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 十一月十七日当日、黒尾くんとはいつも通りに駅で待ち合わせた。黒尾くんにはまだ伝えていないが、今日の行き先は私のバイト先。なので自然と、待ち合わせもうちの最寄り駅になる。
 思えば黒尾くんと一緒に客として来店するのも、付き合い始めて最初のデート以来だった。バイト終わりの私を黒尾くんが迎えに来てくれたり、デートで近くを通ったのでお茶しに寄るということは時々あるが、カフェでの食事を目的にいくことはほとんどない。最初のデートだってたかだか九か月前のこととはいえ、何だかもう遠い昔のことのように感じた。
 改札前の柱に背をあずけ、行きかう人の中から黒尾くんの顔を探す。うちの最寄り駅のような寂れ気味の駅でも、夕方のこの時間にはそれなりに混雑する。やがて人の波の中から頭一つ大きいつんつく頭が、きょろきょろしながらこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
 事前に誕生日を祝うことを伝えてあったためか、普段よりも少しきっちりしたジャケットを着ている。ドレスコードのあるようなお店にも対応できるようにという黒尾くんなりの配慮だろう。生憎そんな上等なお店は予約していないのだが。
 改札を抜けてこちらに歩いてくる黒尾くんは、まだ私のことは見つけていないらしい。黒尾くんの方に近づき背後に回り込むと、勢いよく「わっ」と背中を押した。
「うわ、びびった」
「ふふ、びびらせた。待ち合わせの時、大体いつも私の方が先に黒尾くんのこと見つけるね」
「そりゃあね。身長のハンデがあるからな」
 言いながら、黒尾くんは自然にするりと指を絡めた。
 黒尾くんの指先はいつも冷たい。だが今日は、珍しく私の指先の方が冷たかった。
「手、冷えてんな」
 少しだけ申し訳なさそうな顔で黒尾くんが言う。待っていた素振りは見せていないが、どのみち黒尾くんには嘘は通用しない。そんなことないよ、などと言ったところで、どうせすぐに嘘だとバレてしまう。
「それで、今日はこの後どこ行くんだ?」私の手をあたためるようにしっかり手を握りなおし、黒尾くんが言った。「もしかしてまた名前んち?」
「まさか、それに今日は親いるから。黒尾くんがうちの親に会いたいというのであれば多少のプラン変更はしますが」
「それはまたの機会でお願いします」
「心配しなくても、今日は私のバイト先です」
「お、いいじゃん」
 黒尾くんが声を弾ませたので、ひとまずほっとした。よかった、いきなり滑ったりはしなかった。ぎゅうと黒尾くんの手を握ると、黒尾くんも握り返してくれる。

 目的地に到着するまで誰に憚ることもなく、ふたりで手をつないでのんびり歩いた。こうして歩いていると、本当に最初のデートのときのようだ。あのときと違うのは、高校を卒業して大学生になった私たちが、恋人同士になって手を繋いで歩いているということ。話の途中で目が合っても、恥ずかしくなって目をそらしたりはしないこと。
 夕焼けを背中に受けながら、私たちは長い影を追いかけるように歩いていく。そういえばまだ、今日の本題について一言も触れていなかったな、と歩きながらふと気付く。
「言い遅れましたが、黒尾くんお誕生日おめでとう」
 手をつないだまま、黒尾くんの方を向いて頭を下げる。黒尾くんも真似をして、私に向けて頭を下げた。
「どうもありがとうございます」
「十九歳になった黒尾くん、今後ともよろしくお願いします」
「これはご丁寧にありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします」
「ふふ、変なテンションだね」
「誕生日だからな」
 誕生日を迎えて、十九歳になって。それくらいで変わることなんて何もないということくらい、私も黒尾くんもちゃんと分かっている。黒尾くんと付き合って九か月が経ち、その間に色々なことがあったが、その中での変化は微々たるもので、振り返ってみれば私たちの日常はそんなに大きく変化していない。
 それでもこうして節目節目に好きだな、一緒にいられてよかったな、と思えることこそが、出会う前との変化といわれればそうなのかもしれない。黒尾くんに出会って、たくさん幸せなことを知った。黒尾くんと一緒にいることで増えていく幸福があることを知った。
「幸せってこういうときにしみじみ実感するよね」
「ん? まあ、そうかもな。俺はわりといつでも幸せ噛みしめてるけど」
「そうなの?」
「名前と一緒にいるときは大体な」

