40

 私と黒尾くんは恋人同士だ。すなわちカップル。そして私たちカップルは、今晩一晩をどうにか無事に、雨風凌いで過ごしたいと思っている。
 この時点で何故『そこ』が候補に出なかったのか、考えてみれば不思議なくらいだった。ベッドがある宿泊施設。暖かな寝床どころか食事だって注文すれば出てくるし、ゆったりとしたお風呂だってあるという。私は行ったことがない宿泊施設なので、あくまで想像でしかないのだが。
 とにかく、今の私と黒尾くんにとって『そこ』は、まさしく理想に限りなく近い宿泊施設であることだけは確かだった。宿泊する場所を探し始めた時点で、最初に候補に挙げてもおかしくなかったほどに。
 それなのに一切私の思考にその言葉が出てこなかったのは、もしかしたら無意識に『そこ』から目を背けたかった──気付かないふりをしたかったからなのかもしれない。なぜなら『そこ』に宿泊した男女ですることは、ただひとつ。そういう目的のために建てられた施設であることは『ラブホテル』などという、果てしなく直接的な名称からも火を見るより明らかだ。
「名前? 名字名前さん?」
 フルネームで呼ばれ、はっとした。ラブホテルという名称に、うっかり意識が成層圏まで吹き飛んでいたらしい。
「大丈夫? 完全に白目むいてたんだけど」
「ご、ごごごめん! いやっ、まあねっ、ほっ、ほかに当てもないし!? く、く、黒尾くんがよければ、その、あの、いいと思います!」
「本当に大丈夫か? 無理してない?」
「無理とは!? この期に及んで無理とは!?」
「……名前がいいなら、俺はいいんだけど。じゃあ、決まりってことで」
「はいっ!」
 微妙な空気になりながらも、どうにか次の目的地が定まった。私たちはカフェを出て、目的のラブホテルを目指す。公式サイトで内装と空き状況を確認したところ、なんとも都合よく一部屋だけ空いていた。チェックインの時間まではまだ余裕があるのにほとんど部屋が埋まっているあたり、私たちと同じく台風の一夜を過ごす宿に使う人が多いのだろう。今日日ラブホテルでもネットで予約がとれるんだな、なんて的外れなことを考えた。

 もしも今晩何かが起こったとして、それは合意のもの。選択肢を示したのは黒尾くんでも、肯いたのはほかでもない自分自身だ。自分で選んで『そこ』に行き、自分で選んで『そこ』で黒尾くんと一夜を共にする。今晩何が起こるか起こらないか、それはまだ分からない。ただひとつだけ確かなのは、すべて自分で決めたことだという、その事実だけだった。

