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 黒尾くんとのおうちデートから二週間経った。その間にデートは二回。
 私と黒尾くんは、未だそういう関係にはなっていない。

 バイトを終えて帰宅すると、着替えもしないうちにリビングのソファーに横になった。今日は大学の授業がなく、バイトも昼過ぎまでだったため、窓の外はまだ明るい。
 この時間、家族は私以外誰もいない。深々と溜息をついたところで、どうしたのと声を掛けてくれる人は誰もいない。別に声を掛けてほしいわけではないが、ひとりきりの静かさに胸が塞ぐような心地になる。
 ぼんやりと天井を見上げながら、黒尾くんのことを思い出す。この二週間の黒尾くんのことを。
 この二週間で、私と黒尾くんは二回デートをした。私と黒尾くんのデートの頻度として、これはけして少ない回数でもない。この二週間は比較的お互いに余裕があった。
 その二回のうち、一回は平日、それもファミレスで一緒に夕飯を食べただけだ。何か起こるような空気になる方がおかしいくらいの健全さ。なので、これは何も起こらなくて当然だ。
 前回のおうちデートのことがあった手前、顔を合わせるとなると多少の気まずさがあるかもと、実のところ、私は密かに懸念していた。喧嘩をしたわけではないが、すべてがうまくいっているわけでもない。そういう時の微妙なずれというか、言いようもない違和感みたいなものが、黒尾くん相手に限らず私は苦手だった。
 黒尾くんは人間関係の調整がうまいので、彼との間には余程のことがない限り、そういう摩擦は生まれない。それでも今はどうしても、黒尾くんとぎくしゃくするのではと、考えずにはいられない。不安にならずにはいられなかった。
 そんな私の不安をよそに、実際に顔を合わせた黒尾くんは、しかしいつもと特別変わったところもなく、至って普通の黒尾くんだった。普通に楽しく食事をしただけだった。
 話したことといえば秋季リーグが終わって、少し部活が落ち着いたということ。黒尾くんのバイト先に年上の新人が入ってきたこと。木兎くんのこと。いつもと変わらず簡単な近況報告と世間話。些細な日常についてだ。
 私も友人のことやバイトのことを話して、大学の近くに新しくできたちょっとおしゃれな本屋さんがよかったとかバイト先の新メニューが美味しいとか、いつもと変わらない話をしたはずだ。大して記憶に残っていないということは、要するに特筆すべきこともないということだ。
 いつも通りに楽しく過ごし、その日はお開きになった。別れ際に触れるだけのキスをしたけれど、それ以上何を言うでもなく、何をするでもなく。
 問題は二回目のデートだ。
 二回目は休日、一緒に買い物に出かけた。いつものように手もつないだし、これといって距離があったわけでもない。昼から一緒に出掛けて、夕方には地元に戻ってきた。その日はうちに家族が誰もおらず、また黒尾くんはそのことを事前に知っていた。
 これまたいつも通りに家まで送ってもらう。ただ、いつも通りではなかったのは私がそこで黒尾くんに「うち寄ってお茶でもしていく?」と尋ねたことだった。
 特に深い意味があったわけではない。何の気なしに尋ねただけだ。買い物はほとんど私に付き合ってもらったようなものだったし、荷物も重いものは黒尾くんが持ってくれた。時間だってそう遅くはない。だから、せっかくここまで来たのだから、お礼も兼ねてお茶でもどうぞと、その程度のつもりだったのだ。
 私の問いに、黒尾くんは笑顔で首を横に振った。
「夜久たちと音駒にバレーの指導に行くから、せっかくだけど今日はパスするわ」
 黒尾くんは高校を卒業してからも、定期的に音駒に顔を出していた。そこに夜久くんや海くんが加わることもしばしばだと、以前私は黒尾くんから聞いたことがあった。
 音駒はいわゆる強豪校らしいが、そもそも普通の公立高校なので、私立の強豪に比べて部員数が桁違いに多いわけではない。そのぶん同学年三人の絆は強く、卒業後の結束も固かった。三人そろって後輩の様子を見に行くことも、特段珍しいことではない。そのことは、これまでの黒尾くんとの付き合いの中で、私もよくよく知っていることだった。
 だから、信じて疑いもしなかった。黒尾くんと別れた後、うちの近所でうっかり夜久くんに出会い、今日はそういう予定はないと聞くまでは。