 ★

 カフェに到着すると、オーナーが笑顔で出迎えてくれた。二人だけの小さなお祝いなので貸切にはしていないが、予約必須の一番いいソファー席に案内してもらう。小上がりになっている上にカーテンで仕切られているので、半個室のような席。ささやかなお祝いにはうってつけだ。
 運ばれてきたウェルカムドリンクで乾杯する。こうしていい雰囲気のなかで飲むと、アルコールでなくても少しだけ大人びた気分になる。十九歳の誕生日ということで、これくらい背伸びしてもいいだろう。
「黒尾くん、お誕生日おめでとう」
 ドリンクを出してくれたオーナーがにこにこ笑って言う。黒尾くんはもうすでに何度もこの店に立ち寄っているし、おまけに私が黒尾くんとのお付き合いの話を次から次へとオーナーにしているため、オーナーはすっかり黒尾くんのことを知り尽くしていた。
「あ、ありがとうございます」
「今日はゆっくりしていってね」
 お祝いの言葉をさらりと伝えると、オーナーはすぐにキッチンに戻っていった。
 今日はコース料理でお願いしており、なおかつサプライズ要素も含んでいるので、テーブルの上にはメニューも何も載っていない。デートで食事をするときは大抵リーズナブルなお店に行くので、こういう食事は珍しい。
 料理については予算だけ伝えて、ほとんどオーナーにお任せにしていたのだが、実際に出てきたのはレストラン顔負けのフレンチコースだった。この店でバイトをして九か月になるが、これほど力が入ったコースを出しているところは見たことがない。事前に支払いを済ませている予算よりも確実にオーバーしていることは明白だった。
「これ、こんないいもん出してもらって大丈夫なの?」
 黒尾くんは嬉しいというよりも、本気で驚いた顔をしている。
「私もまさかここまでのものを出してもらえるとは思ってなかった。黒尾くん、愛されてるんだね……」
「いや、この場合愛されてるのは名前だろ」
 俺の彼女が愛されすぎている、なんてどこぞのラノベみたいなことを言う黒尾くんだった。
 運ばれてきた料理をアミューズ、前菜と順番に口に運んだところで、ふと黒尾くんが「俺の好きな曲ばっかかかってる」と呟く。今日はお客さんが少ないためか、店内はいつもより静かだ。そのためか邪魔にならない音量で流れるBGMも、今日は普段よりよく聞こえた。
「さすが黒尾くん、お気づきになられましたか」
 にやりと笑って私が言う。黒尾くんの言う通り、今日のプレイリストは完全に黒尾くん仕様にセットしてある。
「やっぱそうだよな? 完全に俺の好みの曲しか流れてないの、すげえ偶然かと思った」
「バイト先っていうのを最大限利用してみました」
 これもやはり、事前に黒尾くんの好きな曲をまとめたプレイリストをオーナーに渡してかけてもらっていた。ささやかで自己満足のレベルだが、黒尾くんに気付いてもらえてよかった。こういう小さな演出にも気付いてくれる黒尾くんの細やかさが、私は好きだった。
 スープにパン、メインの肉料理までしっかり堪能し、やっと食事も一段落になった。満腹になったお腹をさすっていると、私たちのテーブルの周りの明かりが少しだけ落とされる。オーナーが笑顔で運んできたのは、今日の大本命、誕生日ケーキだった。
 だが誕生日ケーキとはいってもただのケーキではない。何せ大本命である。
 テーブルに置かれたそのケーキに、黒尾くんは
「うっわ、何これすげえな!」
 と興奮した歓声をあげた。
 ショートケーキのクリームの上には、さんまの塩焼きの形に形成したチョコレートプレートがででんと鎮座していた。その存在感は果てしなく、一瞬ケーキなのか何なのか不思議になるほどだ。おまけにそのチョコレートプレートのクオリティが無駄に高いので、さんまの塩焼きもかなりそれらしい見た目に仕上がっていた。
 そしてその馬鹿っぽい演出とは果てしなくギャップのある、洋酒のかおりのきいたきれいなケーキ。ケーキの上のさんま、もといチョコレートプレートを指差し、黒尾くんはにやにや笑う。
「何これ。さんま?」
「うん、黒尾くんの好きなものを入れようと思って。本当はメインを肉料理じゃなくて魚にしようかなとも思ったんだけど、やっぱりお肉は外せないかなあと思ったら、こういう形でまとまりました」
「まとまり方がすげえな。いや、何一つまとまってなくない? めちゃくちゃ嬉しいけれども」
 テンションが上がっているのか、黒尾くんにしては珍しく纏まらない日本語を話している。オーナーが切り分けてくれたケーキを前に、二人でもう一度いただきます、と手を合わせ直した。
 料理もどれも美味しかったけれど、ケーキはさすが、格別においしかった。本来この店はカフェであり、やはり料理よりも甘いもの方がオーナーの得意分野だ。
「これ、ケーキ作るの少しだけど私も手伝ったんだよ。料理も、今日の昼間に下ごしらえとかあったから手伝わせてもらった。ほとんどオーナーに教えてもらいながらだけど」
 へへへと笑いながらケーキを頬張る。本当はオーナーに任せることもできたし、きっとその方が料理のクオリティ自体は上がったのだと思う。
 しかし今日は黒尾くんの誕生日なのだ。できる限り自分でやれることはやりたかった。それがどんなに些細なことでも、私が祝ってあげたかった。
「いや、それでも結構大変だったんじゃねえの。だって家で作る飯と全然違うじゃん」
「本当だよ、はじめてのことばっかりで正直びっくりした。家で作るとき計量カップとかさじとか使ったことなかったし」
「名前そういうタイプなんだ。じゃあ頑張ってくれてありがとな」
「ふふ、喜ぶのはまだ早いよ。なんとここで追い打ちをかけるように、プレゼント贈呈です」
「追い打ちの使い方あってる?」
「まあまあ、細かいことは置いておいて」
 言いながら、鞄の中の紙袋を取り出す。テーブル越しに紙袋ごと手渡すと、紙袋のブランドロゴを見て黒尾くんが「すげえ」と声をあげた。
「まじか、ここ結構いい値段するだろ。本物?」
「もちろん。まあ、そこは誕生日だから」
「うちの彼女すごすぎるだろ」
 黒尾くんの言う通り、確かに大学生がほいほい買い物できるランクの店ではない。似たようなデザインの廉価版が出回っているのは、本物は学生には手を出しにくい金額だからだ。とはいえ今回私が買ったのはセカンドラインの財布なので、少しだけ手が出しやすかった、というのは黒尾くんには黙っておく。
「開けていい?」
「どうぞどうぞ」
 わくわく顔で紙袋から中身を取り出す黒尾くんに、見ている私までわくわくした。
「ん? これ手紙も入ってる?」
「そっちは家に帰ってから読んでね。今はプレゼントの方だけ見てください」
「おっけ、楽しみにしとく。プレゼントは……、うわ、財布だ。え、俺財布欲しかったって名前に言ったっけ?」
「前に欲しいみたいなこと言ってた気がしたから」
 箱から取り出した財布を掲げ、おー、やらわー、やら言っている黒尾くんに微笑ましい気持ちになる。欲しかったものを手に入れて無条件に無邪気に喜ぶ黒尾くんは、普段の大人っぽい雰囲気とは違って可愛い。普段の黒尾くんのことも好きだが、たまに見せるこういう子供っぽいところも大好きだ。
 夜久くんや木兎くんのような男友達といるときの黒尾くんは、私と二人でいるときよりもだいぶ子供っぽい。そういう表情を見るのが好きなのだが、私が黒尾くんの男友達と一緒に遊ぶことも少ないので、私にとってはこういう表情はなかなか貴重だった。
 大袈裟に喜んで写真をとったりしていた黒尾くんは、やがて少しだけ落ち着きを取り戻したのか、ひと呼吸置いてから私を見た。
「あー、やばい。財布もだけど、俺がぽろっと言ったことを名前が覚えてくれてたのが、まじでめちゃくちゃ嬉しい」
「黒尾くんだってよく私の言ったこと覚えててくれてるでしょ。おあいこだよ」
 いつも黒尾くんにもらっている沢山の幸福を、少しでもお返しすることができただろうか。目の前の黒尾くんを見るに、きっとできたと思う。こうして黒尾くんに喜んでもらうことができてよかった。
「本当は夜久くんや研磨くんに声かけてわいわいするのと悩んだんだけど、二人で過ごすはじめての誕生日は私がひとりじめしたいなあと思って、ひとりじめにしちゃいました」
「ひとりじめされるの、すげえ嬉しいよ。色々頑張ってくれてありがとな。なんか、俺ばっかり色々してもらってんな」
「なんで? 私の方こそ黒尾くんにもらってばっかりだよ」
「いやいや、俺こそ……、いや、やめよう、これ完全にバカップルの会話だ」
 でも、ちゃんとお返しはするからな。
 そう言った黒尾くんの笑顔が優しくて茶目っ気に溢れていて、ああー、好きだな、と今日何回目かのときめきを味わった。

