58

 翌日、夕方にバイトを終えて携帯を確認すると、黒尾くんから ”帰ってきた” ”いつ会える?” と連絡が来ていた。
 結局、昨日は黒尾くんからの連絡があってもすべて無視してしまったし、今朝バイトの前にあった連絡にも返信はしていない。さすがに黒尾くんも私が避けていることを察しているだろう。だからこそ、いつ会える、という急いだ文面になっているのだと思う。
 バイト先に黒尾くんが来ることも考えて、今日だけは本来のシフトより早く上がらせてもらっている。まさか黒尾くんがそこまですることはないと思うが、いきなり顔を合わせて気まずくなるのは嫌だった。幸い今日はお客さんも少なかったので、オーナーは快くバイトを上がらせてくれた。
「黒尾くんと喧嘩でもしたの?」
 早上がりを願い出た私に、オーナーは呆れ笑いで言った。
「な、なんで分かったんですか……」
「分かるよ、だって名前ちゃん真面目で、普段そういうこと絶対言わないじゃない。それにその死にそうな──いや、切羽詰まった顔見たら、親戚の不幸か黒尾くんくらいしか原因思いつかないって」
「私、そんなにひどい顔してます……?」
「すごく。接客に出すのがちょっと不安になるくらいに」
 仕事はちゃんとしてくれたからいいけどね、と言ってオーナーは私の肩を叩いた。その優しさに感謝しつつ、私は今帰路についている。

 とはいえ厳密にいえば、私と黒尾くんは喧嘩をしているというわけでもなかった。黒尾くんは私に対して怒っていないのだろうし、こうして話し合いの場を求めている。私だって、とにかく怒っているというわけではない。
 確かに昨日の夜の時点では腹が立っていたし、少なからず黒尾くんに対していらいらしたりもしていた。だがこうして一晩経ってみると、怒っているというよりは落ち込んでいるといった方が、今の私の気持ちに沿っているような気がする。
 落ち込んでいる、あるいは傷ついている。
 女子がいることを教えてくれなかった黒尾くんに、少なからず裏切られたような気持ちになっている。
 昨晩の友人からの合コンの誘いは、その場ですぐに断った。一瞬だけ心が揺れたのはたしかだが、彼氏がいる身で出会いの場に参加するのは反則だと思ったからだ。本当に彼女が欲しくて参加する人にも悪い。何より黒尾くんという恋人がいるのに、それを隠して参加するということが、黒尾くんへの裏切りになるような気がして途轍もなく嫌だった。
 いくら黒尾くんが私に内緒で女子と一緒に旅行したからといって、自分が同じように黒尾くんに対して不誠実な対応をしてもいいという理由にはならない。そう思った。友人も私の答えはある程度予想していたようで、あっさり引いてくれた。
「やっぱり名前ちゃんは一途だねえ」
 と、そんな気の重くなるような一言を、そうとは知らないまま残して。

 今、黒尾くんと顔を合わせたくないのはたしかだった。どんな顔をして、黒尾くんに会えばいいのか分からない。黒尾くんに纏まりのない、ひどい言葉を投げつけるようなこともしたくない。だが、このままでいいとも思えない。黒尾くんのことを信用しきれていない自分が嫌で、堂々巡りを繰り返している。
 溜息をつきながら家に向かう。しかしこのまま帰っても気分が沈んだままだろうことは明白だった。黒尾君からのメッセージに、答えられないと分かっていながらもメッセージがないと不安になる。携帯と向き合って溜息を吐き続けるのは嫌だった。
 今の私に必要なのは、おそらく黒尾くんのことを考えずに済む環境だ。そう考え、私は気が乗らないまま、買い物に出かけることにした。

 電車をおりると、特に当てもなくあたりを歩き回ってみることにした。だがいざ買い物に出てみても、驚くほど、さっぱり物欲がわいてこない。
 なんだか頭も心も黒尾くんのことで重く沈められているようだった。黒尾くんのことを考えないようにと出掛けているはずなのに、結局黒尾くんのことを思い出して気分転換に身が入らないのだからひどい話だ。
 と、その時。
 ふいに後ろから「名前ちゃん?」と声を掛けられた。重い頭で緩慢に振り返る。そして、思わず目を見開いた。
 振り返った先には木兎くんと──誰か知らない黒髪の男の子が立っていた。

