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 一月の終わり、試験も終わり、そろそろ春休みが見えてきたころ。私と黒尾くんは例のごとく、就寝前の電話タイムにいそしんでいた。
 冬休みはイベントが盛りだくさんでそれなりに顔も合わせていたが、大学が始まってしまえばそういうわけにもいかない。むしろ冬休みに十分一緒にいたのだから、次はお互い自分の生活を頑張る時期というような認識だ。試験だったり部活だったり、頑張る内容はお互いに異なるものの、お互い打ち込むことがあるのはいいことだ。
 そんな中での電話は、どうしても近況報告が中心になる。ベッドで横になってだらだらしながら、眠る前のBGMを聞くような気持ちで私は黒尾くんの声を聞いていた。
 話が一段落したところで、「そういえば」と、思い出したように黒尾くんが言う。
「今度大学のやつらとスノボ行ってくることになった」
「スノボ?」
「そう、スノボ」
「スノボかあ。いいね」
 意味もなく繰り返しながら、私は眠気で朧気になってきた意識の中で考える。
 元々黒尾くんは運動神経のすぐれた人だし、私の周りでもスノボが好きで週末ごとに夜行バスに乗っているような子もいる。だからスノボに行くと言われたところで、そこまで驚くこともない。
 ただ「いいね」とは言いつつも、自分も行きたいと思うわけではない。大学生らしいイベントだな、楽しそうだな、とは思うが、何事にも向き不向きはある。私は基本的に運動全般をあまり得意としておらず、それを知っているためか、友人たちも私をわざわざゲレンデに連れ出すようなことはない。
 ともあれ、それはあくまで私の話だ。私よりも交友関係が広くコミュニケーション能力も高い、その上運動能力も高い黒尾くんならば誘われる機会はいくらでもあるのだろう。私だって、もしも自分がそういうことを楽しめるだけの運動能力とメンタルを持っていれば、迷わず黒尾くんを誘う。だって黒尾くんと一緒に行くゲレンデなんて、どう考えても楽しそうなのだから。
「そうなんだ、大学の人たちって学部の?」
「そうそう、いつものやつら」
 いつものと言われ、黒尾くんの交友関係をおさらいした。私が知っている黒尾くんの友人は、音駒のバレー部か木兎くん、それから木兎くんと同じく大学のバレー部の中でもとりわけ仲のいい何人かくらいのものだ。話によく聞く名前はいくつかあるが、黒尾くんが言う『いつもの』とはその人たちのことなのだろうか。
 そもそも、私が黒尾くんについて知っていることは案外少ない。大学が違うので仕方がないことではあるのだが、部活や大学のことについてはあまり干渉しないと決めている手前、私の方からあまりつっこんだ話を聞かないようにしている。
 部活が同じ木兎くんとは学部も同じらしく、なんだかんだと一緒に行動しているのは知っている。大体遊びに行くメンバーは、木兎くんとプラス何人かというのが固定になっているようだ。私も木兎くんや部活の人とは、何度か顔を合わせたことがある。
 黒尾くんは自分の友達に、あまり私を紹介したがらない。それでも、お互いに自分と親しい友人に面通しさせておいた方が、後々の安心に繋がるという腹積もりもあるようで、たまに食事に私も誘ってくれたりする。仲良しグループには稀に女子も混ざっているそうだが、その辺りは男女共学の大学に通っている以上仕方がないというか、自然なことなのだろう。女子大に通う私はそう思って納得しておくしかない。
「一泊で行ってくるから。また連絡するけど」
「泊まり?」
「その予定。全員試験通ったら、だけど」
 黒尾くんたちにもまだ試験は残っているし、万一試験に落ちれば追試やレポートの提出が必要になる。予定通り旅行にもいけなくなるだろう。一応、今の時点では予定に過ぎないということか。
 結局その日の電話はそこで終わりになった。携帯を枕元に置き布団に入って、黒尾くんのことを考えながら眠りについた。

