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 二十一時を数分すぎたころ、ついにインターホンが鳴った。
 弾かれるように玄関に走っていき、勢いよく玄関のドアを開ける。玄関の門扉の前には、寒さ対策のためにマフラーをぐるぐる巻きにして鼻の頭を真っ赤にした黒尾くんが、やや背を丸めてぬっと立っていた。吐く息が白い。冷気が部屋の中に入ってこないよう、急いで黒尾くんを玄関の中に招き入れる。
 明るいところで黒尾くんを見て、そして思わず噴き出した。
「ふふ、髪型どうしたの、それ」
 思わず尋ねる。
 黒尾くんのトレードマークとでもいうべきつくつく頭がなりを潜め、今日はしっかりセットされていた。がっちがちにワックスで固められているのが一見してよく分かる。それでもセットしきれなかった毛がぴょんぴょんと跳ねており、奮闘の末の妥協点がここだったのだなということを感じさせる仕上がりになっていた。
 努力は感じる。感じるのだが、やはり面白さの方が勝ってしまう。にやにやした私の額を、黒尾くんが小さくデコピンした。
「やっぱ彼女の家に行くのに寝ぐせ全開はまずくねえか、と」
「いつもの髪型を見慣れちゃってるから、かえって不自然に見えるけど。なんかそういう髪型してると、黒尾くん普通の大学生みたい」
「俺も普通の大学生なんですけど。ていうか何、俺めっちゃディスられてない?」
「いや、いい意味で」
「いい意味とは」
 ついつい顔がにやけてしまうが、ごほんと大きく咳払いをしてごまかした。これ以上髪型をいじるとm黒尾くんが自信を喪失して帰宅してしまうかもしれない。せっかくの面白い状況ではあるけれど、髪型いじりはそこでやめることにした。
 がちがちに固めた髪をしきりに気にする黒尾くんは、デート前に何度も鏡をチェックする私と少し似ている。母には事前に黒尾くんの写真を見せており、今更髪型を気にすることもないのだが、私のために努力してくれたということそのものが嬉しかった。

 黒尾くんをリビングに案内すると、母が嬉しそうな笑顔で出迎えた。
「あらー、いらっしゃい!」
 やはり私と母は似ていない。私は多分、黒尾くんを迎えるときにもこんな満面の笑みを浮かべたことは一度もないはずだ。
 コートを着たまま、黒尾くんがぺこりと頭を下げる。仕草が運動部っぽく、それにもまた笑ってしまいそうになる。
「すみません、年末の団欒にお邪魔してしまって」
「いいのよ、私たちが黒尾くんに来てほしかったんだから」
「これ、お土産です。母から」
「あ、これ美味しいケーキ屋さん! わざわざありがとうね、後で食べましょう」
 黒尾くんの差し出したケーキの箱には、以前ホワイトデーのデートで黒尾くんに連れて行ってもらったケーキ屋のロゴが入っていた。年の瀬にあそこまでわざわざケーキを買いに行ったのかと思うと、こちらの方が恐縮してしまう。
「ていうか今日髪型どうしたの? 写真で見たのと違うじゃない」
 案の定、母がにやにや笑って髪型に言及した。黒尾くんがいささかばつが悪そうな顔をする。
「名前──さんのお宅にお邪魔するので。いつも通りじゃまずいかなと」
「そんなに気遣わなくていいのに。おばさんいつもの髪型の方が好きなんだけど」
「す、すみません……」
「謝んなくってもいいって。ていうか本当、気なんか遣わなくていいからね。名前さんなんて普段呼んでないでしょ? あ、こたつ入って入って。外寒かったでしょう」
 マシンガンかと思うようなペースで一気にまくし立てた母は、黒尾くんにこたつを勧めるとケーキの箱片手にキッチンに向かった。私も母についてキッチンに向かう。
 そわそわしながら、私は母の後をついて回った。けれど意外にも、あそこまで喋っておきながら母は、
「良い子じゃないの」
 と、それだけだった。あれだけ黒尾くんのことを翻弄しておきながら、そんな無難なコメントしか出ないことに少なからず驚く。
「え、それだけ?」
 思わずそう尋ねると、母はうろんな目を私に向ける。
「それだけって、何。悪口言ってほしいの?」
「そういうわけじゃないけど……というか悪口なんてあるの?」
「ないない。思ってたのの五倍くらい良い子そうで拍子抜けってだけ」
 黒尾くんは外面がいいので、今日のように猫を被っていれば大人からのウケも悪くないだろうとは思っていた。自分の彼氏ながら、黒尾くんの器用さには舌を巻くほどだ。
 とりあえずは母のお眼鏡にかなったということだろう。一安心したところで、私は黒尾くんの待つリビングに向かった。

