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 電車をおりて改札を出ると、否応なしに胸が高鳴り始めた。黒尾くんと地元で会うときには、普段は私の家の最寄り駅や現地で待ち合わせをすることが多い。私がこの駅でおりるのは初めてだ。
 改札の前には黒尾くんが、普段と変わらない様子で立っていた。黒尾くんの服装は、スウェットにパーカーをひっかけ、下はジャージ。黒尾くんにしてみれば自宅と駅を往復するだけなのだから、わざわざめかしこむ必要もないのだろう。一応よそ行きの格好をしてきた私とは、なんだかちぐはぐな感じになっている。
「よ」
「こ、こんにちは」
「まじで気遣う必要なかったのに」
 挨拶もそこそこに、私が持っている紙袋を指差して黒尾くんは言う。紙袋はそのまま黒尾くんに手渡した。というか黒尾くんに取り上げられた。
 黒尾くんはいつも私の荷物をさりげなく持ってくれるので、甘やかされている私はすっかりそれを普通に受け入れてしまっている。もちろん感謝はしているものの、付き合い始めたばかりの頃のように、いちいち持つ持たないの押し問答をすることもなくなった。
「一応ね、お招きいただくわけだから。お気持ち程度ですが」
「今日も変わらず真面目だねぇ」
「なんかそれ久し振りに言われた」
 黒尾くんの家までは、駅から歩いて十分とかからない。とはいえ駅からは繁華街とは反対方向に行くので、駅前の喧騒からは適度に遠く、歩いて行った先は閑静な住宅街だった。
「あ、ここ研磨んち」
 道中、一軒の民家を指して黒尾くんが教えてくれた。黒尾くんの家は、そこからさらに数メートルの同じ並びにあるらしい。
「いいなあ、本当にご近所に住む幼馴染なんだ」
「よく研磨んちで飯とか食ってた」
「本当に家族ぐるみなんだね。私まだ研磨くんと仲良くなりきれてないからなあ」
「あいつ人見知りだから。そのうち名前とも普通に喋るようになるだろ」
「あ、でも最初よりは話してくれるようになったんだよ」
「最初っていつ?」
「黒尾くんと研磨くんが一緒に登校してきたところに、昇降口で鉢合わせたとき」
「その時会話なかったことない? そらその時に比べたら喋るわ」
 そんな話をしていたら、黒尾くんが「ここ」と立ち止まった。うちと同じような、普通の家。どこにでもある普通のお宅だ。しかしここが黒尾くんが生まれ育った家だと思うと、それだけでなんだか特別な家のように思えてくる。
 玄関の鍵を開ける黒尾くんの手元を、私はぼうっと見つめた。黒尾くん以外の家族はみんな出掛けていると知っているのに、どうにもどきどきしてしまう。
 玄関のドアが開く。当然なのだろうが、よその家のにおいがした。玄関にはどこかのお土産だろうか、小さなオブジェが置かれている。下駄箱のわきには使い古したバレーボール。
「特に面白いもんねえぞ」
 きょろきょろしていた私に黒尾くんが苦笑した。それでもついつい、遠慮なく見回してしまう。
 一階には見向きもせず、黒尾くんはまっすぐに二階に私を案内した。
「俺の部屋のテレビでいいよな? その方がだらだらできるし」
「うん、私はなんでもいいよ」
 いくら黒尾くんと私以外には誰もいないとはいえ、普段黒尾ファミリーが団欒しているリビングで黒尾くんと二人きりになるのは、さすがにちょっと気恥ずかしい。それならばまだ、黒尾くんの個人の部屋の方が緊張感は少ないだろう。黒尾くんの部屋がどんな部屋なのかも気になる。
 階段を上がり、奥の部屋へと進む。いよいよ黒尾くんの部屋に入るのだと思うと、なんだかただのどきどきとは違う、そわそわともわくわくともつかない、不思議な感覚を覚える。
 通された黒尾くんの部屋は、想像していたよりもずっと物が少なく片付いていた。部屋のほとんどをベッドや勉強机、本棚が占めている。ローテーブルにはさっきまで食べていたのか、口の開いたままのスナック菓子の袋が置きっぱなしになっている。その菓子袋をくしゃくしゃと取り上げて、黒尾くんは言った。
「名前の買ってきてくれたケーキ、とりあえず冷蔵庫入れてくるわ。飲み物持ってくるけど、お茶でいい?」
