06

 冷たく冷えた冬の住宅街を、私と黒尾くんは並んで歩く。土曜の真昼間だが人通りは少ない。通りかかった公園から小さな子供の声が聞こえる。どうにもこの状況に馴染めずに、私はそわそわしたままひたすら足を交互に出す。
 こんなふうに男子と──黒尾くんと並んで歩くなんて、去年の私は一度だって想像しなかった。
 寒いせいなのか、はたまた道が狭いせいなのか──学校で一緒に行動していたときよりも、心なしか黒尾くんとの距離が近いような気がする。コートの腕と腕が触れてしまいそうで、けれど触れない微妙な距離。きっとこんなにどきどきしているのは私だけなのだろう。そう思うと、なんだか悔しくもある。
 黒尾くんはさっきから、普段学校で見せている顔と大して変わりない顔で歩き続けている。「寒いな」とか「この辺あんま来たことねえな」とか、そんなことばかり言っていた。やっぱり少し悔しい。やっぱり私ばかりがどきどきしている。これじゃあまるで、私が片思いをしているみたいだ。
 胸のそわつきを抑えるように、私がひそかに呼吸を浅くしていると、「そういえば」と黒尾くんが唐突に私の顔をのぞきこんだ。
「な、なに!?」
「え、今日リアクションでかくない?」
「そうかな!? そうかも!? 寒いから!」
「でかい声出して暖まろうとしてんの?」
「そういう側面があることも否定はできない!」
「まじ? いや、そんなことある?」
 名字さんすげえ体育会系じゃん、と黒尾くんが笑う。身長差があるせいで、黒尾くんはたびたび腰を屈めて、私の顔を覗き込むような仕草をする。普通に視線が合うよりも、覗き込まれるほうが数十倍は心臓に毒だ。
「というか黒尾くん何か話があったのでは」
 うるさい心臓を服の上からぐっと押さえつけ、私は黒尾くんに尋ね返した。「ああ、そうそう」と黒尾くん。
「聞き忘れてたけど、今日行く店って名字さん行ったことある店だった?」
「うん。わりとうちの近所だし」
「あー、だよな。よく考えたら名字さん光が山中らへん住んでるなら、行ったことあるかもなってさっき気付いたわ。悪い、じゃあまじで付き合わせる感じになるな」
「ううん、気にしないで。前に行ったときに雰囲気よくて、また行きたいなと思ってたところだったんだよね。それに、やっぱり私もひとりだと行きにくいし」
 気を遣ったわけではなく、本心から答える。黒尾くんはほんの束の間私を見つめていたが、すぐに「そっか」と納得してくれた。
「女子でもああいう店に行きにくいとかあんだな」
「そりゃああるよ。もう少し大人ならいいのかもしれないけど、高校生がひとりであんなオシャレなカフェって、なかなかハードル高いんじゃないかな」
「そういうもんか」
 私はこくりと肯いた。それに、あの店はここら辺では数少ないデートスポットだし──とまでは流石に言えない。万が一そんなことを言ったら、私が黒尾くんのことを意識しまくっていることがバレてしまいかねない。黒尾くんは勘がよさそうだから、ちょっとでも迂闊な発言をすれば、私の気持ちなんてあっけなくバレてしまうだろう。それはさすがに耐えられない。
 と、私が羞恥心に耐えられなくなる未来をひとり想像していると、黒尾くんが今度はつんつんと、私のコートの袖を引く。
「今度はなに!」
「なんでキレてんだよ」
「キレてないけど、何でしょう!?」