 黒尾くんは言われた通り、大人しくこたつにおさまっていた。私も同じようにこたつに足を突っ込むと、冷えた足を黒尾くんの足にくっつける。黒尾くんが「うわっ」と小さく叫んだ。
「ちょっと、名前さん何お茶目なことしてんの」
「こたつに入ったときにはこういうのがお約束かなと」
「そんなキャラじゃないだろ。ちゃんと温まりなさい」
 言いながらも黒尾くんは、しきりにキッチンの方を気にしている。やはり母の目が気になるらしい。私に接する態度も、いつもよりは何処かよそよそしい。
 そんな態度をとられると、逆にいちゃつきたくなってくる。だが私としても、身内に彼氏といちゃついているところを見られるのは恥ずかしい。いちゃつきたい欲求は、こたつの中で足を絡ませる程度で留めることにした。
「今日は自主練だったんだっけ?」
 こたつの中で足を絡ませ遊びながら、私は尋ねる。
 公式な練習は一昨日で終わったと聞いている。それでも大晦日までは自主練のために体育館が開放されており、黒尾くんはまじめにそれに参加していた。自主練の参加人数はけして多くないそうだが、それでも黒尾くんや、それから木兎くんは参加しているらしいい。
「大変だねえ、大晦日まで自主練なんて」
「まあ、でも家に居ても暇だし。家族にこき使われるよりは、部活やってた方が気楽だろ」
「黒尾くん身長大きいし、掃除にも重宝されそうだしねえ……」
「本当それ。つか部活行ってても家に帰ったらすぐぱしられるぞ。一昨日は研磨の家にも派遣された」
「研磨くんちは研磨くんがいるから男手には困らないでしょ」
「けど高いところは俺のが手が届くし。そもそも研磨、窓が開いてる寒がって布団から出てこねえから全然掃除の役に立たねえんだよ」
 そう言って溜息をつく黒尾くんは、まさしく研磨くんのお兄ちゃんのようだった。年末の大掃除にまで駆り出されるなんて、本当に家族ぐるみのお付き合いをしているのだな、としみじみしてしまう。
 そんな話をしていると、キッチンから戻ってきた母がこたつテーブルの上におやつを置き、同じくこたつに潜りこんだ。テレビでは年末特番のバラエティー番組が流れている。
 こうしていると、黒尾くんが我が家にいるというイレギュラーの真っ只中にありながらも、例年と変わることのない、当たり前の大晦日を過ごしているように錯覚する。付き合い始めて一年にも満たないというのに、まるで何度も一緒に季節を過ごしてきたような、そんな気持ちになってくる。
 缶ビール片手にテレビ相手にけらけら笑っている母、時々携帯を確認しつつだらだら蜜柑を食べる私、そしてテレビに茶々を入れつつ、私が剥いた蜜柑を横から食べようとする黒尾くん。不思議なくらい自然な大晦日に、昼間感じていた緊張もいつのまにかすっかり解けてしまっていた。
「そういえば黒尾くんはご家族と過ごさなくてよかったの?」
 ほろ酔いの母が、ほんのり頬を染めて黒尾くんに尋ねる。
「うちは放任というか、毎年友達と過ごしてたんで気にしてないみたいです」
 黒尾くんの方も、困惑しつつも母とは打ち解けてきたようで、いつも通りのテンションで受け答えをしていた。行儀よさは残しているものの、猫かぶりはそうそうにやめてしまったたしい。それだけは少し残念だ。
 黒尾くんのいう友達とは、十中八九研磨くんのことだろう。
「お母さん、黒尾くんは近所に幼馴染が住んでて、その子とすごく仲がいいんだよ」
 私が横から口を挟むと、黒尾くんは照れたように笑って頷いた。
「へえ、じゃあ今年はその幼馴染の子に悪いことしちゃったわねえ、黒尾くんのこと独占しちゃって」
「いや、一個下の受験生なんで、むしろ放っておいてやって方がいいんすよ」
「幼馴染っていっても、後輩は後輩でしょう。別の学年の子とも仲がいいのは、流石元キャプテンね」
「いやー、ははは。それほどでも……」
「部活を頑張ってるって聞いたけど」
 酔いに任せて、なんだか母が根掘り葉掘り黒尾くんのことを訊き始めた気配を察知する。これはどこかで止めた方が良いのだろうか。そう思い黒尾くんの様子を窺うが、特に困っている様子もない。ひとまずは様子見に徹することにした。
「部活で大学に入ったんで、まあそれなりには」
「すごいねえ、大学のスポーツ推薦なんてなかなか来ないでしょ」
「でも部活ばっかりしてるせいで、名前さんには迷惑かけっぱなしで」
「いいのよ、この子なんてどうせ暇なんだから振り回せば」
「ちょっと! お母さん!」
 根掘り葉掘りの詮索が思いがけない方向に飛び火しそうな気配を感じ、私は母の足をこたつの中で蹴った。まったく、油断も隙もない。見ると黒尾くんがにやにや笑っていて、なんだか妙に恥ずかしく感じた。