 あの時の夜久くんのぽかんとした顔は、多分当分忘れられないだろう。
 黒尾くんは私に対して、驚くほどに誠実なひとだ。そのことは夜久くんも知っている。夜久くんとしては、まさか自分の名前が私からの誘いを断るために──だしに使われたなんて思いもしなかったはずだ。当然、私だって思いもしなかった。というか断るのなら断るで、普通に断ると思っていた。
 一回目のデートのときに何もなかったのは仕方がないことだ。一線超えているとか超えていないとか関係なく、そういう雰囲気でも時間でもなかた。けれど二回目のデートでは、完全にそういう雰囲気になるのを避けられたのだと思う。わざわざ嘘までつくなんてよっぽどだ。思い出すだけで、胸がきりきり痛くなる。
 むろん、黒尾くんが私と二人きりになりたくなかっただけという可能性もある。その場合、むしろ事態はより深刻なのだが、それでも心理として分からないわけではない。世間には、身体を許さない女子とは恋愛関係を築こうとしない男子が一定数いるという。そういう男子の存在を、私もうっすらながら知ってはいる。そしてやはり、その心理は共感はしないが理解はできる。
 だが、黒尾くんはそうではない。相変わらず黒尾くんからは毎日のように連絡がくるし、デート中の黒尾くんはすこぶる楽しそうに見える。私を好いてくれているのだなと感じることも多々ある。そうなると、原因は私が嫌われたということよりも、私とそういう空気になることを避けていると考える方が自然だ。
 黒尾くんは今頃バイト中か。
 着信のない携帯を無駄に何度も付けたり消したりしては、いちいち律儀に溜息をつく。昼過ぎに送ったメッセージへの返信はまだない。バイト中なのだから当たり前だ。それでも私の心はどんどん深い場所へと落ち込んでゆく。
 黒尾くんの家で一線を越えようとし、そして私が拒んでしまったあの日から、心の中にずっと重たい何かが沈んでいた。
 黒尾くんのことを拒みたかったわけではない。あの瞬間までは、私は黒尾くんのことを受け入れる気持ちでいっぱいだったのだ。なのにその瞬間が来たら、途端に恐ろしくなった。結果、黒尾くんを拒んだ。
 黒尾くんを受け入れるということ、黒尾くんの気持ちを受け止めること。感じたことのないほどのあの痛み。鋭利な刃物を挿入されているかのようなあの痛みは、正直私の想像をはるかに超えた痛みだった。だめだ、無理だと思ったのは紛れもなく事実だ。
 その私の気持ちを、どこまで黒尾くんが察しているかは分からない。謝る私に対する黒尾くんの言葉や態度から、私の事情を黒尾くんが汲んでくれているとは思う。
 それでも、その痛みを知らない黒尾くんが、どこまで私の気持ちを理解できるかといわれれば、それはなかなか難しいことなのではないだろうか。黒尾くんとそういうことをするのが嫌だったわけではなくて、ただあの痛みに耐えきる自信がなかった。それでも拒んだということには変わりはない。
 携帯の検索窓に 『はじめて 痛い』 と入力し、しかしすぐに馬鹿らしくなってそれを消した。
 痛いというのは知っていた。そして実際に、文字通り痛感したわけだけれど、二週間経った今となってはあの時の痛みよりも、黒尾くんに触られないということの方が余程重く堪えている。私に対してはどこまでも優しい黒尾くんだから、痛いと言ったらやめてくれるし、無理にそれ以上のことを望んでも来ない。強引に踏み込み求めてきたりはしない。
 そんな黒尾くんの優しさに、事もあろうに寂しいなんて思うのは、あまりにも自分勝手だ。優しさには誠意でもって応えるべきで、それが理想的なカップルの在り方なのだろう。
 頭では理解している。それなのに、そうとは思えない自分がいる。
 もっと私のことを求めてほしい。踏み込んで抱きしめてほしい。私が黒尾くんにずぶずぶなように、黒尾くんも私にずぶずぶになってほしい。痛い痛いと喚く私を、それでもと迫ってほしい自分がいる。
 黒尾くんの優しさに素直に喜べない、嫌な自分。どう消化していいか分からない感情は、どんどん膨らみ胸を圧迫する。
 そんな感情に感化されるようにして、夏頃に私の頭を悩ませていた「黒尾くんへの依存」が再び首をもたげ始めた。どんなに意識しないようにしていたって、結局のところ、私は黒尾くんにすっかり依存してしまっているのだ。そして、黒尾くんにも私と同じように私を求めてほしい。触れたいと思ってほしい。
 黒尾くんに恋をする前の私では考えられないほど、自分の思考回路が滅茶苦茶で女々しくなっている。だが、元をただせば私をこんな風にしたのは黒尾くんだ。それならば黒尾くんには、責任を取ってもらわなければ勘定が合わない。
 嫌な自分だということを分かっていながら、それでも私は黒尾くんのことを好きで、歯止めがきかなかった。

