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 初詣にやって来た神社は、特別大きな神社でもないがずいぶんな人出だった。新年を迎えたばかりとあって、老若男女、みんな白い息を吐きながらにこにこしている。神社自体の規模が小さいので、和やかで穏やかな雰囲気に満ちていた。
「思ったより人いるねえ」
 思ったことをそのまま口にすると、黒尾くんは不思議そうな顔をして私を見る。
「なに、毎年来てる神社じゃねえの?」
「そうだけど、夜に来たことなかった。毎年元日の朝にお母さんと来てたから」
「なるほど。じゃあはぐれないようにちゃんと掴まってろよ」
「はーい」
 言われた通り、私ははぐれないよう黒尾くんの腕にしっかりと腕を絡めて、神社の中を歩いて行った。向拝所まで続いている列は、まだ時間が早いからかそこまで長く伸びていない。
 列に並んでいる間、至るところから流れてくる美味しそうなにおいに、思わず鼻をひくつかせた。家でもそれなりにおやつや蕎麦を食べてきたが、屋台の食べ物となれば別腹だ。
「そういえば、黒尾くんは何をお願いするの?」
 参拝の列に並び、私は訊ねる。鼻の頭を赤くした黒尾くんは、洟をすすりながらにやりと笑った。
「んー、まあ色々」
「色々って、なんか欲張りだね」
「そういう名前は何お願いすんの?」
「口に出したら叶わなくなるだろうから内緒」
「自分は内緒なのかよ」
 呆れたように笑われる。内緒なんて大袈裟に言ってみたものの、実際には黒尾くんの「色々」よりもはるかに些細なお願いごとだった。何せお願いは一つだけだし、お金持ちになりたいだとかモテモテになりたいだとか、そんな身の程知らずなものでもない。
 ちらりと黒尾くんの顔を見上げた。さみいなあ、と呟く黒尾くんの腕と絡めた腕に、ぎゅうっと力を入れる。
 私の些細なお願いは、もしかしたら神様に願うほどのものでもないのかもしれない。だが私にとっては、どんなに大きくて豪勢なお願いごとよりも、ずっと大切なお願いごとなのだ。
「お、順番きた」
 黒尾くんとともに列の最前に立つ。
 ぱんぱんっ、っと手を合わせ、しっかりしっかり、入念にお願いをしておく。
 あけましておめでとうございます、毎年お世話になっています、名字名前と申します。昨年は家内安全と大学生活を楽しめるようお願いしましたが、無事にこうして一年を過ごすことができました。本当にありがとうございました。つきましては、今年はこの隣にいる黒尾鉄朗くんと絶えず幸せに過ごせますよう、なにとぞよろしくお願いいたします。本当に本当に、どうかどうかお願いいたします──
 それからまた一礼して、やっと向拝所を後にした。
 ひとまず新年の挨拶とお願いごとを神様にしたので、これにてミッションは完了だ。ここからはいつも通りのデートになる。
 考えてみれば二度の大学祭に夏祭り、そしてこの初詣と、私と黒尾くんのデートは屋台や出店が出ているデートがやたらと多いような気がする。これも大学生としてしっかり季節の行事を楽しんでいるということだろうか。もちろん単純にお祭りが好きということも大いにあるのだが、付き合い始めて最初の一年なので、季節の行事を大切にしたかったというのもある。
 一年。早いもので、私たちが付き合い始めてもうすぐ一年経つのだ。

