都内のとある貸切スタジオの一室、かけっぱなしにしていた音楽を止めた夜久は、深々と溜息を吐いた。社会人になってからは久しく着ていなかったジャージの、肌に触れる感覚がこそばゆい。それでもノスタルジアに浸っている余裕など何処にもなく、夜久の表情はかたい。
自宅でもここ最近はこの曲しか聴いていないのではないか──夜久が思わずそう思うほどエンドレスリピートで流れ続けている曲は、流行の男性アイドルグループが昨年リリースしたばかりのウエディングソングである。普段ならば聞かない類の音楽であるが、新婦がこの男性グループの長年のファンなのだから仕方がない。余興で踊る以上、喜ばれない曲を踊るよりはやはり喜ばれる曲の方が良いだろう。彼女の笑顔が見たくて余興をしているといっても過言ではない。
「ちょっと休憩」
そう宣言して、夜久は冷たい床に腰をおろした。行きがけに買ってきたスポーツドリンクで喉を潤しながら、周りを見回す。こうしていると、高校時代毎日のように顔を突き合わせていた部活漬けの日々を思い出すようだった。
今日ここに集まっているのは夜久以外には海、山本、犬岡、そして此度の挙式のもうひとりの主役──新郎である黒尾である。
その黒尾と目が合い、夜久は鼻を鳴らす。
考えることはただひとつ──厄介なことを引き受けてしまった、それだけだった。
もともと黒尾から余興を頼まれたのは夜久ひとりだった。あとは余興の準備をするにあたり、夜久が一緒に動きやすいメンバーを式の参加者の中から選んでくれと頼まれた。そんな頼み方となれば、音駒バレー部の面々が集まるのは自然の流れである。
夜久は最初、海に声を掛けた。そこからある程度余興の方向性が決まったところで、ダンスをするにはメンバーがさらに必要だということになった。当初はリエーフか研磨あたりを指名しようかとも思ったのだが、研磨は新郎友人スピーチがあり、またリエーフは壊滅的にダンスが下手だった。そんなわけで白羽の矢が立ったのが山本と犬岡である。都内に残っていて、ダンスがこなせそうで、時間も作ることができる。選ばれるべくして選ばれた面子ともいえる。
「やっぱ合わせて踊ると粗が目立つな」
休憩中の海が、ぽつりと独り言のように呟いた。しかしその声は、音楽が止まり静まり返ったスタジオの中にはひときわ重く響いた。全員が渋い顔をする。海もまた、自分の言葉に苦笑した。
今回の余興でダンスをしようと言い出したのは夜久だ。新婦の好きなアイドルの曲であるというのも大きいが、実際に余興で同じ曲を踊っている人たちの動画を見て、これならば自分たちにもできると判断した。声を掛けた面々も、それぞれ自主練習の段階ではそれなりにうまく踊れていたと言っている。ただ、こうして五人で一緒に踊りポジション移動なんかも組み込んでみると、やはり微妙なタイミングのずれや手足のあがり方が違うのが気になった。スタジオの鏡張りの壁にうつる自分たちはとてもではないが国民的アイドルグループの物まねをしているとは思えない。
もしもこれが現役時代ならば、ここまで苦労せずとももっとあっさり息もあったかもしれない──考えても意味のないことを夜久は考え、そしてまたどんよりとした気分になる。さすがに高校を卒業して十年近く経つと、揃って顔を合わせることもそう多くはない。黒尾の結婚式はむしろ、彼らにとってはちょっとした同窓会のようなものだった。
そもそも、全員社会人としての生活があるのだ。そんな環境でダンスを踊るという余興はなかなか厳しかったか、などと今更少しだけ後悔じみたことすら思う。
ひとりでのダンスならばともかく、ポジショニングなどをきちんと決めたグループでのダンスは、集まってからの練習こそが肝なのだ。それを、ほとんどぶっつけに近いような限りある集合練習でものにしようとしているのだから、生半なことではない。
けど、このメンバーでなら──
「いや、でも俺ら全国行った音駒バレー部っすよ! ダンスのひとつくらいできないわけないじゃないすか」
沈んだ空気を一気に弾き飛ばすようなその声に、夜久ははっとする。夜久の思いをそのまま口にしていたのは、学生時代からムードメーカーだった山本だった。
学生時代のトレードマークだったモヒカンは、今も名残を残しつつ、すでにその姿を消している。女に奥手な一昔前のヤンキーのようだった後輩も今では立派に一児の父として奮闘していると、夜久をはじめこの場のみんなが知っている。
