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──「大体、俺もどうせそんなに長くは待てなかったぞ。名前も言ってたけど半年経ったし、そろそろ待つのやめようかなとも思ってた。ただ、もう暫くは様子見って思ってたけど、名前がそういう心構えな以上、俺が手出すのもそう遠くないんじゃない?」

 日帰り旅行から二週間。あの黒尾くんの言葉が、私の頭の中をずっとぐるぐるまわっている。
 そう遠くないというが、黒尾くんとしては具体的にはいつ頃、そうした展開を予定しているのだろうか。少なくとも今年中にはそういう関係になる予定なのだろうか。まさか「ところで私たちの初めてはいつ頃どこで致しましょうか」なんて打ち合わせをするというわけにもいかない。
 黒尾くんは十月の半ばまで、部の秋季リーグとやらで土日は忙しいらしい。部活は土日のどちらかだけだが、休みの日には自主練習がある。一日休みの日は殆どなく、多忙な日々を送っているようだ。
 私は私で新学期が始まったので、黒尾くんのことばかり考えているわけにはいかない。いかないのだが、正直に言って今の私の頭の中は黒尾くんのことでいっぱいなのだった。
「でもさー、大事にされてるならそれはそれで良くない? したくないって言われてるわけじゃないんだし」
 新学期。空いた講義室で昼食を食べながら、机を挟んで私に向かい合った友人は言う。恥を忍んで打ち明けたというのに、友人から帰ってきた言葉は、あっさりさっくり「別に良くない?」。
 恋愛経験が私よりもはるかに豊富な友人には、私の初心すぎる恋愛事情は一周回って輝いて見えるらしい。こうして定期的に食事に誘われては、黒尾くんとの恋愛について報告させられている。もっとも、今回に限っては私の方から相談があるからと呼び出した。
 大学からの友人なので、彼女は黒尾くんのことをほとんど何も知らない。その分私も気軽に相談しやすくて助かる。
「大体、そんなに名前ちゃんのこと思って我慢してくれるなんて、すっごくいい彼氏だよ。普通そこそこ付き合ったら、しれしれーっとあっさり済ませちゃうのに。それを名前のためにって半年以上待ってくれてるんでしょ? 奇跡じゃん。現代の奇跡」
「そう、そうなんだよ……そうなんだよね……」
 自分でもよくよく分かっていることだ。それをこうもはっきりと言われては、私に反論などできようはずもない。友人はさらに畳みかけてくる。
「それなのに不満があるとかさ、はっきり言って贅沢すぎだよ。世の中には大事にしてもらえない、体の関係だけしか求められずに苦悩する女子が溢れかえっているっていうのに、逆に名前ちゃんはどれだけ性に興味津々なの?」
「きょ、興味津々って……!」
 そこまで露骨な表現をされると、さすがに恥ずかしくなってくる。思わず顔を俯け呻いた。
 とはいえ興味があるかと問われれば、当然興味はあるに決まっている。友人が大体済ませていることを私だけまだ知らないとなれば、当然どんなものなのかという興味は膨らむ。
 大事にされればされるほど、まだ見ぬ世界は如何ばかりかと妄想が膨らむ。
「でも、私だって何も興味本位だけで言ってるわけじゃないんだよ? 来たるべきその時に備えてというか。備えあれば憂いなしというか」
「そんな大層なものでもないと思うけどねえ……。どうせ時がくれば嫌でもわかるんだし。胸をどきどきさせながら待っておけばいいんじゃない?」
 友人の正論に返す言葉もない。それ以上の建設的な話題もなく、その日は後期の履修について幾らか相談し、あっさり解散した。
 結局のところ、こういうことは二人の問題であって、友人だからとどうこう言うことはできないのだろう。まして、黒尾くんのことをほとんど知らない彼女が『この日にいたすであろう』なんてことが分かるはずもない。私にできることといえば、今か今かとその日を待つことだけだ。
 と、そう思って待ちの覚悟を決めたその日の晩。寝支度をしていると、いつものように黒尾くんから電話がかかってきた。
 秋季リーグで土日が忙しくなり始めてから、黒尾くんは以前にも増してよく電話をかけてくるようになった。忙しいからこそ、連絡は密にということなのだろう。
「もしもし、黒尾くん? おつかれさまです」
「おー、そっちもおつかれ」
 黒尾くんは部活、私はバイト。お互いそれなりに忙しい日々を送っているから、大抵最初の言葉は労いになる。決まった挨拶の後は、これもやはりいつも通りの近況報告をした。友人と食事をしたこと、バイトであった小さな事件。もちろん黒尾くんとの性事情に頭を悩ませていることは伏せておく。待つと決めたのだからわざわざ言う必要もないし、そもそもそんなことは恥ずかしくて、黒尾くんには絶対に言えない。
 私の話を相槌を打ちながら聞いていた黒尾くんは、話題が一段落したところで「そういえば」と話を切り替えた。
「今週末、体育館使えなくて自主練が午前だけなんだけど、名前バイトなかっただろ? よかったらうち来ない? 前に言ってた映画の鑑賞会しようぜ」
「前に、といいますと」
「あれ、忘れた? まあ前っつってもゴールデンウィークの話だから、忘れてても仕方ねえけど」
 はて、なんだっただろうかと記憶をさかのぼって、ようやくゴールデンウィークに映画を観に行ったときの話だと気が付く。軽い気持ちで話したことなのに、まさか黒尾くんが覚えてくれていたとは思わなかった。
「俺の観たい映画のレンタルも始まってたから、この際一気に借りてこようと思うんだけど、せっかくだし名前もどうかなーと」
 だめ? なんて柄にもない可愛らしい聞き方をされてしまったら、私が断れるはずもない。一も二もなく了解した。電話口の向こうから黒尾くんが「じゃあまた詳しくは当日近くなったら」と言う。少しだけ弾んだ声に、私まで勝手に嬉しくなった。
「あ、悪い、風呂入れって呼ばれてるから、そろそろ切る」
 そう言って通話が切れたので、携帯を置いていそいそとスケジュール帳を開く。今週末の欄に黒尾くんの名前を書き入れ、
「あ」
 と思わず声をあげた。
 今週末、黒尾くんの家。
 何気なく了解してしまったが、黒尾くんのおうちにお邪魔する以上、黒尾くんのご家族と顔を合わせる可能性も十分ある。そのことに気が付いた途端、雷に打たれたような激しい衝撃に襲われた。彼氏の家族と顔を合わせるなんて、そんなのは大変なことではないか。
 前回黒尾くんがうちに雨宿りに来たときには私の両親はいなかった。だがあれは、両親がいないからこそ黒尾くんを家に招いたようなものだ。
 黒尾くんはどうなのだろう。その辺りのことを何か考えているのだろうか。
 黒尾くんの両親がいれば顔を合わせることは必須だし、いなければいないで大事件だ。二人きりで黒尾くんの部屋という、魅惑のシチュエーションが完成してしまう。そうなれば今度こそ、一線を越えることになるかもしれない。
 ふたたび私はスケジュール帳を見る。今日はまだ月曜日。約束の週末まで、まるっと一週間もある。一週間もの間、私はご家族との顔合わせか黒尾くんとの二人っきりでのお部屋デートか、その可能性について考え続けなければならない。
 長い長い一週間になりそうだ。頭を抱えながら、私は布団にもぐりこんだ。

