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「ご予算はどのくらいですか?」
「に、二万円……いや、二万五千円くらいまでなら」
 目の前のにこやかな男性店員の笑顔に気圧されそうになりながら、私はいつもより少しだけ声を張って答える。小さな声で答えれば舐められてしまうかもしれない。ここで負けたらだめだ、しっかりしろと、自分にそう言い聞かせる。
「でしたらこの黒のものなんかは人気ですね。社会人になってからも使えるデザインですし」
「な、なるほど、たしかに……」
「失礼ですが、贈られるお相手は」
「大学一年、十九歳です」
「それですと、大学一年生だと彼氏さんにはもしかしたら少し大人っぽすぎるかもしれないんですけど」
「いえ、そんなことはないです。これ、彼にすごく似合うと思うので、これにします」
 お金を支払い、ラッピング用に商品を奥に持っていく店員を見送ってから視線をショーウィンドウの中の見本品に落とした。ショーウィンドウの中の小さな黒いネームプレートには五桁の数字が金色で刻印されている。自分のためにこんなに高いものを買うことはそうそうない。心臓がばくばくいっている。
 今私がいるのはデパートの四階──高価そうなスーツやジャケットの立ち並ぶメンズフロアだった。およそ私みたいな未成年のこどもがひとりでいるのに適切でない、ラグジュアリーさで溢れる階。できることなら、さっさとこの場を立ち去りたい。
 少しでもこの場になじめるよう、一応は普段よりも大人っぽい格好をしてきている。だが敵もさるもの、百貨店で接客業をしているプロ中のプロだ。私が未成年であることくらい、少し言葉を交わせば簡単に分かってしまうだろう。
 とはいえそこはさすがに有名百貨店。私のような客でも、子供扱いはせずにきちんと接客してくれた。つつがなく買い物を済ませ、商品を受け取り店を出る。
 居心地の悪い思いをおしてまで私がこんな場所にいるのは、来たる十一月十七日の準備のためだった。

 ★

 大学の講義終わりに都心に出たのは十一月十七日、すなわち黒尾くんの誕生日プレゼントを購入するためだった。先日晴れて心身ともに結ばれた私たちだが、その後何かが変わったかと言われれば、別段そういうわけでもない。しいて言えば並んで歩くときに距離が近くなったかなとか、キスのときの私の恥じらいが減ったかなとか、その程度のことだ。
 私個人としては、自覚できる変化がいくつかあった。その中でももっとも大きな変化といえば、黒尾くんが喜んでくれるときに感じる嬉しさを知ったこと。そして今は黒尾くんの誕生日に向けて何をしてあげられるかを考えているところだ。
 実は黒尾くんの誕生日のため、私は夏から一生懸命バイトを増やしてお金を貯めていた。大学生のバイト代など知れているし、プレゼントだって大したものは買えない。きっと黒尾くんだってそこまでの期待はしていないだろう。それでも少しでもいいもの、黒尾くんが喜んでくれるものを準備したくて色々リサーチした。結果が、財布。ちょっといい財布だ。
 黒尾くんが今使っている財布は高校時代に購入したものらしい。使い始めて三年目、買い替えなければならないほど子供っぽくはないけれど、いいものがあったら買い替えたいと、少し前に言っていたのを私は覚えていた。自分で買うほどではないけれど、というものは、プレゼントするのにうってつけだ。男性物でシンプルなものであればそう大きく外すこともないだろう。
 そういうわけで、人気ブランドのセカンドラインで革の財布を購入し、それをプレゼント用にラッピングしてもらっている間、私は次のプランを考えていた。
 プレゼントは財布でいいとしても、せっかくの誕生日。ある程度はプレゼントを渡すシチュエーションにもこだわりたい。場所は私のバイト先を使わせてもらうということだけ決めていた。
 自分のバイト先だと思うと多少恥ずかしくはあるのだが、黒尾くんは私のバイト先にもたびたび顔を出しているし、オーナーたちともいい関係を築いている。誕生日祝いに場所を使わせてもらうことに関しては、オーナーにも快く了承してもらえた。
 包んでもらったプレゼントを受け取り、急いでまた電車に飛び乗る。今日は黒尾くんとデートの約束があった。特に何をするということもない、定例集会みたいなデート。そういうデートも好きだからこそ、特別な日のことを思うといっそう胸が躍る。