 ★

 よく分からないのだが、今私は木兎くんと黒髪の少年──赤葦くんと一緒に、ちょっとおしゃれなカフェにいる。目の前には大きなパフェが鎮座していて、それはぼんやりしていた私の代わりに赤葦くんが注文してくれたものだった。
 私があまりにもふらふらしていて顔色が悪いというので、こうしてカフェまで連れてこられたわけだが、そもそも何故、それほど親しいわけでもない男子とパフェを囲むことになっているのか。正直、そっとしておいてほしい。
 ひとまず、何が何だかよく分からないままパフェを勧められ、勧められるがままに食べている。物欲と同様、食欲もとんとわいてこない。目の前の美味しそうなパフェも、まったく食べきれる気がしなかった。
「意外ですね、黒尾さんの彼女ってもっとギャルかと思ってました」
 赤葦くんが、ぼんやりしながらパフェと戦う私に、ぼそりとコメントする。木兎くんと違ってあまり積極的に話すタイプの人ではなさそうだが、だからといって無口で怖い人というわけでもないらしい。
 しかし赤葦くんから発された一言は今の私にはあまりにも重く、またずうんと心が沈んでしまった。
 たしかに私も最初、黒尾くんに対して同じことを思ったけれども。それをわざわざ、私に言わなくてもよくないだろうか。まして、黒尾くんの携帯からかかってきた電話から、いわゆるギャルっぽいテンションの女子たちの声が聞こえてきたその翌日に。
 いよいよ本気で落ち込む私に追い打ちをかけるように、
「俺も最初同じこと思った!」
 木兎くんが元気よく言った。昨日一度どん底まで落ちたはずの私のメンタルは、今ここに至ってさらなる最低を更新していた。
 どうせ私は黒尾くんには相応しくない人間だ。そりゃ一緒にスノボに行くこともない根暗女だ。
 そんなことは分かっている。だから黒尾くんだって電話越しに声が聞こえたような、ああいう元気でコミュニケーション能力が高そうな女の子と一緒にいた方が、きっと楽しいのだろうということも。
 自分でも面倒くさい思考回路に迷い込んでいることは自覚しているし、こうもあからさまに目の前でしょんぼりされては木兎くんたちも困るだろう。分かってはいるが、木兎くんや赤葦くんに気を遣っているだけの気力もない。大きく溜息をつきそうになったとき、木兎くんがまた口を開いた。
「けど、実際黒尾の方がベタ惚れなんだよなあ」
 感慨深げに言う木兎くんに、思わず素早く訂正する。
「そんなことないです、私の方が重いくらいで。重いくらいというか、重くて」
「それ自分でいうんですね、重いって」
「やっぱ黒尾の彼女だけあってちょっと変だよな」
「……別に変ではないです」
「って言ってますけど、木兎さん」
「黒尾の彼女って時点でなー」
 自分が変だという自覚はない。だが初対面の赤葦くんはともかく、何回か顔を合わせている木兎くんからのこの評価ならば、そう思われているのだと甘んじて受け入れるしかなかった。というより、いっそ尖っているキャラの方が黒尾くんの恋人っぽいのかもしれない。
「いや、でも変わっているといえば私よりも木兎くんの方が……。木兎くんだいぶキャラ濃いし……」
 と、話をしながらふと気付く。そういえば木兎くんは先日のスノボにも黒尾くんと一緒に行っていたはずだ。黒尾くんと直接話す勇気はまだないが、気になることがあるのなら、今ここにいる木兎くんに聞けばいいではないか。
 突如思い付いた妙案に、一気に頭の中の靄が晴れたような気がした。それと同時に、否応なく胸が騒ぎだす。
 木兎くんが、嘘やごまかしと無縁そうな人だということは分かっている。もしも私の質問に悲しくなるような返事をされても、それを私はひとつの事実として受け容れねばならないということだ。
 ごくりと唾を飲み込む。私は腹をくくった。
「あの、ひとつ聞きたいんだけど、……木兎くんも昨日のスノボ一緒に行ったんだよね?」
「おー! つーかさっき帰ってきたとこ!」
 私の質問に、木兎くんが元気よく返事をする。私の心のもやもやの原因がそのスノボにあるとは、まったく露ほども思っていなさそうな雰囲気だ。こちらとしては、その方が質問しやすくて助かる。
「こんなこと木兎くんに聞くの変かもしれないんだけど、その──男女の友情ってあると思う?」
「えっ、何の話!? 哲学!?」
「哲学ではないです」
 冷静に訂正を入れる赤葦くんを見ながら、私は逡巡のすえ口火を切った。
「あ、あの、実は──」

