42

 私に背を向けて布団にもぐりこんだ黒尾くんを、横になった私は茫然と見つめた。
 おやすみって。じゃ、おやすみって。暗闇の中にぼんやり浮かぶ黒尾くんのシルエット、丸まった肩のラインに、肩透かしをくらった気分になる。
 真っ暗な部屋の中、向こう側を向いている黒尾くんは、もうすっかり自分の世界に入ってしまったように見えた。丸めた背中からは、ゆるやかに私を拒む気配を感じる。
 時折もぞもぞと窮屈そうに身体を動かすので、黒尾くんが眠りについていないことは分かる。黒尾くんが息を殺そうとしているのを察し、私も真似て呼吸を殺す。そうしているうちに、だんだんと心にすかすかと隙間風のようなものが忍び込んでくるような、そんな虚しい気分になる。
 私は一体、ひとりで何を緊張したり慌てたりしていたのだろう。ただただバカみたいに空回っていただけではないか。
 別に今夜何かあることを、ことさら期待していたわけではない。突発的な宿泊とはいえ、本来今日はそんな予定ではなかったし、先日の花火大会の日のような空気もなかったはずだ。いや、端からそういう空気にならないように、互いに細心の注意を払っていた。
 髪を乾かしてもらったときなど、ちょっと考えなしの行動をとってしまったこともあるが、それでもやはり、ここで何かがあったらどうしようと不安な気持ちはあったのだ。
 それなのに、こうしていざ同じ布団に横たわってみると、こうもあっさり黒尾くんが就寝してしまうことに、どうしようもない切なさを感じている。あの丸まった背中の輪郭に、言いようのない寂しさや悲しさを覚えてしまう。
 黒尾くんと私が恋人になって半年経つ。もう半年。互いのことを知り合って、次のステップに進むのに、半年は十分な時間ではないのか。
 黒尾くんはけして奥手に見えない。それなのに、キス以上のことを躊躇う理由が、私たちの間に果たしていくつ存在するだろう。そのラインを超えない理由は、障害は、一体何があるというのだろう。
 私はなにも、黒尾くんとセックスをしたくて仕方がないわけではない。今この場で黒尾くんに抱いてほしいなんて、そんなことを考えているわけじゃない。
 そうじゃなくて、そういうことじゃなくて。
 黒尾くんは、私を抱きたいと思わないのだろうか。
 黒尾くんは、私のことをほしいと思わないのだろうか。
 私はこんなにも黒尾くんのことを全部知りたくて、黒尾くんの全部がほしくて、黒尾くんに求めてほしいと思っているのに。
 自分が特別な女の子ではないことは知っている。付き合ったところで、きっと面白みのない人間だと思う。恋人である黒尾くんにだって、何か特別なことをしてあげられるわけじゃない。どこにでもいる、平凡で、平均で、凡庸な女の子だ。誰の目から見ても特別な黒尾くんが、ことさら欲しがるような女の子じゃないのかもしれない。
 しかし普通の女の子だから、平凡な望みを抱くのだ。恋人にキス以上のことをしてもらいたいと、そう願う。
 黒尾くんは魅力的で、優しくて格好良くて──こんなに素敵な男の子はきっとそうそういないだろう。その上私を好きだと言ってくれるのだ。どこを探したって、黒尾くん以上の人なんて存在しない。
 そんな黒尾くんに、私は私のことを求めてほしいと思ってしまう。願ってしまう。
 そんな風に背中を向けて眠らないでほしい。どれだけ恥ずかしくたって、向かい合って腕を伸ばしてほしい。私のことをぎゅっと抱きしめて、普通の女の子の私を黒尾くんのものにしてほしい。
 触れることを躊躇ったりなんて、しないでほしい。

「……寝た?」
 向こうを向いたままの黒尾くんが、静かな声で私に問う。
「ううん、まだ寝てない」
 私も小さな声で応える。
