あの子にまつわる春と焦燥



 年度が変わって、四月。春である。春爛漫である。そんな春爛漫の風に吹かれた私は、この春から始まった新生活に適応すべく、とにかく慌ただしくばたばたしていた。
 憧れの夢咲女子の制服に身を包んで登校するようになって二日。
 慣れない満員電車に揉まれるようになって二日。
 女子高生になって、二日。
 そんな記念すべき女子高生人生二日目の本日──混み合った朝のホームには、見慣れない制服をずるずるに着崩した、ヤンキー然とした見慣れた男の子が立っていた。
 誰あろう、爆豪くんである。
「爆豪くんだー、おはうぐっ」
 ついこの間までそうしていたように、高校生になった今日もまた、手をひらひらと振りながら彼の隣に並び立つ──瞬間、ぐわりと身体が引き寄せられた。何が起こっているのか分からず一瞬驚いたが、何のことはない、どういうわけだか爆豪くんが、私のシャツの襟を思い切り引っ掴んでいるのだった。
 いや、それも意味が分からないけれども。
 今はそれより、とにかく苦しい。
 周囲の人がざわめきつつ、しかし朝から厄介事に巻き込まれるのは御免なのか、さっと私たちから距離を取っていく。さながらモーセが海を割るがごとく、私たちの周りからはたちどころにひとけが消えた。
 今こうして目のまえでいたいけな女子がヤンキーに襟掴まれ、挙句ガンつけられてるというこの恐ろしすぎる現状。それなのに誰一人私を助けに飛び込んでこない、この治安の悪さにひとり驚く。治安が悪すぎる。さすが荒れてることにおいては地域でも屈指の折寺中学区である。
 と、そんなことを考えている余裕はなかった。私は爆豪くんに襟を掴まれているのだ。私と爆豪くんでは体格差があるので、当然ながらそんなことをされれば体が上方に引っ張られる。
 つま先立ちの状態であわあわと、どうにか手を離してもらうためにもがいてみる。けれどさすがに相手は雄英ヒーロー科入試を一位通過する爆豪くんである。その腕力には敵うはずもない。
 とはいえ、生存活動のためには酸素が必須である。どうにかこうにか喘ぎ呼吸で酸素を求めていると、爆豪くんは私の襟を掴んだままでぐっと顔を近づけ──そして声を低くして凄んだ。
「てめえ、春休みの間延々地下牢にでもおったんか? あ゙ァ?」
 いきなりまったく覚えのない因縁をつけられ、私の頭はいよいよ混乱のただなかに落ちていく。ただでさえ脳に酸素が回っていないのだ。そこにそんな意味不明なことを問いかけられたところで、爆豪くんの満足いく返答が返せるとは思えない。
 というか地下牢ってどういう状況? もしやトンチか何か? 暗喩? 隠語……?
 考えたところで爆豪くんの思考が分かるはずもない。私はそうそうに謎解きを放棄した。
「何、なぜ私がそんな苦行を強いられていたと思って……?」
「電波が全くねえ環境にでもおったんかって聞いとんだ」
「い、いや普通に春休みを謳歌してたけど。というか割としっかりめに謳歌してたけど」
「てめえ……まじでいい加減にしろよ……」
 私の襟をつかむ爆豪くんの手がぷるぷると震えた。これは多分、疲労による震えの類ではない。爆豪くんの怒りのボルテージがマックスまで上がり切り、そのうえ臨界点を突破しているときの震えだ。
 まずい──私の直感がそう察している。
 これは非常にまずいやつだ。何とかこの場の空気を変えなければ。でないとやられる。命をとられる。ほとんど本能でそう結論を導き出すと、私はへらりと笑って口を開いた。
「爆豪くんがなんでそんなに朝からキレ散らかしてるのかまじで全く分からない……。あ、もしかしてあれ? 卒業式の日に連絡先交換したのに、春休みの間私が一度も連絡しなかったから怒ってるの? だから電波がどうのこうのとか言ってるのかな? ──なんちゃって?」

 そう言った瞬間、空気が凍った。

 爆豪くんが静かに私から手を離す。その動作があまりに静かで穏やかなのが、却って私の恐怖心を煽った。
 爆豪くんは顔を伏せている。そのせいで顔に影がかかっていて、爆豪くんの表情までは読めない。見えないだけに恐ろしい。未知とは恐怖と見つけたり。
 いや、そんなことを言っている場合でもなく。
「エッ、まさか本当に……? まさか私、図星をついた? 嘘でしょ、そんな。とりあえずその──ご、ごめん」
 ひとまず謝罪。何についての謝罪かといえば、主に天より高い爆豪くんのプライドに泥を塗ってしまったことについての謝罪である。
 しかしながら、この局面での謝罪はどうやら完全に悪手──というか逆効果だったらしい。爆豪くんは勢いよく顔を上げると、ここが駅のホームであることも忘れているのか、最大出力の怒鳴り声をぶつけてきた。周りの視線など意にも介さず。
「ちっげえわ勘違いすんなクソ根暗女が! 連絡ねえからてめえが死んだんかと思って清々しとっただけだわクソが! 何生きとんだぶっ殺す!」
「そ、そうだよねー。連絡しなかったくらいでまさか爆豪くんが怒るはずなかったねー。うわー、しかしびっくりしたー。ただ申し訳ないんだけど、私この通りめちゃくちゃ元気に生きてるんだよね。本当にごめんねー」
 再び謝罪。今度はこれで正解だったようで、爆豪くんから大きな大きな舌打ちが返ってきたところで、私たちが乗る電車がやってきた。