 そんな事情により、一人では煮詰まっていた事情を、ひとまず目の前の木兎くんと赤葦くんに説明することとなった。木兎くんは当事者のひとりとして現場にいたので、ある程度事情も分かるだろうが、赤葦くんにはさっぱり話が読めないだろう。かいつまんで事情を話す。
 とはいえ昨日の今日なので、私の説明もかなり取っ散らかったものだった。それでも赤葦くんは話を汲み取る能力に長けており、私の纏まりのない話からも大体の事情と流れを理解してくれたようだった。
 一応私からの一方的な意見にならないよう注意して話してみるが、どうしても私の心情に寄ってしまうところがあるのは仕方ない。どのみちここには木兎くんという当事者がいるのだから、多少の偏りはあっても訂正してくれるはずだ。

「──と、いうわけなんだけど。正直、どこからどう黒尾くんと話したらいいのか、私にはもうさっぱり分からなくて……」
 すべて話し終え、私はふたりの表情を確認する。うーん、と悩んだような渋い顔の木兎くんと、表情の変わらない、読めない赤葦くんが私の前にふたり、困ったように並んでいる。
「あ、あの、えっと……」
「とりあえず最初の質問だけど、俺は男女の友情『ある』派! 友達になるのに男とか女とか関係ないな! 赤葦は?」
「俺は『なし』派ですね。選手とマネとか、そういうのは関係として成り立つと思いますけど、普通の友情ってなると。男女である以上、ある程度限界があるのでは? こっちの考えと向こうの考えが同じとも限りませんし」
 悩ましげな表情をしていたわりに、ふたりは意外にも、端的に回答を示してくれた。
 つまり木兎くんは男女の友情がある派、赤葦くんはない派で、ふたりの意見は真っ向から食い違っているということだ。スノボに行った木兎くんとしては、ここで男女の友情なんてないと言ってしまうのは、黒尾くんへの裏切り行為になる。だからそれは仕方がないだろうと思う。だが一見ドライな顔をしている赤葦くんという男の子が、男女の友情はない派と断言するのは意外だった。
 木兎くんは顎に手を添え、また渋い顔をしている。なまじ目が大きいので、そういうくしゃっとした顔をすると途端におじいちゃんみたいな顔になってしまう。
「そんなに悩むこともないけどなー。つーかあのメンバーで恋愛とかないから! まじで! その辺全然心配いらねえし、だから黒尾もわざわざ教えなかったんじゃねえ!?」
 木兎くんの言葉に嘘はなさそうだ。実際のところ、私も色々と考えるなかで似たようなことを考えたりもしていた。
 黒尾くんが私に何も言わなかったのは、本当に何もないと思っていたから。後ろ暗い気持ちから隠し事をするのなら、黒尾くんならもっとうまくやるはずだ。私なんかに気付かれるようなへまを黒尾くんはしない。
 それでも『あのメンバーで恋愛はない』なんて、たとえ黒尾くんたちがそう思っていたところで、言ってくれなければ私に分かるはずがない。仲間内だけで通じる不文律を私にまで適用されたって、そんなのは困るのだ。言ってくれなければ分からない。教えてくれなければ信じることもできない。
 私の悩みにかぶせるようにして、今度は赤葦くんが口を開く。
「それはちょっと、身内ノリが強すぎませんか。『絶対にない』なんてことはこの世にはないと思いますし、酔ってた人もいるならなおさら……。本気で何も無いと思っていたとしても、名前さんという彼女がいる以上黙って行くのはよろしくないと思います。何より、恋人を不安にさせるのは黒尾さんの本意じゃないんじゃないですか?」
 滔々と語る赤葦くんは、私の懸念を分かりやすく言語化してくれていた。そうそう、そういうことを私は言いたかったのだ。言葉がすとんと腑に落ちる。
 それでも木兎くんは納得しない。むうっと口を尖らせる。
「けどよー、だって本気で何もねえんだよ。つーか実際何もなかったし。酒飲んでたのも女子だけで黒尾は飲んでねえしさー。大体、一緒に行ったっつっても宿の部屋は別々だぞ?」
「いや、それで部屋が同じだったらどれだけ釈明しようと完全にアウトですよ……」
「そうですね……。それされたら私も、何もないって言われてもちょっと無理かも……」
 事実の有無とは別のところで、そういう倫理観を持っている彼氏というのは嫌だ。私とは価値観が合わない。
 赤葦くんと揃ってドン引きするが、木兎くんはそこもいまいち理解できないようで、ぐるりと大きく首をかしげて見せた。
