08

 帰るまでが遠足。帰るまでがデート。
 黒尾くんとのデートはその後もこれといった波乱はなく、つつがなく進行した。お昼を食べた後は腹ごなしがてらぶらぶらと買い物をして、日が傾き始めたころに解散になった。
 書店で黒尾くんが面白いと言っていた漫画を買おうとしたら、
「貸してやるよ」
 と言われたことを思い出し、ひとりでにやにやする。結構な巻数の漫画だから、貸し借りしようと思ったらそれなりの回数顔を合わせることになる。その提案を、黒尾くんの方からしてくれた。たったそれだけのことが、私にはどうしようもなく嬉しかった。

 デートから数日のこと。私は久しぶりに早起きをして、登校の準備をしていた。
 ここしばらく自由登校が続いていたが、今日は全員出席での卒業式の予行練習がある。予行練習といっても、何度もリハーサルを繰り返すわけではない。それぞれの試験日程でどうしても参加できない人がいることを踏まえ、都合二回、予行練習があるだけだ。
 二月上旬と下旬に予行練習を一回ずつ、そして三月の頭に卒業式本番。壇上で挨拶をする代表でもない私にとっては、卒業式とはただ座っているだけの式典でしかないから、予行練習など尚更そこにいるだけだ。
 それでも眠気と面倒くささをおしてまで登校する理由は、受験真っ只中だった友人たちの状況がそろそろ落ち着いてきたから。それに何より、登校すれば黒尾くんと会えるからだった。
 早起きしてかすむ目をこすりながら、久々の制服を着て学校に向かう。自転車をこぎ、同じ音駒の制服の学生たちをどんどんと追い抜いていった。制服のスカートの裾が風でめくれないよう、片手でスカートを足に押し付ける。この制服も、もう数えるほどしか着る機会がない。
 二月の寒さにハンドルを握る手をかじかませながら、もくもくとペダルを踏み続ける。高校のそばの角を曲がったところでふと、胸がときめいた。前方には特徴的なつんつく頭の男子。近くを歩くほかの音駒生よりも頭ひとつ抜けて高い長身が、寒さのためかなだらかに背を丸めて歩いている。
 黒尾くんだった。朝から見かけられるとは、なんだか縁起がいい。
 ペダルを踏むペースを落とす。黒尾くんの後ろ姿を眺めながら、私はのろのろと自転車を進ませた。それでも徒歩と自転車ではどうしたって自転車の方が速い。このままいけば、すぐに黒尾くんに追いつく。
 どうしよう、このまま追い抜いてしまうべきか。
 少しだけ考えてから、隣を抜いていくことにした。私の方が先に学校に着けば、駐輪場に寄る分だけ時間がかかっても一緒に教室まで行ける。その方は自然な感じだ。
 黒尾くんに気付かなかったふりをして、私は強くペダルを踏みこむと、そのまま横を追い抜いて行った。勢いよく流れていく景色を視界の端に捉えながら、深い深い溜息を吐く。
 これまでならば、たとえ黒尾くんが前方にいたところで、一切気にも留めなかっただろう。それどころか、目の前にいる生徒を黒尾くんだと判別すらできなかったかもしれない。
 それなのに、今やどうしたら一番自然に黒尾くんに話しかけられるか、そんなことまで考えている。どきどきと騒ぐ自分の胸に呆れつつ、私は急いで駐輪場へと自転車を走らせた。

