黒尾鉄朗とファーストミート


 結婚式の朝は早い。
 枕元の出窓から差し込む朝の光に黒尾が目を覚ました時、いつもならば必ず黒尾よりも目を覚ますのが遅い名前の姿はすでに寝室になかった。そばに落ちているはずの携帯を、もぞもぞと手探りで探す。そうしてほとんど習慣のように身体を動かし起こしつつ、覚醒しきらない頭で記憶の糸を手繰る。
 ──名前のやつ、随分朝早いな。今日は用事があるなんて言っていたっけ。
 その瞬間、今日が何の日であるかを思い出し、黒尾は慌てて布団から跳び起きた。

 九月に入って数日、このごろ急に朝晩が冷え込み始めた。ひやりと冷たいフローリングの上を構わず裸足で走って、慌ただしくリビングに向かう。
 そうして息せき切ってリビングに飛び込んできた黒尾を見て、まだパジャマのままでテーブルに向かっている名前が驚いた顔をした。
「おはよ、どうしたの?」
 そのいつも通りのきょとんとした顔に、黒尾はほっと息を吐く。よかった、結婚式当日に花嫁に蒸発されたのかと半ば本気で心配した、とは流石に口が裂けても言えないだろう。ああ、いや、と口篭る。
 ともあれ、今日は結婚式の当日であった。現在時刻は朝の六時半。本来ならば事前の支度は何もかも終わっていてもいいはずの時間である。あとは当日持ち込みの品の確認や、もろもろ心の準備くらいすれば本番になる。
 そのはずなのに、この早朝から何かまだ作業をしているらしい名前の姿を見て、黒尾は何ともいえない気分になった。
 仕事が忙しいからと理由をつけて、今日の式の準備を名前にほとんど丸投げしていたことを、黒尾は申し訳なく思っている。だからこそ夜久たちの余興のサプライズにも乗ったのだ。そのせいで余計に忙しくなり名前の負担が増えたのは誤算だったが──ともかく、今の黒尾は名前に対して多少神経質になっていた。
 果たして結婚式の準備のことだけで、この数か月の間、一体何度の喧嘩をしたことだろう。最終的には名前の好きなようにすべて式を行う代わりに、黒尾は一切文句も言わない口も出さない、というところでお互い妥協した。結婚式の最終見積書に記載された金額を見て肝を冷やしたのは記憶に新しい。
「何してんの」
 テーブルに近寄り、名前の手元をのぞきこむ。テーブルの上に広げられた手のひらサイズの画用紙たちには、びっしりと小さな文字が書き込まれていた。
「これ? お客さんの名前札の裏に一言メッセージ書いてるの。鉄朗にもお願いしてあったでしょ、私色々忙しくて後回しにしちゃったからこんな土壇場になっちゃった」
 そう言われてみればたしかに黒尾にも覚えがあった。一週間ほど前、結婚休暇取得のために残業まみれになっていたところ、突如名前から押し付けられたメッセージカードの山。半ば狂乱しながら、仕事の昼休みに黙々と片付けたのだったっけ。
 何事にも準備のいい名前が当日の朝まで作業に追われているというのは意外だが、しかし新婦には新婦で、新郎の黒尾とは違う作業も多い。おまけに名前もフルタイムで働いているのだから、メッセージカードが後回しになるのも仕方がないことである。
「お前、花嫁の手紙とか色々やることあったっけ」
「そうだよ、鉄朗と違って花嫁は忙しいの」
 ああ、またそうやって喧嘩になりそうな言い方をする。
 何も結婚式の日の朝にまでそういう物言いをしなくてもいいじゃないか、と反論したくなるのを黒尾はぐっと堪えた。確かに結婚式に関する負担が名前の方に大きかったのは事実だからだ。黒尾だって新郎の挨拶は暗記こそしなければいけないものの、ネットで拾った文章でどうとでもなってしまう。
 これ以上この不毛な会話を続けると、挙式当日の朝に険悪な空気になりかねない。そう判断した黒尾は、静かに名前のそばから身を引いた。
「もう朝飯食った?」
「ううん、まだ」
「パン焼くから食えよ。あんまり時間もねえだろ」
「あ、ありがとう」
 オーブンに食パンを突っ込みながら、黒尾は相変わらず小さな紙とペンを片手に唸っている名前を見た。
 寝起きのせいで髪はぼさぼさだし、化粧だってしていない。その様子に、黒尾は何故だかふと、学生時代を思い出す。
 三年間の片思い期間中、黒尾と名前はほとんどお互いの気持ちが通じているのを確信していながらも、部活があるからというただそれだけを理由に付き合うのを先延ばしにしていた。その時間を含めれば、交際期間はざっと十年以上になる。それほどまでに長い時間を一緒に過ごしてきて、今や名前は黒尾にとっているのが当たり前の存在となっていた。
 籍こそまだ入れていなくても、既に気持ちの上では立派に家族。名前には口が裂けても言えないが、しかし正直な本音を言えば、黒尾は結婚式を挙げたからといって何が変わるとも思えない。
 それでも式を挙げるのは、世間体や親族が望むから。
 そして何より名前が結婚式を挙げたがったからだ。
 結婚を決めたほどの女がしたいというのであれば、結婚式の一つくらい挙げさせてやりたいのが男というもの。今日で結婚式という面倒な行事が終わり、名前のマリッジブルーのようなイライラからも解放されるのだとと思えば、あと一日くらいは頑張れる気がした。
「ああー、やっと終わったー」
 伸びをした名前が、そのまま椅子から滑り落ち床に伸びる。
 これだけ名前が準備に時間を割き心を砕いた結婚式。せめて今日一日が良き日になるよう、笑顔であいつの隣にいてやろう──そんなことを思いながら、黒尾は揃いのマグカップにコーヒーを注いだ。