 ★

 それからしばらくして、めでたく新年を迎えた。
「あけましておめでとう、黒尾くん」
「あけましておめでとう、名前さん」
「もうお母さん寝ちゃってるし、さん付けなんかしなくていいよ」
 年が明けるより先に、母はこたつで酔いつぶれて寝てしまった。なので新年を迎えた瞬間は私と黒尾くんのふたりきりも同然だった。母はそのままこたつに放置して、私たちはこそこそと初詣に出かける準備を始める。
 初詣とはいっても、うちの近所の小さな神社にお参りにいくだけのささやかなものだ。本当はもっと大きな神社に行く予定だったのだが、我が家で年越しをするにあたって、無理して遠くまでいかなくてもいいと黒尾くんの方から提案してくれた。
 とはいえ近所の人たちがこぞって参詣する神社なので、年明け直後はそれなりに混み合う。黒尾くんと私は、それぞれカイロを手に家を出た。
 真冬の深夜は凍えるように風が冷たい。露出した耳がちぎれそうな寒さだ。
「ごめんね、うちのお母さんあんな感じだから、黒尾くんも困ったでしょ」
 母の監視の目からようやく外れたので、私はやっと謝った。母も普段は家族以外にはもう少ししっかりしているのだが、黒尾くんが来てくれてお酒も入って、いつもより楽しくなってしまっていたらしい。身内の恥ずかしい部分を見せてしまったことを詫びると、黒尾くんは笑って許してくれた。
「俺は面白かったけど。名前とおばさんあんまり似てねえなとは思った」
「よく言われる」
「名前も普段より素って感じで面白かった」
「……そう?」
「まあね。高校の時とか、友達といるときの名前結構大人びてたっつーかあんまり騒いだりしてなかっただろ。けど、家族の前だとやっぱ普通に子供なんだなって安心した」
「……というか高校の時って、黒尾くんとそんなに絡みなかったよね?」
「そうだっけなー」
 一体黒尾くんはいつから私のことを好きで見ていてくれたのだろう。前に一度聞いた時は、はぐらかして答えてもらえなかった。だがこうして話をしていると、どうも黒尾くんは高校の時の私をそれなりに見て知っているような、そんな印象を受ける。
 もしも私が思っていたよりも前──あの三学期の図書館での会話がなくても私を見てくれていたのなら、もっと早く話しかけてくれたら良かったのにと、そう思わないではない。そうすれば高校生の黒尾くんともっと一緒にいられたかもしれない。
「なんかずるいな、私は高校時代の黒尾くんのこと見逃してる気がする」
 子供のわがままみたいなことを言ってから、我ながら少し子供っぽすぎたと後悔した。家族と一緒にいた後だからか、いつもよりも子供な自分が出てきている。
 そんな私の髪をくしゃりと撫で回し、黒尾くんは笑って言う。
「別にいいんじゃねえの。どうせこっから先のが長いんだし」
「そういう問題では……っていうか黒尾くん、さりげなく結構キザだよね……」
「彼女が可愛いことを言うもので」
「お正月だからって私たち浮かれてるなあ」

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