05

 そんなこんなで土曜日。デート当日。
 黒尾くんとの待ち合わせは昼過ぎ。だというのに、前日の晩からうきうきそわそわとしていた私は、やたら早くに目を覚ましてしまった。カーテンの隙間から見える窓の外は、冬の朝の薄暗さ。自分の浮かれ具合に、布団の中でぶるぶる震える。
 起きるのも億劫で、布団の中で携帯をさわっているうちに、結局いつも起きるのと同じくらいの時間になった。階下から「早く起きなさいよ」と母の小言が聞こえ、続いて玄関の扉がばたんと閉まる音が聞こえる。しばらく息を詰めていたが、家の中は無人かのように静かだ。
「よし!」
 私は勢いよく布団を跳ね除けると、ようやくベッドから降りた。デートの支度をしなければ。カーテンを開けて見た空は、うんと高く澄み渡っていた。

 少しお茶をするだけでも、私にとっては人生ではじめてのデート。昨日までに何度も服装、髪型、化粧のチェックはした。後は気負わず行くだけだ──朝食を食べながら、何度も自分に言い聞かせる。もっともその「気負わず」というのが、何より一番難しい。
 黒尾くんと出かけることは、一番仲のいい友人にだけこっそり話した。私が黒尾くんと連絡先の交換をした日、黒尾くんはタイプじゃないと失礼な事を言い切った友人だ。
 友人は彼氏持ちなので、もしかすると何かいいアドバイスが聞けるかと思ったが、返ってきた返事は、
「いつのまに黒尾くんとそんなにいい感じになってたの? 何か進展があったらまた報告よろしく」
 という言葉だけだった。全然、まったく、アドバイスなどなかった。大切な受験を目前に、友人とはいえ他人の浮かれた恋愛事情になどかかずらっていられないのかもしれない。その気持ちはよく分かるので、私もそれ以上泣きつくのはやめにした。
 果たして今日が終わった時、友人に報告できるような話があるのだろうか。何もなければそれはそれで、ある意味報告事案かもしれない。
 デートの相手は黒尾くん。
 何を考えてるか分からないのが、少し怖い。

 朝食をとっている間もその後も、終始心はそわついていた。仕方がないので朝食の食器を片付けると、少し早いが出かける支度を始める。
 普段はしない化粧をし、使い慣れないアイロンで髪を巻く。今日の行き先がおしゃれな店だからそうするのであって、別に黒尾くんのためにめかしこんでいるわけではない。自分にそう言い聞かせてみるものの、それが本心ではないことは自分が一番よく知っている。
 それでも、少しでも黒尾くんが可愛いと思ってくれたら嬉しい。好きでもない女子がめかしこんだところで、黒尾くんはきっと何とも思わないとは思うのだが。それでも、それでもだ。
 一通りの身支度を終え、私は洗面所の鏡を覗き込む。化粧や髪型も相まって、今日の私はいつもよりも少しだけ大人っぽく見えるような気がした。きっと大学生になったらこんな感じで大学に通うことになるのだろうが、毎日これをやるのは結構大変だ。慣れればそうでもないのだろうか。
 ともあれ目下の問題は、今目の前に迫っている黒尾くんとのデートだ。
 スカートの裾の皺を叩いて伸ばし、私は気合いを入れなおした。