「あ、お構いなく。なんでもいいです」
「ん、じゃあお茶な」
 適当に座って待ってて、そう言い残して黒尾くんは部屋を出ていく。残された私はなんだか落ち着かない気持ちを抱えながら、とりあえず床に腰をおろした。
 ぐるりと部屋の中を見渡してみる。勉強机の上には高校時代の教科書や便覧がそのまま残っていて、その上に積み重ねるように大学の参考書らしき専門書が、乱雑に載せられている。一番いい場所をノートパソコンが占拠していて、机の上はほとんど物置状態だ。
 壁には多分、バレーの選手のポスター。本棚には昔流行った漫画や子供用の図鑑。上の方にはトロフィーも一緒におさまっている。ベッドの下にはカラーボックスが入っていてそこから服の裾がはみ出していた。私が来るからあわてて片付けをしたのだろうか。全体的に隠しきれていない生活感が微笑ましい。
 黒尾くんのにおい。黒尾くんが毎日眠る部屋。そこに自分がいるなんて、不思議な気分だ。
 お茶と煎餅をお盆に載せて戻ってきた黒尾くんは、部屋のドアを閉めると悪戯っぽい顔で笑った。
「お待たせ。俺がいない間にベッドの下とか捜索した?」
「してないよ! それに黒尾くんそういうの巧妙に隠すタイプでしょ」
「当たりー。良い子の名前には絶対見つけられないような隠し方してるから」
「何その自信」
「男はみんな秘密の隠し場所を持ってるんだよ」
 そう言いながら黒尾くんがテレビのスイッチを入れる。レンタルビデオ店の青い袋からDVDを三枚取り出した。
「どれから見たい? 一応色々借りてみた。アニメとSFと感動系」
「感動系後半だと眠くなりそう。先に消化しちゃおうか」
「いいの? 感動して泣きすぎて、頭痛くなって次の映画無理とかならない?」
「黒尾くんは知らないかもしれないけど、私は映画とかびっくりするくらい泣かないタイプ」
「へえ、意外」
 座布団を床に置いて、二人並んで座る。背もたれ代わりにベッドを背にする。
 最初に見始めたのは、昨年話題になった恋愛ものだった。正直黒尾くんがこの手の映画をチョイスするのは意外だ。というか、男の子が恋愛映画を観るというイメージそのものが私にはあんまりない。
「恋愛映画普段あんまり見ねえんだけどな」
 私が思っていたのとまったく同じことを黒尾くんが言った。
「名前が好きかと思って借りてみた」
「うん、わりと好き。というか映画はあんまりジャンル問わない。映画館に通うほどではないけど」
「名作とかはなんとなく観ておくタイプ?」
「そうそう」
「分かる、俺も結構そういうタイプ。研磨にミーハーって言われる」
「研磨くんは違うの?」
「あいつ、そもそもあんまり映画観ねえんだよな」
 そんな話をしている間に予告映像が終わって本編が始まった。
 出ている女優や俳優は若手で、中高生に人気がありそうな人たちばかりだ。原作はたしか、少し前に話題になった漫画。公開当時は自分が受験生だったこともあって、気になりつつ観ていなかった。
 画面の中では社会人になったヒロインが、高校時代に好きだった男の子と再会して大喜びしている。その隣でヒロインの幼馴染の男の子がむっとした顔をしているのに、ヒロインはそのことに気付かない。自分の憧れの男の子と、長年真摯に思い続けてくれている幼馴染。どちらを選ぶべきなのか──と、まあそういう話だ。
 はたから見ている分には絶対に幼馴染の方が優しくてヒロインを好きでいてくれているのに、当のヒロインはなかなかそれに気付かない。そうこうしているうちにヒロインが大病をわずらっていることが発覚したりと、なんだか波乱万丈だ。
 物語が進むにつれ、ヒロインは自分の愛する相手が誰なのかを少しずつ自覚してゆく。そしてラストはキスシーン、そしてエンドロール。見事な大団円で映画は終了した。
 ヒロインの病気がどうなったのかは明かされなかったが、物語の本筋ではないので割愛されたのだろうか。もしかしたら原作では書かれているのかもしれない。よく分からないが、ラブシーンにときめきはした。
「思ったよりよかったよね」