その山本が、
「もっぺんやりましょ! さっきのはサビのところに入る前のポジションチェンジがうまくいかなかったのが後のぐずぐずの原因だと思うんすよね!」
「あっ、それ俺も思いました!」山本に乗っかるような形で犬岡も言う。「それに黒尾さんだってわざわざ名前さんに内緒で練習来てるんだし、成功させなきゃ恥ずかしすぎっすね!」
その言葉には黒尾も渋い顔をしたものの、とはいえそんな後輩たちを見ているとやはり、先輩としては頑張らなければという思いが沸き起こってくる。夜久もまた、へたばりかけた膝を鼓舞するように立ち上がった。海と黒尾がそれに続く。
底抜けに明るく体育会系な後輩たちの存在は、学生時代も今も、変わらず場の空気を明るくする。後輩たちは後輩たちで黒尾と名前の結婚を祝したい気持ちでいっぱいなのだろう。
そんななか、黒尾だけがまだぶちぶちと文句を言っていた。
「つーか俺は未だに自分の式なのになんで自分が躍る羽目になってんのか分かんねえけどな」
「そりゃ名前さんにとっての一番のアイドルが黒尾さんだっつーことを証明するためっすよ! 誰にでも笑顔振りまく芸能人にキャーキャー言ってる名前さん見て、黒尾さん悔しくないんすか!?」
「そんなところで張りあってる覚えがないんですけど」
「そう言いつつ頑張って練習する黒尾も大概だよ」
夜久が混ぜ返し、黒尾がむっとそっぽをむいた。
今回、黒尾にも余興に参加するよう声を掛けたのは夜久である。フラッシュモブのような派手な余興は式の規模にそぐわず、また学生時代からよく知る黒尾と名前の性格からしても、そういうものはあまり好まないだろうと思った。
しかし、新郎がサプライズで余興に参加するくらいならば、そんな名前でも楽しめる範囲内だろうとの判断だ。当初は参加を渋った黒尾も、「名前が一番喜ぶのはお前が頑張ったときだろ」という夜久のキメの一言で陥落した。なんだかんだ言いつつプロポーズするほど好きな女のためと言われれば断れないのが黒尾なのだ。
そんな黒尾を見ながら夜久はぼんやりと学生時代のことを思い出す。
音駒の主将だった黒尾と、同じく三年生の女子マネージャーだった名前。はたから見ていても思いが通じ合っているのは一目瞭然だったのに、律儀にも部活を引退するまで、ふたりが表立って付き合うことはなかった。
あの頃はまだみんな若かったから、黒尾たちもそれがけじめだと思っていたのだろう。夜久は夜久で、そんな二人を見ていて何度ももどかしく感じたのを覚えている。
それでも、高校三年から足掛け十年に及ぶ交際を経て、その間に幾度も喧嘩を繰り返しながらも一度も破局することなく、こうして結婚までこぎつけているのだ。黒尾と名前にとっては、お互いにお互いが運命の相手というやつなのだろう。
バレーに打ち込む黒尾の姿を目で追う名前の姿を、夜久は今でも思い出すことができる。名前のことを恋愛対象として見たことは一度だってないが、あんな風に一途に思われてみたいとは思ったものだ。何となく二人には二人の空気があって、それを当たり前のように共有していた関係を羨ましく思ったこともある。
今となってみれば別にこの二人にだけが特別持ち合わせていたものではなく誰もがいつかは得るものだと分かるが、それが分かるほど当時の夜久は大人ではなかった。
音駒でただひとりの女子マネージャーだった名前。
天真爛漫な名前を、夜久は同じ学年にもかかわらず妹のようにかわいがっていた。その名前がいよいよ人の嫁になるのだというから、胸に沸き上がる感慨もひとしおだった。
あの頃、黒尾と何かあるたびすぐに自分に相談してきていた名前。二人をここまで保たせたのは自分だという自負が夜久にはある。だからこそ、この結婚式の余興に手を抜くわけにはいかなかった。この二人に最高の結婚式を挙げさせることが自分の果たすべき務めなのだ。
「まあ、やっくんの頼みとあれば答えないわけにもいかないでしょ」
やれやれとでもいうように言い放った黒尾の言葉に夜久は苦笑いした。
──そうだ、お前は俺にはまだまだ返しきれないほどの恩があるんだからな。
夜久は胸中で笑いをこぼす。だから、こんなダンスくらいで文句を言われてはたまらない。そんな思いを込め、夜久は立ち上がった黒尾の背中をばしんと大きく一発叩いた。
「そう思うならもっと張り切って練習しろよ。本番でミスったらまじでぶっ飛ばすからな」
「新郎をぶっ飛ばすのもどうかと思うよ」
──さあ、最後の大仕事だ。