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 木兎くんと赤葦くんに会ったその日の晩、私は意を決し、黒尾くんに連絡することにした。とはいえ、電話で声を聞くのにはまだ抵抗がある。悩んだ結果、文章での連絡にすることにした。
 ”返信遅くなってごめんね。いつ会おうか” そう送信するやいなや、即座に既読がつく。そしてすぐに ”いつにでもいい” と返事が来た。
 普段黒尾くんはメッセージで誤字や脱字をすることはほとんどない。それだけに、文面から伝わる慌てふためいた雰囲気に、自分が随分と黒尾くんを待たせてしまったのだということを痛感する。
 黒尾くんからの連絡に気付かないふりをしていた期間は、時間にすればまるっと一日程度だろうか。しかし、もしも自分が同じことを黒尾くんにされたなら、その一日はほとんど永遠のように感じて、とてもじゃないが生きた心地がしないだろう。そう考えると、黒尾くんに悪いことをしたかもしれない。
 お互いのシフトと部活の予定を照らし合せ、改めて会えそうな日を絞る。するとすぐに ”今からは?” と返事が来た。どきりと心臓が跳ねる。
 思わず時計を確認した。時間は未だ夜の七時になる頃だ。すっかり日は沈んでいるとはいえ、今から行けないこともない。しかし肝心の心の準備の方は、生憎とまだ十分とは言い切れなかった。
 いくら木兎くんや赤葦くんと話したことでだいぶ頭がすっきりしたとはいえ、まだ論理的に話をできる状態とはほど遠い。もともと私は、あまり筋道立てて話をするのが得意ではない。
 どうしようか。今日のところは断るべきだろうか。
 しばらく携帯と睨めっこをして、私は唸る。しかし悩んだ末、結局 ”大丈夫” と返信した。
 今からだなんて、計画的な黒尾くんにはありえない。それだけ黒尾くんも色々言いたいことがあるのだと思う。その色々を無下にはやはりできないし、すべきではないのだろう。
 すぐに身支度を整えて出かける準備をする。待ち合わせは夏頃、深夜にテスト勉強するのにも使ったうちの近所のファミレスだった。
 準備をしながらも、妙にどきどきしている自分がいた。黒尾くんの連絡を無視していたのはまるっと一日だけれど、それ以上にずっと長く感じている。
 これまでも、黒尾くんの遠征や私のバイトのために連絡が疎かになることはあった。だが、意識的に連絡を無視したことなんてこれまで一度もなかった。それも当然で、そんなことをする理由が今まではなかった。私は黒尾くんに対して拗ねた態度をとることも、まして腹を立てたことなんて、一度もなかった。

 ★

 家の外は極寒だった。マフラーに顔を埋め、早足に目的地に向かう。黒尾くんに早く会いたい気持ちと、合うのが怖い気持が半々で、口許までうずめたマフラーの中にはため息ばかりがどんどん溜まってゆく。
 ファミレスにつくと、奥の方の席にすでに黒尾くんが座っていた。店内は夕飯時だというのにそこまで混雑もしておらず、容易に黒尾くんを見つけることができる。どきどきしながら黒尾くんに近づいて、静かに席に着く。家から急いで出てきたのか、黒尾くんの髪はぼさぼさでジャージ姿だった。
「……黒尾くん。久し振り」
「……久し振り」
「あと、おかえり」
 挨拶を交わしたところで、タイミングよく店員がメニューを持ってやってくる。とりあえずドリンクバーとポテトだけ注文した。黒尾くんもまだ注文していなかったようで、二人分まとめて注文する。
 ドリンクバーでお互いコーヒーをもらってきて席に着き直すと、やっと落ち着いて本題に入る流れになった。
 しかしやはり少し気まずい。どちらから口を開くべきか分からず、妙な感じで沈黙が落ちた。
 話したいことが沢山あったはずなのに、うまく話せる自信はまったくない。かといって黒尾くんにすべてを任せてしまうのも、それはそれで嫌だった。私は私の考えがある。会話の舵を完全に任せてしまっては、きっと言いたいことは正しく伝わらない。
 もしも今この場を通りかかる人が見たら、十中八九私たちが喧嘩中なのだと分かってしまうだろう。そのくらい、重たい雰囲気だった。だんだんと息苦しくなってくる。
 そもそも連絡を絶っていたのは私なのだし、ここはやはり私から話し始めるべきなのだろうか。そう思い、ごくんと一口コーヒーを飲んで口を潤すと、私はゆっくりを開いた。
「あの、」
 しかしその言葉を遮るように、黒尾くんが「待って」と言った。
「待って、俺から言わせて」
「えっ」
「ごめん──いや、違うな。すみませんでした」
 頭を下げる黒尾くんを、私は何故かただただびっくりしてただ見ていた。
 私に色々言いたいことがあるのと同じように、黒尾くんにも色々言いたいことがあるだろう。それは分かっていたのだが、黒尾くんから謝られるという選択肢は、自分でも何故か分からないが、一切考えていなかった。
 ぽかんとしている私を置き去りに、黒尾くんは続ける。
「木兎と赤葦に聞いた。その、たまたま会って名前が悩んでるの聞いたって。それで、女子と軽率に旅行に行ったこととか、女子がいるって言ってなかったとか、そういうもろもろ、俺が完全に悪かったと思います。本当にすみませんでした」
 そう言い終えて、再び頭を下げられた。黒尾くんのつくつく頭が私を向いていて、なんだか毒気を抜かれてしまったような気分になる。
 黒尾くんが謝ってくれた。
 黒尾くんが私のために頭を下げてくれた。
 私のために、黒尾くんが折れてくれた。
 それなのに。
 こうして目の前の黒尾くんが頭を下げているのを見るのは、気分がいいものではなかった。いや、どちらかといえば、困惑し、もやもやしている。
 そして何より、悲しかった。
 目の前の黒尾くんは、私に反論したり怒ったりしているわけではない。今の言葉だって、間違いなく黒尾くんの本心なのだろう。だが、そうと分かるだけに嫌なのだ。分かるから、悲しい。