 エンドロールを眺めながらと言うと、黒尾くんも頷いてくれた。少しだけ黒尾くんの目が潤んでいるように見える。もしかして感動したのだろうか。
「あんま見ないの」
 黒尾くんが顔をそらす。どうやら本当にうるうるしていたらしい。それを誤魔化すように、黒尾くんはわざとらしく咳払いをして言った。
「次の映画見る前に、名前の買ってきてくれたお土産のケーキ食うか」
「そうしようそうしよう。お腹すいてきたところだったんだ」
「持ってくるからDVD入れ替えておいて。操作わかる?」
「大丈夫だよ。次どっち観たい?」
「名前のおまかせで」
 ばたんと音を立てて部屋のドアが閉まる。黒尾くんに言われた通り、ディスクの入れ替えをしていると、待つほどもなく黒尾くんが戻ってきた。手に持ったお盆の上にはタルトがふたつ。
「黒尾くん食べられないものとかないよね? 完全に私の趣味で買ってきたんだけど」
「俺あんま好き嫌いない。大体なんでも食います」
「私どっちでもいいから、黒尾くんから先にお選びください」
「いちごのと、これチーズケーキ?」
「うん、レアチーズ」
「んー、珍しいしレアチーズの方かな」
「お目が高い。一口頂戴ね」
 黒尾くんが準備してくれている間に、私もDVDをつける。次に再生したのは、海外アクションものの映画。予告を観ながらタルトをどんどん口に入れていく。
 黒尾くんのチーズタルトにフォークを突き刺して、ぎりぎり口に収まるくらいの大きなひと口をもらった。さすがに欲張りすぎたので黒尾くんにも笑われる。
「いや、取りすぎだろ」
「えー、でもこっちも食べたかったんだもん……」
「じゃあ最初に言ってください」
「苺も食べたかったんだよ」
「欲張りか」
 大きなひと口をもらった代わりに、私は自分のタルトも大きく切り分けて、黒尾くんのお皿の端に置く。
「そこは『あーん』してくんないの?」
「してほしいの?」
「してほしくない時がない」
 清々しいまでにきっぱりと言い切られてしまった。だが私とて、いつまでも「あーん」ごときに照れている私ではない。してほしいと言われれば、そのくらいのことをするだけの余裕もある。
 タルトにフォークを突き刺すと、ずいっと黒尾くんの口許に差し出した。黒尾くんの方がかえって驚いて目を見開いている。
「え、まじで? まじで『あーん』してくれんの?」
「黒尾くんがしてほしいと言うのであれば」
「まじか。言ってみるもんだな」
 と、ふと黒尾くんの顔を見ると、口の端にクリームがついていた。小さい子みたいで可愛らしいが、どうやら本人は気付いていないらしい。
「黒尾くん、口の端にクリームついてるよ」
 ここ、と指差す。黒尾くんは私の差し出したタルトをひと口ぺろりと食べてしまうと、口の端のクリームをも拭うでもなく、にやりと笑った。
「そこはぺろってして取ってくんねえの?」
「えっ! な、何言ってんの!」
 黒尾くんの突拍子もない言葉に思わずたじろぐ。さすがにそんな無茶苦茶を受け入れることはできなかった。「あーん」と「ぺろっ」では全然違う。
 にやにや笑いの黒尾くんの笑顔が、なんだか途轍もなく邪悪なものに見えてきた。こういうときの黒尾くんは確実に何かを企んでいる。私にそういう類の表情を見せることは少ないが、とはいえ今までまったく覚えがないというわけでもない。
 そして私は知っている。こういう黒尾くんに対して、私に勝ち目はないと言い切ってもおかしくないことを。
 フォークをお皿に戻すと、私は座った姿勢のまま座布団ごと、少しだけ黒尾くんから距離をとる。背後にはベッドがあるので、距離をとるといっても横にスライドするしかない。
 よくない、これはよくない。何がよくないのかと問われればはっきりと何と断言することはできないが、とにかくこれはよろしくない。
 しかしそんな私の抵抗は見透かしたように、黒尾くんはぐいっと距離を詰めた。その勢いに気圧されるようにして私はバランスを崩す。背中に床の感触。キスしそうなくらいの顔の距離。黒尾くんの身体が、仰向けになった私の上に覆いかぶさっていた。

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