「どういうキャラなんだよそれは」
 会話の前にいちいち茶番を挟んでしまうせいで、なかなか会話がスムーズにいかない。いや、これも黒尾くんなりの私への気遣いだろうか。自分で言うのも恥ずかしいが、私が緊張していることは多分まるわかりになっている。黒尾くんならばそんな私のぎこちなさを見かねて、こうして冗談で空気をやわらげてくれていることも十分ありうる。
「いや、さっき駅で会った時に言い忘れたんだけど」
「何を……」
「名字さんの私服って、そういう感じなんだなって話」
 そう言って、黒尾くんはにやりと笑った。
 そういう感じって、どういう感じ!?
 黒尾くんの笑みに晒された途端、引っ張られたコートの袖から覗く、厳選に厳選を重ねた精鋭セーターの淡い色が急に恥ずかしく思えてきた。私はばっと手で顔を覆う。外さない無難な恰好をしてきたつもりだったけれど、もしかして私、何かとてつもなくずれている!?
「え、ええとぉ……その……」
 呻くように発しながら、指の隙間から黒尾くんを盗み見る。黒尾くんは私を面白そうに眺めていて、そのちょっと意地悪そうな顔に、またしても私はきゅんときた。その顔はやめてほしい。どきどきしてしまうから。
 耳がじんじん熱くなる。これ以上どきどきが漏れ出してしまわないよう、慌てて私は口を開いた。黙っていると、どきどきのせいでおかしくなってしまいそうだった。
「に、似合わないかな!? 大学生になるしちょっと大人っぽい感じにシフトしよっかなとか思ってて! だから結構服の系統迷走中なんだけど! こ、これもお母さんにこういうの着たら大人っぽく見えるんじゃないって言われて買ったやつで、じゃあ買ってみよっかなみたいなやつなんだよね! そう、だから色々着てみたいと思ってて、でも何が似合うのかとかあんまよくわからなくて!」
「なんでいきなりめっちゃ喋ってんの、どうしたどうした」
「なんでかな!? なんか変な汗出てきたかも!」
「心配しなくても、名字さんに似合ってるしいいんじゃねえの。そういう感じ俺好き」
「すっ!?」
「だからなんでそんなリアクションなんだよ。挙動が不審すぎるわ」
 意地悪な笑みでにやにやする黒尾くん。隣で挙動が不審な私。
 学校外だからか、あるいは久し振りで黒尾くん免疫が下がっているせいか──黒尾くんの言葉ひとつひとつに、やたらめったらどきどきしてしまう。
 というか黒尾くんの方も、学校にいるときよりもちょっと、いやかなり大胆な気がする。口説かれているとまではいわないが、現在進行形で自分が黒尾くんにたらしこまれている気がしてならない。
 学校にいるときの黒尾くんは、確かにモテ男の貫禄をぶんぶんに見せつけてくるし、何につけても余裕しゃくしゃくではあるけれど、それでも一応は友人っぽいラインを割らない程度の距離を保ってくれている。
 それとも世間ではこれが普通の男女の友人の距離なのだろうか。私の経験値がないだけで、世間の男女にとってはこれが普通なのか。もしかして、こんなの全然序の口なのだろうか。私の恋愛経験の乏しさのせいで浮かれモードになっているだけとか。
 色々いっぱいいっぱいすぎて、最早何が正解なのか分からない。まだお店についてもいないのに、すでに私はかなり疲弊している。
 隣でくつくつ笑っている黒尾くんは、本当に悔しいくらい余裕しゃくしゃくだ。