「黒尾くんは、ずるいよ」

 ぽつりとつぶやいた言葉は、自分で思っていたよりもずっと、芯を持ったはっきりとした言葉として紡がれてしまった。黒尾くんは顔を上げて、その切れ長の瞳で私を見つめる。今度は黒尾くんが虚をつかれたように私を見る番だった。
「ずるいって、」
「私、別に謝ってほしくてここに来たわけじゃないよ。黒尾くんと話をしたくてきたんだよ。黒尾くんが何を思っていて、何を考えていて、どうしてそうしたのかを聞きたかったし、私が何に対して嫌な気分になって、何に対してもやもやしたとか、そういうことを伝えたかったんだよ。そういうこと、黒尾くんは聞いてくれないの? それって私に興味がないってこと……?」
「名前、」
 黒尾くんの声が上ずった。けれど私は、言葉を止めることができない。
「私は黒尾くんのことを知りたいよ。知ったうえでどうするべきか話し合いたいと思うよ。だから黒尾くんも、そんな風に私のことを聞かずに、私のことを決めつけたりしないでほしい。私の悩みを……、ただ黒尾くんの中だけで理解して、納得して、終わったことにしちゃわないでほしいよ」
 今まで黒尾くんにこんな風に気持ちを伝えたことはなかった。
 黒尾くんのことが好き、黒尾くんのためにできることはなんだってしたい。そういう感情ならば、数え切れないほど言葉にしてきたはずだ。今まで私が持っていたのは、そういう黒尾くんへの前向きな感情ばかりだった。
 けれど、自分自身のことを黒尾くんに伝えたことは、考えてみれば驚くほどに少ない。それだけぶつかる回数が少なかったといえば聞こえはいいのだろうが、結局のところ、本心で黒尾くんにぶつかったことがないだけなのだった。
 ぶつかって拒まれるのが怖い。ぶつかって理解されないことが怖い。あるいは黒尾くんのことを理解できなくなるのが怖い。理解できていなかったのだと気付いてしまうことが怖い。私にとっては怖いことだらけだ。
「私の話、聞いてほしい。全部ぜんぶ、黒尾くんに聞いてほしい。黒尾くんだから、聞いてほしいと思うよ」
 泣きそうにはなるけれど、泣いてはいけない。そう心の中で自分に言い聞かせた。泣いて感情的になってしまったら、私はただの被害者になってしまう。それは私の望むところではなかった。恋人同士なのだから、対等に話し合いをしたい。
 黒尾くんだけが悪いわけじゃない。今までも何度となく気になっていながら、それを溜めこみ見ないふりをしていた私だって悪い。
 黒尾くんは黙って私を見つめている。呆けているようにも見えたし、私の言葉を待っているようにも見えた。
「あのね、私はただ黒尾くんが女の子と旅行に行ったから、それで怒ってるわけじゃないんだよ。たしかに気分がいいことではなかったけど……、でも、そこはなんていうか、こう……信頼関係の話とか、黒尾くんが予防線を張るとかの問題であって……、私がどうこう言うのはある意味お角地がいうか」
 黒尾くんはまだ何も言わない。何も言わないから、私が言う。
「だから……というか、だけど、そのことを黒尾くんが話してくれなかったこととか、自分は女の子と一泊するのに私には男の子と少し接点があっただけで妬いちゃうところとか、そういうのに少しもやもやしてしまったというか……」
 やきもちを妬かれることは嫌じゃない。
 だけど黒尾くんはよくて私はだめだとか、そういうことが気にかかるのだ。厳密に言えば、今までは気にならなかったものが、今回のことで気にかかるようになった。そういう意味では今回は私たちにとっての転機なのかもしれないと思う。
「私は昨日、数合わせに呼ばれた合コンも断ったよ。黒尾くんが嫌がるかなって思ったし、黒尾くんに失礼かなって思ったから。友達との旅行と合コンを同列に並べるのはちょっと違うかもしれないけど……でも、結局はそういうことなんだと思う。女の子の友達のことも、いくら何も無いって言われても黒尾くんの大学には女の子がいるし、友達関係が気にならないっていったら嘘になる。でも黒尾くんのことを信じてるから今まで何も言わなかったんだよ。やきもち妬いたりしてないわけじゃないよ。それでも、これからも黒尾くんのこと信じてるし信じたいから、黒尾くんも疑っちゃうようなことしないでほしい」
 支離滅裂だと分かっていた。いくら感情的にならないようにと努めて話しても、言いたいことは後からあとから溢れて来て、言葉は洪水のように口から零れ落ちてくる。
 私はこんなにも黒尾くんに話したことがあったのだと、改めて自分に驚いた。
 こんなにもいろんなことを話してくて、いろんなことを聞いてほしくて。そしていろんなことを聞かせてほしい。どれだけ時間がかかっても、言葉の数が感情に追いつかなくても。