 そっか、としか返事は帰ってこなかった。そのそっけなさに、私はまた少しだけ切なくなる。
 ここで眠れない夜を過ごしているのは、黒尾くんがそこにいるからだ。そこにいる黒尾くんが、私に腕を伸ばしてくれないから。私の中で生まれてはくすぶり蓄積されていく熱が、切なくて、悲しくて、愛おしくて、寂しくて、黒尾くんを求めて暴れくるっている。
 体をそっと動かして、少しだけ黒尾くんとの距離を縮めてみた。黒尾くんはこちらを向かない。そのまま少しずつ距離を縮めていって、やがて黒尾くんの肩甲骨に、自分の額をぴったりとくっつけられるまで近づいた。
 こうして近づいてみると、黒尾くんがベッドの端にずいぶん寄っていたことに気付く。大きなベッドの片側半分だけ使って、ふたりでぴったりくっついている。
 黒尾くんの背に、額をぐいとこすりつけた。すると、それまでじっと身じろぎひとつしなかった黒尾くんが、わざとらしく大きな溜息をついて、ようやく口を開く。
「名前、寝ないの? 甘えたい時間?」
「……うん」
 黒尾くんの背中に額をあてたまま、私は小さく返事をする。
 違う、本当はそんなんじゃない。本当は黒尾くんに、少しでも私のことを意識してほしいだけ。私がここにいることを、たとえ黒尾くんが拒もうと、私は黒尾くんのことを好きなのだと言うことを。
 しかしそんなことを正直に言えるはずもない。私の頼りない返事に、黒尾くんは小さく笑った。
「なに、可愛いこと言ってくれるじゃないの」
「私が言ったんじゃなくて黒尾くんが言ったんだよ」
「どっちでも同じだろ。ん、ちょっと、俺もそっち向くから、名前もうちょい向こう行って」
 黒尾くんが身体を動かすので、言われた通り身体を離す。寝がえりを打ってこちらを向いた黒尾くんが、私の方にゆるりと腕を伸ばしてきた。どうやら腕枕をしてくれるということのようなので、素直にその腕に身を寄せる。
 暗闇の中で、こちらを向いている黒尾くんの呼吸だけを感じていた。首の下にあるごつごつとした力強い腕。こんなにも近くにいるのに、それでも何もしない黒尾くんの気持ちが私には分からない。私は、こうやって黒尾くんとくっついていたいのに。黒尾くんのことがこんなにも好きなのに。
「黒尾くん、あのね」
 こんなに優しくされているというのに、声を出したらなぜか泣いてしまいそうだった。おかしなことだ。だって泣くようなことは何もないのに。黒尾くんに優しくされて、甘やかされて、悲しいことなんて何ひとつないはずなのに。それなのに、どうしてこんなに胸が潰れそうになってしまうのだろう。
 次の言葉が喉に詰まる。黒尾くんは急かしもせず、ただ黙って空いた方の手で私の髪を撫でた。
 何も言わないで待っていてくれる、優しい黒尾くん。そんな優しい人にこんなことを思う私の方が、きっと本当は間違っている。私は身勝手で、自分本位な人間だ。心の中のもやもやが苦しくて仕方がない。
「ええと、変なことを聞くかもしれない、というか、聞くんだけど」
「いいよ」
「私たち、付き合って半年だけど……、黒尾くんはその、この間みたいなっていうか、なんだろう、こう、……そういうことしたくなったりしないの?」
 話をしながらも、顔から火が出るように恥ずかしかった。顔が熱くなっているのが黒尾くんにも伝わっているだろうか。もしかして、恥ずかしい女だと思われただろうか。
 だが、言わずにはいられなかった。確かめずにはいられなかった。
「この間の、花火大会の日の──あの日のこと、私ずっと考えてる。本当にずっと、ずっと考えてる。あれが多分、今までのキスとは全然違うことで、私が知らないことで……それで、黒尾くんが多分、したいことなんだってことは、私も一応分かってるつもりで……」