 駐輪場に自転車を置いた私は、そわそわしながら昇降口へと向かう。私の計算通り、昇降口でちょうど黒尾くんと出くわした。タイミングはばっちりだ。心の中でガッツポーズする。
 ただし黒尾くんの横には、私が通り過ぎた後に合流したのだろう、同じクラスの夜久くんもいた。何やら楽しげに会話をしているふたりを見て、声をかけるのを躊躇する。黒尾くんとはそれなりに仲良くなってきたものの、夜久くんとはあまり話したことがない。夜久くんもまた、私とは違う世界で生きているタイプの明るい男子だ。
 そんなことを悶々と考えていると、とん、と肩を叩かれた。
「わっ!」
 ぐるぐる巡る思考から、現実世界に引き戻される。勢いよく振り返れば、すぐそばで黒尾くんが薄く笑っていた。
「名字さん、おはよ。今日もリアクションがでかいねぇ」
「お、おはよ、黒尾くんと、夜久くん」
「おう。はよー」
 私がぐるぐるしているうちに、黒尾くんたちの方から話しかけてくれた。ほっとするような、情けないような。
 全員同じ教室なので、そのまま黒尾くんを真ん中に三人並んで歩いていく。ここで別行動をとる方がおかしい気がするし、何より黒尾くんたちは私が上靴に履き替えるのを待っていてくれた。当たり前のように待ってくれる優しさは、黒尾くんたちにとっては特別なものではなかったとしても、私には嬉しい。
 が、歩き出して間もなく、私は黒尾くんごしの夜久くんからの視線をひしひしと感じ始めた。何せ夜久くんは目が大きくて目ぢからも強い。その大きな瞳でじっとこちらを凝視されれば、嫌でも視線が気になってくる。
 考えてみれば、夜久くんが私を凝視するのも当然だ。私は夜久くんとも黒尾くんとも、ついこの間までほとんど話したことがない。黒尾くんとは連絡先も交換したし一緒に出掛けもしたが、そんなことは夜久くんの知るところではないだろう。黒尾くんともあろう人が、私ごときと出掛けることをいちいち友人に報告するとも思えない。
 夜久くんにしてみれば「当たり前みたいに並んでるけど、名字ってそんな感じだっけ?」としか思えないはずだ。
 いっそはっきり聞いてくれれば、弁明のしようもあるのだが。そんなことを思いつつ、こちらから何か言うのもおかしいかと、私がふたたび悶々とし始めたところで。
 気まずさの極致にいる私に、黒尾くんが追い打ちをかけるように言った。
「つーか名字さん、この間出掛けたときよりなんか小さくなってね?」
「えっ!?」
「この間?」
 何の話、とすかさず夜久くんが突っ込む。夜久くんのその大きな瞳が、興味津々の色で輝いているのが見えた。その視線に晒されて、私は少しだけ黒尾くんを恨む。気まずさを緩和するため事情を話すにしても、もう少し言い方があるのでは。その言い方は、何かあらぬ誤解を招くだけなのでは。
 胸にわいた恨みがましさが私の顔に出ていたのか、はたまた自分で蒔いた種を自分で刈るくらいの思いやりは持ち合わせているのか。夜久くんの問いには、黒尾くんが答えてくれた。
「前言ってた新しくできた店に行くのに、名字さんに付き合ってもらったんだよ。ね、名字さん」
「う、うん。そう。そういうこともありましたね」
 ぶんぶんと首を縦に振っていると、黒尾くんがくっくと喉を鳴らすように笑う。小刻みに腕が震えているから、もしかしたら物凄く盛大に笑いたいところを、ぐっと堪えているのかもしれない。
 そんな黒尾くんの腕を、夜久くんがばしんと叩いた。
「それデートじゃねえの?」
「そういうことです。いやー悪いね、夜っ久ん」
「ちょっと、黒尾くん!」
 その遣り取りに、たまらず私は口を挟んだ。
 たしかに私もデートだと思っていたし、黒尾くんにも「デート」と言われてはいる。だが、私たちふたりの間ならば冗談の皮をかぶせていたものも、夜久くんという第三者に話してしまえば、話が微妙に変わってくる。「デート」に至る流れを知らない夜久くんに、あらぬ誤解をさせかねない。
「デートというのは言葉の綾というか! 実際そんな色っぽいものじゃなかったよね!? お、おつかいみたいなものだよね!?」
「らしいけど、どうなんだよ黒尾」
「認識の違いというやつですねー。俺は完全にデートだと思ってましたねー」
「お前だけかよ」
「いや、名字さんもデートだと思ってると思ってたんだけど。おかしいなー、違ったかなー」
「自分だけデートだと思い込んでたとかだと、さすがにちょっと痛くね?」
「痛いとか言うんじゃねえよ。俺が傷つくだろうが」
 恐ろしくて顔を上げられないが、恐らく黒尾くんはあの意地悪そうな顔でにやにや笑っているのだろう。夜久くんも夜久くんで勘がよさそうだから、何か察しているのかもしれない。いじる矛先が私に向いていないのは、きっと夜久くんの優しさだ。
 それにしてもまさか黒尾くんが、人前でこんなにもあっさりとデートの話を持ち出すとは。それともあれは黒尾くんにとって、デートの数にも入らないようなものだったのだろうか。だからこそ、こんな風に軽く夜久くんに話してしまえるのだろうか。
 本日三度目の悶々に、私が内心頭を抱えていると、
「で、さっきの話だけど、名字さんがこの間より小さくなった理由は?」
 唐突に黒尾くんが話を戻した。もはや夜久くんに対し、誤魔化したり隠したりするのも無意味だろう。私は半ば開き直って、顔を上げた。瞬間、楽しそうに私の顔を覗き込む黒尾くんと目が合った。
 ああまた、心臓がうるさい。
「……小さいというか、逆にあの日の私が大きかったんだと思う。あの日は少しだけどヒールある靴はいてたから。ほら、上靴だと底がぺったんこだし」
「あー、そういうことか。女子は色々大変だな」
 黒尾くんがぽんと手を打った。種明かしというほどのこともない。
「名字って打ち上げのときでも女子でかたまってるから、あんま私服イメージわかない」
 夜久くんがさらりと会話に混ざってくる。
「可愛い系だよな。女子って感じで。な、名字さん」
「そうかな!? 普通だと思うけども!」
「へー。まあ女子の服よく分かんねえけど」
「じゃあなんで聞いたんだよ」
 黒尾くんが夜久くんに呆れた視線を向けたところで、私たちは教室へと到着した。