 ★

「今週のデートは私が企画します。ていうか、もうしました」
 その晩の電話で開口一番に宣言した私に、黒尾くんは電話越しでもわかるくらい、露骨に戸惑っていた。バイト終わりで疲弊したところに間髪入れずにそんなことを言われては、困惑するのも仕方がないことかもしれない。それでも困惑する黒尾くんというのが貴重で、少しだけ私はしてやったりと嬉しくなる。
 だが嬉しくなったのも一瞬のこと。すぐにきりりと表情を引き締める。電話越しではバレないだろうが、もしかしたら黒尾くんなら声のトーンで私の表情くらいお見通しかもしれない。にやついていては怪しまれてしまう可能性がある。壁に耳あり障子に目あり、電話越しに黒尾くんの千里眼ありだ。
「企画って、どういうこと?」
「読んで字のごとく、企て、画るんだよ。私が」
「どっか行きたいとことかあったなら、普通に教えてくれればよかったのに。俺かなりきっちりプランニングするよ?」
「それじゃいつも通りでつまらないでしょ? それに私だってたまにはサプライズみたいなこともしたいんです」
「サプライズって、また名前には向いてなさそうなことを」
 呆れ笑いする黒尾くんの言葉は正論だったが、ここはあえて聞かなかったことにした。たしかに私みたいなタイプの人間にはサプライズなんて本来不向きだ。相手の計画であればある程度適当でもいいけれど、自分が計画するとなるとじっくりじっくり精緻に練られたプランの方が安心する。
 だが、今回ばかりは特別だ。何せ此度の企ては、完全に隠密行動が求められていた。先の二回のデートから、どうにか黒尾くんを誘いこむにしても黙ってことを進めなければ、黒尾くんは食いついてこないだろうという確信がある。
 そして黒尾くんは大変勘がいい。余計な情報は一切漏らさず、すべてこちらで準備をするくらいの意気込みがなければ、計画の遂行は夢のまた夢だ。
 そう、これは黒尾くんを罠に嵌めるための作戦だった。ひとりで悶々と考え、自分が今どうすべきか、どうしたいかを心ゆくまで煮詰め、さらに黒尾くんが何を考えているのかという予想まで織り込んだ、私の渾身の作戦だ。絶対に失敗するわけにはいかない。
 気分はさながら任務を遂行するスパイ。その任務というのが途方もなく自分本位でどうしようもないものだという以外は、おおむね完璧だ。
 私のサプライズに困惑しつつ、何ならちょっと抵抗もしつつ、しかし最終的には黒尾くんは、私の案を承諾してくれた。
 今週の日曜日、十六時。待ち合わせ場所は私の家の最寄りの駅。約束をとりつけて切った後の携帯電話を見つめ、私は思わず長く息を吐き出した。作戦は最序盤だが、ひとまずはうまくいったようだ。胸に安堵が沸き上がる。
 黒尾くんに隠しごとをすることへの罪悪感はもちろんある。だがそれよりも、今は自分の欲望だ。あまりにふしだらな女になった己を顧みて、私はまた長く深い溜息を吐き出した。

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