 ★

 いよいよやってきた週末、私は待ち合わせ時刻の一時間前に家を出た。我が家から黒尾くんの家の最寄り駅までは、だいたい二十分もあれば到着する。かなり余裕を持って出てきたのには理由があった。
 黒尾くんの家を訪問するのに、まさか手ぶらで行くわけにはいかない。早くに家を出てきたのは、近所の美味しいタルト屋さんで手土産を購入し、気合いを入れて訪問するためだ。
「あれ、でも黒尾くんの家って何人家族なんだろう」
 タルト屋さんのショーケースの前で、私は首をひねった。
 黒尾くんが自分の家族について話すことは少ない。祖父母と同居していることだけは聞いたことがあるが、兄弟がいるのかなどの家族構成については聞いた覚えがなかった。
 生ものである以上、買いすぎても却って迷惑になる。一応電話して何人分買っていけばいいのか確認しよう。そう思い、黒尾くんに電話をかける。
 携帯電話を耳にあててツーコール。すぐに黒尾くんは応答した。
「もしもし、黒尾くん? 名前だけど」
「ん、どした? 遅れそう?」
「いや、そんなことはないんだけど。今タルト屋さんにいるんだけど、黒尾くんのご家族って全員で何人? いくつ買っていけばいいかな?」
 目ぼしいタルトをいくつかピックアップしながら確認する。黒尾くんは電話の向こうで少しだけ笑った。
「手土産とか別に買わなくていいぞ、どうせ今日俺しかいねえから」
「えっ」
「だから手ぶらで大丈夫。また乗る電車分かったら教えて」
 そうしてこちらの返事を待つこともなく通話が終わった携帯を手に、私はしばし呆然と立ち尽くす。
 ──どうせ俺しかいねえし。
 つまり、黒尾くんの家で私はこのあと、黒尾くんと二人きりになるということだ。二人きり。誰にも邪魔が入らない、誰の眼も気にする必要がない場所で、二人きり。
 この間の旅行で二人きりになることへの耐性は多少ついた。何せ一緒のベッドで一夜を明かしたのだ。それに比べれば、昼間の部屋なんて全然、全然、ぜんぜん──
 全然大丈夫なんかではなかった。今日のために全身くまなく点検もしたし、買ったばかりの可愛い下着だってつけている。やる気まんまんだと言われれば確かにそうなのだが、ここでやる気を出さずにいつやる気を出せというのか。黒尾くんの家という完全な彼のテリトリーに招かれている以上、こちらは出来得る限りの装備で臨まねばなるまい。
「……このいちごのと、チーズタルト、一つずつください」
 二人分のタルトを箱に詰めてもらいながら、高鳴る胸の鼓動を必死で押さえつけた。
 黒尾くんの家に到着するまで、あと一時間。

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