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 そんなわけで、待ちに待った週末がやってきた。今日この日を迎えるにあたって、私がどれだけ緊張し、そして入念な準備を重ねてきたことか。惜しむらくは黒尾くんにその努力の様子をお伝えできないことだけだが、それもこの後に控えている計画を思えば致し方ないことだ。
 そろそろ日が傾きかけてくる待ち合わせの時刻、私は逸る胸をおさえながら待ち合わせ場所の駅へと向った。今回は完全に私プレゼンツなので、黒尾くんには駅まで来るよう伝えただけで、その後の段取りを何一つ知らせていない。私が駅まで迎えに行くと、私を見た黒尾くんはまず驚いた顔をして出迎えてくれた。
 ふふ、と心の中でしたり顔。黒尾くんが驚いているのは、恐らく私の格好のせいだろう。 今日の私はほとんど部屋着同然のマキシワンピースに、セットが適当な髪形を誤魔化すためのニット帽。極めつけにコンタクトも入れずにメガネのまま、堂々と黒尾くんを迎えに来ていた。普段とは系統が違うとかそんな次元のゆるさではない。少なくとも、私が普段デートに着ていく服とはまったく違う。
 こういう格好には馴染みがないのだろう、黒尾くんは私に近付くとしげしげと眺めた。
「何、イメチェン? すげえラフだな。いや、そういうのも好きだけど」
「うん、まあ家にいるときは大体こんな感じ。黒尾くんだってこの間駅まで迎えに来てくれたときはジャージだったでしょ」
「いや、あの時は家と駅往復するだけだったし、そりゃあな」
「今日の私もそうだよ」
 途端に黒尾くんが変なものでも食べたような顔をした。とはいえそれは予想していたリアクションなので、別に怯むこともない。それに、たとえそんな顔をしたところで今更「やっぱり帰ります」などと言わせるつもりもなかった。ぎゅっと黒尾くんの手を握る。
「うん、じゃあ行こうか」
 元気よくそう言って、私は歩き出した。心為しか足取りの重たい黒尾くんの手を引き、私はずんずんと歩いていく。普段の私にはあるまじき強引さだが、今日に限ってはこれでいい。今日は私が、黒尾くんを自宅に連れ込もう作戦を決行するのだ。
「今日の行き先って、名前んちなの?」
 手を引かれながら黒尾くんが尋ねる。前を歩く私はそうだよ、と何でもないことのように返事をする。
「俺、何も手土産とか持ってきてねえけど、というか名前の親に会う心の準備とかしてないんですけど」
「それは大丈夫。明日まで親、いないから」
 今週末、うちの両親は揃って遠方の結婚式に出席している。だから我が家は明日まで、私しかいないのだ。もちろん彼氏を呼ぶだなんて親は知りもしないのだが、大学生にもなってわざわざすべて話す必要もないだろう。一応、友人を呼ぶかもしれないとは言ってある。
 私の説明に、黒尾くんは無言になった。何も言わないので、私もそれ以上のことは言わない。
 親がいない日に恋人を呼ぶなんて、言ってみれば黒尾くんの物まね、二番煎じだ。サプライズにもなっていない。だが、だからこそ、黒尾くんには余計な説明は不要だった。私の言葉の意味を、黒尾くんはきっちりと汲み取ってくれるはずだから。
 事前にコンビニで飲食物は買ってある。ネットの有料動画サービスに登録しているので、わざわざレンタルで映画を借りてくる必要もない。とにかく寄り道せずまっすぐ自宅に向かうこと──それが今日の第一の試練だった。
 寄り道しない、そして黒尾くんに家に行かない理由を与えない。まずは自分のフィールドに黒尾くんを引っ張りこむこと。それさえできれば、あとはどうにかなるだろう。
 道中黒尾くんはずっと何か言いたげにしていたが、私の言わざる聞かざる覚悟を察したのか、結局なにも言わず我が家までついてきてくれた。

 駅から歩くことしばらく、ほとんど会話らしい会話もないまま、私と黒尾くんは我が家へと到着した。
「前回はお風呂場と玄関くらいしか使わなかったから、黒尾くんがちゃんとうちに上がるの初めてだね」
 玄関の鍵を開けながら、私は言う。だな、と黒尾くんもかすかに笑う。いつもよりは少し硬い表情だけれど、考えてみれば黒尾くんは今まさに彼女の家にあがろうというのだ。緊張くらいしていてもおかしくはなかった。私だって前回黒尾くんの家にお邪魔した時には大層緊張した。
