41

 煩悩を打ち消すべくひたすら湯船で数を数えていたせいで、お風呂から上がる頃にはすっかり逆上せてぽかぽかになっていた。そんな状態でお風呂を出ると、隣室のソファでは横になった黒尾くんが、ぼんやり顔でテレビを見ている。完全にオフの状態で、またしても緊張をくじかれた。
 私がお風呂から出たことに気が付いた黒尾くんが、寝そべったままこちらを向いた。バスローブの首元がさらにはだけ、胸元が大胆に露になる。日に焼けた肌が目に入り、お風呂で洗い流してきたはずの煩悩がにわかに顔を出した。バレーは室内競技だけれど、夏合宿から帰ってきた黒尾くんは合宿前より少しだけ小麦色になっていて、その日焼けぶりにときめいたことは記憶に新しい。
 それはともかく。
 煩悩を頭から振り払い、小さな歩幅で私は黒尾くんに近付いた。バスローブは腰で留めているだけなので、あまり大きな歩幅で歩くとうっかり下着が見えかねない。この有事のため急遽コンビニで購入した下着は、とてもじゃないが色っぽいとは言い難いものだった。
「お先にお湯いただきました。ありがとうございました」
「はいはい、お帰り。気持ちよかった?」
「広いお風呂ってやっぱりいいね」
 ソファーの傍らに立つと、おもむろに黒尾くんが起き上がって私に身体を寄せる。そのままドライヤーをかけていない濡れたままの頭に顔を近づけ、すん、と匂いを嗅いだ。
「わっ、え、なに!?」
「いや、使いたかったシャンプーって言ってたからどんなもんかと思って。やっぱ女子のシャンプーっていい匂いするな。うちのシャンプーなんて普通に薬局の安いやつ」
「だからって急に、に、匂わないで……」
「いいじゃん、風呂出たばっかだろ。俺もこの後その匂いになるんだし」
 それなら今ここで匂わずとも、ゆっくりお風呂の中でにおいをかげばいいものを。けれど、まるで大きな黒い犬みたいに私に鼻を寄せてすんすんしてくる黒尾くんは、そうすることでいたく満足そうにしている。その様子を見ていると私もまんざらでもない気分になってきて、結局あまり強く言うこともできなかった。
 何よりここまでのホテル予約から何から、すべてやってくれたのは黒尾くんだ。その労力を思えば労いこそすれ、邪険にすることなどできようはずもない。果たして髪のにおいを無抵抗で匂われることが、黒尾くんへの労いになるのかはちっとも定かではないのだが。
 しばらく身じろぎもせずされるがままになっていたが、黒尾くんはそれだけでは満足できなかったのか、今度は自分もソファーから降りると「あったかいな」と言いながら私のことをぎゅうぎゅう抱きしめ始める。
「く、黒尾くん」
「安いホテルだけど、バスローブはふわふわしてて抱き心地いい」
「そういう問題じゃなくて!」
「んー?」
 んー? ではない。何をいきなり甘えているんだ。あったかいのだってお風呂に入ったからだし、黒尾くんが冷たいのはお風呂に入らずこうして遊んでいるからだ。先にお湯をいただいた私が言えたことではないのだが、黒尾くんは風邪を引かないためにも、一刻も早く湯船に浸かって身体を温めるべきだ。
 黒尾くんに抱きしめられたまま身体をよじり、何とか腕の中からの脱出を図る。抱きしめる腕の力が強まったところで、抱きつかれたまま脱衣所の前まで移動していき、そのまま黒尾くんを脱衣所に押し込んだ。
 ぴしゃりと閉じたドアの向こうからは「名前の意地悪」とふざけた笑い声が聞こえた。