 ★

 待ち合わせ場所に指定されたのは、うちから最寄りの駅だった。黒尾くんの家からは一駅分。歩いてこられる距離ではあるが、黒尾くんは定期券の圏内なので電車で来るそうだ。
 目的のお店はうちの近所なので、一度駅まで出てから目的地に向かうと、私にとっては若干遠回りになる。けれど心の準備をするためには、その距離はむしろありがたい。ひとりで歩いているうちに、そわついた気持ちが落ち着いてくることを期待して、私は駅への道を歩く。
 暫く家に引きこもっていたので、玄関から一歩出て、空気のあまりの冷たさに驚いた。吐く息が真っ白だ。朝は青空が見えていたが、いつのまにか今にも雪が降り出しそうな空模様になっている。
 ぶるりと大きく身体を震わせながら、マフラーに鼻まですっぽりうずめた。手はコートのポケットへ。耳に挿し込んだイヤホンからは、流行りの可愛らしいラブソングが流れている。そのラブソングの歌詞を頭の中でなぞりながら、心がさらにそわそわしてくるのを感じる。
 私、今からデートなんだ。
 急に実感がこみあげて、冷えていた顔が内側からぼっと熱くなる。
 風が吹きつけるたび、巻いた髪が首筋をくすぐる。何回も鏡で確認したけれど、本当に変じゃないだろうか。巻いた髪がくしゃくしゃになっていないか、リップははみ出してないか。ただ歩いているだけなのに、次から次へと心配事を思い付く。早く駅に着いてトイレで最終チェックをしよう。無意識に速くなる歩調に合わせて胸が高鳴った。駅に着いてもいないのに、すでにこんなにもどきどきしている。

 待ち合わせ場所についたのは、約束の時間の十分前だった。改札前で待ち合わせと言われたので、到着してすぐ改札前をぐるりと見回す。黒尾くんらしき人影は、まだない。
 平日なので普段よりも人の通りが少ない。これなら待ち合わせで迷子になることも無さそうだった。待ち合わせ場所周辺に黒尾くんがいないのを確認してから、近くのトイレにいそいそと駆け込む。すぐに鏡で顔と髪形を確認した。
 なんとなくスカートの皺を伸ばしたのち、再び待ち合わせの改札に戻ると、ちょうど改札の向こうから黒尾くんが出てきたところだった。
「よう。早えな」
 厚手のダッフルコートと細みのパンツ。高校で会うのよりもだいぶ大人っぽく見える黒尾くんが、軽く手をあげながら近づいてくる。その様子に、若干落ち着きを見せていた心臓が、再びどきどきと鼓動を速くし始める。
 いざ黒尾くんを前にすると、自分がとんでもない問題を失念していたことに、私ははじめて気が付いた。
 デートと言われた日から今日まで、私は自分がどんな恰好をするかばかりを考えていた。デート初心者の私には、それだけでいっぱいいっぱいだったのだ。けれどデートとなれば当然、黒尾くんも私服でやってくる。私が普段見慣れた制服やジャージ姿ではない、おでかけ仕様の装いで。
「あ、あわわ……」
 情けない声が喉から洩れ、慌てて私は口許を手で覆った。
 普段とのギャップのせいか、今日の黒尾くんはすごくすごくかっこよく見えた。黒尾くんはもともとかっこいいのだから、私服だとさらにかっこよくなるのは当たり前──当たり前ではあるのだが、そのことを一切考慮していなかったせいで、やたらとどきどきしてしまう。心の準備ができていない。
「え、何? バグ?」
「ち、違う……いや、バグとかではなく健康そのものなんだけど……平熱だったし……」
「体調の心配はしてねえけども」
 普段と違う黒尾くんを直視できず、黒尾くんの膝から下ばかりに視線をやってしまう。ごついスニーカーはびっくりするくらいサイズが大きい。一体足のサイズいくつなのだろうと、関係ないことを考えてしまう。
「えーと……その、ひ、久しぶりだね」
 何とかそう、絞り出すように発した。黒尾くんは「ああ、そういえば」と何とも気の抜けた返事をする。
「ここんとこずっとメッセで話してたし、久しぶり感あんまねえけど。たしかに顔合わせるのは久しぶりっちゃ久しぶりか。名字さん全然学校来なくなったな」
「だって私は黒尾くんみたいに部活に顔出したりしないから。わざわざ学校に行く用事がないんだよね」
「僕はまじめなので学校に行ってるだけです」
「そうですか」
「反応が塩すぎない? 名字さん時々ひどいよな」
 どうでもいい会話で照れをごまかそうと試みるものの、依然として顔の熱さが引くことはない。こんな顔では黒尾くんの顔をまっすぐ見ることもままならない。
 黒尾くんにバレないように、しずかに二回、深呼吸をした。デートはまだ始まってもいないのだ。今はまだ、顔を合わせただけ。こんなところで動揺している場合ではない。必死で自分に言い聞かせる。
 そうだ、いくら普段と違うとはいえ、相手は黒尾くん。二年間同じクラスだった、学校生活で毎日のように見慣れた黒尾くんだ。違うのは服装だけ。あのつんつくした髪型はいつも通りなんだから、首から上はいつもの黒尾くんなのだ。大丈夫、今日もすぐに見慣れるはずだ。
 意を決して顔をあげる。視線が合ってしまったらどうしようかと思ったが、幸い黒尾くんは腕の時計を確認していた。ああ、やっぱりかっこいい。そう思いつつ、今度は我を失うほどの動揺はせずに済んだ。そのことに、少しだけほっとする。
「そんじゃま、そろそろ行くか」
 挨拶も済んだところで、黒尾くんが言った。冬の空気が頬の熱を冷ますのを待ちながら、私は黒尾くんと肩を並べて歩き出した。

