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 バレンタインから、早いもので一か月経つ。相変わらず黒尾くんとは円満だが、お互いの忙しさから、なかなか会えない日々が続いている。それでも会えない時間を前ほど寂しがらずに済んでいるのは、一年のお付き合いで私がどっしり構えることを覚えたから、そして黒尾くんがまめに連絡をくれるからだ。
 ホワイトデーデートの日は昼過ぎまでいつも通りバイトをして、夕方に黒尾くんがうちに迎えに来てくれることになっていた。どこに何をしにいくかの詳細は聞いていないが、あたたかい格好をしてきてとだけは言われている。バイトから一度家に戻ると、私はインナーを重ね防寒対策をととのえた。
 それからふと思い立ち、水筒にあたたかいココアを入れておくことにした。寒いところに行くかもしれないというのであれば、あたたかい飲み物があった方がよさそうだ。
 今日のデートは付き合って一年記念も兼ねている。正確には一年記念日は数日前に終了しているのだが、その日はどうしても予定が合わず、電話で祝っただけだった。

 しっかり身体を温める格好をして、準備万端で黒尾くんが来るのを待つ。手持無沙汰でリビングに顔を出すと、母がにやにやしながらこちらを見ていた。
「今日、黒尾くん?」
「そう、ホワイトデーだから」
「いいわねえ、若いわねえ」
 母が入れてくれたコーヒーを飲みながら、黒尾くんを待つ。今日はうちに着いたら連絡をくれるという手筈になっていた。この時間だと母がいることを黒尾くんは知っているはずなので、挨拶がてら顔を見せるということなのだろう。そういうところで、黒尾くんは律儀だ。
 しばらくそのまま待っていると、ふいに傍らに置いた携帯が鳴った。それとほとんど同時にインターフォンが鳴る。
 コーヒーのマグカップをシンクに置いて慌てて支度をする。見ると、私より先になぜか母が黒尾くんを迎えるため玄関に向かっていた。どれだけ黒尾くんのことを気に入っているのか。
 コートを羽織って鞄を持って、急いで玄関に向かう。玄関では母が楽しそうに黒尾くんに何事か話しかけていた。黒尾くんも黒尾くんでしっかり営業スマイルで会話しているのだから恐ろしい。ごほんと大きく咳払いをして、私は黒尾くんと母の間に割り込んだ。
「ごめんね、お待たせ」
「ええ、もう行っちゃうの?」
「また今度改めてお邪魔します」
「待ってるわよー」
 きゃいきゃいとはしゃぐ母を見て、何とも言えない気分になる。いつのまにこんなにも黒尾くんと親しくなったのだろう。親子そろってこうして黒尾くんに骨抜きにされている。血は争えないとはこういうことなのかもしれない。
 まだ黒尾くんと話したそうにしている母の視線をどうにか振り払い、私たちはいそいそと家を後にした。

 黒尾くんが車で迎えに来てくれたので、私が助手席に乗せてもらうのもこれで二度目となった。なんだかんだでゴールデンウィークぶりだが、黒尾くんはあれからもちょこちょこ運転はしていたらしく、前回よりも運転が安定しているような気がする。前回も黒尾くんの運転は安定していたと思うのだが、今はもうすっかり慣れた感じで余裕すら漂わせている。
「部活とかで運転することあるの?」
 私が尋ねると、視線は前に遣ったまま黒尾くんは「おー」と返事をする。
「運転させられることもあるし、家の車運転したりもする。あと音駒の練習試合で車出したときに、荷物運びで運転させられたりもする。さすがに部員乗せた車は中型持ってないから運転できねえけど」
「じゃあすっかり熟練だ」
「名前が安心して乗れる程度にはな」
「頼りにしてますよ」
 車内の音楽に合わせて時折鼻歌を歌ったりしながら、沈んでいく夕日をぼうっと見つめる。前回は黒尾くんの好きな曲が流れていたが、今日の車内BGMには私の好みが反映されていた。一年の間に私の好みを黒尾くんが知ってくれたのだと思うと、ついついひとりでにやついてしまう。
 一年の交際期間で私は黒尾くんを、黒尾くんは私を知り、そして好きを深めてきたはずだ。それでもまだ、足らないものはたくさんある。知らないことはまだまだあって、知りたいことも山ほどある。