 相変わらず不機嫌そうな爆豪くんに飴をひとつあげて、というか無理やり押し付けたりしながら、私たちはすし詰め状態の電車に揺られる。うっかり乗車時にはぐれてしまえばよかったのだろうけれど、かろうじて小声で会話くらいはできるのが逆に微妙な距離感になってしまっている。いっそ会話もできないくらいぎゅうぎゅう詰めだったら、さりげなく解散して音楽でも聴くのだけれど。なんというか、どうにも一緒に通学してる感があるせいで、それもできないのだった。かといって爆豪くんが率先してコミュニケーションをとってくれるわけでもない。
 仕方が無いので私から、小声で話しかけた。
「ていうかさ、雄英もブレザーなんだね。制服似合うね。本当に爆豪くんって何でも着こなすよね」
 というより、実際には「どんな服でも着崩して自分のフィールドに持ち込むよね」というのが本音であるけれど、そこはもう私だって高校生なので、オブラートに包むということくらいは知っている。同じ高校生である爆豪くんは知らないかもしれないけれど、私は良識ある常識人なので知っているのだ。それに、余計なことを口にして、さっきの今でまた怒鳴られたくはなかった。
 そんな私の誉め言葉に、爆豪くんはまんざらでもなさそうに鼻を鳴らす。
「当たり前だわボケ。つーかてめえは何なんだよ。高校デビューか」
「え?」
「陰キャラやめたのかって聞いてんだ」
 言葉とともに爆豪くんの視線が下がって、それで私も爆豪くんの言わんとするところを理解した。
 爆豪くんの視線の先には私の足、ではなく、制服のスカートがある。
「スカート丈の話? ああ、まあ花の女子高生だしね。さすがに中学みたいなスカート丈で地下鉄乗るの恥ずかしいし。どう? 似合う?」
 そう言いながら満員電車の中、もぞもぞと体を動かしスカートの裾を少しだけつまんで見せた。爆豪くんはまた鼻を鳴らす。今度は完全に馬鹿にしたようなニュアンスだった。
「ハッ、何着てようが根暗は根暗だろ、調子乗んな」
「社交辞令でもそこは褒めてよ。似合う? とか聞いた私が馬鹿みたいだから」
「ありえねえだろ」
「一言似合うっていうだけでいいのに?」
「まじでありえねえだろ」
 爆豪くんが私を褒めるなんて有り得ないと分かっているので、文句を言いつつも私も腹を立てたりはしなかった。寧ろ素直に褒められたりなんかしたら困惑してしまうだろう。私から爆豪くんに対しての期待値は恐ろしく低い。