 駅から一歩出ると、とたんに冷たい北風が私たちを襲った。目的のカフェまでは少し歩く。歩いているうちに身体もあたたまってくるだろうと、今日はそれほど防寒していない。
 はあ、と手に息を吐きかけて温めていると、こちらを見下ろす黒尾くんと目があった。
「名字さん、今日はカイロ持ってきてねえの?」
 そう言って、黒尾くんは何も持っていない両手で揉み手して見せる。どうやら学校で私がカイロをもんでいる姿が、黒尾くんの中ではすっかり定着しているらしい。
「うん、歩いてるうちにあったかくなるから、大丈夫かなと思って」
「そんな名字さんに、これを進呈」
 そう言って黒尾くんは、自分のコートのポケットに入っていたカイロを、私に向けて差し出した。受け取ったそれはあたたかく、指先からじんわりと熱が伝わってくる。
「だけどこれ、私が受け取っちゃうと黒尾くんが寒くなっちゃわない?」
 彼の顔を見上げると、黒尾くんはまるで何でもないような顔をして、
「いいよ、俺もう一つ持ってるし」
 と返してくる。その言葉の意味を考えながら、私はカイロと黒尾くんの顔を交互に見つめた。
 もう一つ持っている、ということは、これは最初から私にくれるために、黒尾くんがわざわざ家から持ってきてくれた、ということだろうか。そのことに思い至るのと同時に、猛烈に胸がぎゅっとなる。胃のあたりがちくちくして、思わず胸をおさえたくなる。せっかく引きかけていた顔の熱が、たちまち顔にたまってくる。
 全身に広がる甘い熱と、言いようのない恥ずかしさ。それから胸にあふれる形容しがたい何か。ぐるぐると体中を巡る、ときめきみたいなふわふわしたもの。
「ぐ、ぐう……」
「どうした? そんなにカイロ嬉しかった?」
「いや、あの……そうです。カイロありがとう」
「そんな感謝されるなら、俺もう毎日名字さんの分のカイロ持って学校行くけど」
「私は学校にいないんだけどね。自由登校だから」
「それはもう、俺がただのカイロふたつ持ってきてる人になるだけだな」
 何の気負いも感じさせない黒尾くんの余裕の言葉が悔しい。けれどそれ以上のときめきが、ときめき以外の感情すべてを押し流してしまうのだった。まだ好きじゃない、まだ好きじゃない。必死で自分に言い聞かせるのに、暗示の言葉はうつろに消える。店に着く前からこの有様では、先がまったく思いやられる。
「ナビ見ねえと場所分かんねえんだよな」
 私がひっそり息も絶え絶えになっている横で、黒尾くんはすでに切り替えてしまっている。私は慌てて、「あ、私分かるから大丈夫だよ」と声をかけた。このまま黙っているよりも、いっそ話をしていた方がときめきから目がそれる。
「さすが、頼りになる」
 にやりと黒尾くんが笑ったが、視線を合わせることはできない。
 初っ端からこんな調子で、私は今日一日を乗り切れるのだろうか。

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