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「えっ」
 そう発したのは私──ではなく、電話の向こうの黒尾くんだった。彼にしては珍しい、困惑した声を上げたので、私はこんな状況にも関わらず少しだけにやりと笑ってしまう。
 私が電話をかけているリビングには私以外に母がいて、見ると母も私と同じように楽しそうに笑っている。状況が理解できていないかもしれない黒尾くんに、わざと説明口調でもう一度同じ言葉を確認した。
「黒尾くん、確か年越しは帰省しないって言ってたよね? 家にいるって。うちは年末になるとお父さんが大掃除するために先におばあちゃんちに行っちゃうんだよ。それで、私とお母さんだけでうちで年越しするから、よかったら黒尾くんうちに来ない? お母さんも黒尾くんに会いたがってるし、来てほしいって言ってるから」
 電話の向こうの黒尾くんはおそらく、今ものすごい勢いで考えを巡らせているのだろう。いつも驚かされたり困惑させられたりするのは私の方なので、黒尾くんの意表をついたというだけでも大満足だ。

 事の発端は、夕飯を食べている時の会話だった。父の帰宅が遅くなるというので母と二人で夕飯を食べていたら、唐突に母が「彼氏とはまだ続いてるの?」と切り出したのだ。
 これまで私は、父はもちろん母にだって黒尾くんの話をしたことはなかった。それをいきなりあっさり俎上に載せられては、こちらの心の準備もできていない。思わずごほごほと咽る私に、母はしれっとコップを手渡した。
 とはいえ、そういう話になるのも時間の問題だったのだろうとは思う。クリスマスの外泊は疑われるには十分だったし、今までにも何度か彼氏がいるそぶりは見せてきた。直接彼氏がいますとは言わずとも、少なくとも母には早い段階でバレてはいたのだろう。「続いているのか」という聞き方は、ここ最近付き合いだしたわけではないという前提だ。
「……おかげさまで、喧嘩もなく順調に」
 可もなく不可もない、深追いしてほしくないことを言外ににおわせた言葉を選んでみるが、母にその手は通用しなかった。ふうん、と適当にいなされる。
「いいなあ、お母さんも会ってみたいなあ。ねえねえ、彼氏どんな子?」
「どんな子って……まあ、優しいよ。見た目ちょっと怖いけど」
「え、怖い系?」
「見た目だけね。身長が大きいから。でも中身は全然怖くない」
「ねえ、お母さんにも一回会わせてよ」
 珍しく食い下がる母に、正直驚いた。
 大学生になるまで私には浮いた話のひとつもなかった。なのでこういう母の姿を見たことはなかったのだが、もしかすると母は元々こういう恋愛話が好だったのかもしれない。自分がそういうタイプではなく人の恋愛にも興味がないので、まさか身内がそうだとは思わなかった。
 そんな母が、私の彼氏に会いたい──いや、会わせろと言っている。たとえ嫌だと言ったところで、諦めてはくれないだろう。となると素直に受け入れるが吉か。ごねられたら却って面倒なことになるのは目に見えている。
 ここはひとまず素直に受け入れ、そのうえで無理だと突きつけるしかない。
「私は構わないけど、黒尾くんが何て言うかな……。それにお母さんは普段仕事があるんだから、黒尾くんに会うなら休みの日でしょ? 休みの日だとお父さんもいるから一大事になっちゃうよ」
「ううーん、たしかにいきなりお父さんと会わせるのは気の毒だわね、お父さんにも彼氏にも」
「そうでしょ」
 作戦がうまくいったのか、なんとか黒尾くんを家族に会わせずに済む方向で話が進みそうだった。ほっと一安心したのも束の間、しかしすぐに妙案を思いついたとでもいうように、母が声をあげた。
「あ、でも年末はお父さん先におばあちゃんち行くから、鉢合わせしなくて済むじゃない?」
「あー……」
 そう言われてみればそうだった。独り暮らしの祖母のため、父は私たちより一足先に祖母の家に帰省するのが毎年の恒例になっている。大掃除や買い出しの手伝いに駆り出されるのだ。私と母は年が明けた元日の昼前に合流する。つまり年末であれば、父は不在で母だけが黒尾くんに会うことができる。
 それに私と黒尾くんはもともと、年が明けたら一緒に初詣に行こうと約束をしていた。私はこれまで夜遅くに初詣になど行ったことがないので、それもまた黒尾くんと一緒だとバレるかもしれない。初詣に行けてうちに来られないということはないはずだと言われれば、それはそうだとしか言いようがない。
 こうなるといよいよ、母と黒尾くんを会わせない理由がなくなってくる。それでもまだどうするべきか悩んでいた私を思い切らせたのは、母のあっけらかんとした一言だった。
「いいじゃない、会わせてよ。娘の彼氏と顔を合わせるなんて、なんだか面白そうじゃない?」
 母の言葉に、私は腹を決めた。
 私の家族の前に引きずり出された黒尾くん。なんだかずいぶん面白そうだと、ついつい私も思ってしまった。
「分かった、黒尾くんに確認してみよう」
 携帯を取り出した私に、母はにっこりと笑って言った。
「ふふ、楽しい年越しになるといいわね」

