孤爪研磨の友人スピーチ


 心臓が爆発して口から出そうだ。
 孤爪研磨は吐き気と戦いながら、ここ数分間同じことをぐるぐると考え続けている。
 ここの式場は料理がうまいのだということは、研磨も事前に黒尾から教えられていた。にもかかわらず、先ほどから研磨が惰性のように口に運ぶもののほとんどは味がしない。それでもコース料理である以上は次から次に料理が運ばれてくるわけで、仕方がないのでとにかく飲み込むだけの作業に徹している。三万の御祝儀を出しているのだから少しでも元を取ろうという気力もない。
 しかしそれは何も研磨だけに限った話ではなかった。この後余興が控えている同じテーブルの夜久たちもそれは同様である。ばくばくと能天気に飲み食いしているのは、何の役割も与えられていない灰羽リエーフただひとりだった。柴山も同じように役割を振られていないものの、このテーブルの空気の重さに胃もたれした顔をしている。
 ──スピーチなんて引き受けるんじゃなかった。
 この一週間で何度同じことを考えたか知れない。人前に立って、しかも人生の一大イベント、人様の晴れの舞台でスピーチをするなど、正気の沙汰ではない。本来であれば研磨は絶対にそんな依頼を引き受けることはない。
 それでも研磨が依頼を受けたのは、黒尾から幼馴染として、そして親友として頼まれたからに他ならない。学生時代から惰性で続けていた金髪だって今日の式のためにきちんときれいに染め直したし、スピーチもネットの例文集を見ながら書くことは書いた。ただ一人の昔からの友人の晴れの日に泥を塗らないよう、研磨は研磨なりに考え最善を尽くしてきている。
 しかし、準備をきちんとしたこと、スピーチという大役を引き受けたことと、緊張しないことはまったくの別問題である。
 いざスピーチの本番が迫っているとなると、こうして絶え間ない緊張と不安で潰されそうになっている。試合のときでもここまで緊張したことはなかったのに、と今日何度目かの溜息がこぼれる。
 新郎新婦はお色直しのため会場内にはいなかった。せめて黒尾の顔でも見れば多少は緊張がほぐれるだろうにと、研磨は詮無いことを考える。いや、むしろタキシードを着て髪型をきちんとキメた黒尾なんて見たらかえって緊張が凝り固まってしまう可能性もあるが。
 テーブルに置かれたビールにはほとんど手が付けられておらず、今はもうただの生ぬるい黄金の液体と化している。
「研磨、顔面蒼白通り越していっそ紫みたいになってんぞ」
 夜久が心配しているのか茶化しているのかよく分からない声を掛けてくる。けれどその夜久もまたひどい顔をしていた。
「……そういう夜久くんも顔色悪いよ」
「仕方ねえだろ。余興のダンス、練習でも完璧に息があったのなんて数回なんだから。お前はまだ原稿があるしいいだろ」
「原稿があってもこっちはひとりだけどね」
 どちらがより大役かを競うように言い合って、しかしそれも不毛だと気付き、また溜息をつく。
 お色直しの後は新郎新婦それぞれの友人からの手紙、新郎側の余興の順で進んでいく。研磨の出番は後半戦の初っ端だ。何度も何度も胸ポケットにいれた原稿を確認した。そう長い文章ではない。黒尾からも無理のない長さで大丈夫だと言われている。
 それでも、研磨が単独で目立つという機会はこれまでほとんどなかった。黒尾と研磨の付き合いにおいて、これが初めてと言っても過言ではないだろう。胃がきりきりするのも仕方がないことだ。
 そうこうしている間に、会場がふつりと暗転する。ざわめきが小さく収束していく。
 天井に格納されていたスクリーンがゆっくりと降りてきた。どうやら再入場までの時間を利用して二人のプロフィールムービーが流れるらしい。このムービーもまた名前の作である。苦手なパソコンで一生懸命作っていたと、研磨は黒尾から聞いていた。
 けれどこれが終われば新郎新婦の再入場、そして研磨の出番だ。こみ上げてくる吐き気に思わず口を手で覆った。ごめんクロと名前さん、このムービー見られそうにない。心の中で研磨はひっそり謝る。
 微笑ましいムービーはあっという間に終了し、お色直しをしたふたりが、和装姿で再入場する。テーブルを回って挨拶を済ませてから新郎新婦が高砂に戻ると、無慈悲にもふたたび披露宴が進行する。
「続きまして、新郎鉄朗さんの幼馴染であり、新郎新婦の高校時代の部活の後輩でもあります孤爪研磨様より、新郎の鉄朗さんへ、お祝いのスピーチです」
 アナウンスに急かされるようにして研磨は席を立つ。自分に向けての拍手にうんざりした。
 誰も拍手なんてせず、誰も自分のスピーチなんて聞かなければいいのに。
 そんなことを思ったりもするけれど、この晴れの日のスピーチを託されてしまった以上、やらないわけにはいかなかった。大切な友人と、その友人の大切な人のためだ。
 ごほんとひとつ、咳払いをする。それからマイクを口の高さに調整すると、研磨はゆっくりと口を開いた。

「えー……、ただいまご紹介にあずかりました、鉄朗さんの幼馴染の孤爪研磨、です。鉄朗さん、は呼びにくいので、いつも通りクロと呼ばせていただきます。
 改めまして、クロ、結婚おめでとう。クロとは学年がひとつ違って、おれはいつもクロに引っ張られるようにやってきました。バレーも、クロがやってるからって理由でずっと続けてきたし。そのバレー部でクロも俺も、新婦の名前さんと出会いましたね。
 これまでのクロとの思い出を振り返ると、たくさんの懐かしい記憶が次々に思い起こされます。といっても大体うちでゲームしてるかバレーしてるかなんだけど。
 合宿で吐くほどきつい思いをしたこと、練習の後に寄り道してみんなで肉まんとか食べたこと、ごくまれにクロがおれに勉強を教えてくれたこと、それからクロたちの高校最後の年の春高で、音駒のバレー部が大活躍したことなど、どれもよい思い出です。そして、おれが自分の思い出を振り返ると必ずそこにはクロがいるんだよね。どれだけ一緒にいるんだよ、って自分でも少し呆れます。
 それにしても、おれたちが出会って二十年ちかくも経ってしまったなんて、時間が流れるのは早いものですね。あれだけ周りをやきもきさせてたクロと名前さんも無事に結婚までこぎつけてくれて、幼馴染としておれも一安心だよ。名前さんは高校時代からずっとクロと一緒にいてくれてるから今更何の心配もしてないけど、二人で力を合わせて、幸せな家庭をつくっていってください。クロは名前さんに迷惑かけないでください。以上です」

 会場から拍手が起こる。原稿をポケットにしまうとやっと肩の荷が下りたのか、研磨はいつものような猫背で自分の席へと戻っていった。帰り際、研磨がちらりと高砂を確認すると意外にも黒尾が涙目で照れ笑いをしていて、隣に座った名前にハンカチを差し出されている。飄々とした黒尾のことをあそこまで感動させることができたのならば、まあ十分に及第点だろう。
「ああー、研磨お前もうちょっとハードル下げておけよなー」
 頭を抱える夜久に、研磨は意地悪く笑った。
「やだな夜久くん。おれがクロと名前さんの結婚式でへまするわけないでしょ」

- ナノ -