「……うん」
「分かってて、それで今日……今日、ここに来るまでにも色々考えて。考えたけど分からなくて、どうしたらいいのか、どうしてほしいのか分からなかった。だけど、分からないけど、でも間違いなく言えるのは、私は黒尾くんのことを好きだということで……」
 照れや恥ずかしさを隠すように、私は黒尾くんの首元に顔を寄せた。
「黒尾くんのこと、好きだから、嫌なことなんて多分、ひとつもない……と思う。知らないことは怖いけど、嫌なことではないよ。だから黒尾くん、私は、」
 私は。口にしかけた言葉を紡ぐより先に、
「それ、今日ずっと気にしてたわけ?」
 黒尾くんが、静かな声で問いかけた。私は黒尾くんの胸の中で、小さくうなずく。黒尾くんの顔を見ることもできなくて、私は腕枕されたまま視線を伏せた。
 黒尾くんは私の頭を抱え込んだまま、うう、とかんん、とかしばらく何か唸っていた。やがて大きく息を吐き出すと、私をぎゅっと抱きしめた。
「なんというか、名前の思ってることちゃんと汲んでやれてなくて悪かった。彼女にそういうこと言わせるの、男としてかなり駄目だな」
「違う、そうじゃないよ。今言ったのは全部、私が勝手にもやもやしてただけだから」
「もやもやしてた時点で気付いてやりたかったって話です」
 そう言って黒尾くんはふっと腕の力をゆるめたかと思えば、流れるような動作でするりと耳を撫でた。不意に触られ、思わず息を呑む。暗闇の中、至近距離で黒尾くんが小さく笑った。そして低く、柔らかな声で言う。
「名前の言う通り、そりゃ、俺だってそういうことしたくないって言ったら嘘になる。今だってこうやって隣に名前が寝てるってだけで、かなり色々いっぱいいっぱいだからな。しかもこっちがいっぱいいっぱいなの知らず、どっかの誰かは甘えてくるし。そのうえなんか、誘うみたいなこと言うし?」
「……ごめん」
「いいよ、可愛いから」
 黒尾くんはふにふにと私の耳を弄び言う。
「この間のことも俺が何のフォローもしなかったせいで、名前のこと悩ませちゃったんだな。名前が色々考えて思い詰めるのも当たり前だよなーと、今聞いてて思った。俺としては触れない方が優しいかと思ったけど、考えてみればそりゃあびっくりするよな」
「ごめん」
「さっきから名前さん謝ってばっかですよ」
「ごめ、……うう」
「ごめううて何?」
 黒尾くんが笑う。茶化して空気を明るくしてくれようとしているのが伝わってきて、余計に申し訳ない気持ちになった。縮こまって黒尾くんの腕の中におさまっていると、黒尾くんが再び口を開いた。
「あの花火大会の日はさ、俺も完全に予定外だったから。まあ予定外なのは今日もだけど……ただ、あの日は予定外な上に名前があんま無防備だったから。この際もうぶっちゃけて言うと、俺、結構いろいろ我慢してるぞ。普通に性欲あるし、普通に名前のことエロい目で見てる。それだってバレなきゃいいだろと思ってるし? 俺も健全な男子大学生なもんでね」
「な、何の話」
「俺が名前の想像もできないことを考えてるって話」
 悪戯っぽく笑って、黒尾くんはまた私の頭を撫でるのを再開した。
「けど、それは俺の都合。名前は俺がはじめての彼氏で、そういうことも初めてだろ」
 また、小さくうなずく。私の頭を撫でる手を黒尾くんは止めない。
「大事にしたいんだよ、名前のこと。なんつーか、色々急ぎたくない」
 黒尾くんの真摯な言葉を聞いて、私はまた泣いてしまいそうになる。自分の浅はかさを思い、情けなさで消えたくなる。
 黒尾くんはいつだって私のことを考えてくれている。そのことを私は知っていたはずなのに。