 それから暫くどうでもいい話をしたりしなかったりした。爆豪くん相手だと、私が話さなければ即座に会話が終わってしまう。だから会話の中で沈黙が続くということもざらにある。
 とはいえ沈黙を作っているのは爆豪くんの方なのだから、そのことに対して私が申し訳なく思ったり気まずくなることもない。そう考えると、爆豪くんとの会話は楽といえば楽だった。気を遣ったり遣われするのが分かってしまうというのが、コミュニケーションの中にあると一番つらい。
 爆豪くんは私と一応会話らしきことをしながらも、平気で携帯をいじったり私の言葉を無視したりする。自由なのはお互い様だ。いや、自由というよりはいっそ、お互いに相手に嫌われてもまあいいかくらいのスタンスでいるからこその楽さなのかもしれなかった。少なくとも、爆豪くんからは私に好かれたいという思いを一切感じない。潔いというか、すがすがしすぎていっそウケてしまう。私への興味関心がゼロか。
 爆豪くんは多分、私のこと喋る肉塊くらいにしか思っていないのだろう。さっきの連絡云々にしても、多分私ごときが連絡してこないとか逆にむかつくというような感じなのだと思う。冷静に考えたら爆豪くんってだいぶやばいのだけれど、そのやばさが板につきすぎているので今更爆豪くんってやばいなと思うことすらない。
 そんなことを考えながら、
「それにしても男子と話すの久しぶりだよ」思い付いたことをそのまま、私は口にする。「まあ、私の高校女子高だから、それも当たり前なんだけど」
「ハッ、クソみてえな学校だな」
「爆豪くんにしてみたらそうだろうけど、これがなかなか楽しいよ。みんな真面目だし、女子ばっかりだから気楽だし」
「やっぱクソじゃねえか」
 ばっさり切り捨てられ、思わず苦笑した。たしかに爆豪くん基準で考えれば、普通科の女子高なんて何も面白くない環境なのだろう。けれどこの環境こそ、私にとっては天国だ。そもそも荒れてない。校内でむやみやたらと個性を使う生徒もいない。折寺中との文化度は、それこそ雲泥の差だった。
 そこを考えれば、爆豪くんの通う雄英だってそうだろう。なにせ倍率三百倍、全国から優秀な学生が集まってくるのだ。爆豪くんのような多少の例外はあれど、普段の素行が悪いような生徒がほいほい入れるような学校ではない。
「雄英はどう? やっぱすごい人たちの集まり?」
 私の問いに、爆豪くんは間髪いれず「モブばっか」と返してくる。ここでもやはり爆豪君は通常営業だ。
「雄英までいってもなお周りをモブ扱いなんだ。相変わらず傲岸不遜というかなんというか」
「てめえ馬鹿にしてんのか?」
「そういうわけじゃないけど。入試一位は強気だねって言いたいの」
「たりめーだろうが」
 そういえば雄英で思い出したけれど、同じクラスだった緑谷くんも、爆豪くんと同じく雄英高校に合格したんだったっけ。ヒーロー科は二クラスしかないというから、もしかしたら緑谷くんと爆豪くんは今年もまた同じクラスなのかもしれない。とはいえ、それは考えつつも口にはしなかった。爆豪くんと緑谷くんの関係が未だ微妙な緊張をはらんでいることは私だって察している。この状況で緑谷くんの話題を出せるほど、私は命知らずな人間ではない。
 沈黙を挟みつつ、代わりに別の話題を振る。
「私と爆豪くんが同じ電車ってことは、やっぱりどこの学校でも同じくらいの始業時間なんだね」
 新学期が始まってまだ二日だが、一応電車の込み具合に関するリサーチはしてある。この前後の電車だとさらに混むということは知っている。乗り換え含め四十分も電車に乗っているとなると、当然ながら少しでも空いている電車の方がよい。
「私もこの時間の電車がいいなと思って。考えることはみんな一緒だね」
「……どうでもいいわ」
「どうでもよくないよ。爆豪くんもこの時間なら、これからも一緒に登校することあるかもしれないでしょ」
「は? 俺がこの時間の電車乗るならてめえはずらせや」
「理不尽すぎでしょ。同じ電車に乗るくらい我慢してよ」
「うるせえ指図すんな。いっそ今すぐ電車降りろ」
「本当無茶苦茶言うな……」
 と、爆豪くんの無茶に呆れ顔をしたところで。
 ふいに、電車が大きく揺れた。多分カーブなのだろう。車内で立っていた人たちみんなが、大きく波のようによろめく。ついでに私もよろめく。そしてよろめいた先にいた爆豪くんの胸に、私の顔が思い切りぶつかった。
「うわっ、とと」
 一応爆豪くんの胸に顔より先に手をついたけれど、見ようによっては私が爆豪くんの胸に飛び込んでいったように見えなくもない。あ、これは怒られるな──と即座に判断し、先手を打って私は謝る。
「ごめん、体勢崩した。ぶつかっちゃったけど痛くなかった?」
「て、てめえ……」
「はい?」
 首を傾げて爆豪くんの顔を見る。ちょうど電車が駅に到着したところだった。人の波に流されるようにして電車を降りホームに立った瞬間、爆豪くんの怒号がホームに響いた。
「何ふらふらしとんだ! ちゃんと気ィ入れて立てやひ弱が! 何のために二本も足持っとんだあ゙ァ!?」
 まさかのマジ切れだった。ひえっ、と思わず声がもれる。
「何もそんなに怒らんでも……。カーブなの忘れてたんだよ、ごめんってば」
「つーかてめえごときがぶつかってきても痛ェわけねえだろナメんな! 絶対殺す!!」
「殺す決断下すのが早すぎる」
 私と同じ制服の見ず知らずの女の子たちや、爆豪くんと同じ制服の人たちが、ちらちらと私たちのことを気にしながらも無言で通り過ぎていく。雄英生も夢咲女子の生徒も、皆一様に近寄りたくなさそうな顔をしていた。当たり前だ。私が彼らの立場だったら絶対お近づきになりたくない。
 爆豪くんはそういう悪目立ちスキルのレベルが桁違いなのだ。そして本人はどれだけ悪目立ちしようが、そんなもの跳ね除ける鋼の精神と実力を持っているからいいものの、それに巻き込まれる凡人の私はたまったものではない。私のメンタルは豆腐とまでは言わないまでも、木材くらいの強度だ。鋼には程遠い。
 高校入学二日目にしてこんな目立ち方はしたくなかった。そう思うものの、まだ怒鳴られているだけで手を出されていないのだからましだと思ってしまうのは、あまりにも爆豪くんの傍若無人に慣れすぎた感覚だろうか。学校の最寄り駅のホームで襟首掴まれなくてよかったなあと思ってしまう自分が悲しい。
 爆豪くんの怒鳴り声を聞き流しながら、私は朝のさわやかさには似つかわしくないため息を吐いたのだった。

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