 私は黒尾くんと、そうやって一緒にいたいのだ。

 やっとすべての言葉を吐き出し終えて黒尾くんを見ると、黒尾くんは何故かテーブルに突っ伏していた。にわかに焦る。まさか私は調子に乗って何か傷つけるようなことを言ってしまっただろうか。
「く、黒尾くん……!?」
 慌てて黒尾くんの名前を呼びかける。けれどすかさず、黒尾くんの腕がテーブルの向こうから伸びて来て、その手で私の口許を制された。
「……気にしないでください、なんか自分の馬鹿さに、ちょっと本気で情けなくなっただけなので」
 その言葉の意味を推し量り、私は黙った。黒尾くんも黒尾くんなりに思うことがあったのだろうか。そう思い、黒尾くんが復活するのを黙って見守る。
 冷めたコーヒーはただただ苦いだけで、全然美味しくなかった。それでもなんとか飲み下していると、やっと顔をあげた黒尾くんが大きく溜息をつく。そして言った。
「なんかさ……、名前は女子大だし、名前のバイト先の人とかも結構把握してて、だから俺はいつでも安心していられたけど名前はそうじゃねえんだよなって今更気付いたし、反省した」
「……うん」
「実際何があるとかないとか、そういうことじゃねえだよな。俺だって、俺が知らないところで名前がほかの男と仲良くしたら普通に嫌だと思うし」
「そんなことしないよ。赤葦くんとか木兎くんくらいしか黒尾くん抜きで話せないもん」
「その赤葦とかも、すでにちょっと嫌だったからね」
「えっ」
「いや、今回は仕方ないっつーか俺が元はと言えば悪かった話だから仕方ないんだけど。つーかあいつらにはむしろ世話になったところある、よな?」
「そうだね、お礼しないと」
「ん、それは俺も考える。なので、とりあえずゴメンナサイ」
 黒尾くんがまた頭を下げる。それは今日の一番最初の謝罪とは全然違った。素直な気持ちでそれを受け入れる。
 きちんと私の気になっていることやもやもやすることを受け止めた上で、黒尾くんは謝ろうと思ってくれたのだ。そう思うと心が幾らか軽くなるような気がした。
「あのね、旅行、行ってもいいよ。友達だもんね。でもちゃんと女の子がいる時は教えてね。あと、もしよかったら黒尾くんの友達とも会わせてほしい、と思うんだけど」
 これは少し図々しいお願いだっただろうか。少しだけ不安になるけれど、黒尾くんは気にした風もなく、うんうん、と頷いてくれた。
「会って。それで名前が安心できるならそれに越したことないから」

 その日はそれから一緒に甘いものを食べて、うちまで送ってもらって別れた。黒尾くんがいつもよりくっついてくるのでどうかしたのかと聞いたら「一日名前が連絡返してくれなくて本気で死ぬかと思った」と言われる。
 それを聞き、
「私だってそうだよ」と答えると、黒尾くんはぎゅっと私を抱きしめた。
「名前が俺の彼女でよかった」

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