 黒尾くんを自分の部屋に案内して、座布団を渡す。
「飲み物コーヒーとお茶と紅茶とオレンジジュースと牛乳があるけど」
「選択肢多いな。……じゃあ、コーヒーで」
「はーい、待っててね。あ、このテレビで映画見られるから、見たいの選んでおいて」
 そう言い残して、私はコーヒーの準備のため階下に降りていった。
 階段を下りながら、ここまでの経過を脳内評価する。ひとまず自宅に黒尾くんを連れ込むことには成功しているわけだから、第一段階は及第点。全体的に私のペースに黒尾くんを乗せることができている。いつもは黒尾くんのペースで進んでいくから、それだけでもかなり達成感があった。
 だが、肝心なのはここからだ。コーヒーメーカーがぽたぽたとコーヒーを落とすのを眺めながら、私はこの後の展開について思考を巡らせた。
 流れとしては、黒尾くんの家でのおうちデートと同じだ。かなり意識して、前回のおうちデートを再現しようとしている。
 一緒にだらだら映画を見て、少しいい雰囲気になったら今度こそはリベンジ。シンプルだが、それゆえ計画に遊びがない。だから失敗すれば、結構な痛手をこうむることになる。前回と同じ轍を踏んだら、そりゃあ痛手は前回の比ではない。それでもやるしかない。
 処女の私がこんなにも張り切るなんて、もしかしたらおかしな話かもしれない。場合によっては黒尾くんに、ちょっとした変態だと思われかねない。そこまでして一線を超えたいのかよ、と言われたら返す言葉もない。
 だが、背に腹は代えられない。黒尾くんと私の間に、今のまま遠慮が介在した関係を続けていくなんて、絶対に嫌だ。私はただ黒尾くんが好きで、黒尾くんに触れてほしいだけなのだ。
 何より、誰かにはじめてを捧げるならば、その相手には迷わず黒尾くんを選ぶ。一度拒んでいる以上、黒尾くんはきっとこれまでよりずっと慎重に、私たちの関係を進めようとするだろう。私を傷つけないように、自分が傷つかないように。だから私の方から黒尾くんに手を伸ばす。

 空のマグカップとコーヒーがなみなみ入ったサーバー、それから買っておいたクッキーをお盆に載せて部屋まで運ぶ。苦労しながら部屋のドアを開けると、ちょうど黒尾くんは映画を選んでいるところだった。
「お待たせしました」
「サンキュー」
「どの映画観るか決まった?」
「んー、候補は絞ったから、あとは名前が観たいやつで」
 私は黒尾くんが選んだ映画の候補を確認する。そのうちのいくつかはすでに見たことのあるものだったが、前に見たときに面白かったので、見たことがあるということは伏せ、それを選んだ。折角一緒に見るのならば、面白いものを観たい。
 映画を再生する。コーヒーをすすりながら黒尾くんの隣にぴたりとくっついて座ると、黒尾くんがきょとんとした顔でこちらを見た後、呆れたように笑った。
「あらあら? 二人きりのときはえらく大胆ですね」
「かっこいい彼氏が隣にいるもので、つい」
「それじゃあ仕方ない」
 もちろん、こんなのは序の口だ。今日はこんなもんでは済ませませんよ、と心の中で付け足す。
 選んだのはサスペンスものの邦画だった。人気ドラマの劇場版で、上映当時はかなり人気になったはずだ。黒尾くんも私も元のドラマを知っていたため、ちょっと特殊な世界観もすんなり受け入れられた。
 サスペンスとはいえもちろん恋愛要素も多分にふくんでいる。主人公の女性刑事と後輩の男性刑事が様々な事件を乗り越え、紆余曲折を経て交際に発展するのがドラマ版。その続編である劇場版では、男性刑事の方が敵の銃弾に打たれて命の危機に瀕したりもする。事件が立て続けに起こる分、テンポよく楽しむことができる。
「私このドラマ好きだったなあ、この女刑事がかっこよくてちょっと憧れた」
 びしっとスーツを着こなし、男の人の中に混じって仕事に生きる彼女は男性にも女性にも人気がある。恋愛的な要素もあるものの、常に気丈に振る舞い、最愛の彼の命の危機ですら歯を食いしばって乗り越える彼女に、憧れる女子はきっと多い。
「まじ? 名前こういう感じ目指してたの」
 黒尾くんが意外そうに言うので、私は目を細めて黒尾くんを睨む。
「何、その目は。私がこういうキャラ目指したら悪いですか」
