あなたの隣の私が言うには



 中学三年の夏休みが終わった。夏休みだからといって特に浮いた話題もなく、ほとんど毎日塾に通ってはガリガリ勉強ばかりしていた。
 夏休み前の模試の結果はけして悪くはなかったと思う。けれど中学受験のときに経験した通り、現実には何が起こるか分からない。だから手を抜いたりすることなく、常に万全の準備を整えておくべしというのが私の受験への心構えだった。
 我ながらこんな寂しい夏休みがあってよいものかと自問してみたりもするけれど、そういう楽しみは高校に進学してからでも十分だとなんとか自分を納得させ、今はとにかく楽しい高校生活に向けて努力する他ない。
 そんなわけで、碌に日焼けもしないまま迎えた二学期。休み明け試験を終えた私たちは、またもや教師の気まぐれで席替えをすることになった。
 やっと、本当にやっと爆豪くんの隣の席から解放されるのだ。そう思うだけでうっかり涙が滲みそうになる。
 思えばこの席になってからというもの、友人たちは爆豪くんを恐れて私の席に近づいてこないし、代わりに爆豪くんの友人たちはわらわらと集まってくるしで、本当に災難なことこの上なかった。爆豪くんの友人たちに何度か絡まれて怖い思いをしたりした。爆豪くん本人から被った被害というよりも、彼の周りの人間によるものの方が多いのは意外だけれど、まあ爆豪くんとそれなりに良好な関係を築くことができたのはよかったと思う。爆豪くんと席が離れてしまえば何もかもいい思い出だ。

 ──などと、呑気なことを思っていたのだけれど。

「なんか、私たち縁がありますネ」
「んなもんねーわ、前向けクソカス」
 散々な暴言に溜息を吐きながら、言われた通り前を向く。こっちだって爆豪くんとのあいだに縁なんて感じたくないっつーの、くらいのことは言い返したいところだけれど、さすがにこのタイミングで反論などしようものなら、また不機嫌を振りかざされてもおかしくない。なので、黙る。
 席替えで念願叶って爆豪くんの隣の席を卒業はした。卒業はしたのだ。ただ、隣の席を卒業した結果引き当てた席は、なんと爆豪くんの前の席だった。隣同士から前後にマイナーチェンジしただけである。これは何かの呪縛なのだろうか。それこそ縁とか。望まない縁すぎる。
「はあ……うう……」
 荷物を新しい机におさめながら私は唸る。
 別に爆豪くんのことが嫌いなわけではない。けれど近くの席にいると、気を遣う相手であることには違いない。しかも仲のいい友人は軒並み遠い席なので、孤独なことこの上ない。
 ちょっとでも気を抜くと止めどなく溜息が出てしまいそうになる。いや、けれどもっと前向きに楽しいことを考えよう。前後の席といっても、前に座っているのは私だ。プリントを回したりするなど必要なとき以外は後ろを向かなければ、爆豪くんとの絡みが発生することはない。これは実質席が離れていることと同じなのではないだろうか。
 そうポジティブに思ってみたりもしたのだけれど、現実はそう甘くはないことに気がついたのは、その次の授業中のことだった。