 私がバレー部のふたりと一緒に教室に入ってきたことで、友人の何人かが驚いたように視線を向けていた。何ということもなくふたりと別れ、私は自分の席につく。椅子に腰をおろした途端、後ろの席の友人が私の肩をたたいた。
「黒尾くんといい感じじゃん。やったね」
 いい感じと言われても、先ほどまでの遣り取りを思い出すと、そうとも言い切れないところがある。私にとってのいい感じは、黒尾くんにとっての普通でしかないのかもしれない。
 そんな思いをひそかに込め、私は大きく溜息をついた。
「どうだろうね……。黒尾くん、何考えてるか分かりにくいし、それに思わせぶりだし……」
「そうなの? 掴みどころはないなと思うけど、思わせぶりなわけではないと思ってたけど」
「ううーん、そう?」
 私と友人は顔を見合わせ首を捻る。私と友人が抱く黒尾くんのイメージは、何やら大きな隔たりがあるらしい。それとも世間の女子ならば普通に流せる言動に、私がいちいち過剰反応しているだけだろうか。その可能性は、結構ありうる。
 ついつい眉間に皺が寄り、表情が険しく固くなる。そんな私を励ますように、友人は軽やかに私の腕を叩いた。
「ま、そんなことは今考えなくてもそのうち分かるよ。もうすぐバレンタインだし。チョコのひとつでも渡せば、黒尾くんの態度が思わせぶりなのか何なのか、ちょっとは分かるんじゃないの」
「バレンタイン!」
 すっかり忘れていたその響きに、私は教室内だということも忘れ、思わずわっと声を上げた。

 バレンタイン──すっかり忘れていたけれど、二月の上旬ともなれば街はバレンタイン旋風が吹き荒れている真っ只中だ。ここのところ家にいるばかりなので、華の女子高生でありながら世間のイベントから完全に乗り遅れていた。確かに周りの席を見れば女子たちは携帯や冊子片手にああでもないこうでもないと相談している。みんな誰かに贈る当てがあるのだろう。
 黒尾くんは甘いものが好きだろうか。たまにお昼におやつを食べてるのを見かけるから、嫌いということもないのだろう。残念ながら、詳しい好みまでは把握していない。こんなことならばデートの日にそれとなく探りを入れておけばよかったが、あの時はそれどころではなかったし、バレンタインの存在そのものを失念していた。
「ケーキとかだとちょっと重いかな?」
 誰にという目的語はつけずとも、友人にはちゃんと伝わっている。友人はにやりと笑った。
「質量的な話? それとも精神的な話?」
「……精神的な話かな」
 答えつつ、ちらりと黒尾くんの方を見る。まだ登校したばかりなのにすでに机に突っ伏して寝始めているその姿に、私は小さく溜息をついた。

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