「今日の夕飯は悪いけど、コンビニでなんか買って車で食う感じで」
 そう言いながら、黒尾くんはコンビニを探しているようだった。黒尾くんがデートの食事をコンビニで済ますとは、また珍しいこともあるものだ。
 そんなことを考えているうちに黒尾くんが車を停めた。言われた通り、コンビニで夕飯を買う。黒尾くんも私もサンドウィッチとおにぎりとコーヒー。どこまで行くのかを知らされていないので、とりあえず今晩の夕食と、車内で食べるチョコレートを買うことにする。
 車に戻ると、早速チョコレートの袋を開けた。
「チョコ、黒尾くんも食べる?」
「ホワイトデーなのに俺がチョコもらっていいわけ?」
 にやにやしながら聞いてくる黒尾くんは、買ったばかりの夕飯のおにぎりの包みをべりべり剥がしている。チョコの包みを剥がして、それを黒尾くんの口の中に押し込んだ。
「黒尾くんだってバレンタインに私にチョコくれたでしょ」
「そういやそうか」
「お互いにプレゼントが好きなカップルってことでいいんじゃない」
「コンビニチョコでプレゼントて」
「いいじゃん、こういうのは気持ちが大事なの」
 二人とも夕飯を食べ終えて、再び車を走らせる。窓の外はすっかり暗くなっていて、車内に表示される車外温度は二度しかなかった。それでも黒尾くんとふたりきりの車内はエアコンもきいていて、暖かく快適だ。
 時々黒尾くんにココアをいれてあげたりしながらドライブすること一時間半。
 やがて到着したのは、街を一望できる高台にある公園だった。車で乗り入れることができるらしく、黒尾くんは公園の中をどんどん車で進んでゆく。周囲にはほとんど人影がないが、時折対向車とすれ違った。そのどれもが私たちと同じようなカップルだ。