 本当は黒尾くんはこの間だって、あのまま続きをしたかったのかもしれない。それでもあそこで止めてくれたのは、黒尾くんが私のことを大切に思ってくれているからだ。私が最初にスローペースを望んだから。だから黒尾くんは止めてくれた。理性でもって、私に猶予を与えてくれた。
「不安にさせたならごめんな」
「ううん、私こそ考えなしなこと言ってごめん……。私のことを大事にしてくれて、ありがとう」
 もう一度黒尾くんの首筋に顔をこすりつけて甘えた。どうしようもなく、黒尾くんのことが愛おしかった。
 頭の上で、黒尾くんが小さく笑った気配がした。
「ま、元々は今日はそんな予定じゃなかったから、何の準備もしてないってのもあるけどな。そういうことするなら準備万端のときにしたいだろ?」
「準備……」
「そりゃあ何事も準備が肝要だろ。それに名前がそんな風に思ってたって分かっただけで、今日のところは大収穫だな」
 顔を上げると、にやりと笑った黒尾くんと視線が合う。その瞬間、黒尾くんの言葉の意味、自分がどれだけ恥ずかしい発言をしたのかに思い至り、顔がぼっと熱くなった。
「そ、そんな風って……あ、違う、違うよ! 別にそんな、そういうことしたいわけじゃない!」
「そういうことってどういうことですか? 名前さんは本当にやらしいなー」
「やらしくない! 純粋!」
「はいはい、純粋ね」
「適当!」
「大体、俺もどうせそんなに長くは待てなかったぞ。名前も言ってたけど半年経ったし、そろそろ待つのやめようかなとも思ってた。ただ、もう暫くは様子見って思ってたけど、名前がそういう心構えな以上、俺が手出すのもそう遠くないんじゃない?」
 にやりと笑って放たれた黒尾くんの最後の言葉に、私は今度は背筋が冷たくなる。もしかしたら私はとんでもないことを言ってしまったのではないだろうか。今更ながらに、私は冷汗をかき始めていた。

 ★

 翌朝はアラームが鳴るより先に目が覚めた。寝慣れない寝具だからか、目覚めと同時になんだか身体に違和感を感じる。
 ぼんやり天井を眺めて、ここが自宅ではなくラブホテルの一室なのだということを思い出した。そうだ、昨日は台風のせいでここに一泊することになったんだっけ……。
 携帯で時間を確認しようとして、身体の自由が奪われていることに気が付く。いつもと違う布団のにおい、いつもと違う壁紙。窓がないせいで正確な時間はわからないが、部屋の照明が少しだけ明るくなっている。
 そして何より、全身で感じるあたたかい熱源。はっとして、周囲を確認して、そして気が付いた。私の身体は背後からがっしり、黒尾くんの腕に抱きしめられていた。
 昨晩のことを思い出しただけで、顔がかっと熱くなる。何も過ちが起きなかったとはいえ、私と黒尾くんは一晩をひとつのベッドで一緒に過ごしたのだ。挙句、寝る前にあんなに恥ずかしい話までしてしまって、今日は一体どんな顔で黒尾くんと話せばいいのだろう。そしてこのがっちりホールドされている状況を、私はどうすればいいのだろう。
 もぞもぞと身体をよじり、なんとか黒尾くんの腕の中から這い出ようとする。んん、と黒尾くんが呻いた。
 寝返りを打って黒尾くんの方に向き直る。ゆっくり瞼を開いた黒尾くんが、寝ぼけ眼で私を見つめ返した。そして寝ぼけ眼のまま、黒尾くんは私の額に軽く口づける。
「おはよ、名前」
「お、おおお、おはよう……!」
 叫びだしたくなる気持ちを何とか押し殺した。朝からなんという破壊力だろう。もはやこの腕の中から脱出しようという気も削がれてしまった。
 その後、はっきりと目を覚ました黒尾くんに胸元がはだけていることを指摘されるまで、私は黒尾くんの腕の中のぬくもりを十分に堪能した。

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