「いや、悪くないけど、でも全然違わない?」
「どうせ私は鈍くさくてクールさのかけらもありませんよ」
「ていうか名前はもっと可愛い系だよな」
 褒められているのか貶されているのかよく分からないが、可愛いというワードが入っていたので、ひとまず褒められていると解釈しておくことにした。彼氏に可愛いと言われて嫌な気はしない。黒尾くんの『可愛い』はあらゆる場面で頻発するので、実際のところありがたみは薄い。それでも言われるたびに嬉しくなるのは事実だ。
 膝を抱えて視線を映画に戻すと、さりげなく黒尾くんが私の肩に腕を回してきた。黒尾くんの方を見ると、にやりと笑われる。黒尾くんのこういう表情に、私はとことん弱い。ついついきゅんとときめいた。こういう意地悪そうな顔もここ二週間ほどはご無沙汰だったので、ときめきもひとしおだ。
 きゅんとした余韻で黒尾くんのことをじっと見つめていたら、追加でまた笑われた。
「映画ちゃんと見なくていいの?」
「……久しぶりにこんな近くで見るもん。黒尾くんのこと見る方が大事」
「まーたそういう可愛いこと言う」
 多分、キスしようと思えばできるくらいの距離だ。目と目が合って、肩に回された腕に触れて。
 だが黒尾くんは視線をそらすと、ふにっと私の頬を押して私の顔をテレビの画面に向けた。
「ちゃんと映画見なさい」
 その言葉に、胸に浮かんだ言葉は「あ、逃げた」だった。
 心の奥がざわりとする。自分が黒尾くんに「逃げた」と思ったことがショックだった。もちろん、黒尾くんが「逃げた」ことも。
 多分だけれど、今のは私のことを避けての行動だった。私のことをというか、私とのキスを、ひいては私と触れあうことを。
 肩を抱いてくれた時点では、多少は黒尾くんにもそういう気があるのかと思った。しかしそれはどうやら甘かったらしい。黒尾くんは、やはり分かりやすく私との接触を避けている。これはもうきっと、間違いないことだ。限りなくクロに近かった疑念が、私の中で明確に確信に変わった。
 手に持っていたマグカップをテーブルに置く。そして私は、唐突にリモコンに手を伸ばすと、そのままテレビの電源ボタンをぐっと押した。映画が途切れ、画面が暗転する。
「おい、」
 いきなりのことに、黒尾くんは頭の上にはてなマークを浮かべていた。だが、その疑問に答える言葉は必要ない。黒尾くんがこちらを向いたのをいいことに、私はぐっと身を乗り出して、そのまま黒尾くんにキスをした。
 自分からキスをするのははじめてだった。はじめてのそれは多分すごく不格好で、ほとんどぶつかるようなキスだったと思う。黒尾くんがしてくれるような、雰囲気満点で蕩けてしまうようなキスとは程遠い。不器用で不格好で、自分でも情けなくなるような恰好悪いキス。
 それでも黒尾くんは一瞬驚いた後、その格好悪いキスを受け入れてくれた。ゆっくり私の首もとに腕を回して、やさしく気持ちを確認するように唇を重ねる。黒尾くんの温度に、触れた感触に、気を抜くと泣いてしまいそうだった。
 そうだ、私はこうして黒尾くんに触れてほしかった。
 この皮膚のあついがっしりした手や触れるとちくちくする髪、黒尾くんのにおい。そういう黒尾くんを構成する要素のひとつひとつが愛おしくて、少しでも近くで感じたくて、だから私は黒尾くんに触れてほしいと思ったのだ。
 やっと離れた唇は、次のキスのための息継ぎのためでしかなくて、数センチしか離れていない。けれどその数センチの距離すらもどかしい。
 一秒だって黒尾くんと離れていたくない。
 一ミリでも深いところで黒尾くんと触れ合っていたい。
「名前」
 唇を離して黒尾くんが私の名前を呼ぶ。優しい声音。けれどその優しさは、多分私がほしい優しさじゃないのだ。私がほしいのは、もっと熱くてどろどろした、剥き出しの黒尾くん。
「全然足りない」
 そう言って、もう一度噛みつくようにキスをする。
 全然足りない。全然満足できない。こんな距離じゃ、私の心はいっぱいにはならない。
「もっともっと、黒尾くんに触れてほしいよ」
 溢れるように言葉となって落ちた言葉に、黒尾くんが笑った。

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