 不思議なもので、家でしっかりお蕎麦やお菓子を食べてきたにもかかわらず、こうして出店の美味しそうな匂いを嗅いでいるとお腹が空いてくる。黒尾くんも頻りに鼻をクンクンしているので、きっとお腹が空いているのだろう。その仕草がなんだか可愛くて、うっかり笑ってしまいそうになる。
 こうなるとちょっと何かつまみましょう、なんてレベルではなく、普通にお腹を満たすことが目的になってくる。
「一丁がっつり系いっとく?」
「お、出たよ、名前の中の男子中学生」
 ひとまず牛串とからあげ、さらにはみたらし団子を購入してくる。もらってきた甘酒を片手に、お炊き上げの炎の前で温まることにした。
 寒いので自然と、黒尾くんとぴたりとくっつくようにして立つ。寒くたってこういう楽しみがあるから、黒尾くんと一緒にいるのは幸福だ。
「なんか最近の名前、本当色々照れなくなってきたよな」
 私がにこにこしていると、黒尾くんが面白がるようにして言う。照れなくなってきたというか慣れてきたというか。自分でも、だんだんと外でも距離が近くなってきたとは思う。
 というか黒尾くんには、そもそももっと恥ずかしい姿をいやというほど見られているのだ。今更少し距離が近くなったくらいで、どうということもない気がする。
「黒尾くんが嫌なら離れますけど」
「なんで。離れたらはぐれるぞ」
 そう言って、ふざけて距離をとろうとする私をぐいと引き寄せた黒尾くんに、今度は私が笑う番だった。
 黒尾くんのこういうところ、少しだけ素直じゃないところが私はとてつもなく好きだ。付き合い始めの頃ならこういう一挙一動にも照れてしまったのだろうが、今ではああ、好きだなあ、なんてしみじみ楽しむことができる。
「そりゃあ付き合って一年になるんだし、いつまでも初心な私じゃないんですよね」
 黒尾くんの口調を真似て言う。
「そうか? 俺は名前の初心なところが好きなんだけど」
「えっ、そうなの?」
「あ、でも今の時々エロいところも好き」
「さ、最悪!」
「なんで、初心じゃなくなったならエロいってことだろ」
「全然ちがう!」
 と、甘酒片手にそんな話をしていたら。
「あれ、黒尾ー?」
 と、背後から唐突に大きな声が飛んできた。二人そろって振り返る。そこに立っていたのは高校時代の同級生の男子数名だった。
「あ、やっぱ黒尾だ。それと、あ、名字さん」
 のろのろと近づいてくる男子を見ながら、必死に名前を思い出そうとする。雰囲気は変わったが、三人とも見たことがある人たち。そう、確か高校三年のときに同じクラスだった男子たちだった。
 私は話したことはない、と思うのだが、黒尾くんとはそれなりに仲のいい目立つ男子たちだったと思う。声をかけられ、黒尾くんが「よお」と返事をした。
「あけおめー。つーか久し振り、お前ら実家この辺なの」
「おー、近所。毎年来てる。ていうか黒尾こそこの辺じゃねえじゃん。あ、あれか。名字さんの家から近いからか」
「なんで名前んち知ってんだよ」
「だって俺ら中学一緒だったし。な、名字さん」
 そう言われてもそんな記憶はない。うちの中学は比較的大きいので、同じ中学とは言っても知らない顔もいる。交友関係が狭い人生を送ってきている私なので、男子となれば余計に誰が誰だか分からなかった。多分同じクラスだったとしても覚えていない人の方が多い。
 とはいえ向こうが私を知っていてこちらは知らないというのは感じが悪い。なのでひとまず、曖昧に笑って誤魔化しておいた。直後、私の隣の黒尾くんがにやりと意地の悪い笑顔を浮かべる。黒尾くんには私が彼を覚えていないということがバレただろうけれど仕方がない。私がこういう人間であることは黒尾くんにはとっくにバレている。
 どうやら久しぶりの再会ということで、向こうは本腰入れて黒尾くんと話す気満々のようだった。私たちのことをにやにやしながら見ている。
「ていうかお前らまだ付き合ってたんだなあ、意外」
「そうそう、黒尾なんてそっこう愛想つかされると思ってた」
 そんな風に冷やかす彼らに、黒尾くんはいつもみたいな意地悪な顔でうるせえよ、と笑って流す。こういうときの対応は黒尾くんに任せるのが吉と知っているので、私は口を挟むことなくにこにこして立っておくだけだ。コミュニケーション能力は黒尾くんの方が私よりも格段に高い。
 しばらく黒尾くんと男子たちが高校時代の思い出話や近況報告をしあっているのを、私はそばで黙って眺めていた。私と一緒にいるときの黒尾くん、私の家族の前の黒尾くん、バレー部の人たちと一緒にいるときの黒尾くん。色々な黒尾くんを見てきたが、こうしてほかの友人と話している黒尾くんを見るのは、本当に久しぶりな気がした。それこそ高校を卒業したときの打ち上げ以来だろうか。彼氏としての黒尾くんよりも少し幼く年相応に見える。
 そんな私の思考回路とシンクロしたかのように、男子のうちの一人が「ていうか黒尾変わらねえなー」と笑う。
「寝ぐせも目つき悪いのも変わんねえし」
「名字さんはきれいになったなー」
「な、最初誰か分かんなかった」
「大学どこいったんだっけ? モテるっしょ」
「えっ」
 急に自分の方に飛び火して驚いていたら、黒尾くんがぐい、と私を引き寄せた。そして、
「うちの彼女に変なこと言うのやめろって。つーか今更やらねえよ?」
「うわ、惚気てくる」
「うぜー!」
「うざくて結構ですーぅ、モテないやつに何言われても全然気になんないですーぅ」
「まじでうっぜえ!」
 その後は一通り冷やかされ、顔から火が出そうになるくらい恥ずかしくなりながら──それでも黒尾くんが私に茶々が向かないよう話を誘導してくれた。話が一段落するのを見計らい、ひゅうひゅうと冷やかす彼らから逃げるようにして、私たちはその場を離れた。

 だいぶお焚き上げから離れてから、ようやく私は黒尾くんの名前を呼び立ち止まった。かつての同級生たちは、この混雑に紛れてすっかり見えなくなっている。きっとわざわざ追いかけて来たりもしないだろう。こちらがデートだということくらい、彼らだって分かってくれているはずだ。
「ごめんね、せっかく久し振りに会ったんだしもっと話してたかったよね」
 空気は冷たいのに早足に歩いたせいで顔が火照る。あの場で私が変に揶揄われたり冷やかされたりするのを避けるため、黒尾くんが彼らと離れたのは明白だった。だが冷静になって考えてみれば、いつでも会える私よりも久し振りに会った友人と話をしたかったのかもしれない。
 申し訳ない気持になってごめんね、と呟くと、黒尾くんは「いいって」と笑ってくれた。
「つーか俺もあんまりあいつらに名前のこと見せたくなかったし。逃げる口実できてよかった」
「え、なんで?」
 私が首をかしげると、黒尾くんは何故かちょっとだけむっとした顔をして言う。
「だって名前が大学入ってきれいになったのは間違いないけど、今更そういうこと言い出すやつに見せたくないじゃん。先に名前に目つけてたの俺だし、なんかこう、古参としてはプライドがね?」
 黒尾くんの言い分は私にはまったく理解できない文法だった。しかし恥ずかしいことを言われていることだけは、何となく私でも察知してしまう。そういえば黒尾くんは、これでなかなかの焼きもち焼きだった。さっきの男子たちが私にどうこうという感情を持っているなんてことは万に一つもないだろうが、社交辞令程度のお世辞にもしっかり妬く黒尾くんは可愛い。
「ふふ、もう。黒尾くんは困った彼氏だなあ」
「……台詞と顔が合ってませんよ」
 黒尾くんの茶化す言葉も関係ないくらい、嬉しくてにやにやしてしまって、今年もなんだかいい年になりそうだ。

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