 カフェで風雨を凌いでいる間に、外の天候はすっかり荒れていた。途中コンビニに寄り、傘と必要な品々を購入する。黒尾くんも無言、私も無言。どのみち会話をしようと試みたところで、叩きつける雨のせいで相手の声など聞こえはしない。
 歩くこと十数分、到着したのはきれいなホテルだった。私が勝手に抱いていたラブホテルのイメージより、各段に衛生的に見えて内心驚く。
 無人のフロントで、黒尾くんが部屋を選ぶのを黙って見ていた。居心地が悪くて無駄にきょろきょろしてしまう。
 いつかはこういう場所に来るかもしれないということは分かっていた。だが、それがまさかこんなタイミングだとは思いもしなかった。こんなところで、こんなときに。何の準備もできていないまま。
「部屋、一回入ったらチェックアウトするまで出られないって。気を付けろよ」
「えっ!? あ、はい」
「飯はさっきコンビニで買ってきてるし、一晩だけだから我慢して」
 我慢してって、一体どういう意味なのだろう。黒尾くんの何気ない言葉をいちいち深読みしてしまう自分に嫌気がさす。別に、嫌々ここまでついてきたわけじゃない。そう言いたいのに、言葉が喉に絡んでうまく伝えられない。
 無言でエレベーターに乗り込み、無言で上昇していく。無言のまま、エレベーターを降りた。しばらく歩いた端の部屋が私たちの今晩宿泊する部屋だった。黒尾くんについて部屋の中に入る。
 想像していたよりもシンプルで広い部屋だった。ほっとしたのも束の間、目に飛び込んでくるのは大きな大きなダブルベッド。そして窓のない壁。
「とりあえず、飯食ってテレビ見るか」
「そうですね!」
 ベッドを目にして固まっていた私の肩を、とんと黒尾くんが叩いた。我に返って慌てて頷く。
「と、その前に着替えだな。全身びしょぬれ」
「そうですね!」
「いいとも?」
「そうですね!」
 暴風雨の中を歩いてきたので、頭の先からつま先まで、余すことなく全身ぐっしょり濡れていた。最近はこんなのばかりだ。いい加減風邪をひいてしまうのではないだろうか、と考えながら、着替えを求めて部屋の中の探索をする。乾いたバスローブはすぐに見つかった。
 コンビニで買ってきた替えの下着を手に、脱衣所でバスローブに着替える。着替えついでに確認した浴室は、豪華ホテルのように明るくて無駄に広々していた。ひとりで入るには広すぎるなと思い、すぐに何を考えてるんだと恥ずかしくなる。
 脱衣所を出て居室に戻ると、黒尾くんもすっかりバスローブに着替え終えていた。見慣れないその姿に、なんだかお互いおかしな顔をしてしまう。もう完全に非日常だ。自分がバスローブを着ることがそもそもほとんどないし、相手のバスローブ姿なんてそうそう見るものではない。
 気まずい視線に耐え切れず、目をそらしてソファにかける。一歩遅れて黒尾くんも隣に腰掛けた。コンビニで買ったおにぎりを並んで食べながら、やたらと大きなテレビでニュースを見る。
「なんか、意図せずおうちデート風になったな」
 ぽつりと黒尾くんが呟いた。考えてみればこんな風に並んでテレビを見たりするのなんて、付き合って半年経つがはじめてのことだった。
 普段のデートとは違う。今日は時間を気にしなくても、朝までずっと一緒なのだ。この後に起こるかもしれないことを考えれば、とてものんびりなんてできようはずもないのだが、そうは言ってもやはり嬉しくなってしまう気持ちは抑えきれない。
「これはこれでなんか嬉しいね。いつもより一緒に居られるなあって気持ちになるし」
「そういう可愛いこと言われると、俺としてはときめいちゃうんですが」
「ときめかせちゃいましたか」
「ときめかされちゃいましたね」
 私の緊張がほぐれたのが分かったのか、黒尾くんもさっきより、いくらかリラックスした雰囲気になっていた。むやみやたらと緊張してしまったせいで、黒尾くんにも随分と気を遣わせていたのだろうと、今になってようやく気付く。
 買ってきたジュースを飲みながら並んでテレビを見ていると、なんだか新婚気分を味わえるようだ。黒尾くんは、部屋に置いてあった冊子をぺらぺらと捲っている。横から覗き込むと、フロントサービス一覧がまとめられた冊子だった。
「フロントに電話したらシャンプー好きなの持ってきてくれるらしいけど、名前どれか使いたいシャンプーある? いつも使ってるやつでもいいけど」
「へえー、そんなサービスあるんだ。シャンプーそんなにこだわりはないんだけど……あ、でも頼むならこれがいいな。これ、ちょっと使ってみたいと思ってたやつ」
「じゃあそれ頼んでみるか」
 黒尾くんが立ちあがってフロントに電話を掛ける姿を見つめる。どうも黒尾くんは、こういう場所にずいぶんと手慣れている感じがする。高校生はこういうところには来られないはずだから、黒尾くんだってラブホテルなんて初めてのはずなのだが。そういえばさっきは、ベッドの枕元のスイッチを色々押したりもしていた。そんなところにスイッチがあるなんて、私は思いもしなかった。
「黒尾くん、なんかやけに手慣れてない……?」
 戻ってきた黒尾くんに尋ねる。黒尾くんは私の困惑の表情に、ばつが悪そうな顔をした。
「手慣れてるっていうかなんていうか。いや、俺だってこういうとこ来たのははじめてだけどな?」
「本当に? そのわりにはなんか詳しくない?」
「本当だって。大体高校卒業してからずっと名前と付き合ってるのに、こういうところ来る理由もないだろ」
 黒尾くんの言うとおりだった。だが、それにしてはそつがない。
 依然として疑惑の眼差しを向けていると、やがて黒尾くんは観念したように眉尻を下げた。
「けどまあ、名前が知らない情報網とか、そういうものがあるんでね。男は大体ある程度、こういうところの標準サービスは知ってると思うぞ」
「そうなの?」
「多分。じゃないと余裕のある男ぶれないでしょーが」
「なるほど……?」
 つまり、来たのは初めてではあるけれど話を聞いたことはある、ということなのだろうか。私の知らない男子の世界の事情に、なんだか釈然としない思いを抱く。とはいえ、黒尾くんがある程度の知識を持ってここに来てくれたことで、助かっている面も大いにある。これ以上の深追いはやめておくことにした。
 しばらくして、先ほど黒尾くんがフロントに頼んでくれたシャンプーが届いた。ここにきてはじめて、黒尾くん以外の人を見たような気がする。扉はすぐに音を立てて閉まり、室内はまた、私と黒尾くんのふたりきりになる。
 シャンプーの入ったかごを差し出して、黒尾くんが私の顔をのぞきこんだ。
「シャンプーきたけど、名前が先に風呂いく? 俺今テレビ見てるから、先に行くならどうぞ」
「え、あ、そうしようかな……。冷えちゃったしね、うん! お風呂のお湯入れてくる」
 なんだか急に恥ずかしさがぶり返し、私はシャンプーのかごを慌ただしく受け取ると、すぐに浴室へと取って返した。浴槽にお湯がたまるのを待ちながら、浴槽の縁に腰掛けて、ひとりぼんやり考えを巡らせる。
 意図しない宿泊だというのに、黒尾くんはいつも通り飄々としている。知識はあると言っていたが、知識があるというだけで、あれほど余裕でいられるものだろうか。あれは、あの余裕は、一体どこから来るのだろう。そんなことを考えながら、私は隣の部屋にいる黒尾くんの顔を思い浮かべてみる。
 今回のことは黒尾くんにとっても本当に予想外の宿泊のはず。台風をだしにお泊りなんてことを考えるほど、黒尾くんは不真面目な人ではない。それに駅で宿を探していたときの黒尾くんの必死さは、けして演技ではなかったはずだ。
 しかしそれではあの余裕はどこから来るのだろうか。やはり、そこは経験値の差なのだろうか。そう考えて、すぐに自分の考えにへこんだ。
 私の経験値のなさを黒尾くんが埋めてくれることはままあって、そういうとき、私はいつも黒尾くんへの感謝の気持ちを胸に抱く。しかし一方で、黒尾くんは私の知らない女の子と、私の知らない経験を重ねたのだろうかという思いに、まったく憑りつかれないわけではない。今だってそうだ。ホテルのことに限らなくても、こうした思いがけないハプニングへの対応で、黒尾くんがいかに私より経験を積んでいるのかがうっすら見えてしまう。
 黒尾くんがすべて私のはじめてを知っているように、私だって黒尾くんのいろんなはじめてを知りたかった。この願望が私のわがままであり、ただの欲張りであることは分かっている。分かっていても、そう考えずにはいられない。
 これも一種の依存なのだろうか。そのことに思い至り、私はまた鬱々とした気分になってくる。
 夏休み、あの黒尾くん不在の期間に、私は黒尾くんにこれ以上依存しないようにしようと決めた。そのことはいつも頭のどこかにあるが、それでもやはり、黒尾くんのことを考えてしまうし、黒尾くんのことを一つでも多く知りたいと思う。黒尾くんの全部を、私が知っていたいと思う。私のすべてを、黒尾くんに知ってほしいと思う。
 あの日、あの雨の日、本当は私はどうしたかったのか。黒尾くんにどうしてほしかったのか。黒尾くんをどうしたかったのか。
 今まで散々悩んでおきながら、けれど決定的な部分に触れることを躊躇っていた思考が、その口を大きく開けていた。あの日、黒尾くんの腕の中で身をよじった感覚。今でも鮮明に思い出す。あの時、私は本当に逃げ出そうとしたのだろうか。本当に怖いと思ったのだろうか。
 あの時、私は。