 ★

 そうこうしているうちに、やっとのことで目的のカフェに到着した。ひとまずは、目的地に到着する前に私の心臓が限界を迎えてしまう、なんてことにはならず、ほっとする。
「人気のお店だし混んでるかもね。結構待つかなあ」
 時刻は二時前。朝食が遅かったからそこまでお腹が空いているわけではないが、一応ランチタイムの時間だ。混雑のピークは過ぎているだろうが、土曜日、人気店、ランチタイム──とくれば、多少は待つことになるかもしれない。
 友達と一緒であれば、私は店で待たされるのもあまり気にならないたちだが、黒尾くんはどうだろう。待つのとかだるいタイプだろうか。寒空の下待たされるのは勘弁とか思うだろうか。私が勝手にデートと思っているだけかもしれないが、折角デートらしいことをしている以上、できれば黒尾くんには楽しい気持ちで過ごしてもらいたい。
 曲がり角を曲がると、視界の先に目的のお店が見えてきた。少し離れたところからでも、店の中、それに外のベンチにまで並んでいるお客さんの姿が見える。
 私はちらりと、黒尾くんを盗み見る。黒尾くんは呑気そうに、
「混んでんなあ」
 と間延びした声でコメントしている。並ぶことを特に嫌そうにしたりはしない。本当に嫌じゃないのか、それとも内心では並びたくないと思っていても、表面に出てこないだけなのか。そういえば黒尾くんがあからさまに怒ったり苛々したところは見たことがないかもしれない。目に見える気分が安定しているとでもいうか。
 気付けば思考が、どんどん本題からそれていた。黒尾くんの内面について思いを馳せることも重要だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
「黒尾くん、とりあえずどれくらい待ってる人がいるか、一回見に入ってみようか。並ぶなら名前書かなきゃいけないし」
 あんまり待ち時間が長いようであれば、近くのコンビニかどこかで時間を潰すのもありだ。黒尾くんの顔を見上げてそう提案してみるけれど、黒尾くんは「んあ」と意図のよくわからない返事をした。そして、
「大丈夫、予約してあるし」
 何でもないことのように、そう言う。
「えっ」
「いや、普通に予約くらいするって。寒い中待つのもしんどくねえ? そろそろ予約の時間になるかな」
 腕時計を確認する黒尾くんがひときわ輝いて見えた。なんてスマートな対応。思わず内心で拍手喝采を送る。
 端から行列に並ぶ気で来た私とは、さすが黒尾くんは格が違った。一介の男子高校生がこんなオシャレカフェでランチするのに、ちゃんと事前に予約をとっておくなんて。そういうのって、結構なハードルの高さではないだろうか。女子同士の食事であっても、人気店できちんと予約とっておいてくれたら、凄いなぁ、さすがだなぁと思う。
「なんか、黒尾くんって本当いちいち対応がスマートだよね……」
 しみじみと言う私に、黒尾くんが半笑いで首を傾げる。
「褒めてくれんのは嬉しいけども。ふだん部活で飯行くときも、焼肉とか予約するしな。人数多いから。だからわりと普通に予約とってた」
「あ、なるほど。そういう慣れもあるんだ」
 さすが強豪バレー部をまとめあげた主将だけある。考えてみれば、確かにそういう機会は人よりも多いのかもしれなかった。いずれにせよ、黒尾くんが器用で如才なく、よく気が付く人だということに変わりはない。私は尊敬の視線を黒尾くんへと送った。

 黒尾くんが予約してくれていたおかげで、行列を後目に私たちはすんなり席に通された。それも窓際の一番いいソファ席。
 前回、私が友人と来たときに通されたのはカウンター席だった。そのせいでちょっと緊張したのを覚えている。そうか、予約をすればよかったのかと、目から鱗が落ちるようだった。
 黒尾くんのおかげで、今日はだいぶリラックスできそうだ、と考えて、そもそも黒尾くんが目の前に座っていてはリラックスも何もないだろう、と自分で自分につっこみを入れた。
 店内には大学生くらいのカップルが多い。落ち着いた店だが、流れている空気は甘く華やかだ。その空気に引きずられるように、私までなんとなくそわそわした気持ちになる。
 黒尾くんは今、どういう気持ちなのだろう。私たち、完全にカップルの中に放り込まれたお友達同士なのだけれど。
「こういう店全然来たことねえからどんなもんかと思ったけど、やっぱ普段バレー部のやつらと行く店とは全然違うな。水からしてしゃれてない?」
 供されたグラスの水を飲み、黒尾くんが言う。
「部活の人たちとは、普段どういうところ行くの?」
「安くて量が多い店とかー……あとは長居できる店。できればドリバもある店」
「なるほど、それはこことは全然違うね」
 相槌を打ちつつ、がたいのいい男子高校生がこの店の中に集まっている様子を想像してみる。どう考えても違和感しかなかった。黒尾くんや夜久くん単体ならばそれほど浮かないかもしれないが、男子がわざわざ集団でやってくるような店でもない。
「だから今日、名字さん誘ってよかった。名字さんこういう店慣れてる感あるし、俺一人だったらまじで絶対無理だった。入る前に心折れるな」
「これ一人で入れる男子高校生いたら、結構な猛者だよね。何か確固たる意志で入店してきたのかなって思うかも」
「いやー、それは本当になー」
 そう言いつつ、いつも通りのテンションの黒尾くんは「メニューカタカナばっかじゃん」なんて言いながら笑っていた。とてもではないが、緊張しているようには見えない。さっきの予約の時も「予約しておいたから!」とアピールすることもなく自然に振る舞っていたし、つくづくスマートな対応に私はしみじみ感じ入る。
 黒尾くん、実はもう大学生くらいなんじゃないだろうか。
 そんなはずはないのは分かっていても、ついついそう疑わずにはいられない。

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