 がん、がんと断続的に続く音に私は眉を顰める。授業が終わり、次の授業までの短い休み時間のことである。
「ねえちょっと、お尻痛いからそれやめて」
「うるせえ喋んな」
「理不尽がすぎるでしょ……」
 再びがんと音がなった。
 そう、授業中だろうが関係なく、何か苛つくたびに爆豪くんは私の椅子を蹴ってくるのだ。そのせいで椅子にかけているお尻が痛いし、授業にだって集中できない。
 この間まで、私が隣の席に座っている間の爆豪くんにはそんな悪癖はなかったと思うのだけれど、これはあれだろうか。私が前に座ることによって爆豪くんの機嫌が悪くなっているということなのだろうか。
 そうだとしたらこの椅子蹴り上げ地獄は次の席替えまで続く可能性があるわけで、それは何というか、最悪だった。何としてでもやめさせなければならない。
 椅子に腰掛けたまま振り返り、私は爆豪くんの方を向く。不機嫌そうな爆豪くんに一瞬怯みかけたけれど、すぐに持ち直した。
「ねえ、爆豪くん。それ、本当にやめてくれない?」
「指図すんな根暗女」
 まったく悪びれる様子のない爆豪くんに、私は半ば呆れて言う。
「何言ってるの、私が正論でしょ。椅子蹴りあげられて文句言わない人間とかいる?」
「お前」
「いや、私は言うよ。だってそんながんがん蹴られたら授業に集中できないじゃん。これで成績落ちたら爆豪くんが姑息な真似をして私の成績を落としたってめちゃくちゃクレーム申し立てるよ、私。いいの? 雄英受けるのに先生からの心証悪くしていいの?」
 自分でもかなり嫌な言い方だという自覚があった。けれど相手は爆豪くんだ。向こうの方が嫌なやつなのだから、私が多少嫌なやつになったってバランスはとれている。というかむしろこれは正当防衛だ。非暴力、非服従。先人の教えにもある。
 そんな私に爆豪くんは、あからさまに嫌そうな顔をした。そういえば今まで、爆豪くんに対して、しょうもないことを言うことはあっても表立って反論したり抗議の声をあげたことはなかったと、爆豪くんのその表情を見て私は気付く。
 というか私だけじゃなく、このクラスには爆豪くんに反抗的な態度をとる生徒はほとんどいない。緑谷くんだって多少抗議はするものの、基本的には爆豪くんに楯突いたりはしないだろう。たとえ友達であっても、みんな彼が怖いのだ。
 案の定、爆豪くんは苛立ちを隠そうともしない顔と声で私を睨んだ。
「てめえ、俺に喧嘩売ろうたァ、いい度胸じゃねえか。あ゛ァ?」
 どうひねくれた受け止め方をすれば、私が爆豪くんに喧嘩を売っていることになるのか。私がそんなタイプに見えるのだろうか。
 いや、見えるんだろうな。爆豪くんには。
 しかしながら、もちろん私にそんなつもりはない。私はただ、爆豪くんに嫌がらせをやめてほしいとお願いしているだけだ。
「喧嘩売ってるの爆豪くんじゃん。嫌だったらそっちが椅子蹴るのやめればいいでしょ」
「俺が何しようが俺の勝手だろうが」
「じゃあ私が先生に何言おうが私の勝手でしょ。嘘ついてるわけじゃないんだから。実際こうして迷惑こうむってる」
 爆豪くんからの返事はない。暫し、睨み合いが続いた。
 クラスのみんなも、さりげなくではあるけれど、私と爆豪くんの会話を気にしているのが雰囲気で伝わってくる。クラスでも派手で目立つ、一番怖い爆豪くん。対して私はクラスでも目立たないグループ。傍から見れば、肉食動物と草食小動物が睨み合っているようなものだろう。
「てめえ、本気で俺に歯向かおうってか」
 肉食動物が、今にも噛みつきそうな声音で言う。草食動物は、あくまで肉食動物を刺激しないように努めて言い返す。
「そんなつもりはないけど。私はただ、自分の権利を主張してるだけだし。それが気にくわないっていうのなら、爆豪くんがもう一回席替えしてくれるように先生に頼んでよ。『俺が椅子蹴るせいでこいつがうるせえんで席替えしてください』って」
 言い返しながらも、心のどこかでは謝った方が良いんだろうかと、そんなことを考える。爆豪くんの眼光に気圧されたためだ。
 けれどここで目を逸らしたり謝ったりしたら、それこそ爆豪くんに対する負けであるような気がした。小学生のときの喧嘩と同じだ。ここで引いたら、金輪際ずっとなめられる。

 結局、長く続いた睨み合いは爆豪くんの舌打ちで終結した。大きな舌打ちを打った爆豪くんは。そこ長い足をいつもみたいに机の上に投げ出した。
 一瞬、教室がざわつく。
「……次はねえぞ」
 それが爆豪くんからの返事だった。私はほっとして、ようやく顔をゆるめる。
「ありがとう」
「ハッ、気色悪ィからやめろ」
 正直、ほっとしたのと同じくらい面食らってもいる。そりゃあ私も折れるつもりがなかったのだから、爆豪くんの方が折れてくれることに期待していたのだけれど、実際そうなると驚かないわけがない。何せ相手は何様俺様爆豪くんだ。天上天下唯我独尊を地で行く男子中学生。私なんかを相手に、折れてくれるとは思わなかった。
 まじまじと爆豪くんの顔を見つめる。普段以上にぶすっとした表情をしているけれど、爆豪くんが怒鳴ってきたりする様子はない。
「爆豪くんって、時々予想の斜め上をいくね」
 思ったことをそのまま口にすれば、途端にぎろりと睨まれる。
「あ? 喧嘩売ってんのか、てめえ。次はねえっつったろ。ぶっ殺すぞ」
「いや、喧嘩売ってるつもりはないんだけど……、なんかその……、私が言うのもアレだけど、意外で」
 私の言葉に、爆豪くんはつまらなさそうに鼻を鳴らした。そのリアクションすら意外で、今私の目の前でふんぞり返っているこの男の子は果たして本当に爆豪くんなのだろうかと今更不安になってくる。
 もしかして夏休みの間に何かあったのだろうか。海で波にさらわれて五日間漂流したとか、がけから落ちて意識不明の重体に陥ったとか。そうでもなければあの爆豪くんがこんなに素直に引いてくれるとは思えなかった。
「なんか……怖いね。あなた本当に爆豪勝己くんですか?」
「てめえ本気でブチ殺したろか! つーか別にてめえの意見のんだわけじゃねえ。余計な事教師にチクられたら入試に響くだろうが。そんだけだ、そんだけ!」
「ああ、なるほど。爆豪くん真面目だもんね……」
「てめえほどじゃねえよ、根暗!」
 頷きながら言うと再び吠えられる。一いうと十返ってくるのだ。十倍の声量。しかも根暗というよろしくない呼び方が定着しつつある。言っても無駄と分かりつつ、私はその呼び名を訂正した。
「だから何度も言ってると思うんだけど私の名前は根暗ではなくてですね、」
「名字! 言われんでもそんくらい知っとるわ!」
「え……」
 爆豪くんの台詞に、思わず私は瞠目した。ほとんど独り言みたいな言葉が口からこぼれる。
「爆豪くん私の名前知ってたんだ……」
「ばっ!」
「すごい、どうしよう……今世紀最大の感動かもしれない……」
 私がそう言い終えるのと爆豪くんが手のひらから爆発を起こしたのは同時だった。

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