 ★

 黒尾くんもその友人たちも──もちろん私も──期末試験を無事乗り越え、晴れて春休みを迎えることができた。
 今朝早くから黒尾くんはスノボに出かけて行ったようで、朝起きたら ”今から行ってくる” と連絡が来ていた。私は春休み初日、特に用もないのでのんびりひとりで買い物にでも出掛けようかというところだ。
 部活の遠征や友達と出かけたときでも、黒尾くんは極力まめに連絡をくれる。せっかく友達といるのだから、そこまでまめでなくてもいいとは思いつつ、気にかけてくれていることは単純に嬉しい。

 窓の外は雪こそ降っていないものの、東京でも白く曇ってひどく寒そうに見える。家の外があまりに寒そうなので、出かけるのは断念することにした。暇つぶしにパソコンを開いたついでにSNSを見ると、高校時代の友人がちょうどスノボの写真をアップしている。
 そこに映し出された男女混合グループで仲良く遊んでいる姿に、むしょうにもやもやとしたものを感じて顔を顰めた。
 今更ではあるが、私には男子の友達というものがいない。知り合い程度まで含めればまったくいないこともないのだろうが、定期的に連絡をとったり遊びに行ったりする相手という条件で絞ればまったく心当たりがない。
 女子大に通っていて周囲に男子がいないということもあるし、黒尾くんがいるからというのもある。別に男子の友達がほしいと思ったこともない。
 ただ、時々こうして周りを見て、ふと不安になる。私には黒尾くんしかいなくて、それだけでいいと思っているが、世間の人たちはそうではないのかもしれない。黒尾くんも、そうではないのかもしれない。
 私がこれでいいと思っているものは、人からみたら全然『足りない』ものなのかもしれない。現に学部の友人たちからは『一途』だという一見褒め言葉のような揶揄を受けたりもした。
 考えても仕方がないこと──それもどんどんネガティブな方に思考が進み、私は溜息をついた。黒尾くんとの関係は良好だし、今のところ私たちの交際にこれといった問題も障害もない。何も問題がないところに無理矢理火をつけるようなことをして、私は一体何がしたいのだろう。
「やめやめ! 余計なことは考えない!」
 ことさら大きな声を出して、湿っぽい感情を心の中から追い出した。
 問題はない。何も、問題はない。

 昼過ぎごろ、相変わらずだらだらしながらパソコンをいじっていると、かたわらに置いていた携帯が音を鳴らした。黒尾くんからのメッセ―ジに、ついつい顔がゆるむ。
 アプリを開くと、”超ゲレンデ!” という文面とともに、ウェアを着た黒尾くんが写った真っ白いゲレンデの写真が画面にあらわれた。
 だぼだぼしたウェアでピースサインをしている黒尾くんは彼女の贔屓目なしに見ても果てしなく格好よく見える。撮ってくれたのは友人なのだろうか。にこにこと画像を見ていた私だったが、ふと拡大した写真に目を奪われ、顔が引きつった。
 黒尾くんの隣には同じくウェアを着て両手を挙げている木兎くん、そして──
「……女子がいる」
 黒尾くんたちの後ろには、同じく大学生くらいの年頃に見える女の子たちが、同じようにウェアを着て写っていた。知らない子ばかりだが、そもそも私は黒尾くんの周りにいる女子の顔など数えるほどしか知らない。
 しばらく写真を凝視して、それから悩んだ末、 ”楽しんできてね” とだけ連絡する。折角楽しんでいるところに余計なことを言って水を差すのはよくないし、これくらいならばまだ、何かを疑うほどのことでもない。
 しかし気になるものは気になる。黒尾くんに返信を送った後も、私はしばし、送られてきた写真を見つめていた。
 あの後ろに写っていた女の子たちは、黒尾くんの知り合いなのだろうか。もしかして、一緒にスノボにいったメンバーだったりするのだろうか。もしそうだったとしたら、黒尾くんは私にわざと女子の存在を隠したのだろうか。
 『いつものメンバー』というのに女子がいたとは思わなかった。詳しく聞かなかった私が悪いのかもしれないが、そんなことを聞くのもおかしいと思っていたのだ。だって、黒尾くんはそういうタイプ──女子と一緒に一泊のレジャーに出掛けるようなタイプではないと思っていたから。
 意図的に隠したのだとしたら、そこにはどういう意図があってそんなことをしたのか。私のことを心配させないように?