 高台の一番てっぺんまで来た時、やっと黒尾くんは車のエンジンを切った。
「ここ。窓の外見て」
 黒尾くんの声に促されるようにして窓の外を見る。そして、息をのんだ。
 眼下に広がるきらきらとした街並み、暗い夜に浮かぶ光の点たち。
 夢みたいな、幻みたいな──そんな景色が、そこにはあった。
「すごい、きれいな夜景……」
「前にきらきらしたもの好きって言ってたから、絶対連れてきたいと思ってて」
 黒尾くんが少しだけ照れくさそうにそう言って頬をかいた。その言葉を聞いて、胸がじんと熱くなる。
 きらきらしたものが好き、なんて、自分で言ったことすら忘れていた。おそらく花火大会に行く前、花火が好きだというような話をしたときに言ったのだろうが、まさか黒尾くんがそんなことを覚えていてくれたとは思いもしなかった。
 目の前の景色をぼんやり見ながら幸福に浸る。ふいにカチャリとシートベルトのはずれる音がした。振り返ると、黒尾くんが私の方に身体をずらして、背中側から首に腕を回している。耳元で黒尾くんが口を開いた。
「幸せ?」
 その質問の答えは決まり切っている。黒尾くんの体温を背中で感じながら、私は頷く。
「うん、幸せ」
「そっか、それはよかった」
「黒尾くんは幸せ?」
「んー、名前はどう思う?」
「そうだなあ……多分、幸せかなあ」
「多分って、えらい弱気だな。心配しなくても俺もすげえ幸せ」
「そっか、それはよかった」
「真似すんなって」
 宝石箱をひっくり返したみたいな美しい夜景を、そうしてしばらく眺めていた。
 私にとってこの一年は、まさしくこの夜景のような美しくて、尊くて、そしてかけがえのない一年だった。黒尾くんと言葉を交わして、恋をして。私が今こんなに幸せなのは黒尾くんのおかげだと、そう胸を張って言えるくらい、私は黒尾くんのことが好きだ。あの図書室での出会いがなければ、今の私はきっとこのきらきらとした尊いものを知らないままに生きていた。
「名前、前いつから好きだったか俺に聞いただろ。憶えてる?」
 だしぬけに黒尾くんが言った。私は小さくうなずく。うなずいたときに露になったうなじに、黒尾くんが額をつけるようにして顔を埋めた。
「あれ、いつからか教えてやろうか」
「いいの?」
「いいよ。答えは入学式の日。俺、入学式の日からずっと、名前のこと見てた」
「え、そんなに前から?」
 思わずくるりと振り向こうとするけれど、手でそれを阻まれた。表情は見せてくれないらしい。仕方がないから前に視線を戻す。首元にかかる息遣いや温度で、黒尾くんの表情を想像した。
「名前は覚えてねえかもだけど、名前がたまたま俺の落とした書類一緒に拾ってくれて。すげえテンパってたから、あのときは本気で女神かと思ったな」
「……そう言われればそんなこともあったかもなあ」
 言われてようやく思い出せるかどうかという程度の記憶しか私にはない。けれど黒尾くんが言うからには、きっとそれは事実なのだろう。
 目の前で書類を落とした同じ新入生を、その頃の私が無視したとも思えない。ただ一つだけ言えるのは、私にとっては『そんな些細なことで』と言いたくなるようなことだが、黒尾くんにとってはそうではなかったのだということだ。
「あの時からずっと可愛いなと思ってたんだけどさ、けどなかなか声かける機会がなくて。だって名前、全然友達以外と喋んねえし。まあそのおかげで名前のこと狙うやつも少なくて俺は安心して片思いしてたんだけど」
 また胸がきゅんと鳴る。笑い交じりの黒尾くんの言葉は、しかしけして冗談なんかではなかった。至って真剣に黒尾くんは話している。私みたいなぱっとしない女子がモテたりなんかするわけないのに。
 私ばかりが黒尾くんのことを好きだといつも思っているけれど、同じように黒尾くんも私のことを好きでいてくれている。そんな当たり前のことなのに実感するたび嬉しくなる。
 付き合って一年。黒尾くんからはこうやって幸福や嬉しいことを沢山たくさん与えられてきた。私も黒尾くんにそれを返していきたいと思い続けた一年だったし、これから先もそういう時間の重ね方をしたいと思う。
 そんなことを思っていたら黒尾くんが少しだけ笑ったような気配がした。
「俺たちまだ付き合って一年だし、雰囲気に酔ってるとか言われたらまあそうかもしんねえけど」
 そう前置きをして、黒尾くん小さく深呼吸したのを感じる。私も黒尾くんの方を向き直った。私の方を見つめた黒尾くんは、優しい顔で笑っていた。
「一生俺と一緒にいてください」
 その言葉への返事は、とうの昔に決まっていた。

 ★

 帰り道、車内は沈黙に包まれていた。それでも不思議と居心地が悪くはない。むしろ言葉がない分だけ黒尾くんの些細なしぐさで感情が伝わるような気がするし、私は私で先ほどの黒尾くんの言葉を噛みしめていた。
 あれはきっと、プロポーズ──みたいなものだと思う。付き合って一年しか経っていないというのに、あの言葉をああもすんなりと受け止めることができた自分には驚いた。しかし私もずっとずっと、一生黒尾くんと一緒にいたいと思っている。プロポーズの言葉を迷わず受けてしまうくらい。
 黒尾くんと出会って私はたしかに変わった。
「なに考えてんの」
 運転席の黒尾くんが訊ねる。少しだけ考えて、私は返事をする。
「黒尾くんのことが好きだなあって思ってた」
「同じこと考えてんじゃん」
 そう言って黒尾くんは楽しそうに笑った。

fin(2017.03.29/加筆修正 2021.10.27)

お題は「moshi」さんからお借りしました。

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