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 春休みに突入してしばらく。世間にはバレンタイン旋風が吹き荒れているが、例にもれず私もバレンタインに頭を悩ませるひとりだ。携帯の画面を眺めつつバレンタインについて悩みながら、私はもうかれこれ一時間も誰もいないリビングで唸り続けていた。
 黒尾くんと過ごす二回目のバレンタイン。今回は前回──すなわち昨年のバレンタインとは多少勝手が違う。何を隠そう、今回の私と黒尾くんは付き合っているのだ。恋人同士。勝手が違うどころか、ほぼ革新のようなものだ。
 今回は彼氏彼女の関係で迎えるはじめてのバレンタイン。生半可な覚悟で挑むわけにはいかない。きっと黒尾くんだって、相応の何かを期待しているはずだ。多分。
 先日のはじめての喧嘩──いや、私の一方的な感情暴露からこちら、黒尾くんは今までにもまして優しい。もともと優しかったところに、さらに一層まめになったとでもいうのだろうか。
 これまでのお付き合いに不満があったわけでもなし、私は今までどおりで一向に構わないのだが、黒尾くんは黒尾くんなりにあの時は思うところがあったらしい。それならそれで、黒尾くんのしたいようにしてくれればいい。そう思い、私も敢えて何も言わないでいる。
 私も私で言いたいことを言うことができ、憑き物が落ちたとでもいうのか、かなりフラットな状態で黒尾くんと向かい合うことができているような気がする。
 そんなわけで私たちの現状の関係はすこぶる良好だ。雨降って地固まるというように。そしてなまじうまくいっているだけに、今のこの状態を維持するためには相互努力は必要不可欠。黒尾くんが私に対してまめであるように、私も黒尾くんのためにまめであるべきだ。ゆえに、バレンタインに手抜きは許されない。

 手作りのお菓子を作ってプレゼントは去年もしたので、彼氏彼女の関係となった今年はもうひとひねりしたい。携帯で『バレンタイン 何をする』と検索をかけてみるものの、いまいちピンとくる検索結果を得ることはできない。
 どこかに出かけようにも、年末年始にかなり散財してしまったので節制したいし、それは黒尾くんも同じだろう。
 それにレストランやデートスポットも、気になるところにはこの一年であらかた行ってしまった。遠出するにもお互いの予定が長期であうことは滅多にない。となると、残された選択肢は少なくなる。
「やっぱ手料理かな……」
 半分溜息のような声で一人ごちる。
 色々なパターンを考えてみたが、現実的に実行に移せそうなのは、黒尾くんをうちに招いて、手料理とバレンタインのプレゼントを振る舞うというものだった。昼間ならば家族はいないので何の問題もない。料理は人並み程度にはできるので、けして無茶な案というわけでもない。
 そうと決まれば善は急げ。早速、黒尾くんにはバレンタインの日は昼前にうちに来てもらうよう伝えた。
 バレンタインまではあと一週間ほど。メニューを考えたら、練習がてら一回くらいは作っておきたい。
 黒尾くんの好物といえば秋刀魚の塩焼きだが、生憎今は二月。秋刀魚の旬はとうに過ぎている。とはいえ冷凍のものでもよければ出回ってはいるだろうから、煮物か何かにして出せば問題はない。
 あとは適当に揚げ物やサラダ、それから味噌汁くらいつければ、ちょっとした定食のような雰囲気にはなるだろう。その後にバレンタインのスウィーツも控えているから、これだけあれば十分のはずだ。あの鬼のようによく食べるエンゲル係数お化けの黒尾くんにも満足してもらえること請け合い。
 スウィーツは、これも色々考えたすえにチョコレートケーキを作ることに決めた。考えただけでも結構なボリュームがあり、私の方が胃もたれしてくる。
 ともあれ、こうしてなんとなく今年のバレンタインの過ごし方が決まった。レシピが決まったところで、早速試作を作る算段にうつる。ちょうど今夜は私が夕飯を作る日。自分の懐を傷めずに、思うまま試作に取り掛かれる。
 スーパーで買い出しを済ませ台所に立つと、まずはなんとなくの感覚で調理を始めた。
 とんとんとリズムよく野菜を刻みながら、そういえば去年のバレンタインは卒業式の練習のあとにふたりで帰りながらチョコを渡したのだったっけ、と思い出す。
 告白未遂を言い逃げされたのもバレンタインのことだ。そう考えると、バレンタインは私たちにとって特別な日なのかもしれない。
 付き合った日とは違うけれど、お互いの気持ちをほとんど確信した日。黒尾くんとの関係が小さく一歩前進した日。
 だからこそ、余計に熱も入ろうというものだ。野菜を刻むのと同時進行で、火を入れていた鍋の中身を確認する。ことこと、鍋の中身を確認しながら、どうかバレンタインが良い日になりますように、と心の中で祈った。