 この場に黒尾くんがいない以上、断言することはできないが、黒尾くんは多分、木兎くんと同じような感覚でスノボに行ったのだと思う。同じ当事者同士、ある程度の感情や感覚は共有していると仮定しても無理はなさそうだ。
 対して、赤葦くんは私の心情に近い意見を持っている。これは偶然だが、木兎くんと赤葦くんの話し合いは、図らずも疑似的な私と黒尾くんの対話になっていた。
 赤葦くんは続ける。
「そもそも黒尾さんは名前さんの性格を知っているわけですよね。だったらちょっと、今回のことは黒尾さんにしては配慮が足らない感じがします。こういうこと、黒尾さんってそつがなく根回ししてそうなイメージなので」
 私はがくがくと、首が外れそうなほどに激しく頷いた。私もまったく同じことを思っていた。だからこそ、余計に引っかかるのだ。黒尾くんが完璧に隠していない以上は疚しいことは何もないということで、しかしそれは裏を返せば黒尾くんにとって、この程度のことは隠すほどのことではないということになる。
「黒尾くん、普段からあんまり私には女子の友達の話をしないんだよね。多分、私に男の子の話してほしくないから、自分もっていうのは感じるんだけど、でもそれ以前に私は男の子の友達なんていないし……」
「俺らは!?」
「そういう話じゃないでしょう、木兎さん……」
 木兎くんの脈絡を無視した発言に赤葦くんが溜息をつく。これではどちらが先輩でどちらが後輩なのか分かったものではない。
「木兎くんも赤葦くんも友達だけど、ふたりはそれ以前に黒尾くんの友達だからノーカウントっていうか」
「なるほど!」
「で、ええと、なんだっけ」
 うっかり話の腰を折られてしまい、何を話していたのか分からなくなった私の代わりに、
「つまり、いもしない人間の話をできない名前さんと、本当は女子との絡みもある黒尾さんがそのことを話さないのとでは、同じ『話さない』でもまったく別物だと」
 赤葦くんがそう言葉を継いだ。そのきれいに要約された文言に、私は激しく感動した。
「……赤葦くんって、すごくすごく頭がいいんだね。私のこんなめちゃめちゃな話をそこまで要約できるなんて」
「慣れてますから。名前さんは伝えようという意思があるだけ、聞き手としてはかなりありがたいです」
「そう……そっか……?」
「何の話ー?」
「木兎さんの話です」
 木兎くんと赤葦くんの遣り取りはまだ続いている。それを見ながらも、私はようやく頭の整理がついたように感じていた。
 要するに、こんなものは受け取り方や感じ方が人それぞれであるように、人による、ということにしかならないのだろう。
 赤葦くんの言葉は間違っていないし、木兎くんの言い分も、私には納得できないにしても、考え方としては理解できる。そして仲のいい先輩後輩の彼らの意見が食い違うように、私と黒尾くんの間でも意見が違った──ぶつかった。そういう話なのだと思う。
 本当は、そんなことはとっくに分かっていたのかもしれない。私と黒尾くんは違う。女子大と共学は違う。内気な私と社交的な黒尾くんは違う。当たり前で、当然のことだ。
 そのことを受け入れられなかったのは、きっと私が黒尾くんに自分と同じだけの誠実さを求めたから。こうあるべきと自分に課したルールから、黒尾くんだけがひとり逸脱したからだ。
 そして黒尾くんは多分、私がこういう思考に陥ってることに気付いている。私がこの結論に到達するより先に、彼はもう知っている。そんな気がした。
 現状何一つ解決はしていない。だがそれでも、というか、だからこそ、というか、冷静に第三者の話を聞くことができてよかったと思う。自分の頭の中だけで組み立てた理論や話だったら、きっとうまくまとまらず自信も持てないままだった。そんな言葉を、黒尾くんには話せない。
 今の状態ならば、黒尾くんと会って冷静な気持ちで話すことができる。そんな気がした。
「……お二人とも、ありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げると、未だ言いあっていたふたりが同時に私を見た。
 ここから先は、黒尾くんと一度きちんと話し合ってみるよりほかにない。私と黒尾くんの問題は私たち自身で解決するよりほかにないのだから。

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