谷地仁花の小さな頃の「しょうらいのゆめ」は「花嫁さん」だった。
幼いころ、谷地は一度だけ母の知り合いの結婚式に出席したことがある。そのときに見た景色はそのまま、谷地の中に鮮烈に刻み込まれ、こんにちに至るまで谷地にとっての原風景のように胸に残り続けている。
純白のウエディングドレスと神々しいベールを身にまとい、楚々とした様子で父親とヴァージンロードを歩く花嫁。その姿は囚われのお姫様や勇敢な女戦士よりももっと強く、幼い谷地の心を掴んだ。誰もが手にすることが出来るかもしれない未来だからこそ、そこまで強く惹かれたのかもしれない。
そしてその夢は、谷地の胸の中で長年じっくりと育まれる間にも少しずつ形を変え、いつしか谷地は、花嫁をそばで支える仕事、結婚式に携わる仕事につきたいと思うようになった。母親の背中を見て育ち、高校の部活で誰かのために尽力する喜びを知ったことも、その思いをさらに強固なものとしていた。
現在、谷地仁花は都内の結婚式場でウエディングプランナーとして働いている。去年の末に職場異動になり、新たな職場に慣れるまでには少し時間がかかった。元々は宮城県内の大学を卒業してからそのまま生まれ育った宮城の小さな式場に数年勤めたが、その会社が新たに東京に式場をつくることになったのに伴い、谷地も東京に転勤になったのだ。
はじめての一人暮らし、はじめての東京。
もちろん職場には宮城から共に転勤してきた前の職場からの顔見知りもいたし、すでに上京していた学生時代の友人だっている。それでもやはり、宮城から東京、そしてはじめての一人暮らしという環境の変化は大きかった。
元から忙しい職種だったこともあって、少しだけ日々に疲れてしまった頃──病欠の同僚の代打として急きょ駆り出された自社ブライダルフェアで、谷地は偶然にも、黒尾と名前と再会した。
「あれー、やっちゃんじゃない!?」
客足が徐々に引き始めて、谷地もようやく一段落してきたころ。ふいに、聞き馴染みのない声で、懐かしい呼び名を呼ばれた。一瞬、空耳かと自分を疑う。けれどぐるりと辺りを見回し振り返った先を見て、谷地はそれが空耳ではないことを知った。
「うわ、本当だ。変わらねえー」
腕を組んで仲睦まじそうに近づいてくるふたりを見て、仕事中であるにも関わらず、不覚にも泣きそうになったことを今でも谷地は恥ずかしく思う。そこにいたのは、かつて合宿遠征で交流のあった音駒高校男子バレー部の元主将と、同じく男子バレー部の元マネージャーの姿だった。
東京に出て来てからは高校時代の友人と会うことは殆どなかった。だからそれがたとえライバル校だった音駒のふたりであっても、谷地にとっての懐かしい高校時代の思い出が溢れてくるのには十分なきっかけだったのだ。
「やっちゃん結婚式場で働いてたんだねー。あのちっちゃかったやっちゃんが働いてるなんて、なんかびっくり」
「見た目変わんねえけどな。つーかお前、発言がばばくせえよ」
「うるさいなあ、鉄朗だって同じ年なんだからじじいでしょ」
「はいはい。ソーデスネ」
昔と変わらず憎まれ口をたたき合うふたりは、しかししっかりと腕を絡めて身体を寄せ合っている。言葉の裏側に確固たる絆があることは見るまでもない。
「おふたりで此処にいらっしゃるということは、もしかして」
はっとして谷地が尋ねると、途端にふたりは揃ってにやりと笑う。
「そ、俺ら結婚すんの」
「やっとねー」
「おかげで最近は週末になるたび式場探し。あ、ていうか俺ら式場探ししてるんだけど全然決まんねえの。谷地さんここで働いてんならもうここでいいんじゃね? これも何かの縁ってことで」
唐突にそんなことを言いだす黒尾に、名前も頷き同調する。
「あ、それいいね。谷地ちゃんが働いてるところなら安心だし!」
そのままとんとん拍子で話が進み、やがてめでたく成約と相成った。それが、一年近く前のことである。
ひとりのプランナーとして、そしてふたりを知る後輩として、谷地は今日までふたりと一緒に本気で頑張って準備をしてきた。今日がその集大成である。
「私は先に教会の中に入ってグローブを受け取ったり色々お手伝いをさせていただくので、ここで一度別の担当に変わります」
傍らの名前に対して決められた通りの文句を口にする。教会の中には先に入場した黒尾がすでに待っている。緊張した面持ちの名前は、谷地の言葉に固い表情で頷いた。
名前の身体の動きに合わせて小さくドレスの裾がゆれる。露出が少なくふんわりとしたドレスは、わざわざ谷地もドレスショップに足を運び一緒に選んだものだ。普段ならばそこまでのサービスはしない。けれど今回は別だ。先ほどのファーストミートの様子を思い出すと、ドレス選びのときから黒尾に見せる時を楽しみにしていた名前の思いが報われたことに胸があたたかくなる。
高校時代、谷地と名前は合宿のときに顔を合わせた程度の交流しかなかった。黒尾とも同様だ。他校生、それも二学年も上の先輩であればその程度の交流が普通だろう。
それでも当時、黒尾と名前の間に流れていた特別な空気には谷地もまた気が付いていた。まだ一年生だった谷地にとっては、その関係は遠い世界のもののようにも見えた。あんな風に特別に思える相手ができたらと、そう思った。
「名前さんと黒尾さんは付き合ってるんですか?」
あの頃、名前と合宿でふたりきりになったときに谷地はこっそり聞いたことがある。谷地の問いに名前は幸せそうに笑って言った。
「私も付き合えたらいいなって思ってるんだけどね」
「えっ、でもお二人はどこからどう見ても」
「うん、そう思うよ。でも多分、部活引退するまで黒尾は告白してくれないと思うから、私も腹くくって待ってるところ」
そう答えた名前の微笑みは、心底黒尾のことを好いているように見えた。
パイプオルガンの演奏が始まる。荘厳な雰囲気の中、教会の後ろ側の扉が開き、仄暗い教会に一筋の光が差す。参列客が一斉に後ろを振り返り、そして息をのむ瞬間が、谷地は好きだった。
小さい時からの憧れの花嫁さんが一番注目され、一番きれいに見える瞬間。
ドレスと床がすれる音、ベールの奥の伏し目がちな瞳。父親に手を引かれ歩く名前を見ていたら、谷地もなんだか目頭が熱くなるような気がした。慌ててばれないように頭を振って雑念を飛ばす。
谷地の仕事はまだ始まったばかりだ。けれど、今ばかりは教会内の空気に酔いしれてもいいだろう。一歩、また一歩とウエディングステップで黒尾のもとへと歩いていく名前と、少しだけ目元を綻ばせながら待つ黒尾。谷地が知る、あの合宿のころから何も変わらないふたりの空気がそこにあった。