 それとも──それとも、私には後ろめたいことがあるから?

 黒尾くんを疑うようなことを考えかけて、慌ててその考えを打ち消す。
 さっき一緒に写っていた女子たちだって、まだ一緒にスノボに行った人だと決まったわけではない。もしかしたらたまたまスキー場で出会っただけの人たちなのかもしれないし、そもそも全然関係ないグループが写真をとっていて、たまたまそこに写り込んだだけという可能性だってあるだろう。
 もしそうでなかったとしても、同じような年ごろのグループであればその場で仲良くなって話すこともあるかもしれない。深い意味がないからこそ、黒尾くんだって彼女たちが写り込んだ写真を私に送ってきたのかもしれない。
 そんな風に無理矢理自分を納得させて、携帯を置いた。どのみち帰ってきた黒尾くんにさりげなく聞いてみればすべて済む話だ。今ここで私がどれだけ頭をひねったところで何かが変わるわけではないのだし、まして答えが出るわけではないのだから。

 その晩、夕飯を食べ終えた私は自分の部屋で机に向かっていた。先ごろから、二年生になる前に何かひとつ資格をとろうと思って、その勉強を始めていたのだ。
 黒尾くんには部活があるが、私には黒尾くんのように打ち込めるものは特にない。サークルに参加しているわけでもない。大学に行って、バイトに行って、黒尾くんに会う。私の日常は、大体この繰り返しだ。
 勉強はそれなりにやっているが、まだほかにも手を出す余力はある。せっかくなので何かやれることはないかと考えた末の結論が、資格取得だった。
 とはいえ、もちろん就職に役立ちそうなものを選んではいる。黒尾くんのことは気にかかるけれど、そんなことばかりを気にしてもいられない。自分のことに目を向けなければ。
 無理矢理に雑念を振り払ってしばらく机に向かう。するとすぐ、タイマー代わりに机の上に置いていた携帯が鳴った。今回は通話の着信音だ。急いで確認すると、電話の主やはり黒尾くんだった。慌てて私は電話を受ける。二十時半、少し早いけれど宿の部屋に戻ったところだろうか。
「も、もしもし?」
 応答してみるも、しかし電話の向こうからは声がない。何かざわざわしているということだけは音で伝わってくるのだが、肝心の黒尾くんの声は一切聞こえなかった。
 もしかして間違って通話ボタンを押してしまっただけなのだろうか。これまでも時々誤操作で電話を掛けてしまうということはあった。黒尾くんのことを気にしているこのタイミングで誤操作だとすれば、何とまあ間が悪いことかとも思う。だが黒尾くんの意思というわけではないので仕方がないことだ。
 一応切る前に「黒尾くん?」と呼びかけてみる。すると、突然電話の向こうで笑い声が聞こえた。黒尾くんとは違う高い笑い声──女の子だ。
「黒尾くん! 黒尾くんだって! 可愛いー!」
「黒尾の彼女可愛いー! 黒尾のくせに!」
 けらけらと楽しそうに笑う声は、聞いたことのないものだった。黒尾──黒尾と、その声の持ち主は言った。黒尾と。名字を呼び捨てにして。
 呆気に取られて無言で携帯を握りしめていると、すぐに慌てたような黒尾くんの声がした。返せ、と焦った黒尾くんの声。それからすぐに、
「悪い、あとでかけ直す!」
 と言ったきり、ぷつりと通話は切れた。
 通話が切れた後の携帯を、ざわつく心で呆然と見つめる。女子の声、笑い声、黒尾という呼び方、そして焦った黒尾くんの声。心の中に黒いもやのようなものがどんどんと立ち込めて来て、たちまち嫌な気分になってくる。
 さっきの電話越しの女の声、あれは昼間ゲレンデで黒尾くんたちと一緒に写真に写っていた女の子たちだろうか。あくまで電話越しなので詳しいことは分からないが、声のトーンやテンションからして、あの女の子たちが酔っていたことだけはたしかだろう。