 お会計はバイト代から天引きにしてもらったので、黒尾くんにお会計を見られることもなくスマートに店を出ることができた。ふたたび手をつなぎ、駅に向かって歩く。
 あたりはすっかり暗くなり、通りにいるのは私と黒尾くんだけだった。時折自転車が通るくらいで、通りは静かなものだ。
 近くに誰もいないことを確認して、私はごほんと咳払いをする。
「実はね、まだ誕生日のサプライズは終わってないんだ」
「え、あと何があんの」
 心底意外そうに言う黒尾くんに、私はにやりと笑う。もちろんメインイベントはもう終わったので、今からのこれはちょっとしたおまけのようなものだ。
「ちょっとだけしゃがんでみて」
 黒尾くんと私の視線の高さが合う。そのまま黒尾くんの首に腕を回して唇を重ねた。
 往来のど真ん中なので、少し触れるだけの簡単なキス。それでも自分からキスをするというのはやっぱり恥ずかしい。
 ぽかんとしている黒尾くんの顔を見ないようにして指を絡めると、その腕を照れ隠しにぶんと振った。
「プレゼントは、わたし、ということで!」
 先日、黒尾くんが言っていたことだった。プレゼントは私がいい、と。実行するかはぎりぎりまで悩んだが、今日はこれだけ嬉しそうな顔を見られたから、最後にもうひと喜びしてほしかった。
「……最後の最後にそういう反則、まじでずるいんだけど。全然帰したくなくなる」
 そう言って悔しそうな顔で私を睨む黒尾くんの耳元で、私はひとこと「帰り遅くなるって言ってあるよ」と囁く。
 バースデーナイトはまだまだこれから。道路の真ん中で私を抱きしめた黒尾くんが「誕生日、最高かよ」とこぼした。

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