 そうして、冒頭に戻る。電話の向こうの黒尾くんは相変わらず困惑しているような雰囲気だったが、続く「俺が行っていいの?」という言葉を聞く限り、我が家に来たくないというわけではなさそうだった。父不在というのも大きいのかもしれない。
「いいも何も、私たちが来てほしいんだよ」
「……わかった。じゃあ、はい、お邪魔することにします」
 かくして話はまとまった。大みそかの二十一時に我が家集合。年越しそばやつまむものは用意するけれど、夕飯は自宅で食べてくること、と連絡事項を伝え通話を切る。
「黒尾くん、来てくれるって」
 通話を終えて母にそう伝えると、母は大喜びで鼻歌まで歌いだす始末だった。こんな母親を見せたら、黒尾くんにおかしな家族だと思われはしないだろうか。
 黒尾くんの猫かぶりを楽しみにしていたはずなのに、なんだか私の方が色々不安になってきてしまい、上機嫌の母親を見てこっそり溜息をついた。

 ★

 大晦日当日。
 朝から父を無事に送り出し、私はそわそわと家中を歩き回っては掃除に精を出していた。夜に黒尾くんを迎えるのだと思うと、おちおちテレビも見ていられない。
 私ひとりで黒尾くんを迎えるのとは違い、今回は母も同席する。なんとなく前回よりもきちんとした方がいいような気がして、じっとしていても心が落ち着かない。当の母はやっと訪れた年末年始の休みを満喫しているのか、朝から買い物に出かけていて不在だ。
 そうして片付けついでに見始めた雑誌にうっかり夢中になったりしていたら、あっという間に一日が終わってしまった。気付かないうちに帰宅していた母が、夕飯の支度を始めた音がして、慌てて家の片付けを再開する。年末に大掃除をしたので、幸いそこまで大げさにやる必要もなかった。

 年越しそばも控えているので、夕食は軽めに済ませた。
「どうしよう、なんか急にどきどきしてきた」
 夕飯を食べながらちょっと気分が悪くなってきた私を、母がけらけらと楽しげに笑う。
「なんでよ、普通にうちに呼ぶだけでしょ」
「そうなんだけど、そうなんだけど。なんか粗相があったらどうしよう」
「そういうのって普通、呼ばれる側の悩みだと思うけどね」
「ていうかなんでお母さんはそんなにいつも通りなの?」
 娘の彼氏に会うことは、母にとっては特に緊張もしない楽しいイベントでしかないらしい。
 だが考えてみれば、母にとっては客を迎えるという意味では多少気が張るものの、嫌われたらどうしようとか、変なところを見られたくないといった見栄や気負いのようなものはない。むしろ精々私に気に入られるようにしろとでも言わんばかりの構えのはずだ。
 あるいは、所詮大学生の娘の彼氏に過ぎないし、どうせ結婚まではいかないのだろうから気楽にいこうと面白がっているだけなのだろうか。
 実の母ながら、いまひとつその胸中を読み切ることができない。私はひとりで胃をきりきり痛めながら、黒尾くんの来訪を今か今かと待っていた。

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