 黒尾くんは今、酔った女の子たちと同じ宿で夕食を食べている。そのことだけは、多分、事実だ。
 黒尾くん、お酒飲まないのに。
 そう考えて、けれどそれはあくまで『私の前では』という枕詞がついた状態に限ってのことだと気付く。黒尾くんも私も未成年のうちはお酒はやめようと決めているが、それだって黒尾くんが私の知らないところでどうしているかまでは知りようがないことだ。私が知らないところで誰と何をしているのか。黒尾くんが自己申告することしか、私は知らない。
 この心の中にもやもやと立ち込めた気持ちが嫌で、依然呆然としたままで机に向かった。
 カリカリと、シャーペンがルーズリーフをこする音だけが響く。けれどちっとも集中などしていなかった。ほとんど義務のように、ただ勝手に手だけが動き続けている。
 私はなにも、黒尾くんが女子と一緒にいることそのものが嫌なわけではないのだ──ふいに、そう思った。
 もちろん気にならないというわけではないし、あまりいい気分ではないこともたしか。だが黒尾くんの交友関係にまで口を出そうとは思わないし、男女の友情のあるなしを断じることができるほど、私は男の子のことを知らない。一緒にいるからといって必ずしもよくないことが起こるわけではないだろう。
 私が引っかかっているのは、女子が一緒であることを、黒尾くんが教えてくれなかったこと。
 言ったら私が怒ると思ったのかもしれない。だけど、それでも、ちゃんと言ってほしかった。
 怒ると思うならしないでほしかった。
 それに、素面の友達ならばまだしも酔った女子と一緒となれば、そういうリスクが多少は出てくる。いくら黒尾くんにその気がなかったとしてもだ。そういうところを気にしなかったということに腹が立つ。いくら何でも危機管理能力が低いというか、無防備がすぎるんじゃないだろうか?
 それに何より、自分は私が少しでも男の人と話したりすると不機嫌そうにするのに、自分は平気で女子と出かけるのだということ。それはどうしても腑に落ちなかった。私が女子大だから男の子の友達ができにくいという環境にあるのを知っていて、自分だけは良しとするのはやはり不公平に感じてしまう。結局のところ、先に言ってくれればこんなにももやもやしなくたってよかったのに。
 黒尾くんから何度か電話がかかってきたが、その晩それを取ることは結局一度もなかった。今の私は黒尾くんと話すことができる精神状態とは、とてもじゃないが言えない。それに黒尾くんは今友達といるわけで、私がその時間に水を差すのも嫌だった。意地を張っていると言われれば、まあ実際意地を張っているのだろうとは思うけれど。
 何度かの着信の後、暫く携帯は静かだった。やっと黒尾くんが諦めてくれたのかと思うと、ほっとするのと同時に少しだけ寂しくもある。自分勝手な自分にうんざりする。
 と、再び携帯が鳴った。また黒尾くんだろうか。ちらりと確認すると、表示されていた名前は黒尾くんではなく大学の友人のひとりだった。慌てて電話を受ける。てっきり黒尾くんだと思って数コールは無視してしまった。
「もしもし!」
「あ、名前ちゃんー? ごめんね、今忙しかった?」
「全然! 全然忙しくなかった!」
 大学の友達からわざわざ電話がかかってくることは少ない。大抵の用件は文章で済んでしまう。少しだけどきどきしながら友人の次の言葉を待っていると、その言葉は思いがけないものだった。
「いきなりだけど、来週末空いてない? 合コンの人数合わせに来てほしいんだけど!」

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