 ★

 入浴中の黒尾くんを待つ間、携帯で台風情報を確認する。今いる場所への台風の影響は夕方がピークだったようで、今はもう、雨も風もだいぶおさまったらしい。各種警報は注意報まで下がっている。窓がないので外の様子は分からないが、落ち着きつつはあるのだろう。
 とはいえ電車の運行情報を見れば、やはり今日の運行はすべて中止になっている。早めに宿泊を決めてよかったと、心底ほっとした。あのままずるずる悩んでいたら、きっと今頃私たちはファミレスの固いソファーで一夜を明かす羽目になっていただろう。早々に宿泊を決めた黒尾くんの決断は正しかったということだ。
 実家には「台風で帰れないので一緒に遊んでいた友達の家に泊まっている」と伝えてある。もしかしたら母には疑われていたり、或いはとっくにバレていたりするのかもしれないが、どのみちバレていたとしても、今日中に帰れるわけでもないので仕方がない。
 そんなことを考えつつ、黒尾くんがさっきまで見ていた番組を、そのままだらだらと視聴する。普段見ないバラエティ番組は、こんな状況なのに案外面白かった。
 しばらくテレビを眺めていると、やがて浴室の方から、ばたばたと慌ただしい音が聞こえてきた。黒尾くんがお風呂からあがったのだろう。扉の向こうの黒尾くんの姿を想像し、またひとりで勝手に照れる。
 この間の夏祭りの日にも思ったが、あの独創的な寝ぐせのついていない黒尾くんは、とにかく凄まじくかっこいい。今日もあの黒尾くんが見られるのだと思うと、こんな状況でもそれだけで少しテンションが上がる。
 早く黒尾くん戻ってこないかな。
 と、脱衣所のドアが開いたかと思えば、お風呂上りの黒尾くんが首だけひょこりとのぞかせた。
「名前さーん、ドライヤーするからこっち来ーい」
「え、あ、はい」
 呼ばれて脱衣所に向うと、お風呂上りで髪が濡れ、色っぽさが三割増しになっている黒尾くんがドライヤー片手に私を待っていた。
「俺が風呂入ってたから、名前もドライヤーかけてなかっただろ。風邪ひくぞ」
 私の湿った髪をつまんで黒尾くんが言う。この部屋の構造は大きく多目的なメインの部屋──というか寝室と、ドアを隔てて洗面所兼脱衣所、そこからさらにトイレと浴室に分岐している。黒尾くんが入浴している間は脱衣所に黒尾くんの着換えが置いてあるし、私がそこにいてはお風呂から上がるに上がれないだろう。そう思い、洗面所に入ることなく待機していたのだった。気を遣ってというよりは、うっかり黒尾くんと脱衣所で鉢合わせしてしまうハプニングを避けたかったという方が正しい。
 ドライヤーを手にした黒尾くんは、空いた片手で私の手を引くと洗面台の前に私を立たせた。自分は私の背後に立つ。
「黒尾くんがドライヤーかけてくれるの?」
「こういうの、お泊りの醍醐味っぽくない?」
「また手練れ発言を」
「心配しなくてもはじめてですので。熱かったら言って」
 耳元で大きくぶおおんと音を鳴らすドライヤーと、骨ばった指で私の髪を梳く黒尾くん。その気持ちよさに、思わずうっとり目を細める。
 他人に髪を触られることなんて、この年になれば美容院くらいでしかありえない。黒尾くんの指が触れているというだけで、なんだかぞくぞくしてしまいそうだ。だからといって変なリアクションをとれば、すぐに黒尾くんにばれてしまう距離でもある。
 私の葛藤を知ってか知らずか、黒尾くんはおもむろに私の髪をひと房つまんで指先に絡めると、また鼻を寄せて匂いをかぐ。鏡越しに見る黒尾くんのその仕草がなんだかすごく色っぽくて、また心臓が破裂しそうにばくばく鳴った。
 ただ髪を乾かすだけなのに、どうしていちいちそういやらしい感じになるのだろう。それとも私が過剰に反応しているだけで、これは普通のことなのだろうか。普通とは一体何だったっけ。
「名前すーげえいいにおいするな」
「シャ、シャンプーの賜物だよ。黒尾くんだって同じにおいするよ」
「まじ? 自分だと分かんねえな」
「ちょっとかがんでみて」
 意外にも、黒尾くんは素直に頭を差し出した。身長差がかなりあるので、頭を差し出すにも腰から曲げて屈まなければならない黒尾くんは、窮屈そうに身をかがめる。
 黒尾くんのつむじなんて、そうそう見ることもない。そう思いながら、顔の近くに寄せられた黒尾くんの髪をすんとにおってみる。ふわりといい香りがした。普段の黒尾くんのにおいも好きだが、これはこれで、ぐっと来るものがある。
「なんか、匂いかがれるの結構恥ずかしいな……」
 珍しく照れた黒尾くんに嬉しくなりながら、勢いでそのまま黒尾くんの首にぎゅうと抱き着いた。思うままに匂いを嗅ぐ。
 こんな状況なのに──いや、こんな状況だからこそ、私は自分でも驚くほどに大胆になっていた。どうせここには黒尾くんと私しかいないのだ。いちゃいちゃしたって誰に咎められることはない。咎められるとしたら、それはお互いの理性にだ。
「黒尾くん、首が太い」
 黒尾くんの髪に口許をうずめ、私は呟く。がっしりとした身体はお風呂上りで火照って熱い。
「首も太いし、腕もがっしりしてる。かたい」
「……そりゃあ名前に比べたらね」
「私と比べてもそうだけど、きっとほかのたくさんの男の子よりも、黒尾くんの方がしっかりした身体つきなんだろうなと思って」
「名前、ほかの男の身体なんて見たことあんの?」
「ないけど。黒尾くんの身体しか見たことない」
 はじめて来た我が家で見た、黒尾くんの剥き出しの上半身を思い出す。まじまじと見るのが気恥ずかしくて、逸らした視線は床ばかりを見ていた。それでも、一度見たあの身体つきは鮮明に脳裏に焼き付いている。
「全然ちがう。私の知ってる誰とも、黒尾くんは全然、ちがう」
 ぽつりと、そんなことを呟いて。
 その自分の声にはっとした。私は一体何をやっているのだろう。
 黒尾くんの首に回していた手を、勢いよくほどき身体を離す。黒尾くんの小さな黒目が、少しだけ困惑の色を帯びていた。
「……やけに積極的じゃないですか」
 いつもの黒尾くんの口調。しかしその端に固さ、いや頑なさが滲んでいるのを私は確かに感じた。心の隅っこでぴきりと音が鳴る。
「え、えっと、あの、黒尾くん」
 目の前には、襟元をはだけさせた黒尾くん。その首元に遠慮なく抱き着いていた私。考えれば考えるほど、今のこの微妙な空気が持つシンプルな意味をつきつけられていくような気がして、私はごくりと喉を鳴らす。
「名前って、時々こっちが思ってる三倍くらいのことかましてくるよな」
「そ、そそ、そうかな……?」
「そう。こっちの気も知らねえで、まったく」
「あの、それ、」
 どういう意味。
 だが私が言い終えるより先に、黒尾くんは私の頭をぐしゃりと撫で、ドライヤーを洗面台の戸棚に戻した。
「よっし、髪乾いたしさっさと向こうの部屋戻るぞ」
「え、あ、……はい」
 飲みこんだ言葉を再び口にすることもできず、私はただ頷いた。
 黒尾くんの気も知らないで。しかしきっと、黒尾くんだって私の気なんて知らないはずなのだ。
 私が今どんな気持ちでここにいるのか、多分、絶対、黒尾くんは知らない。私がこのホテルに入ってから、まっすぐに黒尾くんのことを見つめられない理由を。黒尾くんは、きっと知らない。