 ★

 一回の試作とケーキの準備を経て、無事にバレンタイン当日を迎えた。黒尾くんはもう何度かうちまで来ているので、わざわざ迎えに行く必要もない。
 待ち合わせ時刻を二分ほど過ぎた頃、インターホンが鳴った。映像を確認すると、黒尾くんがカメラに向かって笑っている。
「玄関開いてるよ」
 インターホンのスピーカーに向かってそう言いつつ玄関まで出迎えると、黒尾くんがドアを開けてひょこりと顔を出す。
「家、ひとりだろ。鍵開けっ放しって不用心だな」
「さっきコンビニに行って、黒尾くんもうすぐ来るしと思って開けたままにしておいたんだよ」
 そう言いながら黒尾くんを中へと案内した。
 こうしていると、なんだか新婚さんみたいな気分になってきて少しだけこそばゆい。黒尾くんがうちに来るのはもう三回目だが、それでもまだ胸がどきどきはする。
「なんかすげえいい匂いする」
 廊下を歩いていると、黒尾くんが言った。バレンタインをどう祝うかは黒尾くんにはまだ話していないので、彼はこの後食事を出されることすら知らない。
 リビングのドアを開け、そして私は言った。
「何を隠そう今年のバレンタインは、定食屋さん風です。いらっしゃいませ」
「おー!」
「もうお腹空いてる?」
「空かせてきた」
「じゃあごはん出すから手洗ってきてね」
 ちょうどご飯が炊けたアラーム音がした。煮物と天ぷら、サラダ、味噌汁、それから小鉢に漬物を載せたものをまとめて手早くランチョンマットの上に並べる。黒尾くんの分よりやや量の少ない食事は自分用にランチョンマットに。
 洗面所から戻ってきた黒尾くんは、食卓の上に並んだ料理を見て
感嘆の声を上げた。
「すげえ、めっちゃうまそう」
「ふふ、今日はちょっと頑張らせていただきました。デザートも用意してあるのであんまり満腹にならないように」
「まじか、名前が料理できるのは知ってたけど、天ぷらとか作れると思わんかった」
「さすがに天ぷらはちょっと練習したけどね。いただきます」
「いただきます、いや、まじですげえ」
 何度もすごいすごいと褒めてくれる黒尾くんに少しだけ照れる。これだけ喜んでもらえれば作った甲斐もあったというものだ。
 一口食べた黒尾くんは、また「うま!」と声をあげ、それからどんどん箸を進めていく。黒尾くんの喜ぶ顔を見るのはもとから大好きだが、自分の手料理で喜んでもらえるというのはこんなにも嬉しいものなのか。自分ももそもそと食事をしながらも、ついつい黒尾くんの表情ばかりに目が行ってしまう。
 いつか黒尾くんと結婚したら、毎日こんな風に自分の手料理で黒尾くんを笑顔にすることができるのか、と考えると表情が緩んで仕方がない。そんな私の表情に気が付いたのか、黒尾くんが首を傾げながら私を見た。
「なーに、にやにやしてんの」
「えっ、あ、いや、黒尾くんが美味しそうな顔して食べてるの見てると、やっぱり嬉しいなあと思って」
「俺も名前の作ってくれたうまい飯食べてると幸せ。幸せの循環だ」
「本当だね、こういうの、いいなあ」
「なー、名前絶対いい奥さんになるわ」
 黒尾くんの最後の一言に思わず「えっ」と反応した声が上ずる。
 いい奥さん、なんて私の結婚妄想を見透かされたような気がしたのだ。いや、実際私のそんな浮かれた思考回路なんて、黒尾くんにしてみれば容易に想像がつくのかもしれない。想像できた上で乗っかってきてきているのであれば、なおたちが悪い。

 自分で作っておきながら、食事を全部食べ終える頃にはすっかり満腹になっていた。やはり張り切って作りすぎた感は否めない。腹ごなしもかねて暫くだらだらして時間を過ごし、小腹がすいてきた頃にようやく冷蔵庫の中のケーキを出した。
 一切れずつ切り分けて、残りは黒尾くんのお土産用にするため再び冷蔵庫に戻す。ケーキを載せたお皿をお盆に載せてコーヒーと一緒にダイニングに持っていくと、黒尾くんが何やら鞄の中から小さな箱を取り出したところだった。
「うわ、ケーキじゃん。めちゃくちゃ凝ってんなあ。すげえ、これ手作りだよな?」
「大したものじゃございませんが、お納めください」
「ありがとうございます。じゃあ俺からも」
 黒尾くんが、私の方へ先ほどの小箱を差し出す。ブルーの包装紙に茶色のリボン。それを受け取ると、見た目通りほとんど質量がないくらい軽い。
「これは?」
「逆チョコってやつ。俺から名前サンに、どーぞ」
「え、いいの? すごい、ありがとう」
「ま、ちゃんとしたお返しはホワイトデーにするけどな」
 黒尾くんの言葉に、学習もせずまたときめく。バレンタインデーだというのに私の方がときめかされてしまって、そういえば去年のバレンタインもときめかされたのは私の方なのだと思い出した。いつだって、ときめかされるのは私の方だ。
「来年も楽しみにしてます」
 そう言って頭を下げた黒尾くんに、私は「はい」と返事をした。

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