言えないような諍いは、完全に想定外で、かつ最悪の展開だった。中学を卒業するまではもう残すところ数ヶ月だ。その数か月を、私はこれまで通り目立たず波風立てず、背景に徹してやり過ごす予定だったのだ。実際、私から爆豪勝己に喧嘩を売るようなことはしていないはずだ。それでもあっちから絡んでくるのでは避けようがない。あれはもはや天災の類と言っても差支えないだろう。
「それにしても根暗ってひどくない……?」
 繁華街を歩きながら独り言つ。
 そりゃあ確かに私は目立つタイプじゃないけれど、だからといって別に根暗というわけでもない。百万歩ゆずって仮に本当に根暗だったとしても、爆豪勝己とは喋ったことがないのだから、私が根暗かどうかなんて爆豪勝己は知らないはずだ。完全に適当にその場で思い付いたイメージで暴言を吐かれた気しかしない。つくづく失礼なやつだな、と元から悪い印象が最悪に傾いてゆく。

 家につくと、すぐにテレビをつけた。部活を引退してからというもの夕方のドラマの再放送が楽しみになっている。寂しい青春だなあと自分でも思いながら、キッチンからお茶と煎餅を手にリビングのテレビの前に戻る。
 ドラマの開始時刻五分過ぎている。けれどチャンネルを合わせたところで、画面に映るのは何か大きな事件の中継映像だけだった。その中継映像を見るに、どうやら事件現場はうちの近所だったらしい。そういえば、下校中に何台かパトカーが通過していったような気がしなくもないが、如何せん考え事をしながらの帰路だったから、その辺りの記憶は胡乱である。
 テレビ画面の中には見たことのある景色。その見知った景色にヒーローたちが集まっている様子が映し出され、なんだか不思議な気分になる。
 煎餅をかじりながら、私は聞き流すようにしてリポーターのあくせくした言葉を聞く。どうやら敵に捕まっているのは私と同じ中学生らしい。どうりで報道が激しいはずだ。行儀悪く頬杖をつきながら、さらにばりぼりと煎餅をかじる。
 やがて事件が解決しリポーターが人質になった中学生に駆け寄った。と、ズームになったその中学生の姿に、ぽろりと手から煎餅が抜け落ちる。あんぐりと開けた口が塞がらない。
 ──画面に写っていたのは誰あろう、爆豪勝己だった。

prev - index - next
- ナノ -