 ★

 九時頃に結婚式場につくと、すでに両家の親族が着付けのために集まっていた。この後ヘアメイクのある名前はすっぴんにマスクとサングラスという、何処ぞの芸能人のような出で立ちをしている。母親たちがその様子を見て笑った。高校時代からの付き合いになる名前と黒尾だから、お互いに相手の両親とはもうかなり、長く良好な関係を築いている。
「名前さん! 名前さんはこっちでお支度です!」
 黒い制服に身を包んだ谷地がぱたぱたと駆けてくる。
 迷路に迷い込んだように難航していた式場見学のとき、この式場で偶然、黒尾たちは谷地と奇跡の再会を果たした。お互い最後に顔を合わせたのは十年近く前だが、大人になっても雰囲気は大して変わらない。
 谷地がプランナーとして働いているのを知り、式場に悩んでいた二人はここに即決した。料理もうまいし雰囲気もあるが、何より顔なじみの人間が自分たちのプランナーになってくれるというのは不思議な縁があるような気がした。
 谷地に連れられ名前が、支度部屋へと一足先に向かう。この後それぞれ別れて支度をし、何枚か写真を撮ったら待望のファーストミートだ。
 ファーストミートというのは、そのものずばり新郎が初めて新婦のドレス姿を見ることをいう。未婚の、特に男性であればその言葉を知らない人間も多いだろう。黒尾自身その言葉を知ったのは名前に教えられてからだった。しかしそのファーストミートなる文化のせいで、ドレスを決めに行くときもヘアメイクの準備のときにも、黒尾は名前の様子を何一つ見せてはもらえなかった。
 ドレス決めに連れまわされなかったことだけは僥倖と思えなくもないのだが、とはいえ十年以上付き合っている間柄なのだ。なにも今更ドレス姿くらいでそこまで大袈裟にすることもないだろうに、とひそかに嘆息する。
 親族に挨拶を済ませてもまだ黒尾の支度までは少し時間がある。暇を持て余すのもつまらないので、黒尾は近くにいた別のプランナーに頼んで、ウェルカムスペースや披露宴会場を簡単に見せてもらうことにした。
 案内された先にはそこかしこに、名前が準備した装飾や思い出の品が飾られている。一生懸命リボンをつないだり厚紙を切ったりしてつくった飾りや、ふたりの思い出の写真をつなげて作ったガーランド。祝いの品として友人たちからもらったものも、できる限り飾りに取り入れてある。チープにならない程度に手作り感あふれる、名前らしい雰囲気になっていた。
 飾り付けられたウェルカムスペースを見て黒尾は知らず、目尻を下げた。
 名前のこういう細かな努力を惜しまないところが、黒尾は昔から好きだった。誰が見ているのか分からないようなことであっても、自分の仕事や領分はきっちりこなす不器用で真面目なところ。マネージャーとして裏方で黒尾たち選手と同じくらい頑張り続けていた学生時代や、何度も何度も黒尾に泣きつきながらけして諦めることをしなかった社会人としての働きぶり。いつだって黒尾は誰より近くで見ていた。
 写真の中の名前が幸せそうに黒尾に笑いかけている。プロポーズが成功した時の写真だ。
 ──ああ、俺はこいつのこういう顔が見たくて付き合っていたんだった。
 黒尾も小さく笑った。
 