 隣室に戻りふとテレビを見ると、先ほどまでの番組が終わって夜のニュース番組が始まったところだった。時刻は十一時を過ぎたところだろか。
「そろそろ眠い?」
 私の顔を覗き込み、黒尾くんが尋ねる。
「いい時間だし、名前は寝る時間だろ」
 まるで子供に言い聞かせるような口ぶりだったが、しかし実際その通りではある。用事でもなければ、普段ならば布団に入る頃だ。
「うーん、ちょっと眠いかも」
「まあ今日は疲れたしな。さっさと寝るか。起きたらさすがに電車も動いてるだろ」
「そうだね」
 私は大人しく頷いて、大きなベッドに視線を向ける。と、そこで私はようやく私たちの抱える問題を思い出し、はっとした。
 寝る、と黒尾くんは簡単に言うが、そうは言ってもこの部屋にベッドはひとつしかない。寝るのならば黒尾くんと同じベッドで。ひとつ屋根の下ところか、ひとつのベッドでふたりで眠る。肌を寄せ合って、眠る。再び顔が熱くなる。
 どうしよう、黒尾くんはどうするつもりなのだろう。どうしたいのだろう。
 心臓のあたりがむずむずして、やけに喉が渇いてくる。
 半年付き合っているというのに、まさかソファーで寝ようだなんて提案をするのもおかしな話だし、提案されるのも微妙だ。黒尾くんが何も言わない以上、彼は当然一緒に、一緒のベッドで眠るつもりに違いない。
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、黒尾くんは目をこすりながら、さっさとベッドの方に歩いて行ってしまう。慌てて私も後を追う。
 やけにふかふかとした布団に上がると、いよいよ私と黒尾くんを隔てるものは何もない。黒尾くんがごそごそと身体を動かすたびに、私が載っているマットレスが軋む。
 きちんとベッドメイクされた布団の中にもぐりこむと、私との間に隙間をあけて黒尾くんも布団に入った。大きなベッドなので、そうくっつかずともベッドから落ちてしまうことはない。私と黒尾くんの間には、マットレスと浮いた掛布団でぽっかりと穴が開いている。
「電気全部消したい派?」
「ど、どっちでもいい、です」
「じゃあ全消しするな」
「はい」
「音楽これ消せねえのかな。ちょっとよく分かんねえな……。あ、曲は選べんのか」
 寝そべったまま、黒尾くんが枕元のボタンをいじくる。この枕元のボタンで電気や音楽を変えることができるらしい。とりあえず電気は消して、なんとなくヒーリング音楽みたいなものをかけてみる。急に癒しの空間のようになってしまったが、少なくともいやらしい雰囲気にはなっていない。どちらかといえばよりよい睡眠を求める人たちのための空間、という感じ。
 それでも、隣に黒尾くんが横になっているという事実には変わりない。音楽や電気で誤魔化されるような、そんな小さな存在感ではない。
 どきどきと早鐘を打つ心臓、ごくんとつばを飲み込む音。下手に意識してしまったせいで睡魔がどこかへ飛んでいってしまった私とは対照的に、黒尾くんは大きくあくびをした。
「じゃ、おやすみ」

prev - index - next

- ナノ -