 今日は現地集合だったので、先に店に着いた私がテーブルで黒尾くんを待っていると、五分も経たないうちに黒尾くんもやってきた。
「遅くなって悪い。待った?」
「ううん、私も今来たところだった」
「本当かー?」
「本当。多分電車一本違いくらいだったと思うよ」
「まじか。じゃあ頑張ってもう一本早いの乗ればよかったな」
「仕方ないよ、部活の集まりでしょ?」
「んー、まあね」
 そんな話をしながら、黒尾くんは私から受け取ったメニューに視線を走らせる。
 十一月になって一気に秋が深まったためか、この間会った時はシャツにカーディガンをひっかけただけった黒尾くんがニットを着ている。深い色のニットがよく似合っていてかっこいい。あんまりかっこいいものだから、胸がそわそわときめきだす。
 付き合って八か月経つというのに、未だにこんな些細なことで黒尾くんにときめいてしまうとは。自分のときめきの燃費の良さに、驚くと同時に少しだけ呆れる。
 二人分の注文を済ませると、黒尾くんはやっと落ち着いたのか、水を一気に飲みして、それから長く深くため息を吐いた。普段通りに振る舞っているけれど、その表情には隠し切れない疲労の色が滲んでいる。
 ここのところ、黒尾くんの部活はまた一段とハードになっているらしい。今月の終わりには大きな大会が始まり、黒尾くんや木兎くんも今回の大会から試合に出られるようになるのだそうだ。
 そのため自然と練習にも熱が入るのだろう。自主練にも積極的に参加している。たくさんの上級生にも負けず試合に出る一年生なんて、私にしてみればものすごく技術のある選手としか思えない。
 黒尾くんの通う△△大はバレーの推薦で入学できるだけあって、バレー部はかなり強いらしい。その中で一年生レギュラーということは、やはり黒尾くんはすごい選手なのだろう。バレーをよく知らない私にとっては「すごい」「うまい」という表現でしか言い表すことができないのが悔しいけれど。
「でもあんまり疲れてるところ見ると、ちょっと心配にはなる……」
 黒尾くんの部活関連に関しては、完全に門外漢の私は口を出さないことにしている。だがそれでも、彼氏の体調のことが気にならないはずはない。携帯の液晶をテーブルの上のペーパーナプキンで拭いながら、私はぽそりとそうこぼした。
 口を尖らせた私に、黒尾くんは「心配性」と呆れたように言った。
「そりゃあ気合いは入ってるけど、別に名前が心配するほどのことでもねえよ?」
「うーん、そうなのかもしれないけど……運動部員的にはそうなのかもしれないけど……」
「名前サン的には違う?」
 黒尾くんが私の顔を覗き込む。黒尾くんの視線から逃げるように、私は顔を俯けた。
 たしかに長年バレーに打ち込んできた黒尾くんにしてみれば、このくらいは何てことない努力であり、あたりまえに抱える疲労なのかもしれない。うまくなるためには努力が必要で、そして黒尾くんはそのための努力を怠らない。きっとこれまでだってそうやってやってきて、そうやって乗り越えて、だから全国大会に出場するようなところまで到達することができたのだろう。
 バレー推薦で大学に入ったからには、大学でも相応の活躍を期待されているはずだ。だから黒尾くんが努力をするのは、いわば当然のこと。自分に課されたものを着々と、粛々と、淡々とこなしているだけなのかもしれない。
 黒尾くんのバレーは黒尾くんのものであって、私がどうこう言えるものではないのだ。私が口を出せるのはあくまで黒尾くんの『恋人』としての部分だけであって、それ以上の領域を侵すことは許されない。私だって黒尾くんにどうこう言われたくない部分は少なからずある。
 一線を越えたって、すべてを知ってほしくたって、それとこれとは別問題。個人を尊重しなくていい理由にはならない。私は私で、黒尾くんは黒尾くん。
 だから、顔を上げた私はゆるりと首を横に振った。
「……いや、いい。やっぱりいい。私が口を出すことじゃなかった」
 私がそう言うと、黒尾くんは笑顔のまま首を傾ける。そうして子供をあやすみたいな声音で言った。
「何それ、別に怒んないから言ってみ?」
「いや、やめておく。黒尾くんのバレーについては、私はただ見守るだけのスタンスって決めてるから」
「そうなんだ、初めて聞いた」
「うん、お互いそこらへんはきちんとライン引いておかないとね」
 私のおよそ半年におよぶ黒尾くんへの依存心への葛藤は、先日ついに黒尾くん本人にその感情をぶちまけることでうっかり肯定されてしまった。だがそれが肯定されたからといって、すべてを許されたというわけでは当然ない。少なくとも私にとって、その依存心は完全には許容できるものではない。
 だからこそ線引きは大切なのだと思う。依存はしない方がいいと思うし、干渉はしたくない。そういうものは今は愛情の裏返しとして認めることができたとしても、いずれ自分たちの首を絞めると思うから。
 黒尾くんは誠実で真摯な人だ。だから私もそうありたいと思う。線引きをすることは誠実さのあらわれでも思う。たとえ黒尾くんがそこまで求めていなかったとしても。
「なんというか、まじで名前って真面目だよなあ」
 だしぬけに黒尾くんが呟いた。私の方を向いてしみじみと頷いてみせる。私としてはそんなつもりで言ったわけではなかったので、黒尾くんのリアクションに、どうしていいのか分からなくなってしまった。
「ど、どうしたの、黒尾くん。そんな改まって」
 目を泳がせながらしどろもどろになって返事をする。なんだか話の方向性が思いもよらなかった方向に行きかけているような気がした。こういうとき、どうにかうまい具合に舵をきりたいのだけれど、残念ながらそういうのが得意なのは私ではなく黒尾くんの方だ。
 その黒尾くんはテーブルに肘をつき、追い打ちをかけるようににんまりとして言った。
「や、改まってっていうか何ていうか、なんかそういうところ好きだなーと思って」
「ふっ!」
「ふって」
「いや、びっくりしちゃった……いきなりだったから……」
 変な汗が出てきて、それを鞄から取り出したハンカチで慌てて拭った。今は完全にそういう流れではなかったはずなので、うっかり気を抜いていたのだ。『可愛い』はだいぶ言われ慣れてきたが『好き』にはまだ不意打ちだと照れる。
 私が一段落したのを確認してから、黒尾くんは再び口を開く。
「いや、でも真剣な話、俺は名前のそういうところ好きだし、ありがたいとも思うよ。俺の周り、バレーとプライベート、つーか恋愛がうまく両立しなくて駄目になってるやつ結構いるし」
「そうなの?」
 おそるおそる尋ねると、黒尾くんは大きく頷く。
「名前が知ってるところだと木兎とか。あいつは彼女ができても別れても波があるからかなり分かりやすい」
「バレーに支障をきたしてはだめなのでは……?」
「つってもそこで切り替えできるほど簡単じゃねえからさ」
 黒尾くんの口調はとても他人事を語っているとは思えないものだった。果たしてどうコメントをすべきか思い悩む。
 私とのことで、黒尾くんのバレーに浮き沈みがあったりするのだろうか。あるいは私と付き合うより前の話をしているのだろうか。私が知らない誰かのことで、黒尾くんが一喜一憂したりしたのだろうか。
 そんな私の思考を知ってか知らずか、黒尾くんはにっこりと私に笑いかけた。
「だから、俺は名前がそういうスタンスでいてくれてありがたいと思ってる。俺以上にきちんと線引きしてくれてありがたい」
「いや、私なんて全然そういうのと違うから……防衛本能みたいなもので……」
「よく分かんねえけど、まあいいか」
 会話がちょうど途切れたところで、料理が運ばれてきた。