 やがて時間が来て、案内された新郎の支度用の部屋に黒尾も通される。当然だが名前とは別の部屋が用意されている。慌ただしく案内に来たのは谷地だ。新婦はヘアメイク中なので、特に谷地は名前と一緒にいる必要もない。
 新婦と違い新郎はヘアセットも着替えの支度もすべて自分でやらなければいけない。それがこの式場でのルールである。黒尾は大して緊張もしないまま、用意されたタキシードに着替える。
 試着のときに大体の雰囲気はつかめているが、寝ぐせのついていない頭で着てみるといつになく男前に見えるな、などと鏡を見て、ひとりにやにやしながら考えた。黒尾も友人の結婚式には何度か出席しているが、いざ自分が着てみるとこれが案外いいものだ。今までは友人や同僚のタキシード姿を見ても半笑いで祝福していた。
 支度が終わってぼんやりしていると、今度は谷地がカメラマンを引き連れ支度部屋に入ってくる。ジャケットを羽織らされそのままムービー用に写真や映像を何枚かとられる。黒尾の普段の目つきが悪いせいで何度も何度も撮り直しをさせられるが、谷地は「かっこいいです!」「強そうです!」と褒めているのかよく分からない言葉を黒尾にかけるだけだった。
 まるでプロのモデルのようにポージングまで要求され、最初はそれなりに乗り気だった黒尾が撮影にもやや飽きてきたころ、やっと写真地獄から解放された。しかし息つく暇もなく、場所を移動させられる。
「何、次は何させられんの?」
 黒尾の早くも疲れ始めている声にも気付かず、谷地は元気よく目をきらめかせて言った。
「次はいよいよお待ちかねのファーストミートです!」

 ファーストミートの場所は教会の前だった。写真をとるため、すでに先ほどのカメラマンが先行してスタンバイしている。
 目的地に到着すると、
「それでは名前さんを呼んでくるので、黒尾さんは目をつむって後ろを向いててくださいね」
 と、そのまま待たされる。ほどなくして、黒尾の耳に話し声が近づいてくるのが聞こえた。谷地が名前を伴って戻ってきたらしく、ひそひそ話なのに「裾踏む!」や「待って谷地ちゃん歩くの早い!」と聞こえてくる。落ち着きなく文句を言う名前に、思わず苦笑した。どれだけ綺麗にしてもらったかは知らないが、そんなに落ち着きがないと台無しになってしまうではないか。
「名前さんが名前を呼んだら黒尾さんは振り返ってください」
 てきぱきと谷地が説明する。ここにきてようやく、少しだけ黒尾も緊張してきた。
 今までは結婚式といっても何をするにも自分だけで完結していた。タキシードなんてスーツのちょっと豪華なバージョンくらいにしか思っていなかった。しかしさすがにウエディングドレスを身に纏った名前を目の前にして、そこまでの余裕は持つことはできない。否応なしに結婚式の雰囲気に呑まれてしまう気がして、黒尾は今更些か不安になる。
 しかしそんな不安に誰が気遣うこともない。
「て、つ、ろー」
 嬉しさを隠し切れない名前の声音で、ゆっくりと名前を呼ばた。黒尾は腹をくくって振り返り──そして言葉をなくした。
 普段とは見違えるような、頭の先からつま先まで眩く輝くように美しい名前が、はにかむような笑顔でそこに立っていた。思わず、思う。
 ──生きててよかった。
 そう思った次の瞬間には、黒尾は名前のことを思い切り抱きしめていた。名前が素っ頓狂な声をあげよろめき、すぐに谷地から叱られる。しかしそんなことは黒尾にとってはどうでもいいことだった。
 遠慮がちにのぞくデコルテや露になった首筋。きれいに化粧を施された顔と、レースから透けて見える肌。そのすべてが、黒尾が今までの人生で見てきた何よりも美しく輝いていた。
 谷地に叱られようやく身体を離す。改めて見つめなおした名前は嬉しいような恥ずかしいような困ったような顔で笑っていて、その表情はやはりいつもの名前だった。ようやく少し落ち着きを取り戻した黒尾は、今の感動をごまかすように小さく咳払いをする。そして細部まできちんと見れば、ゆるく編まれアップになった髪型や可愛らしいショートグローブが、なるほど名前らしくてよく似合っていた。
「……似合う?」
 遠慮がちに名前にそう訊かれ、黒尾は小さく溜息をつく。
 この状況で、言うべきセリフはただひとつ。しかしその言葉に先ほど自分が抱いた感動がすべておさまりきるとは、黒尾にはどうしても思えなかった。
「まじで、世界で一番きれいだわ」
 その返事に、名前が満足そうににっこりと笑った。
 間もなく結婚式が始まる。

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