「おーい、お湯たまった?」
 声をかけられてはっとした。弾かれるように顔をあげる。黒尾くんが浴室のドアの隙間から、不思議そうな顔で私を覗いていた。私が戻らないことを不審に思ったのかもしれない。
 お風呂のお湯はとっくにたまって、今にも浴槽からあふれ出しそうになっている。バスローブの裾の端が、一部お湯につかって濡れている。
「ごめん、なんかぼーっとしてた」
「ふうん。まあ、一日歩いたからな。疲れたのかね」
「そうかも。先にお風呂入っちゃうね」
「どうぞ、ごゆっくり」
 ひらりと手を振って、黒尾くんは脱衣所を出ていった。シャンプーや入浴剤を手に浴室に戻ると、冷えた身体を湯に浸した。広すぎて少し落ち着かないが、雨で濡れた身体には熱いお湯が沁みわたる。
「ああー」
 と声に出してから、はっと口許をおさえた。よくよく考えるまでもなく、扉二枚隔てた向こうには黒尾くんがいるのだ。気を抜きすぎるわけにはいかない。醜態を晒してしまっては、この後の展開に支障をきたしかねない。
「いや、ていうか、この後の展開って何よ」
 自分の言葉に自分で照れた。広い浴槽の中で膝を抱えて、じいっとしてみると己の頭の中の破廉恥さと一人つっこみで恥ずかしくて死にたくなってくる。急激に上がってきた体温にのぼせてしまいそうで、私は急いで浴槽を出ると頭を洗った。

prev - index - next

- ナノ -