 料理をぱくぱくと口に運びながら、今後の予定についてざっくりと話をする。お互いにバイトのシフトが出た頃だったので、今後のデートの予定を立てるのも今日のデートの目的のひとつだった。
「あ、そういえば。十七日の誕生日はうちの最寄り駅集合でお願いします」
 手帳を捲りながら言うと、黒尾くんは「はーい」と間延びした返事をする。
「しかし誕生日に部活がなくてまじでよかった」
 目の前に座っている黒尾くんは、手に私のものより二倍くらい大きなハンバーガーにかぶりつきながら、誕生日に部活がないことに心底嬉しそうに笑っている。
 黒尾くんには誕生日について、デートをしましょう、私が企画をしますということしか伝えていない。何をプレゼントするだとかどこに連れていくだとか、そういう具体的なことは、内緒のまま当日を迎える予定だ。
 サプライズというほどのことはないが、年に一度の誕生日なのだから、ドキドキしながら当日を待ってもらうのもいいだろう。そう思い、あえて詳細は伏せることにした。
 黒尾くんも私の気持ちを汲んでか、わざわざ何するのかとか何をくれるのかだとか、そういうことは一切聞いてこない。察しの良い彼氏で大変助かる。
「俺的にはプレゼントは私、っていうのが一番うれしいんだけど」
 黒尾くんの軽口に、私はジュースをずずずと吸って目を眇めた。
「黒尾くんはまたそういうこと言う」
「……名前チャン、なんかだんだんセクハラ耐性ついてきてない?」
「そりゃあもうおかげさまで」
 私も黒尾くんに負けじと、大きな口でハンバーガーにかぶりつく。黒尾くんの前でこんな風に変に取り繕うことなく過ごすことができるようになったのも、思えば先日の我が家でのあれこれ以来のことだ。お互い裸を見ておきながら、今更何を恥じらうことがあろうかという気持ちもあるし、取り繕う必要を感じないくらい黒尾くんに好かれているという自覚ができたというのもある。
 いずれにせよ、最低限よく見られたい、彼氏の前でこういう自分でいたいという思いはあるものの、かなり以前より好き勝手振る舞えるようになってきていた。黒尾くんも黒尾くんで、これまでよりセクハラ発言が増えたりさりげないボディタッチが増えている。小さな変化は、そういう意味ではあったのかもしれない。

 デートの最後、お会計をしながらちらと黒尾くんの財布を盗み見た。
 ──よかった、ちゃんといつもの財布を使っている。
 こうして毎日のように触れるものを私が贈って、私が贈ったものを黒尾くんが使う日が、きっともうすぐやってくる。私の鞄の中にはショップバッグが入っている。
 黒尾くんの持ち物のひとつひとつが、私との思い出に満ちたものになればいいのに。そこまで願ってしまうのは、さすがに少し我儘がすぎるだろうか。
 そんなことを考えながら店を出て、私と黒尾くんはいつものように、手をつないで帰った。

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